壊れた少女は少年にキスをする

葵栞

壊れた少女は少年にキスをする

壊れた少女は少年にキスをする


 レースのカーテンが木漏れ日に照らされる。

 ワンルームマンションの一室。ベッドに横になっていた大人びた少女は、気配を感じ、杖をつきながら立ちあがる。

 白すぎる肌にショートボブの黒い髪がさらさらとなびく。

 右足を引きずるように玄関へ向かい、ドアを開けた。

「おかえり、ちひろ」

「ただいまー、めいちゃん」

 少女とそう歳の変わらない優木千尋ゆうきちひろは屈託のない笑顔で抱きしめる。

「ん……、ちひろ汗臭いよ」

「ごめーん、今着替えるからね」

「でも、私も寂しかった」

「ごめんね、仕事で」

「いいよ。千尋はなにも謝ることないよ。ほんとに……、なにも」

 と長澤愛依子ながさわめいこは不自由な右足へ視線を送る。幽霊のように光がない瞳と、人形のような完璧な顔だち。

 しかし艶やかで美しい透明な美少女の体には、たくさんの傷跡が刻まれている。

「ごめんね、こんな私のために、人生をめちゃくちゃにさせて」

「なに言ってるの? 僕はめいちゃんと一緒に居たいからいるだけだよ。めいちゃんと居られるだけで幸せだよ」

 何度となく自殺未遂をした愛依子を千尋は支えてきた。

 年齢的には高校三年生だが学校も行かず、二人で暮らしている。

 背景にあるのは血みどろの愛憎と、複雑な環境。

「大好き、めいちゃん」

 千尋はぎゅっと愛依子を抱きしめる。

「……ふっ……、ありがとう」

 と壊れた少女は少年にキスをした。





 六年前の三月。

 小学校六年生だった二人は閑散とした公園で出会った。春休み。午前十一時。春風が舞う公園で一人ブランコに一座っていた千尋に声をかけたのは愛依子だった。

「ねえ、なにしてるの? 千尋くん」

「な、長澤さん……」

「ふふふ、愛依子でいいよ? 千尋くん」

 ランニングシャツにハーフパンツの優木千尋は小柄な体型だった。性格は暗く友達は居なかった。愛依子とは六年間、同じクラスだったが、一言も話したことがない。

 一方の長澤愛依子は鼻筋の通った眉目秀麗な顔立ち。明るく誰にでも優しい性格で異性に好かれていた。学校のアイドル的存在。色白の肌に映える黒髪のボブを女子が真似していた。

「こんなところで一人? ん~? ブランコで遊びに来たの?」

「違うよ……、ただ、行くところがなくて」

「行くところ?」

「うん。僕……、友達居ないし……」

「家に居たらいいのに」

「お父さんは僕のこと殴るしお母さんは美宇のことばっかりで……、家にもあんまりいたくなくて……」

「ふぅん」

 優木千尋は孤独を抱えていた。土木作業員の父は感情が高ぶりやすく、毎晩、飲酒をする。酔っ払っては千尋を殴っていた。専業主婦の母は千尋に関心がない。五つ下の妹、優木美宇を溺愛している。暴行を受ける千尋へ同情はしてくれるが、助けてはくれない。その原因は血縁関係である。

 千尋と母の間に血の繋がりはない。前の母と父の間にできた子供だが、父は離婚し、今の母と再婚した。

 家庭に居場所がない千尋は休日や放課後は近くの公園に来たり、街をぶらぶらしていた。

 その日も、同じだった。


「千尋くん……、寂しいの?」

「……うん」

「そっかぁ。かわいそうだね」 

「……長澤、さん」

「よぉし、よぉし。千尋くんはいいこいいこ」


 愛依子は優しく笑う。母性溢れる手のひらで、千尋の頭を撫でる。

 愛依子は分かっていた。

 千尋の孤独を。

 愛依子には計画があった。千尋を利用した洗脳計画である。その内容は、孤独な少年を愛情で餌付して、支配することだった。

 

「よしよしぃっ。ふふふ、千尋くんはいいこいいこ」

「長澤さん……」

「ふふふ、うんうん。寂しかったね。我慢してたんだね。だから私が褒めてあげる。偉かったね」

「うぅ……、愛依子……ちゃん」


 長澤愛依子は学園のアイドルである。大きくて可愛らしい二重瞼の瞳。シャープな輪郭。整った鼻筋。発育がよくスタイルのいい体。色白の肌……、どれもが同年代の憧れ。

 性格は明るくて優しい。誰にでも平等に接し、差別をしない。振る舞いは上品で女性らしい。

 みんなの人気者。

 

 長澤愛依子には秘密があった。

 愛依子は父親から虐待を受けている。毎晩、性的な虐待を受けている。母はいるが、助けてはくれない。家庭は金銭的に厳しく、荒れている。家は家賃六万の借家。五〇平米の平屋である。父は日雇いの仕事をたまにする。他は競馬やパチンコ等、ギャンブルをしている。母は夜の仕事をしている。繁華街の風俗店だ。三〇代後半の女性だが、豊満な肉体を持っている。顔立ちは整っている。愛依子に似た垂れ目の二重瞼に童顔。客はつくが、収入は限られている。

 荒れた家族。

 愛依子は、この場所から逃げられない、と思っている。家の外での優等生な振る舞いは、全てが嘘。本当は孤独で寂しがり。甘えたり騒いだりしたい。ただの子供のように。


 けれど、やり方が分からない。誰にも本当の自分に気づいてもらえず育ってしまったから。

 三月。小学校を卒業したばかりの愛依子は計画を実行に移した。以前から考えていたことである。父や母を通して、愛依子は人の騙し方を学んでいた。孤独を埋める方法。寂しい少年に愛情を与えて、自分に惚れさせる。愛という餌を通して、思うがままに動く奴隷に仕立て上げる。

 何でもしてくれるお人形。そうしたら私も寂しくない。

 愛依子は容姿に自信があり、またそうした見た目も含め、自分に人の心を惹きつける才能があることを理解していた。 

 

「ふふふ、千尋くん。寂しかったんだね」

「うぅぅ……、めいちゃん、めいちゃん」

「よしよし。んもう……、そんなに抱きしめたら痛いよぉ」

「ご、ごめん。僕……、つい夢中になって」

「うんうん。いいよ。千尋くんはぁ……、かわいいね」

「か、かわいくなんて、ないよ。僕、誰にもそんなこと言われない」

「じゃあ私が言ってあげる。千尋くんはかわいい。とってもかわいいよ」

「めいちゃん……」

「かわいいから、ちゅーしてあげる」

「え……?」

「ほら、こっちぃ向いてぇ……」

 

 愛依子は千尋をそっと抱きしめる。

 そして少年にキスをする。


「ん……、じゅる……、んん、千尋くん、きもちい?」

「う、うん!」

「ふふふ、これがね、愛の味なんだよ。ね! 愛情ってきもちいでしょ?」

「愛の味……! うん! すごいきもちよかった!」

「じゃあ、もう一回する?」

「うん! もっともっと!」

「ふふふ、千尋くんは本当にかわいいね」


 そうして壊れた少女は何度もキスをした。その日、少年の人生は変わり始めた。



 2



 五年後――。十月第一週。

 十六時。

 優木千尋はアルバイトへ向かう為、家を後にする。玄関先。左足をひきづりながら愛依子は千尋を見送る。

「ちひろ、頑張ってきてね」

「めいちゃんと離ればなれになるの寂しい~」

「私も寂しいけど、でも千尋がね、私のために頑張ってくれて嬉しいよ」

「うん! 僕はめいちゃんのためだったらなんでもできるから!」

「ふふふ……」

 愛依子は微笑する。透き通るように白い肌。人形のように整った顔。けれどどこか垢抜けない。

 千尋は外に出る。四階の自宅マンションからエレベーターで一階へ。エントランスをくぐり、街へ出かける。十八歳。年齢的には高校に通う年頃だが、学校には行っていない。少し歩いて、繁華街へ。千尋は時給のいいホストクラブで働いている。未成年であるが、客には二十歳と偽っている。店長は実年齢を把握しているが、事情があり千尋を雇っている。接客は夜からだが、搬入等の裏仕事を手伝うために、早めに出かけた。

 すぐに繁華街。カラオケやラブホテルが建ち並ぶ。

 千尋は無垢な顔で街を歩く。十八歳とは思えないほどに幼気で、純粋な表情。声も高く背も小さい。そんな要素が童顔に拍車をかけ、ホストクラブの客からは人気がある。


「千尋くん!」

「……?」

「どこ行くの? 千尋くん!」

「……」

「あ、ごめんね! いきなり声かけて。もしかしてあたしのことわからない……、わけじゃないよね?」

「……あ、ごめんなさい。僕、行くところがあるので」

「あたしだよ! ゆず葉! 広瀬ゆず葉! 久しぶりだね! 千尋くん!」

「……ごめんなさい、僕急いでいるので」

「待ってよ! 千尋くん! ちょっとお話ししようよ!」

「失礼します……」

「千尋くん!」


 声をかけてきたのは高校の制服を身に纏った広瀬ゆず葉という名の少女。黒髪ボブにスラリと長い手足。日焼けして健康的な肌。ゆず葉は快活な性格で人当たりがよかった。

 千尋とは中学校の同級生である。ゆず葉は千尋のことがずっと好きだった。告白をしたこともあるが、うまくいかなかった。そして千尋と愛依子の血生臭い物語を側で見てきた一人でもあった。


「ごめんなさい。失礼します……」

「千尋くん、ちょ、ま、待ってよ!」


 千尋はゆず葉と視線を合わせることもなく、その場を後にしようとする。オドオドとしていて自信なさげ。愛依子の前で見せた無邪気さが嘘のようであった。


「ち~ひ~ろ、くん! ま、待ってよ~」

「……ッ、は、離して下さい!」

「お~は~な~し、しよーよ! ね?」

「やめて下さい」


 ゆず葉は千尋の手を掴んで引っぱる。千尋は抵抗し、拒絶する。押し問答になるが、すぐに手は払いのけられ、千尋は早歩きで去って行く。


「千尋、くん……」


 ゆず葉は去って行く千尋の後ろ姿を眺め、あのころのことを思いだした。

 初めて出会った時、かっこよかった男の子のことを。



3



 五年前の三月。

 ゆず葉は千尋と出会った。あの公園。アイリス公園。愛依子と千尋がキスをしたのと同じ場所。

 広瀬ゆず葉の出身は東海地方だった。地元では明るくて元気な人気者。女子サッカーをやっていた。父は単身赴任。中学進学を機に、母と共に、都内へ越してきた。

 初めての街。ゆず葉は不安だった。越してきて数日。近所を散歩したが余計に不安が募る。知りあいはいない。公園に来てみたが、誰も居ない。来月から中学生。ちゃんとやっていけるか心配だった。

