毎日が火曜の夜
尾八原ジュージ
毎日が火曜の夜
実家から逃げ出したおれは、しばらくの間ひどい安アパートに住んでいた。玄関を出てすぐのところに、薄緑色のそれはそれは古い洗濯機が備え付けられていて、脱水が始まると軛から逃れようとする獣みたいにガタガタ暴れる。それがとうとうウンともスンとも言わなくなった。
大家のばあさんはおそろしく耳が遠い。悪い人ではなさそうなのだが、新興宗教に入っているらしく、聞いたこともない神様を勧めてくるので相談する気にならなかった。
いきおい、おれは近所のコインランドリーに通うようになった。二階建ての建物の一階に、洗濯機と乾燥機が何台か並んでいる。こちらもアパートといい勝負のボロさ加減で、洗濯中は建物が微かに揺れて窓がカタカタと鳴り、常に嵐が来ているみたいだった。
最初は特に話すような仲ではなかった。ところがある夜遅く、たまたま居合わせたおれたちが各々の洗濯が終わるのを待っていると、自動ドアがガーッと開いて、よちよち歩きの子供がひとりで入ってきた。ぎょっとしたおれたちは思わず顔を見合せた。何しろ真夜中である。一瞬、子供の幽霊が出たのではないかと思ったくらいだ。だがその子はどう見ても生きていて、ちゃんと実体を持っていた。
阿内さん(そのときは名前など知らず、ただ年上っぽいお兄さんとだけ認識していた)がおれの方を見て、「通報したほうがいいよね?」と言った。おれも「ですね」と応えた。子供が外に出ないように引き止めながら、ふたりで警察の到着を待った。おれたちが言葉を交わすようになったのはその一件からだ。
おれがコインランドリーに行くのは大抵火曜の夜だった。その時間は部屋でじっとしていることができなかった。
まだ実家で家族と暮らしていた頃、火曜の夜は
火曜の夜はそういうことを考えてしまって頭がいっぱいになり、じっとしていると何かが爆発しそうになる。そこでおれは溜まった洗濯物を抱えて、コインランドリーに向かうのだった。ゴウンゴウンと音を立てながら回っている洗濯機を眺めていると、不思議と気持ちが落ち着いた。
阿内さんと話すようになって、おれは初めて他人との会話に飢えていたことを自覚した。それまではひとりが一番楽なのだと思っていた。
「
阿内さんは長い指で窓の外を指差す。その夜は雨が降っていた。ぼやけた街灯の明かりの向こうに、古いアパートがひっそりと蹲るように建っている。
「大家のおばさん、めんどくさいでしょ」
「そっすね」
本人がいないから、おれも調子よく肯定する。
阿内さんの声はコントラバスのように低くて心地よい。年齢的に社会人かなと思うけれど、ウェーブのかかった髪を長く垂らしているところといい、なんとなく浮世離れした雰囲気といい、普通のサラリーマンのようにはちょっと見えない。そういう正体不明なところが、かえって後腐れがない気がしてよかった。ともかく、大家の悪口くらいは吐き出してしまえる気軽さがあった。
「大家さん、耳が遠いから大声じゃないと話通じないし、何話してても宗教の勧誘になるのがめんどいんですよね。備え付けのものが壊れたら言ってくれって言われてるんですけど、絶対ナントカ様の話になるじゃないですか」
「ははは。でもそのおかげで僕は牧くんに会えたから、よかったよ」
阿内さんは男相手にナンパ師みたいなことを言った。もてそうな外見なのだが、彼女などはいないという。
「僕、あんまりマメじゃないからなぁ。牧くんはいないの? そういう相手」
「いないですねぇ」
それどころじゃないんですよ、と言いかけてやめた。阿内さんはなぜか黙って、おれの顔をじっと見つめていた。案外黒目の小さい人だったんだな、と思った。
「……どうかしました?」
「ん? ああ、いや、牧くんは姿勢がいいなと思って」
ピアノやってたからかな、と口に出しかけた言葉が引っ込んでしまったのは、和葉のことを思い出したからだった。もしも和葉が褒めてくれなかったら、おれはピアノ教室をもっとずっと昔に辞めていただろう。
