幸福という不協和の中で

@kazari_kujiragi

幸福という不協和の中で

 よく晴れた冬のとある日。アイボリーのレースカーテンを通して、部屋をじわりと照らした太陽光は、男を目覚めさせた。今年で37を向かえるその男は、よく食べよく眠った。今朝も、二度寝に興じることなく、きっちり7:55に目を覚ました。

 良い朝だ。

 倦怠感なく目覚められた理由が、男には分かっていた。

 一定以上の明るさを持つ光を浴びることで、人間の覚醒水準は高まる。たしか、2500ルクスくらいだったか。他にも、食事や運動、会話などが覚醒水準を高めるという研究結果があった。光の波長が長いか短いかということも、影響していたと思うが……そこまでは覚えていないな。

 体を捩った男の左目に、レースカーテンの隙間から、まばゆい光が差し込んだ。男は両目を細めた後、強く目を瞑り、そして体を起こした。

「良い朝だ」

 さらに体を捩り、表面が僅かに柔らかく加工されたフローリングへと足をつきながら、いつもと変わらない部屋を見渡した。窓側の机にはノートパソコンが一台が置かれ、正面の本棚には小説と専門書が、半分程度ずつの領域を与えられていた。本棚の上には小さめの金庫が置かれている。おもむろに立ち上がった男は、金庫のダイヤル錠を回した。数字を“4122”に合わせた後、男が取っ手を持ち上げると、金庫の蓋は抵抗なく上がった。中に、カードケースと電子端末が入っていることを確認して、その二つの物体を取り出した後、男は慣れた手つきで金庫を施錠した。

 問題無いな。

 男は大きく伸びをし、扉近くのハンガーポールから上着を取り上げ、袖に腕を通した。ステンレス製の軽い扉を開け、照明の点灯したリビングの方へと足を運んだ。左上部のガラス部分から光が確認できるリビングの扉を、男はゆっくりと開いて言った。

「おはよう、シラオリ」

 “シラオリ”と呼ばれた女性は、椅子に座りティーカップを手にしたまま、声のする方へと顔を向けた。紺色の毛羽立った上着が、彼女の白く細い首筋を強調させている。歳は35、しかしもっと若く見えるだけの気品や、肌艶が首筋からだけでも見て取れた。彼女は落ち着き、かつはっきりと声の主へと応答した。

「おはよう、ハルエト」

 今年37の男“ハルエト”は、彼女の返答にうなずき、キッチンへと向かった。白を基調としたアイランドキッチン。可も無く不可も無い、適度な広さのそのキッチンを、夫婦は大いに気に入っていた。ダイニングテーブルに備えられた椅子のどこに座っても、キッチンから目線を送ることができる。解放的で情緒的だと、ハルエトはしばしば語っていた。妻が温めたであろうケトル内のお湯について、温度計を用いて温度を確認したハルエトは、コーヒーのドリップバッグを取り出した。食器棚からマグカップを取り出し、その上にドリップバッグを置いて、ケトルのお湯を4度に分けて注いだ。抽出液が完全に落ち切る前にドリップバッグを捨て、妻の向かいの椅子へと腰かけた。夫の着席を確認したシラオリは、卓上の大皿に詰まれた棒状の栄養食品の中から、桃色と黄色の2本を引き抜いた。妻に倣って、ハルエトも2本の栄養食品を引き抜いた。取り出したのは、赤色と橙色。

「あら、今日はベリーとオレンジなのね」

「ん? ああ、そうだな」

 あまり意識せずその2本を選んでいたハルエトは、意図せずそっけない返答をしてしまった。

 こういう場合は、なぜその2種にしたのかという理由を答えるのが妥当だっただろう。

「そういえば、なんとなく選んでいたよ」

「そうなの? ハルエトが酸っぱいものを選ぶなんて珍しいと思って」

 確かに、俺は酸味が少し苦手だ。コーヒーでさえも酸味が少なく、苦味やコクの強い豆を選んでいる。今飲んでいるのも、マンデリン、苦味寄りの代表格だ。ベリー風味やオレンジ風味が嫌いなわけではないのだが、両方とも酸味が強いものを選ぶことは少なかったかもしれない。もっとも、レモン風味は単体であってもほとんど口にしたことはないが。

「なんでだろうな。甘いのに一時的にでも飽きてしまったのかもな」

「へー、飽きることなんてあるんだ」

 シラオリは不思議そうな顔をして、ピーチ風味の栄養食品の袋を開けた。ビリッという短い音と共に、桃の香りが周囲に広がった。その香りは容易くハルエトの鼻まで届き、彼の食欲を一時的に増進させた。

 甘い香りだ。桃と言えば、文字通り桃色を想起させるが、この香りはどこか緑色を連想させる。なぜだろうか。深い緑と黄緑の中間くらいの色。どちらかと言えば、深い緑に近いように感じる。もっとも、桃の旬は初夏頃であるのため、それに起因するイメージかもしれないが。