 ブランコに座ってひとりぼっち。空は晴れている。だけど心は寂しいまま。

 そんな時、――声をかけてきたのは明るい少年だった。


「一人? なにしてるの?」

「あ……、あたし……、なにしてるっていうか、その」

「僕、千尋って言うんだ。なんか、困ってるんだったら、助けるよ」

「え……、あ、あぁ……、ありがとう」

「いやいや。困っている子に手を差し伸べるのは当たり前のことだから。当然だよ」


「か……、かっこいぃ……」


「え? なんか言った?」

「あ、いやっ、な、あんでもないでしゅ!?」


「……? え?」

「あ……、あの、なんでもないです」

「あはは、面白い子だね。きみって」

「そ、そんなことないよ!」


 広瀬ゆず葉は、千尋をかっこいいと思った。初めての街。初めての引っ越し。知らない場所で颯爽と声をかけてくれた男の子。

 王子様だと思った。


「あ……、あの、あたし四月から中学生なんだけど……」

「え? あぁ、僕もそうだよ」

「ほんと? あ、あの、小川中ですか?」

「うん。そう。きみも?」

「わぁー! うん! そうです! あたし、最近こっちに引っ越してきたばかりで、なんもわかんなくて……。あ、あたし広瀬ゆず葉って言います」

「広瀬さん……、そうなんだ。それじゃ、僕が道案内してあげるよ!」

「え? いいの?」

「うん! 僕、困っている人を助けたいって最近思ってるんだ。どこか行きたいところある?」

「じゃ、じゃぁ……、小川中。探してたんだけどどこかわかんなくて」

「あぁ、じゃあ行こうよ。ほらっ」


 と千尋は手を差し出した。小さな手のひら。ゆず葉は手をとる。千尋より少し大きい手。


 歩き出すと夕日が射していた。春の匂い。風が心地よかった。ゆず葉は熱い体を隠すように髪を下ろす。

 恋をした。

 初めての恋。



 4



 五年後。十月。ワンルームマンションを出た千尋は、街を歩く。東京都心。マンションの外は繁華街。車が走る。吹きぬける風は、遠くからやってくる。運ばれる匂いは、自然の匂い。花の香り。秋の匂い。

 途中出会った広瀬ゆず葉のことはもう忘れている。

 バイト先は歩いて一五分程度。十六時過ぎ。夕日が照らす影。賑わう街。


 千尋はお店に向かう途中、テナントビルへ入る。五階建て。コンクリート建築。入り口からエレベーターに乗り四階へ。 

 車内の階案内にはテナントの名前が記載されている。一階は、マッサージ店。二階はラーメン店。三階は予備校。四階は、「三上メンタルクリニック」だ。

 四階で降りる。視界には木目と白で統一されたモダンな空間が広がる。

 カウンターには受付の女性が一人。二十台中盤の落ち着いた美人だ。

 軽く会釈をすると千尋は奥へ進んでいく。

 暖簾をくぐり廊下を歩く。辿り着いたドアには、「診察室」と書かれている。

 千尋は軽くノックをして中に入る。


「あら、こんばんわ。今日は早いのね。千尋くん」

「あ……、う、はい。……、えっと……、あの」

「なんで? 先生に会いたくなったから?」

「え……、あ、う……、その」

「うふふ。まぁ、なんでもいいわ。座って」


 三上琴音みかみことねは三〇代前半の精神科医である。以前は大学病院に勤めていたが、数年前に独立。このメンタルクリニックを開業した。

 琴音はリクライニングチェアに座っている。白いブラウスに黒いスカート。その上から白衣。

 髪色は落ち着いた茶色。柔らかい印象の二重瞼は、若干、シワが見える。フチのないメガネをかけ、ニコリと微笑む。


 千尋は言われるがまま、席に着く。席は琴音と少し離れた位置にある。琴音と同じ、リクライニングチェア。


 室内は一〇畳ほどの広さ。観葉植物。四段の本棚は千尋よりも大きい。琴音の前にはパソコンデスクとキーボード。モニターが二台。大きな窓にはレースのカーテン。ささやかな光が射し込んでいる。


「千尋くん。どう? 愛依子ちゃんと仲良く出来てるかしら?」

「あ……、はい、うん。たぶん。きっと。ですけど。はい」

「そう。それはいいことね。喧嘩したら先生、困っちゃうもの」

「……? 先生が困るんですか?」

「そうよ。だって二人が仲良しなのが一番、嬉しいからね。先生は、二人の人生のことをよく知ってるから。もう、お母さんみたいなものだもの」

「……はぁ、そうなんですね。うん。はい」

「だめかしら? お母さんなんて言ったら。千尋くんにはちゃんとお母さんがいるわけだし」

「いや……、あ、うん。はい。大丈夫です」

「そう? だったら嬉しいわ。先生、いい歳だけど子供も居ないし……、きみたちを見ていると、なんだかそんな気分になるのよ」

「はぁ……、あぁ、はい。そうなんですね」

「うん。今日からお母さんって呼んでもいいわよ」

「あ、はい」

「え? いいの?」

「……はぁ、え?」

「あはは。千尋くんは素直だねぇ。子供のまま変わってないわね。あのころのままみたい」

「……はぁ、よく、わかりません」


 優木千尋は四年前、大きな事件を起こした。長澤愛依子も関っている。愛依子の両親が心中したのである。

 琴音は、一四歳だった二人と、その時に出会った。それから、四年の付きあいがある。二人が歩んできた道のりをよく知っている。血と孤独で結ばれた絆について。



 5



 四年前。

 東京都小平市。市立小川中学校。東京の外れにある静かな街の学校である。

 全校生徒は三一一名。学校の隣には小川町運動公園がある。桜や銀杏が植えられ、芝生エリアもある。季節の移ろいを肌で感じられる場所。老若男女問わず、賑わっている。

 

 九月。

 優木千尋と長澤愛依子は十四歳になっていた。二年二組。同じクラスである。

 愛依子は、一層美人に成長した。スラリとした体型。小さな顔。鼻とアゴが高く、横顔が綺麗。目は大きく、平行二重が愛らしい。瞳は瑞々しく、光を反射する。笑顔を絶やさない。口元はいつもニコリとしている。白い肌。透明感に溢れ、ニキビひとつなかった。

 愛依子はクウォーターである。祖母はノルウェー人。アングロサクソン系の遺伝子を受け継いでいる。特徴的なのは、紅い瞳。宝石のように美しい瞳は、愛依子を特別にする。他と一線を画す美少女。学校のアイドル的地位は、自然と手に入った。

 優木千尋は男らしくなった。背が伸びて、骨格も丈夫になった。彫りの深い顔立ち。太めの眉毛が凜々しい。声変わりしたが、声は高いまま。本人は「子供っぽくて嫌だ」と気にしている。しかし、優しい性格と合っていて、「かわいい」と愛依子は褒めていてた。

 

 あの日、十二歳のころ。千尋は愛依子に愛情を貰った。以来、自分に自信を持った。子供は単純である。あのころ、千尋は悩みがあった。両親が優秀な妹ばかりに愛情を注ぎ、寂しかった。ひとりぼっち。性格が暗く、友達もいない。体が小さく運動も苦手。孤独な少年。クラスで不人気。余計に自信をなくしていた。

 だが、子供は変わる。愛依子とのキスがきっかけだ。キスをされ、褒められ、抱きしめられた。愛依子の企みを考える余裕もない。ただ、嬉しかった。認められること。愛してもらえること。受けいれてもらえることが、幸せだった。

 初めてのキスは気持ちがよかった。性的な快楽だけではない。心が通じ合う感覚。誰かと繋がる体験。唾液交換をして、一人ではなくなった気がした。

 以来、千尋は自信を持った。愛依子がいるから、生きていける。愛依子さえいればいい。嫌なことがあっても、愛依子が認めてくれる。褒めてくれる。慰めてくれる。だから、真っ直ぐに生きていける。頑張れる。だから自分も愛依子のためになんでもしよう。愛依子の言う通りにしよう。と、千尋は奴隷に成り下がっていた。


 千尋は無邪気で明るい性格。クラスで人気があった。元より素直だった性格。人と接触が少なく、ガラス玉のように綺麗だった心。愛依子という後ろ盾を得て、前向きになっただけだったが、周囲は驚いた。だが、優しい千尋を誰もが認めた。


 十四歳。中学二年生。二人は付き合っていた。

 校内周知の事実。千尋は、愛依子の側を離れなかった。体を触り、手を握る。スキンシップが豊富。尻尾を振る犬のように、愛依子へ甘えていた。

 愛依子は、満足だった。荒れた家庭環境。父は暴力を振るい、母には放置されている。時々、母に嫉妬の目を向けられることもある。若く、美しい中学生。女として、母に敵対視される。

 千尋を家に引き入れたことはなかった。家庭環境のことも、話していない。が、家の外では、愛をアピールしてくるペットがいる。千尋は無垢。言ったことは守る。命令通りに動く人形だ。

 愛依子は嬉しかった。寂しさを紛らわせる玩具。狙い通りに進んでいた。


 広瀬ゆず葉は優木千尋と同じクラスだった。六年生の春休み。一目惚れした少年。爽やかで優しい千尋のことが好きだった。

 あれから一年と少し。ゆず葉は新生活にも慣れ、中学生活を楽しんでいた。

 元より明るい性格。真面目だがうっかり天然で、愛嬌もある。運動が得意。細身で手足が長いスタイル。目鼻立ちがしっかりした顔。よく響く綺麗な声。

 中学では女子バスケ部に入った。二年生の九月。新チームのエース。キャプテンも任されている。男子にも人気がある。友達も出来た。順風満帆。


 唯一の悩みは恋について。ゆず葉は一途だった。中学生になってから、四回告白された。違う男子に、代わる代わる。

 が、全て断ってきた。中にはイケメンとして人気の男子バスケ部のキャプテンもいたが、付き合う気にはならなかった。

 ゆず葉には王子様がいるからである。

 始めて来た街。途方にくれた時、手を差し伸べてくれた笑顔が忘れられない。

 千尋とは友達だ。仲がいい。一年生、二年生とも同じクラス。家も近所。誕生日が近く同じ班だ。

 しかし、告白は出来ていない。

 千尋に彼女がいることは、入学してすぐに知った。愛依子と千尋は、仲がよくて、いつも一緒にいる。千尋は愛依子の話ばかりする。

 純粋無垢。屈託のない笑顔。千尋の愛を向けられている愛依子が、羨ましかった。


 そんなある日のこと……。



6



「千尋……、私もう耐えられない」

「めいちゃん……」

「もう、つらい。嫌だ。生きていきたいくない。死にたい」


 放課後。小川中の校舎裏。体育館と校舎を結ぶ渡り廊下。半分は屋外。九月の風を感じる。

 愛依子と千尋は、手すりに寄りかかって会話をしている。体育館からは声が聞こえる。バスケ部とバレー部の声。走りまわる音。シューズが擦れる音。


「めいちゃん……、つらかったんだね。ありがとう。話してくれて」

「ごめん。千尋……、巻き込みたくなくて」

「ううん。いいよ。僕はめいちゃんのことが好きだから。めいちゃんのためだったらなんでもしたい」

「千尋……」


 長澤愛依子は父親に虐待を受けている。毎晩のように暴力。性的な関係を求められることもある。小さいころからの日常。いつから始まったのか、愛依子は覚えていない。

 それが異常なことだと知ったのは、随分と後。中学一年生のころ、深夜のテレビで観た「エデンの園」というアニメで、児童虐待が描かれていたからだった。作品は、中学生の男女が、それぞれの家庭で性暴力を受ける過激な内容だった。暗闇の底。守られた園は、楽園か地獄か。とメッセージ性の強い内容だった。

