第43話 名まえを書いてもいいなんて

 シュゼットとっては、プロスペールの側は何故かホッとする。ずっと側にいて欲しかった。けれど、教えてくれる騎士たちが言うことなので、涙を飲んだ。

 プロスペールは室内で教授を受けているときは廊下で、屋外でリーゼロッテの体術の教授を受けているときは少し離れて、じっとしていた。

 かくして夕刻。

 シュゼットがギャレットと共に外へ走りに行ったあと、夕食前の食堂の窓辺でその二人の姿を遠目に眺めながら語らう騎士たち。

「ほとんど教えることはない。読むのも書くのも十二分にできるし、外国語も基礎はできていて、残るは応用のみという水準だ。素晴らしい。諸卿はいかがだったかね?」

 と、ほくほくしているのはカーターだけだった。

 他の騎士たちは、

「まかせな! て言いてぇ~! けど言えねぇ~!!」

「てぇへんだぞありゃあ」

「斑(まだら)って言ったの誰だよ、言い得て妙すぎだったぞこのヤロー! あっ余(オレ)か!」

「つい、他のことをしたくなりましたね。女性を口説きにいくなどの、気晴らしを」

 などなど、ぐったりと疲れた様子で椅子やソファ、床に座り込んでいた。


「ああああ、やっばり無能ですー!」

 シュゼットも泣きそうだったが、

「でも、頑張ります! ひとつひとつお勉強していけば、いつかは!!」

 思い直して、街を走る。

 もちろん、ギャレットも併走しくれている。

 ギャレットは、ふう、とため息をついていた。

「私としては、早く授業が終わらないかと祈るばかりでしたよ。少しでも走るお時間をとっていただきたいと」

「ひゃあー、ご心配をおかけしていますー」

 眉を下げてアセアセと焦るシュゼット。

 シュゼットとて、分かっているからこそ、こうして夕食前の残照の時間を利用して、走りに出てきているのだ。

「でも、ちょっと残念です。授業はとっても楽しかったですし、嬉しかったのですが、科目に魔法のマの字もありませんでしたね」

「それは……」

 ギャレットは言いよどんだ。

「これ以上時間が取られなくてよかった、と私の思うところですね。どうせ無駄な時間になるのですから」

「う」

 シュゼットは、走りながら思わず涙目になる。貴族でない者は魔法の素養がない、とは、確かに聞いた。

「ああ、いえ、そうではないのです。魔法修行を始めるには、もう少し落ち着いてからがいいでしょう。まだ不安いっぱいのあなたでは、成功するものも成功しないと思いますよ」

「ああ……そういう意味でしたか」

 ホッとする。

 本当に気遣いの細やかな王子さまです……

 やはり驚くべきことだと思う。シュゼットがどこか落ち着かない気持ちでいるのを、心を、察してくれているなんて。

 ほんとうにわたしより十も年下でしょうか! いえ、わたしが歳の割に子どもなのです!?

 うーんと眉根を寄せたためか、沈黙の意味を何か勘違いしたらしいギャレットが、

「それとも、今すぐ魔法に挑戦したいですか? 全く才能がないのをはっきりさせてしまったら、目もあてられないのでは?」

「うっ……その通りです。まだ知りたくないですね」

 あはは、とシュゼットは笑った。

「でも、いつかは魔法修行をしたい、魔力を操る練習をしたい。――です。弓騎を動かせるようになって、一〇〇両の弓騎を一年で倒さなければ。ゼアヒルド様は、騎士にはしてくれない、とおっしゃいましたもの」

「その前に、一〇週を期限内に走りきらないと、騎士見習いではなくされてしまうのですけどね」

 釘を刺すように言うギャレット。

「シュゼット……」

と、ギャレットは、言うか言うまいかためらう様子を見せたあと、

「お気を悪くされないでいただきたいのですが」

と前置きして、

「走る速さが、午前中よりさらに遅くなっていますよね」

 ぐ、とシュゼットは詰まった。

 最悪の眠りで、疲れがとれなかったツケで、実はもうほとんどフラフラな状態だった。

「私に何でも言ってください、と言ったでしょう」

 ううう、見抜かれているのでしょうかー!? と、シュゼットは頭を抱えたい気持ちになる。けれど、悪夢を見る、とか、眠れない、とか、そんなことは伝えられない。ここに居るのが辛いのだと取られたくないし、

 自分で逃げ出してきましたのに、今さら後ろめたさで眠ることすら普通にできないなんて、この口が裂けても言うことは……!!

「デイムも悪魔ではありません、期間を延ばしていただきましょう」

 ギャレットが言って、はっとシュゼットは息を飲んだ。

 期間内には走れませんと、自ら言う!? ひゃああ、そんな、駄目です駄目です、ゼアヒルド様や騎士様たちに、これ以上無能だと思われてしまうのは……!!