おれを産んですぐに亡くなった母親のことを、おれはまったく覚えていない。おれに似ていたというが、写真だけではピンと来ない。おれは母親という存在がよくわからないまま育った。とはいえ不幸ではなかった。父とふたりで、これといった不満もなく暮らしていた。
美和子さんと和葉が家族になったのは、おれが十二歳のときだ。和葉はまだ五歳で、おれは小さな女の子の扱い方がわからず困惑したが、和葉は初めから懐いてきた。なんでも、ずっとお兄ちゃんがほしかったのだという。
「保育園くらいの女の子って、全然未知の生き物だったんですよ。どうやって接したらいいかわかんなくって、でもピアノ弾いてあげると喜ぶから、かわいいなと思って」
阿内さんにそんな話をするようになった頃、おれはもう洗濯機の修理を諦めていた。下着だけ風呂場で洗って、週に一度コインランドリーに行けば事足りたし、阿内さんに会うのが正直楽しみだった。
阿内さんは聞き上手だった。気がついたらおれは、家族のことも喋っていた。スポンジのはみ出した長椅子に座って、おれはだらだらと自分のことを話した。
「新しい母もいい人だったし、おれたちは結構上手くいっていたんです。八年間も上手くいってたんですよ」
「うまがあったんだね」
「そうですね。母も和葉も、それまでずっと家族だったみたいでした」
「牧くん、僕に敬語でなくていいよ」
「いや、敬語の方が話しやすいので、これで」
その夜、おれは阿内さんの部屋にいた。コインランドリーの中は暖房がなくてひどく寒く、「僕の部屋に来たほうがいいよ」と誘われたのだ。コインランドリーの二階は、おれの部屋とおっつかっつのボロアパートで、阿内さんはそこに住んでいた。畳敷きの四畳半に、申し訳程度のキッチンと、風呂とトイレがついていた。誰かが下のコインランドリーで洗濯機を回すと、阿内さんの部屋までが微かに震え、下からゴウンゴウンという音が響いてきた。
「牧くんはどうしたかったんだろうね」
「どうしたかったんでしょうね。おれが和葉を迎えにいけばよかったのかな。でもおれは免許持ってないから、そういう話にはならないんだよな、やっぱり。とにかくきりがないんですよ、考え始めると。一番考えるのは、父と母が再婚してなかったらってこと。そしたらあの日あの場所にいることもなくって、みんな生きてたんじゃないかなって。もしそうだったら、母と和葉のことなんか存在も知らないままかもしれないけど、でもふたりが生きてるならそれでもよかったのになとか……なんかそういうことを色々。考えてもしょうがないんですけど」
「わかる。色々考えてしまうんだよね」
阿内さんはわかるわかると言いながら、ベッドの上でおれの首を絞め始める。
長い指がおれの喉に食い込む。ベッドの骨組みが軋む音がする。誰かが洗濯機を回している。部屋が揺れる。ゴウンゴウンという音が頭の裏で鳴っている。苦しい感じが抜けて、突然すっと何もかもが軽くなる。
視界が白くなって、しばらくの間意識を手放す。目を覚ますとそこは阿内さんの部屋で、阿内さんは畳の上に直接胡座をかき、こちらをじっと見つめていた。
何がきっかけでこんな関係になってしまったのかよくわからない。とにかく火曜の夜、おれはコインランドリーで阿内さんと会う。洗濯機に汚れ物を入れると、おれは彼の部屋に行ってベッドに仰向けになる。阿内さんがおれに跨って首を絞める。それが当たり前になっていた。
おれの首を絞める阿内さんはとても満ち足りた顔をしている。意識が遠のき、気がつくと時間が経っていて、乾燥が終わったおれの洗濯物は畳まれ、カゴの中に収まっている。阿内さんがおれに「何か飲む?」と声をかけてくる。
この関係を何と呼べばいいのか、おれにはよくわからない。強いて言うなら友人同士だろうか? とにかく阿内さんは誰かの首を締めたかったし、おれはそれがさほどいやではなかった。むしろ慣れてくると、それが救いですらあった。阿内さんに意識を飛ばしてもらって、おれは火曜の夜をやり過ごすのだった。