 愛依子はアニメ好きだったわけではない。父と関係を持ち、眠れず、夜更かしした夜。偶然につけたテレビに驚いた。登場人物、家族構成、世界観、それがまるで自分のことのように思えた。

 そして、自分は児童虐待をされていること。自分の家庭環境がおかしいことを知った。


「私……、みんなそうなんだって思ってたの。でも……違った。私の家だけ、おかしいんだって」

「めいちゃん……」

「親ガチャ失敗だよね。私」

「でも、彼氏ガチャは当たりだから! 僕がめいちゃんを守るよ!」

「うん……、千尋は優しいね。大好き。ありがとう」

「ううん。僕もめいちゃんが大好きだよ」


 千尋は愛依子の奴隷。純粋な少年は、操りやすかった。愛依子は美少女。人形のように整った顔。紅い宝石の瞳。愛依子が見つめた相手は、意のままに動く。

 天性のカリスマの素質。愛依子は自分の長所に気づいていた。全てが叶う気がしていた。

 だから、千尋をもっと利用しようとした。


「ねえ、千尋。お願い。助けて」

「……、うん!」

「殺して。お父さんとお母さんを」


 千尋ならやってくれると思った。こんなにも私が好きなら、断らない。きっと。殺人罪は大きな罪になる。けれど、殺人教唆だったら、直接手を下すより小さい罪。

 逮捕されて千尋が「愛依子に頼まれた」と、話しても、あくまでも殺したのは千尋。それに、私には情状酌量の余地もある。悲劇のヒロインなのだから。警察だって騙せる。欺ける自信があった。


「うん! 分かった!」

「ふふ、ありがとう。千尋」



 7



 数日後。

 夜。十九時過ぎ。千尋は愛依子の家に行った。バッグには包丁。刃渡り一〇㎝。家から持ち出した。洋服は普段着。青いTシャツにパーカー、黒いパンツ。

 千尋の表情はいつもと変わらなかった。無垢な顔。これから殺人をする人間とは、思えないほどに。


 愛依子の家は近い。千尋は夜風に吹かれ意気揚々。愛依子に会える。愛依子のためになれることが嬉しかった。


「今日は二人とも家に居るから。玄関から入ってきて。鍵は開けておく」


 家に着いた。愛依子の言葉通り玄関のドアノブを回した。とても軽い。生死の重みを千尋は感じない。


 バッグから包丁を取り出した。玄関。知らない家の匂いがする。ぎゅっと握る。土足のまま廊下に上がる。音はほとんどしない。

 

 一歩。また一歩と、居間に近づいていく。


 と――、その時。


「きゃああ! や、やめて! やめてえぇぇ!」

「この野郎! ぶち殺してやる!」

「お、お父さん、私……、私は」

「色気づきやがって! 二人して俺をバカにして!」


 男性の声。少女の声。入り交じっている。男性の声はよく分からない。中年の声。怒気がこもっている。少女の声は愛依子。だけど、いつものように余裕のある感じではない。悲鳴だ。


 千尋は異変を感じて走り出した。


「――千尋……?」

「なんだお前は! ここは俺の家だぞ!」

「あ……、あぁ……」


 八畳のリビング。和室に座卓がひとつ置かれている。卓上にはコーヒーと雑誌。砂糖の大袋。部屋には三人。愛依子、愛依子の父。愛依子の母。

 父は愛依子へ馬乗り。殴られたのか、愛依子の顔にはアザがある。母はその隣で倒れている。意識はあるようだが、微かにしか動かない。


「この野郎! お前は誰だ!」

「あ……、う! うぅ……」

「千尋! 逃げて!」

「殺してやる!」


 父は千尋に掴みかかった。胸元をえぐられる。異様な顔。千尋は圧倒される。目の焦点が合っていない。千尋は愛依子から聞いていた。愛依子の父は、薬物乱用者である。愛依子に乱暴をする際には、大抵、薬物を使用している。

 千尋は意外に冷静だった。視線が周囲へ。冷静に分析をする。卓上の袋。砂糖の袋。封が開いている。座卓の下。よくよく見ると、スプーンとアルコールランプが落ちている。火は消えている。少し焦げ臭い。

 そうか。あれは覚醒剤。やったあとなのだ。千尋は落ち着いていた。


「ぼ、僕があんたを殺すんだ! 殺されない」

「お……、ぐっ、なんだ! この……」

「こ、この包丁で殺す! めいちゃんは僕が守るんだ!」

「さっきから! お前は誰なんだ! ああああ!」


 千尋は包丁を突きだし、威嚇する。愛依子は涙を流している。愛依子のために、僕はヒーローになる。

 孤独だった自分に生きがいをくれた。愛依子は、特別な存在。僕はそれを返したい。


「僕が守る!」


 と千尋は包丁を振り下ろす。が、畳ですべって転倒してしまった。激しく腰を打つ。千尋の殺気。威圧されたのか、父は意味不明な言動をする。言葉にならない、言葉。


「あうあれ……、あのあこあ、このあえれが」

「ぐ……、くそ」


 千尋は起き上がり再び剣を突き立てようとする。

 しかし、刹那に――。


「あなた! 一緒に死にましょう!」


――グサッ……。


 倒れていた母。長澤真理愛が夫を刺した。小さなナイフ。果物ナイフのよう。心臓を一つき。あまりの速さに千尋は状況を見極められなかった。


「あ、あぁぁ……」

「ああ、これで私たち幸せになれるね」


 母は恍惚の顔でつぶやいた。ナイフを引き抜くと、自分の心臓へ突き立てる。


「愛依子……、ごめんね。バイバイ」


 躊躇もない。母は胸にナイフを刺し、自害する。


 その日のことを愛依子は四年経った今も鮮明に思い出す。悪夢。白昼夢。真っ白な部屋が、突然に真っ赤に染まる。ナイフを持ったやつれた母。父は言葉にならない言葉を話して、愛依子の前に現れる。

 精神科医、三上琴音は、それを、

「PTSDね。心的外傷後ストレス障害という心のエラー」

 と、説明する。

 愛依子は、理屈を理解している。琴音は精神科医。心のプロである。だが、とてもそう思えない。信じられないのである。時々現れる父と母は、生きている。生きて、愛依子を呪うのである。


 その日、長澤愛依子の父、母は死亡した。


 愛依子は涙を流して笑った。

 嬉しかったのだ。

 同時に、壊れた。



8



 ――四年後。十月。一七時。

 三上メンタルクリニックを出た千尋は、繁華街へ向かう。夜の街。日中夜間問わず人が絶えない街。東京。ネオンに火が灯る。

 群衆をかき分けてお店へ向かう。千尋が働いているのは、一番街のホストクラブ「LOVE」だ。

 ホスト数五〇名を超える大型店舗。売上額は一ヶ月で一〇億円を越えることもある人気店。

 千尋は優秀だ。売上額は、上から五番目。口下手だが愛らしい容姿。仕草。雰囲気で、女性を魅了する。「可愛いキャラ」としては店内ナンバーワンである。

 収入は相当額ある。が、本人は詳細を知らない。給料は全て琴音に預けている。自己管理は到底無理と思っているからである。

 琴音は、愛依子と千尋の親代わり。ずっと見守ってきた。四年前、千尋と愛依子が遭遇した夫婦心中事件に関わって以来。


――ぎゅうう。


「千尋くん! 待ってってばぁーっ!」

「……また、きみ……」

「わぁっ! あたしのこと思いだしてくれた? ね! 千尋くん!」

「……急ぎなので離して下さい……、ぎぎ」

「む! だ、だめ~! 千尋くんはこれからあたしとデートするの!」

「ぎぎ……、や、やめて下さい。仕事があるんです」

「仕事なんて……、あたしたちまだ高校生でしょ! そんなことより遊ぼーよ! ね! あー、あたし観たい映画があるの! 転校してきた女の子が、カッコイイ男の子と出会って……」

「ガッ――、離して下さい。付きまとわないで下さい」

「むっ。じゃー、ちゃんとお話ししてよ。千尋くん!」

「……、なにを話すんですか?」 

「全部だよ! 全部! 千尋くんが生きてきた人生! それに、あたしのこと! あたしのお話を聞いてよ! 千尋くん」

「……なんで?」

「好きだからに決まってるじゃん!」

「……、僕は広瀬さんのこと好きじゃない」

「……うぅ……、分かってるけど、でも、好きなんだからお話くらいいーじゃん!」

「……、僕はめいちゃんがいればいいから。めいちゃん以外とは話したくない」

「……、ぐぅ……、うぅ……、千尋くん遠慮ないなぁ……。胸に刺さる」

「失礼します」


 千尋はゆず葉の手をほどく。そして、歩き出す。振り返らない。訥々と。冷淡に。


「千尋くん……、諦めないから」


 ゆず葉は燃ゆる視線。一途な性格。一度好きになったら忘れられない。ましてや、あんなことがあったのなら。なおさら。



9



 二年前。四月。

 千尋と愛依子は高校生になっていた。

 中学生のあの日。殺害計画を立てたことは誰にも知られていない。

 制服を着た愛依子と千尋は、都心の繁華街を歩く。交差点。入り口のマクドナルドに入店し、シェイクとコーラを注文し、座った。

 相変わらずの美少女。髪が伸びて、肩に掛かる。艶やかなセミロングの黒髪。より一層、大人っぽくなった。

 愛依子には周囲の視線が集まる。それを遮るのは千尋である。



 あの日の事件はテレビで報道された。

 凄惨な現場。子供の目の前で夫を殺し自殺した母。共に薬物乱用者。

 しかし全容は報じられない。その日、来訪した中学生がいたことを、世間は知らない。


 事件後、PTSDの疑いがある千尋と愛依子は、精神科医のカウンセリングを受けることになった。

 

