「元禄吉良鏡」むつみのレポート その五

【吉良方の損害・死傷者】

 この文章の主旨は、世に知られずにいる吉良方の状況の告知であるため、以下に討ち入りにおける吉良家の死傷者について記載する。

 なお、吉良家の死傷者は当時の文献や各地の石碑などに氏名が残されてはいるが、いずれも比較すると整合性が取れず、正確な記録か否かの判断がつかない。

 結果、ここに挙げるものは、氏名、年齢、役職、死亡場所、死亡時期などに諸説あり、史実と異なる可能性も拭い去れない部分があることを、お断りしておく。


●吉良 左兵衛義周(吉良家当主:十八歳)

 赤穂事件で、もっとも報われない人物といえる。

 上杉家に養子入りした上野介の長男の上杉綱憲の次男で、上野介の実の孫である。

 吉良家は、いったん上野介の実子の三郎が継いだが八歳で夭逝。そのためやむを得ず上野介の後継ぎとして五歳で養子縁組をする。十六歳の時に松の廊下の刃傷事件が起こり、上野介はその年の十二月に隠居。左兵衛が家督を譲り受け、討ち入り時は満十七歳(満十八歳との説もあり)。高家肝煎としての実際の職務はまだ始まっていなかったとのこと。

 幼少より病弱で寝込むことも多かったが、討ち入りでは鳥居利右衛門、須藤与一右衛門に護られつつ自ら薙刀を手にして浪士に立ち向かったといわれ、彼の薙刀には刃こぼれがあったので、これは事実と思われる。

 結局額と背中を切られ、背中の傷はあばら骨が切断されるほどの重傷で、昏倒していた内に上野介は討ち取られた。

 討ち入りの翌年二月、浪士には切腹が申し渡されたが、同時に吉良家は「仕方不届」つまり武士として心構えがなっていないとして改易。家名断絶、領地召し上げのうえ、義周は信濃国諏訪藩へのお預けとなる。

 これは、赤穂浪士が仇とした父親をむざむざ討ち取られてしまったこと、にもかかわらず武士として切腹もしていないこと、赤穂浪士に家臣たちが積極的に立ち向かわず、泉岳寺に引き上げる赤穂浪士を追いかけずそのままにしたこと、そもそも江戸市内にて赤穂浪士に討ち入られるという騒動を引き起こしたこと、などが武道不覚悟と言える、と、赤穂事件の原因が幕府の裁量から始まったことでありながら、全くと言っていいほど一方的な裁きの結果で、左兵衛は納得いかずに訴えたが、取り合ってもらえなかったと伝わる。

 諏訪藩では同情もされたようだが、自害を恐れて刃物の類はひげを剃るためのカミソリすら与えられず、やがて病床に就き三年後に二十一歳で病没。

 当初は墓にも葬られない予定だったが、付き従っていた左右田孫兵衛、山吉新八郎により、質素な墓石とともに地元の法華寺に埋葬されることができた。


●小林 平八郎(吉良家家老:五十五歳)

 名前が、平八郎の他に、平八、平七などと多数伝わる。

 講談などでは、清水一学と並び、二刀流で赤穂浪士に立ち向かう強敵を演じているが、実際には上野介の妻、富子の輿入れからついてきた元上杉家の家老で、討ち入り当夜も戦ってはいない。

 この人物について特筆すべきは二つ。まず、当時の吉良家には家老職が四名いたが、彼だけが無抵抗にも関わらず殺されていること。そして二つ目は、その首が打ち落とされ見つかっていないこと。

 現在では、長屋から出たところを浪士に見つかり「小者ですのでお見逃しを……」とごまかしたが、寝間着が豪華な絹だったことで見破られ殺されたというのが通説になっているが、無抵抗なら殺したり、まして首を取る必要はなく、これはどう考えても意図的に殺して首を落としたとしか考えられない。首を打ち落とすというのはなかなか難しく、一刀のもとに、などという人はまれだったため、あえて首を取ったには理由があるはず。

