第37話 悪夢の朝
昼間、何もできないシュゼットは、リーゼロッテの助けを借りた。が、今は、なんとかそのときのことを思い出して、見よう見まねで一人でやらなければならない。
手を、ぐーぱー、ぐーぱー、とにぎにぎしてから、深呼吸して、取りかかった。
「騎士になるのです。不安ばかりですけれども」
服を脱ぐことくらい、できなくては、騎士以前に一人前の人間になれない。
『まず加護を。妖精の力を使えるかどうか、試さなければなりません。騎士になるには』
ギャレットに言われたことを思い出す。
『正直、あなたに才能があるとは思えません。魔法を使うには、血筋が最も重要です。まず妖精硝子に魔力が満たせなかったら、話にならない。騎士の血筋の、それも、幼い頃から親しんでいる者の方が加護の力を硝子に通しやすい。あなたは十中八九、通せないと思われます、残念ながら』
怖かった。あのときは笑顔で、まあやってみたいです、なんて言ってごまかしたけれど、シュゼットは怖い。
なんとか、その第一関門を突破しなければならない。
一年以内に一〇〇両の敵を倒せば、騎士にしてやるといったゼアヒルドとの約束は、はるか遠い彼方にしか感じられない。
「けれども負けません、がんばります!! 騎士に、なるのです」
ひとりごとに言い、もう一度、ぐーぱーぐーぱー、と手をにぎにぎしてから、ぐ、と握った。
ボタンやホックを、慣れない手で四苦八苦して外して、どこを引っ張ればいいのか分からない帯を泣きそうになりながらどうにかほどいて、服を脱いだ。
手桶で貰ってきた水を洗面器に取って、用意されていた手ぬぐいで体を拭くと、ベッドに入り、目を閉じる。
硝子大弓騎でまる二日も旅をしてきて、ゼアヒルド城に着いたら初めて会う人たちに囲まれて、会議をして、結婚式をして、城めぐりをして、披露宴。めまぐるしい半日だった。たった半日で起こったこととは思えない。
ほうっと吐息をついたとたん、何かがどっと押し寄せた。
ジュリアンの激怒した顔がまぶたに浮かび、不安に心臓を掴まれる。
痛い。
苦しい。
この先の人生を埋め尽くす難問。
あのまま千両殿で、何不自由なく、暮らした方が正解だったのではなかろうか。後悔の海がひたひたと押し寄せ、波に溺れて窒息する。
断罪の声が響いてきた。
無数の知らない男女の群れが、怒声をあげて、闇の中、一目千両を追いかけてきた。
『裏切り者』『恩知らず』『いい加減な』『奴隷のくせに』『詐欺師め』
鍬を持ち、釜を持ち、剣を持ち、槍を持ち、ついには硝子の巨人を駆って、王国の民、貴族、騎士という騎士の全てが鬼のような影となって、シュゼットを追い回す。追い詰める。何度も何度も殴り、斬り、踏みつぶし、命を取る。
悪夢だった。
はっと気がつくと、汗をびっしょりと全身にかいていた。
心臓が走って走って、口から飛び出しそうだった。
たまらず起き上がり、しばらく喘ぎつづけていた。
涙がぽたぽたと頬を落ち、毛布で口を覆って声を殺し、泣いた。
苦しい。怖い。どうしたら許されるのか分からない。
そのうちにうとうとしただろうか、シュゼットは閉じた窓から漏れる光で、朝になっていることに気がつき、起きて、部屋を出た。
廊下に出てから、両側の壁一面を覆っているはずの鏡が、何故かなくなっているな、とぼんやり思った。
寝不足だから、顔にくまが出来ているかもしれないし、歩く姿、足のつま先の出し方、腰の振り方、背筋の伸ばし方、ひとつひとつを完全にチェックしないとならないのに。そのために裸のまま歩く鏡の廊下になっているのに、鏡がなくては困るな、と思った。
そういえば、ベッドの天井にある鏡も、取り払われていた。何故かしら、と、疲れ切って起きているのか眠っているのか分からない頭で、ぼんやり思った。
天井の姿見はとても重要だ。毎朝、起きた瞬間から、じぶんの姿を見るように。プロポーションに気をつけるように、ジュリアンに言われているのに。
シュゼットは夢の中でもがくように、不安から逃れようとした。鏡の廊下を探して早足になる。走り出す。
ここはどこだろう? 迷ってしまった。千両殿で迷うなんてこと、あるだろうか?
怖い。怖い。早く戻らないと。鏡の廊下を見つけないと。このままでは、また怠ったと罵られて、蹴ったり殴ったり、されてしまう。ジュリアンに。
さまよい歩いたシュゼットは、行き止まりの大きな扉を、焦って開いた。
とたんにまぶしいステンドグラスの窓の光と、長いテーブルが目に入る。朝食のあたたかなにおいが鼻をくすぐった。
「……えーと?」
と、口から声が漏れた。
シュゼットの視界には、見目麗しい騎士たち。うち何人かはテーブルについているが、今しも席に着こうとしていた数人は立っていた。共通点として、皆が、シュゼットを見て唖然と目を見開いていた。
たっぷり数秒、時間が停止。
「あー、レディ。お召し物は、どうしたのかね?」
眉間の神経質な皺がトレードマークの騎士、カーターが、その眉間に手をやっていた。視線は逸らしている。
「さすがセンセイ、冷静だな。儂なんか、どう声をかけたもんか、ためらうばかりなんだが?」
と虫めずる王子・エセルバートが無精髭の顎を撫でながら言う。視線は逸らしていた。
「ちょっ、アニキだって落ち着きすぎだ!」
絵に描いた白馬の騎士そのものの金髪の騎士が、真っ赤になって椅子から跳ねるように立つ。と思うと度を失ってシュゼットの横を駆け抜け、部屋を飛び出していきながら、
「リーゼロッテ!! リーゼロッテ!! アンタいつも女扱いすんなって言うけど、今は女扱いするぜ!! 同性としてどうにかしてやってくれ!! おい、起きてくるんだ寝ぼすけ野郎!!」
途中で、慌てすぎて長い脚があだとなったか、ズダーン、と派手に転ぶ音が響く。
室内では、姿勢を正して食前のティーカップを口もとに運んだまま凝固していたウォーレンが、含んでいた飲み物をごくりと嚥下してから、にっこりと、
「サー・ギャレット。そちらで突っ伏していないで、ご夫君として早々にこの事態を収拾なさってはいかがでしょうか。それとも、妻女の豊満なバストやくびれたウエストやカモシカのような脚など、見事な肢体を我々に見せびらかしたいというご意図でも? 目に毒ですよ」
「サー・ウォーレン! 尊敬もしますが、そろそろ白黒つけましょうか!」
「お世辞はよろしい。速やかに善処を」
「どこが世辞ですか! ええい、まったく! シュゼット!!」
と、ギャレットが席を立つが、それより先に、
「シュ・ゼ・トちゃん、風邪引くよ」
気がつくと、今までゼアヒルドのそば、つまり部屋の最も奥にいたプロスペールが、一瞬でシュゼットの隣に移動していた。自分のマントをそっとシュゼットの肩に着せかけてくれる。平素と同じくににこにこしている顔だが、その耳だけは、これ以上なく赤くなっていた。
シュゼットは、ものを着せかけられて初めて、自分が一糸まとわぬ姿で、それで皆が混乱しているのだとやっと気づいた。
「ひゃーーーーーーーー!?」
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