 三上琴音。

 警視庁と繋がりがある有名な女医。


 都内の大学病院。千尋と愛依子は別々に琴音と会った。

 最初に会ったのは千尋。

 そして、その後、愛依子。


 真っ白い部屋。隔離された空間。病院とは思えないほど、厳重な警備。診察室の前には警察官が四人。「今日の会話は全て録音される」琴音が言った。


 愛依子は分かっていた。

 自分たちが疑われていることを。


「PTSDっていってね。心的外傷後ストレス障害。こういう、大きな衝撃を体験すると、心が耐えきれず色んな症状が現れてしまうの」

「はぁ……、そうなんですね」

「ええ。どう? なにか症状は出てないかしら? 白昼夢を見たり、落ちつかなくなったり、なにかに怯えてしまったり……」

「いえ、特には」


 父と母は薬物乱用者だった。当日も薬物を使用していた。遺留品には薬物使用の痕跡もある。体から薬物も検出された。

 愛依子の証言。

「母と父が薬でハイになって、暴れて、口論になって、……母が

ナイフを持ちだして父を殺して、自分も刺した」

 その内容に説得力はあった。

 だが、不自然さを警察は感じていた。


 現場にいた中学生男子が、ナイフを持っていたこと。

 両親が死亡したにも関わらず、愛依子が冷静に警察に通報し、証言をしたこと。


「PTSDには三大症状っていうのがあるのよ。回避、過覚醒、再体験。再体験ていうのは、いわゆるフラッシュバックね」

「はぁ、聞いたことはありますが」

「記憶が混濁したりすることもあるわ。その部分だけ欠落したり、違う記憶になっていたり」

「それって自分で分かるんですか?」


 疑う余地はある。

 だが、なんの確証もない。全ては推論。愛依子と千尋は被害者。事実は変わらない。


「ふふふ。あなたは、賢いのね。話していてよく分かる。頭がいいのね」

「別にそんなことは……」

「それにとっても美人ね」

「さぁ……、私にはよく分かんないですけど」

「ううん。分かる。話していて、分かる。あなたは、人を操るのが上手いんだって」


 琴音はカウンセリングを通して、愛依子の本質を見抜いた。寂しさを埋めるために、人を支配して、操る。素直になれない。不器用な子供であることを。


「千尋くん……、とってもいいこね。めいちゃん! めいちゃんに会わせて! って、ずっと叫んでる」

「ふふ……、そうです。千尋は……私のことが大好きだから」

「あなた、なにをしたの?」

「なにもしてないですよ。ただ……、好きだった。私も、千尋のことが好き」

「……あなた、いつか素直にならないと、身を破滅させるわよ」

「……? なんのことだか……」


 千尋は、事件後、愛依子と離された。ナイフを所持していたこと。そして、精神的に不安定だったことが理由である。

 愛依子の側から離れることが出来ない。誰かが愛依子に近づくと、興奮し、大声を出して暴れた。

 しばらくの間、隔離病棟に入院した。



 中学の残り一年はほとんど通えなかった。

 愛依子と千尋は、底辺高校に進学した。四月。放課後。仲良く手を繋いで、デート。

 千尋は、一層、心をを病んだ。愛依子の側から離れられず、近づく者を攻撃するようになった。

 従順なペット。愛依子が望んだ存在。それがよかったのか、悪かったのか、愛依子にはもう分からない。


「めいちゃ~ん、大好き」

「ふふふ、私も、好きよ」


 マクドナルド。窓の見える席でイチャつくカップル。誰も近づけない。千尋がポテトを一つとって、愛依子の口に運ぶ。今度は愛依子が同じことをする。バカップル。高校生。

 そんな周囲の目に紛れて、羨望と憎悪が向けられている。千尋はなにも感じない。愛依子は、察する。


「千尋くん。こんなところにいたんだ。なにしてるの? 学校帰り?」

 

 話しかけてきたのは広瀬ゆず葉。事件の後、疎遠になった同級生。少し背が伸びて、少し大人っぽくなった。


「……め、めいちゃん……」


 ぎゅ、っと千尋は愛依子の体を触る。


「千尋くん、よかったらあたしともお話しよーよ。ね? あ、連絡先教えてよ」

「め、めいちゃん……」

「久しぶり。広瀬さん。なんの用かしら? 私たちね、見てのとぉーり、デート中なんだけどぉ」

「久しぶり。長澤さん。あたしも千尋くんとデートがしたくて」

「め、めいちゃん……?」

「大丈夫よ。千尋。私はどこにも行かないから」

「千尋くんをおかしくしたのは、あなたでしょ。長澤さん。千尋くんを返して」

「返す? はは……、なにも分かってないのはあなたよ、広瀬さん。千尋は元々、こんな子よ? ね? 千尋」

「……? ……うん! めいちゃんが言うならそう!」

「千尋くん……」

「行こ。千尋」

「うん!」


 愛依子は千尋の手をとって立ちあがる。ゆず葉の隣を通って、店外へ。ゆず葉は焦燥感を感じる。行かせてはいけない。無力感を感じる。咄嗟に、手が動く。掴んだのは、愛依子の腕。


「――待って、長澤――」

「――めいちゃんに触らないで!」

「千尋くん」

「めいちゃんは僕が守るんだ!」


 千尋は、冷めた声でゆず葉を掴んだ。氷のように冷たい。これが今の千尋。愛依子を守るために作られた機械。

 

「行こ。めいちゃん」

「ふふ……、ありがと千尋」

「千尋くん……」


 二人が去って行く。ゆず葉は寂しかった。一途な性格。一度好きになった恋は、そうそう終わらない。ましてや中途半端。告白も出来ず、有耶無耶のまま。

 そんなことは許せない。怒りに火がつき執着心が溢れる。もう、やめられない。愛依子と千尋のことがとても気になる。



10



 ――二年後。九月。夕方。ホストクラブ「LOVE」にて、千尋は仕事前の準備をする。源氏名は「春野神子はるのみこ」。

 髪型を整え、衣服を着替える。これから夜通し酒を飲む。ならし、として、バックヤードで缶ビールを一缶飲んだ。

「おい。神子。なんか外で騒いでるやつがいるんだけど」

「……外?」

「おお。なんかお前の客だとかなんだとか騒いでる女なんだけど、知りあいか? 背が高くてショートボブの女なんだけど」

 千尋は不穏な顔をする。職場では大人しい。愛依子の前で見せるような、無邪気さはない。だが、幼気な容姿とあいまって、可愛がられている。仕事は真面目に取り組む。休んだことはない。始業前から出勤し、清掃やセッティングを手伝う。終業後も、残業。毎日。

 オーナーの夜神流星やがみりゅうせいは、二〇代後半の男性である。千尋を高校生と知りながら、雇っている。

「トラブルか? お前……、ちょっと厄介なお客さんが多いからな。気をつけろよ」

「いえ……、夜神さん。お客さん、じゃないと、思います」

「手を貸そうか?」

「うーん……」

 夜神は、千尋の事情をよく知らない。琴音に紹介され、雇うことにした。琴音とは、仕事上付きあいがある。従業員のメンタルケアを、経費で実施している。ケアを行うのは、琴音のクリニックである。夜の仕事。サービス業。ホストに狂い、心を病む客は多い。だが、従業員も人間。生活リズムの乱れ、毎晩の大量飲酒。嵐のように人と会っては別れ、話し続けるストレス。夜神も元はホストだった。心のケアの重要性をよく知っている。ホストたちは、二ヶ月に一回、琴音のカウンセリングを受けることになっている。

 琴音が紹介してきた子供。事情があるのは想像出来た。最初は断った。未成年を働かせるほど、経営に困ってはいない。だが、ひと目見て、考えが変わった。

 才能を感じた。一八歳とは思えないほど、幼い容姿。声。オドオドと落ちつかない態度。だが、澄みきった瞳で、つぶさに見つめる視線。その姿に、子犬や子猫を連想した。可愛いと思った。人を惹きつける、天性のオーラ。夜の世界で求められるのは、一つ。非現実性。夜神は経験から、独自の理論を構築していた。キラキラとしたミラーボール。輝く店内で、お客さんが求めるのは、夢の世界である。現実を忘れさせてくれる場所。ホストは、妄想の具現化でなければいけない。その方法論は、無数にある。

 爽やかで優しい男性を演じてもいいし、唯我独尊の性格でもかまわない。だが、時に天才が現れる。あるがままの姿で、非現実を実現できる才能。

 純粋性である。夢を求める女性たちは、大抵、ピュアだ。荒れた世の中。腐りきった世界で、少年のような純粋性に触れた時、夢中になる。


 千尋にはそれがある。断るには勿体ない。と夜神は思った。神子と名付けたのは、神に選ばれし子供だと思ったから。同時に、「夜神」、自分を継ぐ「子供」になると思ったからである。


 千尋は店外へ出る。まだシャッターが降りた正面入り口。千尋は裏口から向かう。


「だ~か~ら! あたしはお客さんなの! 千尋くんの! あ……、えっと神子! 春野神子くんの! 広瀬ゆず葉ってゆってもらえれば分かるから~!」

「ちょっと! いい加減にして下さいよ~。神子はまだ勤務時間外ですし、あんまりに暴れられると警察を呼ぶしかなくなっちゃいますよ」

「じゃー、呼んだらいいじゃん! 神子くんは……、千尋くんはまだ一八歳だよ! 誕生日は八月三十一日! 成人するのは二年後! 未成年を働かせてる事実がバレたら、困るのはあなたたちじゃないの?」

「はぁ? 未成年……? なにを言って……、神子は二十歳だ。うちは健全な店なんだ」

「じゃー、警察呼びなさい! あたし、洗いざらいバラして、千尋くんを救うんだから!」


――広瀬さん。やめて。


 正面入り口。空は暗くなってきた。ネオンの灯り。人の熱気が高まる。

 ゆず葉と事務の柳沢が、もみ合いになっている。ゆず葉はワンピースにコートを着ている。丈が短い。派手なネックレス。制服をどこかで着替えた様子だった。

 千尋は淡々と声をかけた。

 ゆず葉は嬉々とする。願いが叶ったような、笑顔。高い声が、一層、高くなる。


「わぁ~! 千尋……、いや神子くん! スーツも似合うね! かわいい~」

「おい神子。お前、この人と知り合いか? なんだかお前が未成年だとかなんだとか……」

「え? あ……、あぁ……、その」

「えへへ~! 今のは嘘で~す! 神子くんに会いたくて、ちょっと問題を起こせば出てくるかなぁ~って、思ったのです! ね? 神子くん。そーだよね?」

「そうなのか? 神子」

「あ……、え。は、はい。そうです。はい」

「えへへ~、神子くんは優しいから、来てくれるって思ったよ~! だってあたしの王子様だもんね! 神子くんは!」

「おい、神子。お客さんのアフターケアはちゃんとやらないとって、教えたろ。お前、確かこの前も、変な女がナイフ持ってきて、暴れたよな? そこんとこちゃんとしないとな」