「あの、本当になんでもないですよ? 大丈夫です」

 にっこり笑って、寝不足をおし隠した。

「それより、行きたいところがあるのですが」

「はいぃ!? 聞いていましたかシュゼット!?」

 ギャレットが、唖然を通り越して仰天した。

 ああー、そうですよね、そうですよね、ごめんなさい、ごめんなさい、と焦りつつも、シュゼットは、

「その、サー・カーターの授業の宿題で、サー・ポールに手紙を書くので、どんな方なのか、サー・モイーズに聞きに行きたいと!」

「シュゼット……」

 ギャレットは苦鳴のように言って、立ち止まってしまった。

 夕闇せまる黄昏どき。もう走れる時間はわずかしかない。そう言いたいのはシュゼットにも分かる。



 ギャレットの方では、困惑ここに極まれり、という絶望だった。

 いま、走る時間を削ってモイーズに話を聞きにいく時間をとる? しかも部屋へ帰ったら休まずに手紙を書くのだろう。

 シュゼットは頑張り屋だ。それは美徳だが、では、ゆっくり休む時間は? 明日走る体調を回復する時間が消えてしまう。

 ギャレットはシュゼットを危ぶんでいた。

 走る課題が出たあと、去って行くプロスペールに、心細そうにしたシュゼット。かわりに寄り添うつもりで、急がせた。すぐに、走るのが得意そうだとわかって安心したが、翌朝――今朝、分かった事実は、シュゼットはアザだらけの体だった。