母が和葉を塾に迎えに行って、それから駅に父を迎えに行って、そして居眠り運転のトラックにぶつけられたあの火曜の夜、おれは家で大学の課題を片付けていた。どうせ何か甘いものを買って帰ってくるのだろうから、それまでに終わらせてしまおうと思ったのだ。課題が終わっても家族は帰ってこず、まだかなという気持ちがだんだん不安と焦りに変わっていった。父と母に連絡しても一向に応答がなく、頭の芯が冷たくなって痛み始めた。滅多なことなんてあるわけない、だって今日はまるきり普通の火曜日で、きっとそのうち和葉が賑やかに玄関を開けて「ただいま!」と声を張り上げるだろう。母が「途中で事故があって、すごい渋滞でねぇ」とかなんとか言いながら苦笑いを見せ、父が「シュークリーム買ってきたぞ」と言ってダイニングテーブルにケーキ屋の袋を置く。きっとそういうオチになる。警察から連絡があったのは、そんなことを考えていた最中だった。
家族がいなくなった家の沈黙に耐えられなくて、おれはそこから逃げ出した。大学も休学して、今は休息が必要なんだと周囲に言い訳しながら、何もしない日々を過ごしていた。泣くことすらしていなかった。家族がいなくなってから、おれはまだ一度も涙を流していない。泣けたら何かが変わるような気がするのに、いざそうしようと試みると、何かが詰まったようになって上手くいかなかった。
「阿内さんは何でおれの首を絞めるんですか?」
あるとき、ふと気になって尋ねてみた。阿内さんは長い首を少し傾けて、じっと考え込んでいた。それから注意深く口を開いた。
「何ていうかなぁ。僕にとってはあれかな、ふわふわした動物を触りたいっていうのに似てるかもしれない。命ってあったかいな、柔らかいなっていう感じがして、心が穏やかになるんだ」
阿内さんはじっと手を見つめていた。指の長い大きな手だった。ピアノを弾けばいいのに、と思った。
「そうだ、今更だけど牧くん、バイト代か何か出させてよ」
「絞められ代ってことですか? いいですよ。別に」
こんなボロアパートに住んでいるひとに金なんてあるまい、と思ったのだが、阿内さんは「いや、遠慮しなくていいから」と言うと、いつもおれの首を絞めているベッドの下から段ボール箱を引っ張り出した。開けてみると、紙くずみたいに一万円札が詰まっていた。蓋を開けたはずみで飛び出してきたやつを片手で無造作に集めると、阿内さんは「ね」と言って笑った。おれはぎょっとしてそれを見守っていた。
「いや、いいです。本当に」
結局おれは断った。金の出処がわからなくて恐かったのもあるけれど、何よりもおれたちの間に金銭を介入させたくなかったのだ。報酬などもらってしまったら、きっとおれたちの関係性は変わってしまい、首を絞める行為にもなにか余計な意味が付与されてしまう。おれが拒むと、阿内さんは自分で言い出したくせに、ほっとしたように微笑んだ。
突然、おれの住むアパートの取り壊しが決まった。しばらく大家のおばさんを見ないと思ったら、自宅で亡くなっていたのだそうだ。葬儀はナントカ様とやらの宗教でやったのだろうか、なんにせよおれには関係のない話だ。
が、住むところがなくなるのには困った。いや、住むところはある。実家に帰ればいい。今は祖父母が管理してくれている、あの誰もいない家に。でもそのためには、心の準備が相当に必要だった。もしも無理をしてふたたびあの家に踏み入ったら、玄関をくぐった瞬間におれは壊れてしまうと思った。実家の鍵は、本を数冊入れた段ボール箱の奥に隠したままだった。
「あのアパートなくなっちゃうんだ。じゃ、こっちにくる?」
阿内さんが言った。「ちょうど一部屋空いてるよ」
「保証人とかなくていいんですか?」
祖父に頼むのは気が引けた。会えば「帰ってこい」と言われることが目に見えているからだ。祖父も祖母も善良だけど、それだけにきっとそう言うだろう。今住んでいるアパートは、保証人がいらないというから入居したようなものだ。
「いいよ。この建物、僕がオーナーだもの」
阿内さんはそう言って笑った。どうやらそれは冗談ではなく、おれは阿内さんのことをほんの少しだけ知った。
荷物は例の段ボール箱一つに収まった。おれが新居に到着して少しすると、さっそくドアがノックされた。阿内さんだった。
「いらっしゃい」
「お世話になります」
「今いい?」
阿内さんは首を絞めるポーズをした。
「今日は金曜日ですよ」