「はい……、すいません」

「お客さんも! うちは健全なお店なので、あんまり騒ぎは起こさないで下さいね!」

「はぁ~い。すいませ~ん」


 柳沢は不穏な顔で店内に戻る。二人きりになる。冷たい風は夜風に近い。ゆず葉は、息をつく間もなく、千尋に飛びつく。腕をがっしりと掴む。千尋より背が高い。千尋は無抵抗。ゆず葉は満面の笑み。大好きな恋人に会ったように。


「ガシ――。にしし~、これでもぉ~逃げられな~い! つっかまえた~!」

「……、やめてください。広瀬さん。困ります。僕」

「な~んで? えへへ、あたし結構可愛いと思うんだけどなぁ? ほら、胸だって結構大きいしぃ……、ぎゅぎゅっ」

「押し当てないで下さい。困ります」

「だ・か・ら、な~んで? 男の子は、好きじゃん! おっぱい!」

「……、なにか用事ですか?」

「つれないなぁ~、千尋くんはぁ~。それでも、ホストなの? あたしのこと喜ばせてよ」

「……、用事がないなら、帰って下さい」


 ゆず葉は千尋に胸を押し当てる。千尋は無表情。反応がない。ゆず葉は、高校生。学校ではモテる。中学時代から、男性受けがいい。中学二年生から、毎年、二人以上に告白されてきた。が、彼氏が居たことはない。全て断ってきた。


「やだ!」

「……、困ります」

「ね! あたし、お店に案内してよ! あたしもお客さんだよ」

「……、未成年は無理ですよ。うちは年齢確認しますし」

「千尋くんだって未成年でしょ!」

「……、あんまり大声で言わないでください」

「えへへ、あたしね、また調べたんだよ! 凄いでしょ? 高校の友達にね、探偵会社の息子がいるって言ったでしょ? 前とおんなじ! それでね、千尋くんたちのこと調査してもらったの。引っ越したよね? でもね、新しいおうちも知ってるよ? 東京都新宿区歌舞伎町三二の……」

「……、なんでそんなことするんですか?」

「好きだからに決まってるじゃん」

「……、僕は好きじゃない」

「うッ……、ち、千尋くん、厳しいなぁ。もっとオブラートに包んでくれないと、あたしのガラスのハートは砕けちゃうよ~?」

「……、好きじゃない。好きなのはめいちゃんだけ。好きじゃない」

「……、と~もかく、案内して。じゃないと、警察呼んじゃうよ? 未成年がホストクラブで働いてるって通報しちゃうからね」

「……、困ります」


 ゆず葉の執着は強い。千尋と愛依子のことをずっと追ってきた。あの日、あの会話。渡り廊下の二人を見ていた。あの日から、ずっと。



11



 二年前。九月。

 広瀬ゆず葉の執着は愛依子を追い詰めていた。


 四月のマクドナルドで再会した。ゆず葉の気持ちは分かる。千尋が好き。ゆず葉と千尋の出会いは、知っている。千尋から聞いた。

 そんなことで、ずっと好きでいるなんて、ゆず葉はピュアだ、と愛依子は嘲る。それは、自分を否定するようで、胸が痛い。


 夏から、千尋と二人暮らしを始めた。生活費は、千尋が稼いでくれる。スーパーや飲食店で日中夜アルバイトをしている。都内にマンションを借りて、同棲。

 高校はやめた。合わないと思った。千尋に相談すると、二つ返事で一緒に退学してくれた。


 四月。あの日から、ゆず葉が、目の前に現れるようになった。二人で出かけると、ゆず葉がどこからともなく出現する。笑顔で、元気で、可愛い。活発な女子高生。時に制服を着ていて、見るからに健全。

 居場所を知られているのか。行動を監視されているのか。ストーカー? 住所も特定されているのか。

 千尋は、ゆず葉になびくことはない。だけど、ゆず葉に会う度に、愛依子は不安になる。不安そうな千尋をみる度に、自分も、揺れてしまう。


 恐いのである。高校をやめたのは、千尋が、告白されたからだった。同級生の女子に、千尋がある日、告白されたのを見た。愛依子が、女子更衣室にいる時だった。高校では、ずっと一緒にいることは出来ない。側を離れたその時、千尋は告白されていた。着替えから戻った愛依子は、その瞬間を見た。

 少し可愛い女子。背は自分より小さい。瞳はブラウン。紅くはない。胸は、普通。肌は少し焼けていて、髪は、自分と同じくらい。ちょっと自信なさげで、でも一生懸命に、千尋に想いを伝えていた。

 聞けば、小学校の同級生だった。親が再婚し、名前が変わったのだという。見た目も大分変わった。最初、愛依子は、同級生と知らなかった。千尋はどうだっただろう。愛依子は訊けなかった。答えによっては、壊れてしまう気がして。


 千尋の回答は、記憶がない。沼に落ちたよう。それからすぐ、高校をやめた。

 

「愛依子ちゃんも、いつかは素直にならないと、きっと壊れてしまうわよ」

「……、よく分かんないです。私、元からおかしいですし。親に、虐待されてたし」

「そういうところよ。あなたの問題は。どうしてそう、強がるのかしら」

「強がってないです。元気です。私は」


 三上琴音の治療は、継続して受けていた。中学二年生のあの日から、月に一回、カウンセリングをしている。治療費は、無料。琴音が支援してくれている。

「きみたちを見ていて心配になったから」と、琴音は理由を語る。真偽は不明。琴音は精神科医。メガネをかけていて、落ち着いている大人の女性。だけど、時々冗談を言うし、自虐ネタを言う。愛依子は、琴音を信用していなかった。それでもカウンセリングをしていたのは、眠れないからである。

 薬が欲しかった。

 あの日以来、薬がないと眠れない。デパスやマイスリー程度の眠剤では眠ることが出来ない。

 目を閉じると、音がする。人と人が擦れる音。肌が触れあう音。水の音。悲鳴。絶叫。叫びが、脳内で反響する。声に脅かされて、眠れない。

 

 夜。同棲している二人のマンション。ベッドは一つ。中古で買ったシングルベッドで一緒に寝る。小さい千尋。無垢な顔で眠っている。私のために働いてくれている。嬉しい。愛おしい。千尋の髪をそっとかき分ける。触れた頬は冷たい。思わずキスをする。この気持ちは、なんというのだろう。愛。所有欲。それとも、感謝か。


「素直にならないと、いつか壊れるわよ」


 琴音の言葉を思い出す。月明かり。自動車の音が、声をかき消す。いらない言葉。知らない。先生なんて。私は幸せである。あの境遇を抜け出せた。これでいい。言い聞かせた。



12



【今すぐ千尋くんを解放して欲しい。じゃなかったら、あたし、全部警察に言う。全部】


 十月。ポストに投函されていた手紙。差出人は記載がない。筆跡は女性の字。


【明日、夜七時。そっちに行くから、二人で話しまししょう。あたしね、あの日聞いてたんだ。全部】


 同時に封入されていたのは、USBメモリーだった。愛依子は家に持ち帰り、千尋がいない時に、メモリーを見た。スマホに接続。中には、音声ファイルが一つ。


――私がね、二人に薬をやってもらう。でね、ハイになって一通り暴れてもらう。その後って、どうなると思う? 薬をやった後ってね、壊れちゃうの。口からも下からも涎を垂らしてね、白眼をむいちゃうの。言葉も話せなくなって、嗚咽をもらすだけ。そしたらね、千尋が家に入ってきて、刺すの。めった刺し。無抵抗の二人だから、簡単に殺せるはずよ――


 背景で、声がする。誰かの声。ボールが弾む音。シューズが擦れる音。ああそうだ。これは中学生のころ。千尋と両親の殺害の計画を立てた時の話。

 陰で聞いていた心当たりのある人物は一人だけ。


 愛依子は微笑する。嘲り笑う。あの子を笑う。自分も笑う。


――翌日。


 十九時。

 マンションにやってきたのは広瀬ゆず葉。

 これ見よがしに着用する高校の制服。スカート丈が短い。健康的な白い足。綺麗だと思った。


「あの日、聞いてたの? 気持ち悪いわね。盗み聞きが趣味なの?」

「違う。部活の休憩で……、千尋くんを見かけたから、声をかけようと思ったら、長澤さんもいて……、なんか神妙な感じだったから、ちょっと臆しちゃって……」

「それで録音? 普通そこまでする?」

「だって、ヤバイ話しじゃん」

「脅し? でも、この音声じゃ、脅しにもならないわよ」

「そっかなぁ? 結構、ヤバイと思うけど?」

「ううん。だって、私たち、計画を立てただけだもん。実際殺したのはお母さんだし、自殺したのもほんとだし。私たちは無罪よ」

「でも、長澤さん。千尋くんに、殺してって頼んでたよね? それに、計画も具体的だし、本当に殺そうとしたんだよね? これって、殺人未遂だよね?」

「……、本当にする気だったか、までは、音声だけじゃ分からないわよ。冗談だったのかもしれない」

「ま、それを判断するのは私じゃないけど……、警察の人がどう思うか」

「……言いたいなら、言えば? 別に、何年も前の事件だし……、今さら警察も関心ないよ。ちょっと事情聴取されて、それで終わり。千尋はなにも話さないし」


――「長澤さん、自分にも嘘ついてる」


「……? ついてないよ。なにを言ってるの? 広瀬さん」

「私……、あの日、千尋くんに会いに行ったんだよ。計画の実行日は知ってたから、もし本当に実行したらって……、恐くなって。そしたら、長澤さんの家に向かう千尋くんを見かけた」

「……そのころからストーカー? 広瀬さんって結構ヤバイ人だよね? 普通っぽいフリをしてる、犯罪者」

「あたしは気持ちに一途なだけ。それより、そんな想いを利用して、人を操る長澤さんこそ異常者」

「なにを言ってるの? 私は操ってなんかない。千尋は、自分で私を選んだんだよ」

「違う。あの日ね、私、長澤さんの家に行ったんだ。千尋くんの後をつけて」

「……え?」

「それでね、見たんだ。例の事件。長澤さんのご両親が、死ぬところ。見てたの。二人の後ろから、ずっと」

「……!?」


――「長澤さんは、自分にも嘘ついてる。本当に殺してないの? 本当にそう? 本当に?」


「――うッ……、あッ……、あぁ……、あ、頭が……、うぅ」

「本当に真実? 本当に殺してない? 本当に? 都合が悪いから、忘れてるだけじゃないの? そうじゃないの?」

「あぐ……、え、……、うぅ、なにこれ、なんで……、なにこの頭痛。痛い……、痛い……痛い」


 突然の頭痛に悶える。

 マンション。十九時。千尋は、夜のアルバイトに出かけている。十月の風が窓から吹き込む。冷たい。だけどそれ以上に痛い。頭が痛い。

 リビング。カーペットの上。座った二人。いつもは愛依子と千尋。今日はゆず葉と愛依子。ローテーブルを囲む。

 あまりにも痛い。愛依子は、頭を抑えて、倒れ込む。記憶が雪崩れこむ。

 琴音が言っていた症状。PTSDの一つ。フラッシュバック。事件当時の記憶が、突然に蘇る。まるでそこにいるように、再体験する。

 

