第3話 一目千両は逃亡しました

 ジュリアンの教えに、シュゼットは外の世界へ出る恐怖を思い知っていた。

 誰が価値を見いだしてくれるだろう。何で糊口をしのげるというのだろうね? キミがもし美人だったら、何かいいことがあるかもしれない。けれど、それでも商売女になって、二年くらいで性病で死ぬっていう寸法さ。それが美人でもないときたら……恐ろしいねえ。

――まさにまさに、そのとおりです!

 そう、シュゼットは、実は美女などではなかった。

 ほんとうは十人並より劣るほどの不美人。毎日、鏡の中に輝かんばかりの美貌の女神を見られるのは、ジュリアンのおかげ。超一級の化粧係が、シュゼットを変身させてくれるおかげに他ならないのだ。

 ジュリアンの化粧の腕前は、超一級だし、それを超えて、神がかっていた。

 真実の美人ばかりの千両殿では、素顔なら一目千両が最も不美人だった。外の一般的な基準でも不美人だと、ジュリアンから何度も聞かされて知っていた。何しろ、シュゼットの先祖は『洞穴の醜女』と称された女だという。

 それを変身させてしまうのが、ジュリアンの腕だ。

 ジュリアンの化粧のスキルの前では、本当の顔など全く意味をなさないほどだ。どんな血筋も、年齢さえも無効にしてくれる。自在に化けさせてしまうので、シュゼットは十二の歳で美貌の熟女に変身したことも、最近美幼女に変身したことすらあった。

 さらにジュリアンは、日々こう教えてくれていた。

 一目千両でいるお陰で、キミは生きているんだよ。飢饉や戦争や事件の渦巻く外界から切り離されて。ただ着飾っていればいいというご身分で、この国の誰よりもいいものを食べ、いいしとねで眠り、王族を凌ぐ衣装代をかけ、王宮よりも大きなこの千両殿を与えられているんだ。

――でしたでした、そうでした、それを忘れてはなりません!

 けれど、もしも、めぐりあわせがめぐりきたなら。

 私はどこかへ行きたい。

 違う何かになりたい。

 今まで思ったこともなかったが、今この千両騎士に言われて、ずっと心のどこかでそう願っていた、と思った。

――気の迷いかもしれません。でも!

 一瞬で胸のうちを走った不安と恐怖にかかわらず、決心をして、目の前の大きな手のひらに手を重ねようとしたシュゼット。しかしその手は、空を切った。

 美貌の青年騎士が、すいと手を動かして、シュゼットの手をよけていた。

 うちのめすような失望と後悔がシュゼットを襲った。

 ああ、やっぱりこんな運のいい話は、なかったのです!

 シュゼットの信じた騎士の手は、シュゼットの手をさけた。が、かいくぐるようにシュゼットの体へ伸び、両手で脇を支えて持ちあげた。大切そうに、同時に、軽々と。

 シュゼットが手を伸ばした瞬間、騎士はシュゼットの心を察してそうしたのだ。

 手をとる以上に、抱き上げてくれた。

 シュゼットの心は一転、ぱあっと浮き立った。顔が輝く。騎士も光るような笑顔になる。心の通じあった音が聞こえた気がした。

 二人の間を隔てていた柵を、シュゼットは抱き上げられて超え、気がつくと、騎士は階段を勢いよく駆け下っていた。

 胸にシュゼットを抱いてだ。

 一歩間違えば、奈落の底のように見える大理石の硬い床までまっさかさま。そこを駆け下る。

「ひゃああああああ! 危ないです!」

「へいき!」

 悲鳴のシュゼットと正反対に、騎士は楽しげに笑っていた。

 あり得ない! なんて身体能力なんです!? それともこれが、騎士の普通!?

