第2話 一目千両は逃亡できない

 いけないいけない。表情を崩してはいけません!

 あとで、この千両殿の専属の化粧係・ジュリアンに、こっぴどく叱られてしまう。

 と、シュゼットは心の中で自分を引き締める。

 シュゼットの立っているのは、四面を色とりどりのステンド・グラスに囲まれた、大空間。床から伸びる高い高い階段の頂上に、謁見の舞台はある。

 華やかな光線の色彩を振りまくステンド・グラスの絵柄は、大王ローレンとその双子の姉ラウラを中心とした、騎士たちの勲。ローレンは、数百年前に諸族を統一して国を興し、外征にも励んで国土を何倍にも拡大した、偉大な王だ。

 四面の壁を覆いつくすステンド・グラスを見下ろす、目のくらむような高舞台の上で、一目千両・シュゼットは問題の千両騎士と向き合っている。

 千両騎士たちは誰もがここまで、果てしない階段を上ってくる。一目千両に仕える何十人もの美女たちが段々に並ぶ合間を昇り、さらに昇り、さらにさらに昇る。

 一人一人がため息の出るような傾国。そんな美女たちの誰がいったい一目千両なのかと騎士は疑うものだが、実は誰も、一目千両ではない。

 階段はまるで天への階のように長く、高く、人の背丈の十数倍にも達する。騎士が一歩一歩頂上まで昇りつめてから、一目千両は、現れる。その幅の狭い道のような踊り場へ、彩な花びらのように折り重なったカーテンから進み出てくる。

 騎士にとっては、あれほど麗しく目に映った傾国たちの美貌さえ、いっぺんに霞んでしまう、一目千両との邂逅。

 騎士の一生に一度の思い出となる刹那。

 ほのかな香が漂い、天窓のステンド・グラスからの綺麗な光が差している。

 一目千両はあくまでも麗しく、絶対不可侵の天上の美の体現者として振る舞わなければ。そうでなければ、騎士の一生の思い出を損なってしまう。

 それにそうそう、この青年騎士相手には、春のそよ風のように母性的な包容力を漂わせて、というのが、化粧係・ジュリアンからのオーダーだった。

『彼はすでに理想の女性を恋人にしている。だから、シュゼット、お前は母上のような女性を演じるんだ。彼の理想の若い母親的女性像をね』

 なんでも、この美男子の騎士さまは、幼い頃に母と引き離され、不幸に耐えつつ慕い続けている間に母を喪った、という身の上。それやこれや綿密な事前調査と分析から、ジュリアンは、この騎士にとって最高の美女像を設計した。

 シュゼットは、今日まで数ヶ月、仕草から、立つ姿勢から、微笑み方まで、猛特訓をしてきた。ジュリアンの設定どおりの美女像を身につけて、この場に立っている。

 目を剥くなんて、この騎士さまの『理想の美女』は決してなさらないはずです!

 一緒にここを逃げだそうなどという誘いに、心をがっつり動かされて目を剥くなんて。そんなことは、けっしてあってはなりません!

 シュゼットは仮面の下で、わたわたと、甘い誘惑にあらがおうとする。

 だがまずいことに、シュゼットの心には、直前にこの優男の言った言葉も、しっかり五寸釘のように打ち込まれていた。

『逃げ・たい……の?』

 ななななんでですか!?

 何も言っていないし、演技ならぬ演美は完璧だったのに、何故!?

 そのときも、絶世の美女の仮面が吹きとびそうになった。

 そこへ重ねての誘いだったのだ。

『逃げたいの?』『僕と一緒に来る?』

 神獣のような青年騎士は、優しい瞳でこちらへ手のひらを差しだしている。

 この手を取るなら、今しかない。一瞬で覚悟を決めなければ。

 謁見は、ほんの数秒と決まっている。

 もう既に、一目千両はきびすを返すべきタイミングだ。

 後ろの、扉ほどの幅のカーテンの向こうへ。

 長すぎだよ、何をやっているんだい、から始まるジュリアンの恐ろしい叱責タイムの予感が、シュゼットを縮みあがらせる。殴られるし、蹴られるかもしれない。

 次にジュリアンのデザインする素晴らしいドレスに隠れる場所ならアザが残っても不都合ないのだ。背中の開いたドレスなら腹、お臍の出るドレスなら背。きっと殴られるし、きっと蹴られる。

 けれど、シュゼットは上手な笑い方も、ジュリアンから教え込まれていた。

 こめかみの姿勢をよくする意識で、おでこを引っ張るように力を入れる。

 すると自然に口角があがり、頬にも張りが出て凛とした美しい笑顔になれる。

 大丈夫、何も辛いことはありません、といわんばかりに微笑して去るつもりだった。

「無・理して、笑わ・な・くて、い・よ」

 辛いんでしょう? と看破して、人好きのする美丈夫が眉をハの字にした。

 シュゼットは、この人は、と目を覆いたくなった。本当に優しい人だ。どんな騎士も見透かしたことのない一目千両の仮面の下を、見透かしてしまった。一目逢っただけで。

 シュゼットが見透かされたのは、数時間前に謁見した騎士との一件で、心が揺れていたせいかも知れない。

 今日は一日のうちに二人の千両騎士に会うという、前代未聞な日だった。準備も切り替えも大変だったのだ。心が少々疲れ、隙があったのかも知れない。

 心を揺らされた、数時間前に謁見した騎士。

 そう、午前に会った騎士の、暗い赤色の髪の影のまなざしがちらりとよぎった。

 シュゼットは、気がつくと涙目で、目の前の白髪の騎士の顔を見上げていた。

 許されるのか? 許されるわけがない。一目千両は一歩もこの千両殿から出てはならないと禁じられている。

 でも、今、この手を取らなかったら。

 きっと一生、後悔する。

 シュゼットは手をとる前の一瞬に、怒濤のような心配と不安をはねのけなければならなかった。

 何故なら、ジュリアンからよく言いきかされていた。

 キミはここでしか生きられないんだよ、シュゼット。そう、ジュリアンは言うのだ。

 キミは何の取り柄もないし、外界にはなんのコネもツテもない、天涯孤独。もしもここから出たならば、飢えて死ぬのが関の山さ。

――そうなのでした!

 シュゼットは十二の齢で一目千両にさせられてから十六年、もう二十八歳だ。その間、数ヶ月に一度現れる千両騎士との謁見に合わせて、必死にジュリアンのオーダーどおりの美女を演じられるよう支度する。それ以外の経験をしたことがなかった。

 ジュリアンの予想した騎士の理想―美女像どおりに痩せたりふくよかになったりとプロポーションを整える。表情筋を鍛え、立ち居振る舞いやそのバックボーンとなる教養を学習する。ジュリアンによってメイクを施され、ジュリアンのデザインしたドレスと宝飾品で着飾る。ジュリアンに従ってしか、生活してこなかったのだ。

 キミはその歳にもなって、世間の常識をなにひとつ知らない。ジュリアンはまた、よく教えてくれた。

 家事も家政もできない、要領も悪い。着替えすら一人でできない。そんなキミが、もしも一目千両でなくなったら、ただの役立たず。のろまで器量の悪い二十八歳のいきおくれだ。世の中では十五、六で嫁ぐというのに。

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