「だめ?」
おれは少し考えて、「トイレ行くから待ってください」と答えた。
それから毎日が「火曜の夜」になった。阿内さんは毎日おれの部屋に来て、敷きっぱなしの布団の上でおれの首を絞めた。
「僕絞めるけど、絶対に牧くんを死なせないからね」
阿内さんはおれを安心させるように、ことあるごとにそう言うようになった。やっぱりどこかでおれに対して申し訳ないと思っているのだ。報酬を受け取っておくべきだったろうかと考えなくもなかったが、やっぱりそれは違うなと思い直した。
「死なせちゃってもいいですよ。別に」
俺がそう言うと、阿内さんはどこかが痛むような顔をして、「そんなこと言わないでよ」と呟いた。「僕は牧くんのことが好きだからこうするんだよ」
そのとき、阿内さんは初めておれに、少しばかり長話をした。
「僕の母がさ、子供だった僕の首をよく絞めてたんだよ。それはぼくと母の秘密だったんだけど、あるとき父にばれてね。その日から僕は母に会えてなくて、彼女がどうなったかもわからない。写真も全部捨てられてしまって、だからかな、僕の思い出の中で、母がどんどん美しいひとになっていくんだよ。あのひとにされた首を絞めるって行為も素晴らしいものに思えてしまって、そして自分でもやりたくなる。僕たちは命には触れられないけど、こうするとぎりぎりまでそれに迫ることができるんだ。きみの首を絞めているとき、僕は牧くんの命の輪郭をなぞっている気がする」
その話を聞いたとき、おれは阿内さんに深い愛着を感じた。なにしろ命に手をかけられたのは阿内さんが初めてだった。そのことを理解した瞬間、彼はおれにとって特別なひとになったのだ。こんなひとは他にはひとりもいない。
「命に触るのってどんな感じですか」
「こんな感じだよ」
阿内さんはおれの両手をとると、自分の喉に当てた。温かくてひくひくと動いていた。こんなものだったんだな、と妙に腑に落ちた。こんなもの、ちょっとしたことでぺしゃんこになってしまうわけだ。父も母も和葉も、誰ひとりまともな状態で残っている遺体はなかった。
その夜、おれはひさしぶりに家族の夢を見た。あの火曜の夜、母が出かける寸前に、おれはふと思いたってその後を追った。
「母さん、おれも一緒に行っていい?」
「いいけど、どうしたの? 珍しいね」
「甘いもの食べたくなった。駅の近くで何か買おうよ」
「おっ、いいね。父さんにおごってもらおう」
そしておれたちは一緒に玄関を出ていく。おれは皆に置いていかれずに済み、もうこの家に帰ってくるひとはいない。
目が覚めた。最悪な気分だった。まだ夜明け前だったが、おれは隣の部屋をノックした。
阿内さんは眠そうに眼をこすりながら出てきた。Tシャツに薄手のジョガーパンツ。寝間着代わりのはずのいい加減な格好が、阿内さんだと妙に清潔で、きちんとして見えた。こういう油断しきったとき、阿内さんからは「育ちがいい」という形容詞の気配が漂う。
「絞めてもらえませんか。首」
阿内さんは驚いたように目をぱちぱちさせていたが、すぐに「いいよ」と言っておれを自分の部屋に入れた。
こんなとき、阿内さんにおれの命を触られるのはとても心地よかった。余計なことを何も考えずに済む。家族のことも自分のこれからのことも何も考えられなくなって、やがて白い闇がやってくる。
事故が起きる前の夢を見た。おれの記憶を寄せ集めて平均化したみたいな食卓の光景だった。父と母はベランダで育てているプチトマトについて話し合っていた。和葉がおれをつついて「こないだ野良猫が食べてたんだよ、トマト」とささやいた。重大な秘密を打ち明けるような口調がおかしくて、おれは笑った。自分の笑い声で目が覚めた。
思った以上に時間が経っていた。阿内さんが心配そうにおれを眺めていた。
「ああよかった、戻ってきて」
「死なせちゃってもいいって言ってるじゃないですか」おれの口調は拗ねていた。目を覚ましたことが残念でならなかった。
「そういうわけにいかないでしょ」
阿内さんが呟いた。
