沈黙は心地良く虚無を呼ぶ

土御門 響

心ではなく身体が恋をする

 嗚呼、と。


 音無羽月おとなしはづきは目を閉じる。


 訪れた沈黙は、期待と恐れで張り詰めた自身の胸を嫌という程に刺激する。

 窓の向こうに目をやれば、見慣れた日常の風景がそこにある。何ら、いつもと変わりない日常。


 音無羽月は人間嫌いだ。誰かを好いた試しはなく、友人も気心の知れた気の置けない奴が一人だけ。

 幼少期から厭世的な雰囲気を纏っていたため、同期の連中からは疎まれていた。


 しかし、それは学校の中の話である。

 外に出れば、そのような制約は意味を成さない。

 何より、自分の肉体の変化に、羽月は現在、戸惑うと同時に呆れ返っていた。


 隣で黙々と事務処理をしている相手に視線を移せば、嫌でも目元に熱が籠った。なんで、と自身の身体に内心毒づく。

 溜息を吐きたい気持ちを耐え、静かに息をする。そして、視線を窓に戻した。

 きっと、この視線に気づいているだろう。会話が初めて会った頃のそれよりも、どことなく明るく、素を見せ始めていることを察しているだろう。それでいて何も言わないのは、相手が仕事をしているからだ。自分に愛想よく接するのは、接客だから。自分は顧客で向こうは従業員。ドライかつシンプルなビジネスの関係性。この乾き切った関係性に、想定外の熱を持つなんて、最初は想像もしていなかった。このような事態は、空想の世界、物語の話ではなかったのか。

 羽月は無性に舌打ちしたい苛立ちに駆られるも、独りではない現状にあるため、必死に感情を抑制する。


 恋をしてしまった自身への苛立ちを募らせる精神と、ひたむきに対象を求める肉体の分離に、魂が狂いそうだった。


 嗚呼、と。羽月は浅く痛む胸に意識を向ける。

 呼吸が浅い。心拍がどことなく速い。

 これが一方通行とは言え、恋を知った肉体か。

 なんと厄介で、煩わしいものであろうか。


 恥じらいも何もなく、身体の熱が高まるままに、相手に想いをぶつける、というのが今時の若者の恋、いや片想いのやり方であろう。しかし、羽月は冷めていた。

 肉体が抱く熱を持て余し、精神はずっと冷めていた。確かに、精神も対象を好意的に感じている。何せ、初対面時に直感で話が出来ると思った相手だ。嫌だとは思っていない。

 しかし、それ以上の関係性に持ち込もうというのは図々しいの極みであろう。相手は食い扶持を稼ぐためにやっている仕事だ。このような感情をぶつけられても迷惑なだけである。


 恋をすると人が変わる。恋は盲目。

 そんな言葉を聞いてはいたが、それらは全て自分には該当しない。

 いや、人が変わるは合っているだろうか。人、というより身体は変わった。

 目元の熱を散らしたくて、羽月は目尻に触れた。

 どうしようもなく、胸は疼き、奥が渇く。二人でいるだけで、脳髄に痺れのようなものが走る。しかも、それらは酷く心地が良い。


(いつまで持て余すのだろうな。この不毛な状況を)


 肉体の心地良さ、快さを都合よく受け取り、強固な理性を以て熱を制御する。

 それはきっと成せるであろう。自分の理性は鋼であると自負している。

 しかし、問題は関係が終わってからだ。何れは、隣にいる相手と会わなくなる。契約が終了してしまえば、二度と会うことはない。


(そうなった時、馬鹿な感傷を抱かなければ良いのだが。無理というものか)


 きっと、胸に洞が穿たれるような喪失感に苛まれる。一度生まれてしまった熱を最初から無かったことに等、出来まい。

 嗚呼、と。羽月は近い未来を憂う。


 今が一番マシなのだ。

 今は、この心地良い熱を持て余していよう。


 すぐにやって来る未来の自分が、愚かしい虚無に呑まれていないことを切に願いながら。

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