 背の高い美男子の白い髪が、渦を巻きながら、広がる波のようになびく。

 軽快に二段どころか三段飛ばしで駆け下りる騎士。カンカンカンカンと響くブーツの足音に、階段の下のほうの段々に立つ美女たちが振り仰いだ。唖然とする。

 シュゼットを抱えた騎士は、バランスも崩さずあっという間に降りきる。シュゼットは、視界を斜め上に飛び離れていく美女たちの何人かと、ばっちり目があってしまった。

 彼女たちの目を見て、シュゼットはいちまつ、これでいいのかと決心が揺らぐ。

 甘茶色の髪のフェルダ、はちみつ色の髪のディアーヌ、ブルネットの美少女ヴィクトリア、それに、それに。

 誰一人、何が起こっているのか、分かっていない。驚愕すらしていない。ぽかんとしている。

 一目千両がこの階段を降りてくるのは初めてだ。

 それも騎士に抱かれている。

 しかも疾風のように通り過ぎてしまった。

 どうしたらいいか分からない。

 そんな顔だ。

 シュゼットだって、彼女らだったら、今の彼女らのように凝固すると思う。

 けれど騎士が最後の数段を一足飛びに跳ねたとき、ステンド・グラスの中の女性が、微笑みかけてくださったように見えた。ローレン大王の姉、ラウラ。

 はるかな過去、王女の身ながら城を出て、兵を率いて外征し、数々の領国を取ったという大王姉(だいおうし)ラウラ。

 錯覚かも知れないが、大王姉ラウラのほほえみに勇気づけられる。

 その頃、階段の頂上には、一目千両のお出ましのカーテンから飛び出してきた化粧係・ジュリアンの姿があった。

 ただ一人、千両殿への出入りを許されている男性。

 ゆとりある長袖の貫頭衣ふうの生成りの作業衣に、長い長いストレートヘアの、中性的な美少年の風貌。

 寝間着なみに簡易な服装だ。が、一目千両を鏡の前に座らせたとき、施したメイクや髪型の仕上がりを最も確認しやすい服だ。ジュリアンは、その全身全霊の全てを、じぶんの天職・化粧係という職業に捧げきっていた。

「……!!」

 シュゼーーーーット!と怒鳴るのを、すんでで思いとどまった。一目千両の実名が千両騎士に知れてしまう。そんな、頭の回転の早い男だった。

 弾かれたようにバタバタと元きた舞台を走り、奥へ飛び込むと、呼び鈴の紐を半狂乱で引っ張った。はるか階下の一室への合図。

「一目千両が逃げた!! いや、掠われた!! 千両騎士が連れて出る!! 千両殿の玄関前に、兵をありったけ回してひっとらえろ!! 大王に対する反逆だ!! 死をもって購わせるんだ!」

 ジュリアンはヒステリックに叫びながら、紙にペンを走らせる。桶に入れて、床の穴から滑車を回して直下へ降ろした。

 外の番兵を介して、すぐに大王都の一人の武人が、ジュリアンの命令を受けとった。

「騎士達よ続け! 兵を集めよ! 千両殿の出口で、狼藉者を討ち、一目千両の君をお守りするのだ!!」

 一目千両殿の警護の当番の伯爵が叫ぶ声が轟いた。

 一方、お出ましのカーテンの奥に控えていた千両殿の美女たちは、眉をひそめ、肩を寄せ合い、抱き合った。

「どういうこと……」

「嘘、シュゼットがさらわれたって、嘘でしょう」

 彼女らの頼りの化粧係・ジュリアンは、衝撃と憤怒に喚き続けている。声変わりしていないかのような高い声での喚き声が、響き渡っている。

 美女たちは、おろおろと、

「ああ、無事でいて」

「怪我をしませんように」

「シュゼット」

 それからやっと、階段下に居た美女たちも、事態を飲み込み始めた。

「ええっ、シュゼット、さらわれた!?」

「どうなるの」

「いえ、その、私には自らついていったようにも、見えましたけれど……?」

「そうだったかしら?」

「あたしも、ご自分から行ったようにみえたけどな」

「ええっ。どっち!」

「ていうか私たち、どうしたらいいの?」

 そこでしん、と沈黙の帳が美女たちの間に降りた。



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