「あぐ……、うぅ……、あぁ……」


 一瞬にして、あの日を再体験する。寒空。夜。古ぼけた家屋。白い粉。焦げた匂い。父と母。擦れ合う音。


「お、お父さん、やめて。私、私は……」

「お前は俺の娘だろ! なにをしてる? なにを考えてるんだ」


 あの夜。父は薬物を吸って、ハイになった。スプーンであぶって、鼻から吸引する。毎晩のように見てきた光景。

 父は暴れて母を殴る。母も、薬物を使用し、殴られても笑っている。

 父は愛依子も殴る。そして、倒れた愛依子のスカートをまさぐる。覆い被さる。擦れ合う音。腐った匂い。よく知っている。いつもの光景。


「私は……、もうやられない! 私……、自由になる!」

「自由……? はははは! そうか、自由か! いいじゃないか! 自由! 自由! フリーダム!」

「お父さん……、死んで」


 愛依子は果物をナイフをぎゅっと握り、父の胸部を刺した。


「ぐはぁ……、あぁ……、お、おぉぉ。いいぞ。いい! いい! いい! 血だ! 血! 血! 血ぃぃぃぃ!」

「異常者……」


――「あたし。見てたよ。千尋くんが行った時にはね、もう長澤さんのお父さんは死んでた。血だらけになって、倒れてた」


 同棲するマンション。愛依子は朦朧とする。ゆず葉は、毅然とした態度で言った。


「長澤さんが、殺したんだよね? 千尋くんは、大声で叫んでた。きっとよくわかんなくなっちゃったんだと思う。守る! 助ける! って」

「……、あ……、わ、私が……、殺した……?」

「あたしも調べたんだよ。三上琴音先生って知ってるよね? 精神科医の。あたしね、あの日のことを、話した。三上先生と、千尋くんに」

「……ッ! なんで……、そんなこと!」

「長澤さんが嘘つきだからだよ。千尋くんは素直で、いい子なんだ。だから、助けたいの。また昔みたいに、かっこいい優しい男の子に戻って欲しい」

「それは、広瀬さんの自己満足でしょ! ただあなたが、好きな男の子を私に奪われて、納得できないだけでしょ! 違う?」

「そーだよ! でも……、いーじゃん! 別に! 好きなんだから! 恋にルールなんてないもん! それに……、長澤さんは犯罪者でしょ」

「だからなに? なんなの? どうしたいの? もう帰って。もう、私たちの前に現れないで」

「だめ。長澤さんが、千尋くんを解放しない限り……、この事実を警察に言う。今日。この後」

「今さら言ったところで、なにも変わらない! それに……、あなただってストーカーでしょ? 潔白な人じゃないでしょ! そんな人の証言じゃ、証拠になんてならない」

「なる! 長澤さんは人殺しで、千尋くんの自由を奪う犯罪者なんだ」

「あなたこそ、ストーカーのメンヘラ異常者! もう私たちに付きまとわないで!」


――めいちゃん?


「千尋?」

「千尋……くん?」


 背後から声がした。千尋だった。アルバイトに出かけたばかり。ここにいるはずがない。


「どう……、して? バイトは?」

「あ……、あぁ、なんか今日、お店が停電しちゃって……、はは、急遽、中止になった」

「一丁目の居酒屋だね! 千尋くんは週四日で、夜の仕事に入っている。夜の方が時給がいーんだよね。一八歳未満なのに、二十一時以降も働いてることは、誰も言わないよ? あたしだけ知ってるの」


 ゆず葉は饒舌に語った。千尋の情報はなんでも知りたい。千尋と話せない以上、知ることで欲求を満たしてきた。


「あ、大丈夫だよ。あたしね、高校に探偵会社の息子が居てね、あたしのことが好きだって言うから、仲良くなって、タダで、千尋くんたちのこと調べてもらってたの。この住所もね、それで知ったの」

「ストーカー……! もう私たちに近づかないで」

「えへへー、千尋く~ん! 大丈夫だよ。あの日、あたしのこと助けてくれたみたいにね、今度はあたしが千尋くんを救う王子様になるから! ね!」

「……? めいちゃん? 僕……、わかんない。わかんない」

「千尋、こっちに来て」

「……? うん!」


――ぎゅうう!


 千尋は愛依子に駆け寄る。子犬のよう。従順。愛依子に抱きついて、ぎゅっと抱きしめる。恍惚の顔。愛依子は満足げ。

「ちょ、ちょっと……、顔近すぎぃ。キスは……、我慢しなさいぃ」

「え~? なんで~? 好きだったらキスするのは当たり前じゃないの~?」

「ん……、そうだけどぉ……、んもう、仕方ないなぁ」


 愛依子と千尋はキスをする。ゆず葉のことは忘れて。二人の世界。濃密なキス。


「じゅる……、ん、ねえ千尋。この子、痛めつけて」

「……痛めつける?」

「ええそう。殴ったり蹴ったりして、ボロボロにして」

「……殴ったり蹴ったり?」

「うん。そう。もう二度と、ここに来られないくらいに、ぐちゃぐちゃにして。特に顔! 二度と治せないくらいに、ぶっ壊して」

「うん。わかった」

「……、お、おろろ……、この展開は……、あたしは予測してなかった。あはは……」

「王子様? ふふふ、千尋はね、私を守ってくれる王子様なんだよ。だからね、あなたはもう敵なの。王子様と敵対する悪なんだよ」

「ぐちゃぐちゃにして……、ぼろぼろにして……」

「ち、千尋くん……、あの、ちょっと……あの」

「千尋は私の命令を聞く従順なお人形だから」

「顔をグチャグチャに……、グチャグチャに……」

「あ~、じゃあ長澤さん。あたし、警察にゆうよ! あの日ね! 実はね……、録音してたんだよ。長澤さんの家に着いてからもずっと! それって結構重大な証拠だよね?」

「千尋! 殺して! 殺せ! その女を殺せ!」

「殺す? ……ぐちゃぐちゃで……、殺す?」

「えへへ……、殺されたくなはないので……、あたしは帰りまーす!」

「待て! 広瀬ゆず葉!」


 愛依子は、千尋を追い越す勢いでゆず葉に飛びかかった。

 武器はある。スカートに、忍ばせている小さなナイフ。あの日、使った物より少し小さいが、自衛は出来る。

 ナイフが側にあると落ち着く。悪夢に勝てる気がする。気休めかもしれない。

 だけど本質的に、愛依子は父と母の呪縛から、逃れられていない。

 

「えへへ~! あたしだって! それくらい……」


 ゆず葉もまた、ポケットからナイフを取り出した。愛依子の者より少し大きい果物ナイフ。こうなることを予見していたわけではないが、脅しの道具として武器は必要だった。


「広瀬ゆず葉!」

「長澤愛依子!」


 二人はもみ合いになり、ナイフを向け合う。運動不足の愛依子の攻撃は、当たらない。運動神経のいいゆず葉は、軽快にステップを踏む。そして、攻撃をする。愛依子の足や腕を切り刻む。傷跡は小さいが、確実に当てる。


「めいちゃん!」

 千尋は、愛依子を守るために、ゆず葉に向かう。

 しかし、ゆず葉は逃げない。千尋を受けとめる。

 そして千尋はゆず葉を抱きしめた。

 身動きを止めるためだ。

 ゆず葉は逃げず、千尋に抱きしめられる。恍惚の顔。千尋に抱きしめられたのは、始めて。嬉しい。嬉しかった。

 快感で涙を流しながら、右腕で愛依子の足を刺した。


「あぁ……、千尋くん……、千尋くん」



13



 二年後。十月。歌舞伎町のホストクラブ「LOVE」。十九時。千尋は、春野神子として、同伴出勤した。相手は広瀬ゆず葉。一八歳の女子高生である。

 奥の席に案内し、座る。ゆず葉は初めてのホストクラブに興奮している。ミラーボールや、装飾を指さす。

「わぁー、これがドンペリ? 高ーい! いち、じゅう、ひゃく……、に、二十万! すごぉー」

「注文は?」

「え、えっと……、じゃー、ドンペリ」

「はい」

「いやいや! そこは止めてよ! あたし女子高生だよ! 二十万なんて払えないよぉ~」

「はい。分かりました」

「むぅ~、千尋くん、ちゃんと接客してよぉ~。あたしお客さんだよ?」

「……、すいません」

「まぁ、ドンペリくらいはぁ、頼めなくもないけど……、そのお金が長澤さんに渡るのがなぁ。やだなぁ」

「……、お金持ちなんですね」

「そう見える? 違うわよ。あたしの家普通の家だし。でもぉ、千尋くんのためにあの手この手でお金稼いだんだよ。ほら! あたしって結構可愛いみたいだし」

「……、そうなんですね」

「……、全然反応してくれない。つまんない。ちゃんとホストやってよ! 神子くん!」

「やってます。僕は……、こんな感じです。仕事」

「それで、お金稼げるの?」

「はい。よくわかんないですけど」

 

 千尋の接客姿勢は真面目。だが口下手のため、会話は弾まない。普段は、言葉によく詰まる。初対面の相手は苦手だ。だからゆず葉相手は緊張しない。その事実をゆず葉は知らないが。


「ねえ、千尋くん。いや……、神子くん。記憶、本当は覚えてるんじゃないの? あの日のこと」

「……、わかんないです」

「嘘だよ。長澤さんの真似しなくていーのに」

「ほんとにわかんない。わかんないです」

「まぁ、いーけど。もう……、終わったことだから」


 ゆず葉は、三万円のボトルを注文する。お酒は苦手だが、「千尋の前だったら飲める気がする」と、嬉しそうである。

 酒が届いた。千尋は勢いよく飲む。アルコールには強い。毎晩、ボトルを十数本飲むが、ほとんど酔わない。

「ね。千尋くん。あの日みたいに、抱きしめて」

「……、だめです。そういうお店じゃないので」

「あの日、気持ちよかったなぁ。またあーやって、抱きしめてほしいなぁ」

「だめです」

「ケチ!」



14 



 二年前。

 広瀬ゆず葉はナイフを振りかざした。マンション。夜。

 千尋と愛依子は、体に傷を負った。大けがではないが、傷跡は残る。

 ゆず葉は、逃亡した。警察には通報できない。愛依子は問題を起こしたくない。


「めいちゃん……、僕、どうしたら……」

「側にいて。いて! お願いだから……、それだけでいいの」

「めいちゃん……」

「抱きしめて。私だけ。ぎゅっとして」


 愛依子は精神的に不安定になった。

 二人で外出しても、不安が拭えない。街路樹の影。ビルの隙間。太陽に隠れて、時折現れる幽霊。

 見張られている感覚。

 愛依子は怯えて、震える。父や母。ゆず葉が、そこに居る気がする。

 外にいると、落ち着かない。ちょっとした物音や、人影を、酷く恐れた。


「それは、PTSDの三大症状のひとつ。過覚醒ね。原因となった事象に怯えて、一日中ビクビクして落ちつかなくなるの」


 三上琴音は診察室で言った。

 PTSDのことは知っていた。三上琴音に再三、説明を受けたから。自分もその病気なのだという。愛依子は分かっていた。だが、受けとめる気はなかった。認めたら、壊れてしまう気がして。