 そのため、豪華な寝間着の老人を上野介と身誤り殺して首を落としてしまったか、あるいは他の目的のためにあえて首を取ったか、となる。

 吉良家では首が見つからず赤穂浪士が持ち去ったとみられ、吉良方や上杉家などから追手がかかり上野介の首を奪取されそうになった際に、この小林平八郎の首を上野介に見せかけて残し、囮とするために持ち去ったと吉良家では噂された。

 となると、赤穂浪士は泉岳寺に行くまで首を二つ持っていたことになる。結局、首が見つかったという記録がなく、どこかに捨てられてしまったのかも知れない。


●鳥居 利右衛門(用人:六十歳)

 吉良家の取り仕切りを行う用人の一人。討ち入り時、左兵衛のもとに駆け付け、須藤与一右衛門とともに護りについたが、赤穂浪士との戦闘で頭から顔面を真っ二つに割られ、南側庭先で絶命。左兵衛の寝所に続く次の間や台所で死亡との説もあり。


●須藤 与一右衛門(用人:四十四歳)

 鳥居利右衛門とともに左兵衛の護衛に付き、赤穂浪士との戦闘で死亡。「人形ひとかたのままならぬほど、斬りさいなまれ」との記録があり、遺体は人間の形を保たないほど滅多斬りにされていたとのこと。


●榊原 平右衛門(役人:五十歳)

 上野介の護衛に最後までついていた一人。役人というのは事務方として何らかの役職にいたということだが、具体的な職名は不明。見つかって物置から飛び出し、浪士に囲まれ討ち死に。


●清水 団右衛門(取次:四十歳)

 どこで斬られたかは不明。討ち入り当初の記録では「手負」つまり怪我人となっているが、十五日中に死亡した模様。


●齋藤 十朗兵衛(取次:二十五歳)

 十四日当日の屋敷の泊り番で、玄関奥の広間に小姓数名と一緒に寝ていて、赤穂浪士の突入隊と鉢合わせした一人。槍で三か所を突かれて重症のまま十五日に死亡。


●左右田 源八郎(中小姓:四十歳)

 父親は、家老の左右田孫兵衛。当日の泊り番の一人で、玄関もしくは広間で死亡との説と、台所で小堀源次郎とともに死んでいたとも言われる。


●新貝 弥七郎(中小姓:四十歳)

 十四日当日の泊り番で、玄関奥の広間にいた一人。赤穂浪士の突入隊と闘い死亡。腹部から折れた槍の穂先が見つかったとのこと。


●齋藤 清左衛門(中小姓:四十歳)

 こちらも十四日当日の泊り番で、玄関奥の広間にいた一人。赤穂浪士の突入隊と鉢合わせして死亡。家老の齋藤宮内の親族ではないか、とも言われる。


●大須賀 治部右衛門(中小姓:三十歳)

 上野介の護衛についていた一人。物置にいるところを見つかり、まずは清水一学が表に出て闘い、その後に榊原と大須賀の二人が飛び出して斬られたとのこと。


●清水 一学(中小姓:二十五歳)

 名前は一角、逸学などとも伝わる。また、年齢も四十歳という説がある。

 百姓の出だが、幼いころから兄とともに道場に通い剣の腕を磨いたと言われ、その姿が上野介の妻の富子の目に留まり召し抱えられたとのこと。一説によると、富子が、八歳で夭逝した我が子の三郎と面影を重ねて可愛がったとも言われる。

 講談では、小林平八郎とこの清水一学のどちらかが二刀流で赤穂浪士を迎え撃ち、近松勘六を庭の池に落として奮戦。最後は堀部安兵衛に斬られるという見せ場を作るが、実際には屋敷内にて死亡。上野介とともに物置に隠れ、見つかった際には一番に飛び出し、抵抗したもののすぐに斬られたとも言われる。剣術に優れていたとはいえ、浪士が何人も待ち構えて取り囲んだのであれば、無理もないだろう。


●宮石 新兵衛(中小姓:二十一歳)

 討ち入り当初の記録では「手負」となっているが、やはりその後死亡した模様。


●鈴木 元右衛門(祐筆:三十五歳)