 ハルエトは自身の連想について思考を巡らせていたが、妻に合わせて、自分の取り出した栄養食品の封を切った。パスッ。袋の中に溜まった窒素は、彼の握力によって袋の切れ目から溢れた。

「はあ……オレンジのいい香りね」

 自分の栄養食品を嗅ぎ終えたシラオリは、ハルエトのものにも関心を向けていた。

「ああ、頭がスッキリするよ。シラオリのは、腹を空かせる香りだな」

「その言い方だと、私が食いしん坊みたいじゃない」

 不服そうな表情を浮かべた直後、くすくすと笑ったシラオリは、両手に持った薄桃色の食品を齧った。僅かな弾力のあるその食品は、崩れることなく綺麗な歯形が付いていた。またも妻に合わせて、食品を齧ろうとしたハルエトだったが、思いとどまって、まずはコーヒーに口を付けることにした。ゴクッゴクッ。二口ほどを飲み込んでから、ハルエトはしばらく余韻に浸っていた。

 舌から脳へと伝わるこの苦味。そして、口から鼻へと抜ける香ばしくも緩やかな香り。やはり、マンデリンは良い。コクはやや少ないとも感じるが、値段を鑑みればかなりのクオリティを誇っていると思う。ああ、美味い。

「ほんと、美味しそうに飲むわね」

「美味しいからな。シラオリも飲むかい?」

 恥じらいを隠すかのように、ハルエトはマグカップを妻の方へと掲げた。

「ありがとう。でもいいわ。私にも美味しい紅茶があるもの」

 シラオリはティーカップを掲げて微笑んだ。微笑み返したハルエトは、自身が開いた袋の中身を一口だけ齧った。すかさずコーヒーを一口飲み、味を嚙みしめた。

 オレンジとコーヒーは合う。初めにそのことに気付いたのは、オレンジピールの入ったチョコレートを食べた時だ。チョコレートは当然のごとく、コーヒーに合うのだが、オレンジピールの入ったそのチョコレートは、想像以上によく合った。その時も飲んでいたのはマンデリンだったような記憶がある。やはり苦味の強いコーヒーの方が、酸味のある食品には合うのかもしれない。今回、ベリーとオレンジを選んだことは、無意識のうちに、そういった過去の記憶を検索していたからなのだろうか。

 甘いものの方が合うはずだという経験に言い訳をするように、ハルエトは考えていた。

「今日もベルガモットの入った紅茶を飲んでいるのかい?」

「ええ、イングリッシュティーよ。今日は、ミルクを入れていないけれど」

 ああ、そういえば、ミルクティーが美味しいものだったか。

「シラオリこそ、ミルクを入れないのは珍しいな」

「そうね。確かに入れていることの方が多いわね。私も飽きたのかしら」

 彼女はハルエトの方を一瞥した後、表情を崩してくすりと笑った。

「なーんて、冗談よ。桃とバナナだから。どちらも、こう、ねっとりとした味わいでしょう?」

「表現は独特だと思うが、言わんとしていることは分かるよ」

「独特かしら? コクが深いとも、味に厚みがあるとも違うのよね……甘ったるいとかかしら」

「それは、もはやマイナスな表現になってしまっているね」

 観念したと言わんばかりの諦めの表情をしたハルエトとは対照的に、シラオリは満足げに笑った。

「ふふ、ありがとう……さて、今日はどんなニュースがやっているかしらね」

「さあ、どうだろう。昨日のカナリアの続きとかがあればいいな」

「ああ、あれは可愛かったわね。昨日が初公開だったみたいだし、今週いっぱいは話題になるんじゃない?」

 そう言いながら、電子端末によってテレビを起動した妻と、ハルエトは同じ予想をしていた。

 動物のニュースは視聴率が良い。しかも、一匹を取り上げるだけで、数日間のネタになる。成長や変化があった際には、その様子を発信することもできるため、便利でもある。人や自然の話題は、ネガティブな表現や感情を孕みやすいため、放送に注意が必要になった現代においてはなおさらである。

 ほどなくして流れたのは多数の猫の映像だった。一列で水を飲む猫たちの色には特に統一感はなく、種類も異なるかのような印象を与えていた。

「猫だったな」

「猫だったわね」

 予想を外した二人は顔を見合わせ、声を出して笑った。穏やかという形容詞がよく似合う、そんな朝の光景だった。



 よく晴れたとある日の翌朝。アイボリーのレースカーテンを通して、部屋をじわりと照らした太陽光は、ハルエトを目覚めさせた。ハルエトは今日も8時間の睡眠を終えて起床した。今朝も、二度寝に興じることなく、やはり7:55に目を覚ました。