 今ある日常が好きだったから。


「フラッシュバックも……、あったんでしょう? その後はどう? 今もあるのかしら?」

「さぁ……、分からないです」

「分かるでしょう。愛依子ちゃんは頭がいいんだから。自分のことはよく分かってるはずよ」

「いいえ……、私なんてただのバカですから」

「……、壊れちゃうわよ? いいの? それで。本当に」

「ふふふ、私はもう壊れてますから」


 診察室。真っ白な部屋。笑って言った顔には精気がなかった。酷い隈。不眠が続いた。顔色が悪い。


 夜のベッド。愛依子と千尋は二人で眠る。だけど、声が愛依子を襲う。夜が昨日を連れてくる。静寂が恐い。亡霊が這いだしてくるから。

 愛依子は、何日も眠れない日々が続いた。睡眠導入剤を飲んでも、中途覚醒してしまう。

 千尋の手を握りしめる。それだけが、最後。心の拠り所だった。

 朝になっても気持ちは落ち着かない。

 光も恐い。ハレーションに紛れて、あの子が現れる気がして。

 

「ねえ、広瀬さん……、いえ……、なんでもないわ」

「……? あぁ、うん! そうなんだ! 僕、こないだもあの女に付きまとわれて、すっごい困ってるんだ」

「……、そ、そう……」

「うん! めいちゃんがまた命令してくれたら、僕、あの女殺しちゃう」

「いえ……、それはいいの。いいから、抱きしめて」

「……? うん!」


 ゆず葉のストーキングは終わらない。千尋が一人になるタイミングを見測らい、接触をする。愛依子にはどうすることも出来ない。例の秘密。忘れたフリをしていた事実。

 あの日の計画。薬でハイになった父と母を、千尋に殺させる計画。しかし、予想外に荒れた父を、愛依子は刺し殺した。もう耐えられないと思った。心のタガが外れてしまった。

 思えばあの日から、自分は壊れていたのだと、自嘲する日々。



「めいちゃん! めいちゃん!」

「……ち、ひろ?」

「わぁー! めいちゃん! よかった! よかったぁ……」

「……わたし……生きてる」

「そうだよ! めいちゃんが救急搬送されたって聞いて、僕、駆けつけたの!」

「……なんで……」

「私が呼んだのよ。ほら、今日診察日だったのに、愛依子ちゃん、病院に来なかったから、どうしたのかと思って家にいったの」

「三上先生……」


 一年前。四月。長澤愛依子は始めて手首を切った。衝動的なものだった。日中。千尋はアルバイトへ出かけていた。自分はこれから琴音のカウンセリングに出かける。その一瞬。窓から吹き込んだ風。優しい香りがした。洗濯物の匂い。春。心が自由になった気がした。

 その一瞬。愛依子は、お守りを握った。果物ナイフ。左手首に押しつけた。

 あぁこれで楽になれる。解放される。と、意識を失った。


「わぁーん! めいちゃ~ん! めいちゃん!」

「ふふ……、い、痛いよ……、千尋」

「ぐすぐす……、めいちゃんがいなくなったら僕、生きていけないよ~!」

「はいはい……、ん……、分かったから。泣きやんで」

「ぐす……、うぅ……」

「愛依子ちゃん。もう、素直にならないと。あなた本当に死んでしまう。そうしたら、千尋くんもきっと……」

「……、私は素直です」


 病室のベッド。三上琴音は少女を見間違える。触れたら壊れそうな、儚げな命。最近は、食事もあまりとれていない様子。痩せた腕。包帯に滲むのは紅い血液。相反して、真っ白い肌。

 彼女は生きていない。呪いに連れて行かれた亡霊なのだ、と、琴音は寂しくなり、心臓の下をぎゅっと握る。


「しょうがない……、ほんと、この子たちは」


 琴音はその一ヶ月後、大学病院を退職した。そして、千尋たちのマンションのすぐ近くに、クリニックを開設した。

 二人を見守るためだった。


 三十代。眉目秀麗、才色兼備。優秀な女医だが結婚はしてない。仕事に熱中してきた。琴音は、千尋と愛依子を自分の子供のように感じていた。

 ゆず葉に、例の事件の秘密は聞いた。カウンセリングで、愛依子も、事実を話した。医師には守秘義務がある。知ったからといって、警察とは関係がない。だが、愛依子の心には重大なことだ。

 少女が抱える罪、想い。呪いの元凶を知った。

 助けたいと思った。



15



 一年後。

 十月。夜一時。ホストクラブLOVE。華やかな夢の国。本日の営業終了時刻である。

「神子。その子……、どうするんだ? タクシーなら呼ぶが……」

「……、いえ、夜神さん。僕が……、連れていきます」

「……? そうか。まぁ、問題は起こさないようにな」

「……はい」

 千尋はゆず葉を抱えて店外に出る。ゆず葉は飲み潰れている。お酒を飲んだことはあった。だが、ボトルを一本飲み干すのは、一八歳の少女には無理があった。

「……ぐへへ……、千尋きゅんと……、密着……、ぐふふ」

「家どこですか? 連れていきます」

「……、今日はぁ……、あたしぃ、帰りたくないなぁ……」

「じゃあ、ホテルですか」

「ぐへへ……、うん……、ホテルぅ」

「じゃあ、そこのラブホテルでいいですね」

「うん……、千尋くんがいるならどこでもぉ……」

 

 千尋は小さな体でゆず葉を支える。ゆず葉は自立できず、支えがなければ倒れてしまう。一歩ずつ、引きずられながら歩く。

 千尋の体に触れたのは、あの日以来。愛依子と千尋を刺したあの夜。

 優しい匂い。柔軟剤と太陽とお酒の匂い。千尋の腕に抱かれている。顔を寄せる。

 ゆず葉は幸せを感じる。千尋への執着は、おかしいのかもしれない。付きあったことはない。深い交流があるわけでもない。でも、六年生のあの日。出会ってしまった。好きになった。運命を感じた。だから、これからもずっと好き。ずっと。



16



 愛依子は日に日におかしくなっていった。PTSDは悪化する。過覚醒。人が恐い。声が恐い。音が恐い。情緒が不安定になっていった。外出することが難しくなり、家にこもるようになった。

 フラッシュバックは、急にやってきた。昔を想起するのは、なにも外的刺激だけではない。過去を思い起こした自分、をきっかけに、あのころに戻ってしまう。

 毎晩、犯される夢をみる。父を刺し殺した感触が、日に日に、強くなる。肉が裂けて血が溢れる。シャワーを浴びると、真っ赤な色をしている。刺した後、手を洗った記憶が、溢れる。

 何度も何度も、手首を切った。死にたいわけではない。生きていたいわけでもない。ただ、楽になりたい。幸せになりたい。


 余裕はない。たまに鏡を見ると、やつれた自分が可笑しくなった。伸びた髪。背中までかかる。こけた頬。乾燥した肌。浮きあがる紅い瞳が、血と情愛の人生を思い出させた。父と母から貰った顔。遺伝した瞳の色。切っても切り離せない。刺しても、殺しても、自分はあの父と母の娘。これは呪いだ。呪い殺されて、魂は暗夜に連れて行かれた。

 私は亡霊。幽霊。そう。ここに居てはいけない。成仏しなければ。


 一年前――。十月。

 朝七時三十分。同棲するマンション。過去を思い出す荷物はほとんど捨てた。ワンルーム。テレビとベッド、本棚が一つ。小さなローテーブル。床はフローリング。絨毯は敷かない。

 手首を切って、何度も真っ赤に染まったから。もういらない。「掃除が楽になるから」と二人で相談して捨てた。

 閑散とした部屋。

 愛依子はベッドにもたれて床に座っている。レースのカーテン。朝の陽射しを背に受けて。だらんと投げだした足。背が伸びた。今は何㎝だろう。最後に測ったのは中学三年生。あれから三年。大人になった。白い生足。傷跡は生きた証。

 純白のワンピース。千尋に買ってもらったドレス。

 伸びた髪。きめが細かい黒色。

 

 千尋は居酒屋で夜勤の仕事をしている。

 もうすぐ帰ってくる。

 思いつめた顔。だけど、すっきりとして笑う。


――ガチャ……。


「めいちゃ~ん。ただいま~!」


 玄関から千尋の声がする。千尋は大人になった。背が伸びて、今はもう、見上げるだけ。立派に仕事をしている。でも、甘えた声は、小学生のあのころと変わらない。


「……、めいちゃん?」

「ごめん、千尋……」


――グサッ……。


 愛依子は、帰宅した千尋を刺した。腹部を一突き。千尋のTシャツに血が滲む。


「――ッ、……、め、めいちゃん……?」

「ごめん。千尋」

「う……、うぅ……」


 千尋は腹部を抑えながら倒れ込む。血が溢れ出して、水たまりが出来る。


「千尋……、私……、もう生きるのが嫌になっちゃった。ごめん。もう……、耐えられない。私……、もう……、楽になりたいの」

「う……、うぅ、めいちゃん」

「だからね……、一緒に死んで? 私……、一人じゃ恐くて死ねないの。あはは、ごめんね。私、わがままで」


 仰向けの千尋。馬乗りになって愛依子は笑う。嬉しそうにハキハキと話すが、零れ出す涙は透明だった。

「ぐす……、うぅ……、でもね、千尋。苦しまないように、ちゃんと、心臓を刺すから。ね? いいよね? ね?」

「う……、うぅ」

「分かってる! ほんとは、やだよね。私に、人生めちゃくちゃにされて、それで、殺されて……、分かってる! ほんとは私のこと恨んでるよね? でも……、ごめん。私、寂しかったんだ。ずっと……」

「めいちゃん……」

「寂しくて、一人じゃいられなかった。でも、方法が分からなくて。千尋に目をつけたの。遊びだったの。だけど……、千尋は優しくて……、親を殺してなんで頼んで……、私って本当最低だった」

「そんなことない……、よ、めいちゃんはいつだって優しくて……」

「優しいわけない! 私は……、最低で殺人鬼で悪魔だよ。生きていちゃいけない。死ななきゃいけない。でも……、一人では死ねない私のみちずれにしてしまうことをどうか許して」


