第7話 色ガラスの巨大な敵が動き出す
知らない者が見たら発狂したと思うだろう。人間は誰もいない。フレデリックには、霊魂でも見えているのか。それとも、貝に言葉が通じると信じてでもいるのか、と。
宿借りに似た生き物が、細い脚を殻のガラスの内側に触れ、細かく震わせた。殻のガラス――妖精硝子が音を発する。
言寄貝は、フレデリックの割れ顎が発した言葉を、声ごと完全に真似て、復唱した。
『聞こえるか! サー・フレデリックだ。誰かあるか!!』
少し間があって、声が返る。
『フレデリック様!? なにごとですか!』
都の外門に詰めている兵士の声が、届いたのだ。
フレデリックは、にんまりと笑って手短に伝え、
「絶対に逃がすな! 奴らが弓騎に乗る前にひねり潰せ!! 一目千両の君には、いっさい傷はつけるなよ!」
『なんと!! はい!!』
通話を終えたフレデリックは、割れ顎を窓の外へ向けた。言寄貝のために金網と格子が厳重に填まった窓。それ越しに、ひとまわり外の土塁が遠く見える。一目散に逃げていく二騎が、点のようになりつつあった。放牧地の羊や山羊の合間を突っ切っていく。
だが、追う騎馬の一団も、その手前で土ぼこりをあげていた。
「絶対にあなたの掌中の珠は連れ戻しますぞ、ジュリアン様!」
フレデリックには、決して忘れられない恩があった。
さえない武人だった自分。仕える伯爵にも仲間の騎士にも舐められ、出世はおぼつかなかった。
ところが、ジュリアンの助言で髪型と噛み癖を変えただけで、道が開けた。
武人にしては顔がお綺麗すぎるんだよ、キミ。と、ジュリアンは教えてくれた。
経験値豊富で、凄みとか頼りがいがある感じ、作ろうか。
常にこっちがわの歯だけしつこく噛みしめて、過ごしてご覧。
苦渋の決断を常に重ねている人間は、顔が非対称に寄っているものさ。
髪型はこうして、粗野に。
これがキミの骨格に似合った豪胆な雰囲気づくりさ。
ジュリアンの言う通りにしてたった三ヶ月で、妻や娘を手始めに、人という人の見る目が変わった。思うとおりに手柄をたてられるようになった。
地位は急上昇、大伯爵や公爵までから友人と呼ばれ、家臣は五倍にまで増えた。
「必ず、一目千両の君は取り戻しますぞ!!」
シュゼットは、唖然としていた。
人が多く、建物も密集している市街では、馬に乗っての逃走は行き足を止められるのでは? シュゼットがそう思っているうちに、あれよあれよと二人の千両騎士は見張り台を襲い、鮮やかに馬を二頭奪っていた。
「ギャレ・トちゃ、頼んだ」
シュゼットをギャレットの鞍の前に座らせたプロスペール。
「えっえっえっ? あのっ?」
「どういうことですかプロスペール!?」
「おうま、か・わいそう。ぼく・だ・けでも、お・もいから」
さっと別の馬に乗りあがる。
「わかりました。一目千両の君とあの巨体の両方で乗るのは、馬に酷と」
「あっなるほど!」
とシュゼットは手を叩いた。
かくて二騎で走り出した。
濠にかかる長い長い土橋を渡り、ひとまわり外側の郭に出る。
土塁や見張り台から矢が飛んでこないのは、やはり一目千両を殺してはまずいからだろう。
ぐっと建物が減り、まばらに集落が点在する田園風景になった。
小川が青空や白い雲を写しながら林を回りこんで流れ、麗しい。
空の高みのどこかからのヒバリの声に、駆ける馬のひずめの音が重なる。
「なるほど、馬でもどんどん走れる……。あの、大王の都はどこまでも続くものかと思っていました」
「ここも都の内ですよ。反対側や、北側、つまりローレン初代大王の陵(みささぎ)の門前町を兼ねる側は、外郭まで立て込んだ街になっています。が、それ以外はこう、のどかなもの。大王都は人の尺度では広すぎるのですよ。大弓騎の大軍が仮想敵ゆえに」
「はあ。ここも都の内ですか……! これはずいぶん広い……!!」
それにやはり、きらきらしていた。シュゼットの目には、まぶしくて涙がこみあげるほど、夢幻のように輝いて見える。
羊の鳴き声と、水車の音、犬の声をときどき横切って、馬は進む。
一度は、神殿の境界石の天辺が見えると思ったら、笛と鈴の神楽の音が聞こえてきた。
シュゼットは目を丸くし、初めてのことに心臓がきゅっと絞られたようになった。涙が知らずにあふれて、馬が地を蹴るリズムで袖に、胸に、しずくが降った。
ギャレットは気遣って、何も言わず、時々そっと、震える背や肩を撫でてくれる。
「待て待てー!!」
「馬の首を返せ!! 降伏せよ!! 降伏せよ!!」
追いすがる騎馬の兵士の一団がある。プロスペールがギャレットに目配せを一つ。ぐるりと馬を回して後ろへ向かった。シュゼットが見ていると、乗り回しながら次々に剣で切り伏せ、ギャレットの駆る馬に追いついてくる。
プロスペールはシュゼットに朗らかに笑いかける。安心させるように。
ギャレットは誇らかに言う。
「強いでしょう。私たちゼアヒルド城の騎士は、漏れなく精強。弓騎(ゆみき)だけでなく、騎馬戦でも無敵なのです」
「あの、先ほどから言う弓騎とは、なんでしょうか?」
ギャレットは絶句し、しばらくそのままだった。
「なんと。一目千両が、千両騎士の『両』が何か、ご存じない!?」
「あああ、す、すみません!! もしかして、敵を千両倒すとは、弓騎を千両倒すの意味だったのでしょうか!? あっあっ分かりました、もしかしなくてもそうですね!?」
ギャレットの沈黙は圧が高く、シュゼットは慌てて早口になった。
「その、化粧係が、千両騎士は敵を千両倒した騎士としか。どんな敵かは聞かせてくれなかったもので! あああそれで弓騎とは? 両で数えるのですから、きっと甲冑とか馬車とか、重くて大きいものと想像しますが!」
「それは……。百聞は一見にしかず。ご覧になった方が早いでしょう」
それから広大な都をずいぶん馬で駆け、小山のような土塁をさらに二度も強硬突破して、遂にシュゼットは大王都の外へ出た。
「あれが弓騎です」
濠にかかる長い橋を超えた先に待っていたのは、シュゼットが想像したこともないものだった。
「……ガラス? ガラスですか!? お、大きい。大きすぎません!?」
「うん、うん!」
プロスペールは楽しげに見守る体で、ギャレットは、
「はい、ガラスです。大きいです。大弓騎(おおゆみき)ですから、背丈はざっと人の十倍」
シュゼットたちの行く手を塞ぐように、ガラスの巨人が数体立っていた。きらめくガラスの弓を背負った、人の形のガラス。
綺麗でおそろしく大きなガラスの人形が、腰をかがめて手を伸ばしてくる。頭上に迫る、暗い緑色のガラスの手のひら。
「危ない!!」
目を見開くシュゼット。シュゼットの上に色ガラスの影が広がる。馬の頭を掴み殺そうというのか、五指が閉じようとしている。
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