それ以来、おれが阿内さんの部屋を訪ねることが増えた。一日に二度、彼のところに行くこともあった。おれの万年床と阿内さんのベッドの比率が半々くらいになった頃、おれは意識を失っている時間がどんどん長くなっていることに気づいた。阿内さんももちろんそれは知っていて、
「いつか牧くんを殺してしまいそうで怖いよ」
ぽつんとこぼすようになった。
おれは何も答えなかった。だんだん長くなっていく空白の中で、おれはあの平均化された平和な家族の夢を見るようになっていたのだ。
そうやってしばらく続いたおれたちの生活には、やっぱり終わりがやってきた。別れというものはいつも突然やってくるものらしい。ある日、阿内さんは何も言わずに俺の前から姿を消したのだ。
毎日のように訪れていたおれの部屋にやってこないことを、おれはまず不審に思った。下のコインランドリーにも姿を現さない。ドアを何度叩いても返事がなく、窓のカーテンは閉まったままだった。
阿内さんだって大人である。どこかに行くからといって、おれの許可が必要になるわけじゃない。それでもやっぱりいやな気分だった。あの火曜の夜のことを思い出してしまい、吐き気がした。
阿内さんがいなくなって五日後、部屋のドアをノックされた。阿内さんかと思ってドアを開けると、見たことのないスーツ姿の男性が立っていた。
彼は賃貸物件の管理を担う会社の社員だと名乗った。この物件のオーナーがここの取り壊しを決めたから、期限内に立ち退いてほしいとのことだった。
「オーナーって、阿内さんですか」
尋ねると管理業者は「そうです」と答えた。
血の気が引くのがわかった。また置いていかれた、という絶望感があった。それでもまだ阿内さんはここに戻ってくるんじゃないかという希望が捨てられず、おれは期限いっぱいこの建物に居座ることにした。
待っても待っても阿内さんは帰ってこなかった。おれは初めて、彼の下の名前も連絡先も年齢も知らないということに気づいた。それどころか今や、彼の生死すらわからないのだった。
一週間ほどするとおれは、無性に首を絞められたい欲求にかられた。試しにホームセンターで荷造り用のロープを購入し、部屋のドアノブに引っかけて輪を作り、自分の首を入れた。少し引っかけただけで、これは違うとわかった。これではただの首つりだ。阿内さんのようにやられるのでなければだめだった。あれは阿内さんだけじゃなく、おれにとって、自分の命を確かめるために必要なことだったのだ。
毎日が無意味に過ぎようとするなか、おれは段ボール箱の底からようやく実家の鍵を取り出した。阿内さんがいなくなって一ヵ月が経とうとしていた。その間、伝言ひとつ、手紙の一通もなかった。ここの取り壊しを決めたのが本当に阿内さん自身だったのか、それすら不確かだったが、それを探るほどの気力はなかった。ただ、もう帰るべきだと彼に言われているような気がした。ひたすら空っぽの日々が過ぎていった。
いよいよ立ち退きの期限がやってきて、おれはアパートを追い出された。コインランドリーの入り口にもシャッターが下ろされ、不愛想に「閉店」と書かれた貼り紙が貼られていた。
仕方なく、おれは荷物を抱えて実家に帰った。もう大丈夫だ、時間が経ったのだからと自分を励ましながら、震える手で鍵を開けた。
中は思いのほか綺麗だった。祖父母が手入れをしてくれているらしく、空き家という感じはしなかった。今にも誰かが家の奥から出て来そうだった。
コインランドリーが閉まっていたので、おれの荷物の中にはまだ汚れた服が詰まっていた。おれは脱衣所に向かい、洗濯機にそれらを放り込んで洗剤を入れ、スタートボタンを押した。
懐かしい音を立てて洗濯機が動き始めた。水音の混じった規則正しい稼働音はコインランドリーのそれよりも小さく、しかしよく似ていた。突然父の、母の、和葉の、阿内さんの顔が、次々に思い出された。
おれは床に座り込み、洗濯機に背中を押しつけ、自分の喉に両手を当てて親指の腹で頸動脈を押した。動いていて暖かかった。家族がいなくなってから初めて、おれは声をあげて泣いた。
毎日が火曜の夜 尾八原ジュージ @zi-yon
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