――……グサッ、グサッ。


 愛依子は自分の足を何度も刺した。勢いをつけて、一心不乱に刺した。

「あぐ……、う……、えへへ、これでもう私も逃げられない。もう、死ぬしかない……、ね」

 愛依子の足から大量出血する。千尋に寄りかかって、体が重なり合う。

「め、めいちゃん……!」

「一緒に行こうね。向こうでも、ずっと一緒だよ。千尋」

「……、うん。分かった」

「ふふふ……、なにそれ」

「僕はめいちゃんのものだから、めいちゃんが望むんだったら、一緒に死ぬよ」

「千尋は優しいね。いつでも」

「違う……、優しいのはめいちゃんだよ」

「私の……、どこが?」

「だって……、めいちゃんは僕に生きる意味をくれた。僕の、太陽だから」

「太陽? 私が? こんなに汚れた私は、そんな美しいものじゃないよ。もっと暗くて、みすぼらしいもの」

「でも……、僕にとって太陽はめいちゃん」

「違う! そんなことない! そんなこと言わないで!」

「……、やだ。だって太陽は、一つだけだから」


――グサッ、グサッ。


 愛依子は興奮して、千尋の腹部を何度も刺した。刺す度に、思い出すあの日の感触。でも、あの日とは違うものが胸に溢れてくる。

「違う! 私は……、千尋をこんな風にした最低な女なんだ。絶対に違う!」

「……う……、ゴホッ、ち、違わない……」

「なんで? なんで千尋はそんなこと言うの? どうしてなの?」

「……、好きだから」

「……ッ! 千尋……」

「僕はめいちゃんが大好き」

「千尋……」

「だから、ずっと太陽。僕の光だよ」

「……う……、ぐすぐす……、違う。違うよ千尋」

「違わない……」

「違う! 太陽は……、千尋なんだ。千尋が、私にとって太陽なの」

「……僕が?」

「そうだよ! 千尋はいつも優しくて、なにがあっても私の側にいてくれて、私の言うことをきいてくれて……、ずっとずっと、私を支えてくれた。千尋がいてくれたから、私は生きてこられたんだ」

「……めいちゃん……」

「だから、……、ごめんね。ごめん。千尋」

「なんで……、謝るの?}

「ごめん……、だってごめんしか言えない……、私……、ずっと嘘つきだったから」

「……、誤ら……ない……で」

 千尋の声は儚くなっていく。出血は止まらない。愛依子と千尋の血液が、混ざり合う。どちらの血液なのか、もう分からないほど。

 血の気が引いていく。顔色が悪い。今にも死にそう。でも、いい。すぐに私も後を追うから。と愛依子は千尋の頬に手を寄せる。

「私……、嘘つきだった。先生にもずっと言われてた。素直になれない。そうだよ! 私は……、傷つくことが恐くて……、自分の気持ちも認められないような、そんな、女。千尋をずっと悲しませてきた」

「……、なにを……、い……、って」

「でもね……、もう死ぬんだって思ったら、やっと言えるよ。ははは……、ごめん。ごめんね。ずっと言えなくて」

「……い……、ちゃん」

「私……、千尋のことがずっと好きだった。ずっと。ずっと。ずぅ~っっと。大好きだった」

「……僕、も……」

「でも……、言えなかった。千尋は私の奴隷。人形。なんでもいうことを聞いてくれる玩具。そう思っていないと、心が耐えられなかった。だって認めたら……、私の弱い部分もみんな、溢れだ出してきてしまうから」


 千尋と出会う前。

 愛依子はずっと寂しかった。虐待を受け、壊れてしまいそうな心。だけど、素直になることは出来ない。完璧で可愛い女の子を演じてきた。本当の自分を見せたら、我慢してきた感情の全てが、溢れ出してしまうから。そんな状態じゃ、父や母と一緒に暮らしていくことは出来ない。暴行やネグレクトに耐えられなくなってしまう。

 だから嘘をついてきた。自分にも周りにも。


 千尋は、そんな複雑な状態の愛依子が出した当面の結論。寂しさを埋めてくれる玩具を作って遊ぶ。そのための相手だった。

 しかし時が経ち、いつでも優しい千尋に愛依子は恋をしていった。

 始めて、自分を認めてくれた男の子。

 父と母が死んでからも、愛依子は素直になれなかった。長年嘘をつき続けて、嘘をつかない方法が分からなくなった。


 広瀬ゆず葉が周囲をうろつくことが、一層恐くなった。

 千尋を奪わないで。

 千尋がいなくなったら生きていけない。

 千尋、ずっと私の側にいて。

 私だけの千尋でいて。


「千尋大好き」


 飾らない自分で、告白することが、出来なかった。

 壊れてしまっても、それでも言えなかった。


「ごめんね……、千尋。私、嘘ばっかりで。本当は弱くて……、情けなくて、今にも泣き喚いて叫びたいくらいに……、カッコ悪い女なんだ」

「……、めいちゃん」

「でも、強がりすぎて、素直になれなかった。もっと広瀬さんみたいに、感情的に生きられたら、きっと違う結末があったんだと思う。でも……、……、でも、好きだよ。大好き! 好き! 大好きだから。一緒に死んで欲しい」

「……、うん……」

「大好き……」

「分かってた……、全部……」

「……?」

「めいちゃんが……、嘘つきだって」

「……、どういうこと?」

「だってめいちゃん……は、優しくて繊細で、弱い女の子だから。僕が守らなきゃいけない……」

「なにを……、言って」

「めいちゃん……、めいちゃんは、本当は泣き虫で、子供で、甘えんぼ」

「……、千尋?」

「そんなめいちゃんの……、心を癒やせるなら……、僕はお人形でもペットでもなんでもよかった」

「……、千尋なにを言って……」

「だってめいちゃんは僕に生きがいをくれたから。めいちゃんのためになれるなら、僕は幸せなんだ」


 優木千尋は、長澤愛依子の本質を知っていた。長い付き合いである。いつも冷静で、賢い。大人っぽい愛依子の本質は、ただのか弱い少女であることは、分かっていた。

 自分も似た境遇である。両親に虐待されていた毎日。子供のころ。

 自分を抑圧して生きていた。妹だけでなく、自分を見て欲しかった。でも、素直になれない。言えない。誰にも甘えられない。孤独で寂しい少年。愛依子と同じだ。だから愛依子の気持ちがよく分かった。自分が支えたいと思った。


「千尋……、そんな……、私」

「いいよ。めいちゃんは……、強がりで、寂しがり屋で……、とっても優しい、僕だけのヒロイン……」

「千尋! 千尋……、ぐす……、千尋」

「でも……、今日みたいに、素直で子供みたいなめいちゃんも……、もっと見たかった……、なぁ」

「千尋……、ぐす……、ごめん。私……」

「いいよ……」

「ごめん……、ごめんなさい……」

「好き」

「大好き」


 朝の陽射しがカーテンを真っ白に染めている。

 真っ赤に染まったワンピース。

 こぼれ落ちているのは、純白の光。

 壊れた少女は少年にキスをした。



17



 一年後。午前七時。

 千尋は仕事を終えて、帰宅する。

 広瀬ゆず葉はラブホテルに送った。ベッドに着くなり、ゆず葉はすぐ眠ってしまった。

 前払い制の料金は既に払っている。

 ゆず葉を預けた後、一度、お店に戻り、会議に参加した。今日は月に一回ある、職員会議の日だった。今後の営業計画や、日頃の業務の改善点について、話し合う。後半は、接客の研修があった。

 くたくたになった千尋は、午前七時。ようやく帰路に着いた。

 お店から自宅は歩いて十数分である。

 新宿歌舞伎町。朝早くから人に溢れる。街頭に捨てられたプラスチックゴミ。清掃する職員。女子高生。スーツ。


 五階建てマンションの四階。四〇九号室。千尋は、インターホンを押さず、ドアを開ける。

 愛依子と千尋が同棲する部屋。


「はぁ~、ただいま~! めいちゃ~ん。今日も疲れた~」

「おかえり。千尋」

 

 玄関を開けるとめいこがニコッと笑っている。右手で杖をついて、千尋を出迎える。


「わぁ~、めいちゃん玄関で待ってたの? 帰り遅いって連絡したのに~」

「ううん。寝てたよ。私、長時間立ってられないし……、でもね、なんか千尋が帰ってくる気がして、今来たの」

「予感?」

「うん、そう。なんか、ほら。私たちって運命の赤い糸で繋がってるから、……、なんてお花畑かしら?」

「ううん! めいちゃんと僕は運命の人だもん! ぎゅう……」

「う……、千尋痛い痛い……。もっと優しく……」

「めいちゃ~ん」


 千尋は愛依子をぎゅっと抱きしめる。

 愛依子は、呆れたように笑いながらも、安堵の表情をする。


 あの日、愛依子と千尋は出血多量で意識を失った。

 重なり合ってキスをする二人を発見したのは、三上琴音だった。

 琴音は毎日。勤務前と勤務後に、二人のマンションへ様子を見に行っていた。いつ、自殺するかも分からない愛依子と、暴走を止められない千尋を心配して、である。

 琴音は応急処置をし、すぐに救急車を呼んだ。


 二人は一命を取り留めた。

 愛依子は右足が不自由になった。靱帯がぐちゃぐちゃに切断されていた。靱帯移植と、壮絶なリハビリを行えば、杖がなくとも歩ける程度には回復する、と医師に言われたが、愛依子は固辞した。

 二人の体には無数の傷跡。しかし、

「赤い糸みたいで素敵だね」と愛依子は笑う。「うん!」と千尋も無邪気に笑う。生々しい傷跡は、部分部分で紅く腫れ上がって二人を繋ぐ。

 


「じゃあ、ご飯にしよっか。ね? 千尋」

「うん、めいちゃん!」


 愛依子は憑き物が落ちたように穏やかに笑う。呪いは、別の想いで書き換えた。長く伸びた髪を切り、あのころみたいなショートボブに戻した。

 キッチンで食事をつくる。冷蔵庫の扉を開けようとする。少しかがむと足が痛む。

「ん、なにをとればいい~?」

「千尋……」

 千尋がそっと愛依子を支え、扉を開ける。

「ん……、じゃあ卵とタマネギと……」

「りょーかい!」

 些細な日常が、今はとても愛おしい。相変わらず、ゆず葉が千尋を追いかけていることは、知っている。だけど、もう気にしない。

「ね、千尋。今日広瀬さんと会った?」

「……え? なんで」

「やっぱり……、会ったんだ……」

「う……、め、めいちゃん。僕は別に」

「ううん。いいの。千尋が誰と会っても。それは千尋の自由だから」

「めいちゃん僕は……」

「でも、あんまり心配させないでね。私……、千尋がいないと寂しくて生きていけないからね」

「……うん!」

 愛依子はそっと肩を抱いて、千尋に体を預ける。愛依子は変わった。ずっと素直になって、ずっと自由になった。

 

「千尋……、こっち向いて」

「……?」

「どこにも行かないように、おまじない」

「ん……」


 そう言って、壊れた少女は少年にキスをした。


 


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壊れた少女は少年にキスをする 葵栞 @aoisiori2021

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