 プロスペールはシュゼットの動き方でなんとなく気づいていたというが、対して、全く気づかなかった自分に幻滅した。

 何故言ってくれなかったのかと思った。

 シュゼットが少しでも幸せに過ごせるように、なんでもしてやりたい。だから何でも言って欲しい。

 あのゾッとするほどのアザや、食事について植え付けられた酷い認識を知ってしまって、そう思わない男はいないだろう。

 心の底から何でも言って欲しい。けれどシュゼットは甘えたことは一切言わず、好奇心からか勤勉さからか、絶えず何かに勤しもうとする。

 これがたちの悪いことに、本人が楽しげだから、誰も止められない。けれど、誰かが止めてやらなければ。

「シュゼット。手紙を書くのは、やめませんか」

 ギャレットは、ためらいを振り捨てて言った。

 え、とシュゼットが眉を下げた。

 そういう顔をしないで欲しい。ギャレットは苦しくなる。が、

「サー・カーターの課題でポールに手紙を書くというのは、必ずしも、ではないでしょう。走る方を、優先しては? 明日に備えてゆっくり休むのです」

「でも、お手紙、書くの、楽しいのです……」

 しゅんとするシュゼット。授業で短いものを数通、カーターの指導で書いているとき、確かにはしゃいでいた。けれど、

「そんなにですか!? 手紙の、何がいったい!?」

 するとシュゼットは、夢見るように瞳を潤ませて、うっとりと胸に両手をあてた。

「あの、最後に署名をするでしょう? シュゼット、って書いていいのが、嬉しくて、嬉しくて」

 ふふっと笑う。照れくさそうに、幸せそうに、目を細めて。

「……!!」

 ギャレットは絶句した。

 ああ、一目千両だったのだ、この方は。

 その間、シュゼットという本名が漏れないよう、手紙に署名など許されなかった? いや、外に手紙を出すこと自体が許されていなかった。察するに。

 ジュリアンは徹底的な男のようだから、もしかすると個人的な書類にも名を残させなかったし、個人的な書類そのものを禁じただろう。一目千両とは、壮大な仕掛けだ。

 ――駄目だ。誰がこんなに哀しいこの方から、そんなに切実な楽しみを取り上げることができるのか。こんなに愛らしい顔で告げる方から。

 ただ、幸せになって欲しい。

 幸せにしたい。

「分かりました。協力します。早く済ませてしまいましょう」 

 気がつくと、ギャレットはモイーズの店へときびすを返していた。

「ありがとう!」

 ぱあっと輝くシュゼットの顔がまぶしい。なんと面映い瞳を向けてくれるのか。

「そのかわり、手短かに! 最速でお願いしますよ!」



 シュゼットは嬉しくなって、ギャレットを引っ張るようにして街の中の一軒の扉を押した。

「おいでやすー、今日こそ来てくれたはったんやねえ」

 中に入ると、華やかな声に迎えられた。

 明かりの灯った濃い色ガラスのランプが並んでいる。幻想的な『見せ屋』の中。

 店の飾りに合わせて、衣装も地方の伝統のものを纏ったモイーズは、しゃらしゃらと笑っている。

「わあ、素敵ですねえ」

「すてっきやろー? ちょおっと待っとってな、ご覧のとおり手ぇがふさがっとるさかい」

 お盆に載せたの陶器のさかずきやジョッキを奥の席へ運んでいき、

「はい、お待っとう。エールと、こちらにはリンゴ酒やったな。こっちの小皿はお試しや。あとで感想聞かせてやー」

「初めて見るクラッカーじゃん!」

「おう、とっくり味見してやる」

 わいわいと、話し込んでいる客もいる。静かに食事をしている組もいた。

「繁盛してますね。皆さま楽しそうです!」

 帳場に戻ってきたモイーズに言うと、

「おおきにー。それで、なんですやろ、ギャレットはんが怖い顔してるゆうことは、また走りの課題の途中の寄り道なんやろ?」

「よく分かりますね、サー・モイーズ」

「怖い顔、していますか私!?」

「怖い怖い。怒っとるんは、シュゼットはんが我に話しかけとるせいやもねぇ? それとも、この姿の我に見蕩れてるせい? あぁ、両方かもしれへんねぇ」

 あでやかに、口元に手をやるポーズで笑うモイーズ。

 何を言ってるんです、とでも言い返すと思ったギャレットが、ぐ、と詰まったので、シュゼットは、あら? と意外に思った。

「実は、サー・カーターからの宿題で、お手紙を一通、明日までに書くのです。サー・ポールとおっしゃる騎士さまへ」

「なぁる。取材、いうわけどすな」

「はい。どんな方か、どんな話題がお好きか、お聞かせいただけませんか?」

「語ってええのん!? ポールのことなら、ぶっとおしで1時間や2時間。いや、最低24時間は話すことありますえ!」

 勢い込むモイーズ。

『シュゼット様、いらん堰を決壊させちゃったぞ』

『知らねえって怖いな』

 席にいる街の住人たちが、ひそひそと話していた。

「かわええかわええ弟や。同じ弟いうても憎らしいマルクとは違うてな。目に入れても痛くないんよー」

 相好を崩す、とはこのことだろうか。

 そう、モイーズとマルクと今戦場に出ているポールは、兄弟三人で騎士団に入っている。

 モイーズとマルクはタイプも話し言葉もまるで違うので、兄弟だと初めて聞いたとき、シュゼットはびっくりした。

「かわいいものが好きなんよ。ポールもたいがいかっわええんやけどなー」

「かわいいもの、ですね」

「ぬいぐるみとか、お人形さんとか、ちっさなかわええ生き物」

「小犬や子猫? リスも可愛いですよね」

「そうそう、そういうのや」

「小鳥もお好きですか?」

「大好きやなあ」

 話は弾んだが、モイーズが不意に、

「あら。ギャレットはんが怒り心頭に発しそうやで」

 楽しそうに振り返った。

 シュゼットは、はっとする。そろそろ走りに戻ります! と言いかけたが、モイーズが、

御事おこと、朝の食卓からずぅっとその調子やもんなあ。そないにシュゼットはんがほかの騎士を見るたびヤキモチやいとったら、身がもたへんで」

「え……?」

 ギャレットがモイーズを穴の空きそうなほど見る。

 シュゼットは、

「えっ、食堂でご機嫌が悪かったのは、あれはヤキモチだったのですか?」

「いえ、その。はい……? わ、私は機嫌が悪かったですか?」

 ギャレットは何故か鼻の頭のあたりを手で隠して、そっぽを向いた。

「はい。理由が分からなかったのですが」

 シュゼットは、ぽん、と手をたたき、

「私が他の騎士さまたちに見蕩れると、心配だったのですね?」

 店の席の領民たちから『おおっ!』と、どよめきがあがった。

『ヤキモチ』

『ヤキモチだってよ』

『サー・ギャレットが』

『マジ惚れじゃん』

 いえ、そういう嫉妬ではないはずです! ただこの方は、他の王子を眩しそうに見て、この方にはそうでないと、しれっと心配を訴えてくる方で。

 シュゼットは、心配はいらないというように、にこっとギャレットに笑いかけた。

「大丈夫です! 私はサー・ギャレットも、皆さんと同じように美男子だと思っていますよ!」

『シュゼット様ちがう!』

『そこは「誰より美男子と思ってる」って言うところ!』

「え、違うのですか?」

 きょとんと、シュゼットは声があがった席の方を見た。

 あああ、とギャレットが手に額をつっこんでうめき、くすくすくす、とモイーズが笑っていた。

「あっ……そういえば、私はサー・ギャレットと結婚したのでした」

 領民への嘘がバレないように、真実らしくしなくてはならない。

「分かりました! 私、あなたを誰より美男子だと思うようにがんばります! サー・ギャレット!」

『シュゼット様惜しい!』

『そこは「だと思っています」って言いきるところ!』

「えっ? むむむ、なかなか難しいものですね」

 シュゼットは、眉根を寄せて口に拳をあてた。

 あああああああ、とギャレットがさらに深くうめき、くっくっくっとモイーズはお腹を押さえて苦しそうに笑っていた。

 ギャレットが、はあ、と悩ましげにため息をつき、

「こうした機微に疎いのもまたまだらの一端か?」

 シュゼットには聞き取れなかったが、なにやら独りごちてから、

「シュゼット」

 両手で両肩を捕まえられて、シュゼットは何事かと思った。妖艶な美貌が正面からシュゼットの目を覗き込むと、

「私を一番に想って欲しいですし、私以外の男性を見て欲しくないのです、あなたには」

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