 赤穂浪士は吉良邸に侵入するや「火事だ!」と叫び、長屋から人々をおびき出した。その際に斬られて死亡とのこと。


●笠原 長右衛門(祐筆:二十五歳)

 記録には長右衛門と長太郎という二つの名前の記述があり、どちらが正しいのか不明。そもそも長右衛門と長太郎では文字数が異なり、読み違えるということもないと思うので、どちらかが通称かと思われる。この人物もどこで死んだかは厳密には分からず、長屋の前という説と、屋敷内という説がある。


●小堀 源次郎(台所役人:二十二歳)

 こちらも正確な名前が不明。苗字は小堀、小堺、小塩など、いずれにせよ二文字目は土偏が付く文字である。名前は源次郎、源五郎など。台所で亡くなっていたとされる。


●杉山 三左衛門(徒士頭:二十五歳)

 こちらもどこで発見されたかは不明。討ち入り当初の記録では「手負」となっているが、十五日中に死亡した模様。


●鈴木 松竹(坊主見習:十七歳)

 苗字は「鱸」とも伝わる。数えで十七歳なので満で言えば十六歳。小玄関かその奥の部屋辺りで死んだとされる、左兵衛付きの茶坊主見習い。

 浪士の証言によれば、布団をかぶって隠れている者を発見し、呼びかけたが応答なく、ぶすぶすと刺した後に上掛けを剥いだら茶坊主だった、可哀そうなことをした、などとされており、無抵抗ながら全くの巻き添えで殺された悲劇の少年。


●牧野 春斎(坊主見習:十五歳)

 数えで十五歳。満で言えば十四歳。一説にはもっと若かったとも。犠牲者最年少の上野介付きの茶坊主見習い。

 屋敷内で就寝中、赤穂浪士に斬りこまれ、同室にいた天野貞之丞(貞之進とも)が斬られるのを見て奮起。傍にあった火鉢を投げつけ火箸で立ち向かったと言われ、手を焼いた浪士が仕方なく斬り殺した。

 この様子を伝えた吉田忠左衛門によると「勇気の盛んなること、家中第一」と称えられたとあるが、討ち入り時、吉田忠左衛門は裏門大将の大石主税の付き添いで屋外に陣取っていたので、現場を見ていないはず。茶坊主の少年を殺してしまったことをどうにか繕うための方便の可能性が高い。


●森 半右衛門(足軽)

 表門門番とも台所役人ともいわれるが、表門から玄関前辺りで発見されたらしい。討ち入り当初の記録では「手負」となっているが、十五日中に死亡した模様。


●大河内 六郎右衛門(足軽)

 裏門門番で、赤穂浪士に開門を拒否するが、打ち破られ槍で刺される。数日後に死亡した模様。


●権十郎(中間)  

●八太夫(表門下番) 

●吉右衛門(曽右衛門とも:馬口取) 

●兵左衛門(兵右衛門とも:駕籠人) 

 いずれも表門から玄関前の付近で見つかったとされ、討ち入り当日の十五日に死亡。


※鈴木 杢右衛門(中小姓)

 この人物は、討ち入り時の死者として一部に名前が挙がるが、吉良家の書状に記録がなく、あるいは祐筆の鈴木元右衛門と同一人物の混同ではないかとも思われる。


以下は、重軽傷者で、その後死亡との記録や説がない者。

●松原 多中(家老)

●宮石 所左衛門(用人)

●岩瀬 舎人(用人:取次とも)

●山吉 新八郎(山好とも:中小姓)

●永松 九郎兵衛(松永とも:中小姓)

●堀江 勘左衛門(勘右衛門とも:祐筆)

●天野 貞之丞(貞之進/定之進とも:中小姓)

●伊東 喜右衛門(中小姓)

●加藤 太左衛門(中小姓)

●石川 彦右衛門(役人)

●杉山 与五左衛門(厩別当)

●岩田 与五右衛門(弥惣右衛門とも:台所役人)


 吉良方の死傷者数は、討ち入り直後の検分や記録、また重傷者がいつ死亡したかの報告によっても差があり、正確な人数は不明。

 四十名プラスマイナス二~三名というところが、定説となっている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る