「良い朝だ」

 今日の日差しも明るい。心地の良い朝だ。昨日よりも少し肌寒い気もするが、冬の朝だから仕方がない。

 ハルエトは体を捩った後、ベッドから足を降ろした。同時に体を起こし、右肘を左腕で支えながら伸びをした。

 良い朝だ。日が回る前に就寝し、7:55に起きるこのルーティンが俺は気に入っている。7時間の睡眠が最も長寿になりやすく、7時間から離れるほど寿命が短くなりやすいという研究結果がある。しかし、それはあくまで統計的な問題であり、個人差が生じる。ましては、6時間や8時間で調子が良いのであれば、7時間にこだわる方が悪影響であろう。

 ハルエトは、8時間の睡眠が最も自分に合っているということに、確信を持っていた。彼の妻もまた、8時間程度の睡眠を良しとしていた。

「寒いな」

 少しして、ハンガーポールから上着を取り上げたハルエトは、廊下へと繋がる扉に手をかけたが、すぐに思いとどまった。

 おっと、忘れるところだった。

 右後方の本棚を振り返り、数歩進んだところで金庫を解錠した。4122。“良い夫婦”。同じ意であれば、いい夫婦の日を表す“1122”が定番である。しかし、ハルエトは“良い夫婦”という表現の方が好みであった。セキュリティの側面もあるが、“いい”という口語的な表現がどこか引っかかっていた。

 ジリリリ、ジリリリ。金庫が開いたのとほぼ同時に、電子端末はけたたましく音を発した。

「うわっ」

 8:00を示すそのアラームは、ハルエトの鼓膜を震わせた。冷たく渇いた部屋の空気に、アラーム音はよく響いた。少しして落ち着きを取り戻したハルエトは、慣れた手つきでアラームを止めた。

 シラオリにも聞こえてしまっただろうか。

 自分だけでなく、妻を驚かしてしまったのではないかと懸念を抱いたハルエトだったが、いつまでもリビングに現れないことの方が心配されるのではないかと思いなおし、扉に再度手をかけた。廊下を歩き、リビングの扉に手をかけたハルエトは、ドアノブがいつもよりも冷たいように感じていた。

「おはよう、シラオリ」

「おはよう、ハルエト」

 椅子に座りティーカップを手にした彼の妻は、いつも通り顔だけを声のする方へと向けた。

 良かった、いつも通りだ。

 様子の変わらない妻を見て、ハルエトは安堵すると共に、何か違和感のようなものを抱いていた。

 何が、“良かった”のだろうか。アラームが聞こえたとして、シラオリは怒り出すような性格ではない。ましては、彼女の方が早く起きていて、かつ廊下の奥にあるリビングにいたのだ。聞こえたとしても、気にするほどのことではないし、気にするほどの大きさでもない。では、なぜ、俺は安堵しているのだろうか。俺が妻に対して、何らかの恐怖心を抱いているとでもいうのか。

「どうしたの? ハルエト」

 扉の前から動かないハルエトを気にかけ、シラオリが尋ねた。先ほどよりも体を捩じっているようだった。

「あ、いや、なんでもないんだ」

 そんなはずはない。しかし、ハルエトは確かめずにいられなかった。

「シラオリ、さっきアラームの音は聞こえた?」

「アラーム? ええ、聞こえたわよ。“ジリリリ”ってやつでしょ?」

 やはりそれくらいで怒るような性格ではなかった。では、あの違和感の正体は。

「それがどうかしたの?」

「いや、久しぶりに鳴らしてしまったからさ。驚かせちゃったかと思ってね」

「ああ、確かに久しぶりに聞いたかもしれないわね。でも、そのくらいで驚かないわよ」

「……そうだよな」

 これ以上の思考は混乱を招くだけだと理解したハルエトは、いつものようにコーヒーを入れるために、キッチンへと向かった。コーヒーバックが入っている棚を開け、マンデリンを取り出そうとした時、なぜか妙にキリマンジャロのドリップバックが目に付いた。しかし、やはりマンデリンを選択し、その後コーヒーカップを取り出した。温度計でケトルのお湯を測り、84°Cであることを知った。

 今日は水で冷ます必要はなさそうだ。

 そのまま、4度に分けてコーヒーを抽出し、使用済みのドリップバックを捨てた。妻の向かいに座ったハルエトは、卓上にある栄養食品を2本抜き取った。

「あら、今日は、グレープフルーツとオレンジ? 昨日よりもさらに酸っぱくなったわね」

 ハルエトの手には、蛍光色に近い桃色をした栄養食品と、橙色の栄養食品とが握られていた。昨日以上に無意識で、その2本を選んでいた。

「そうだな。なんとなくなんだけどな」

 選び直したい思いに駆られたハルエトだったが、掴んだものを戻す気にはなれず諦めた。

 せめて酸味の少ない方から食べて、慣らしてしまおう。

 そう思ったハルエトは橙色の栄養食品を開封しようとして、シラオリが栄養食品を選んでいないことに気付いた。

「選ばないのかい?」

「ん? 選ぶわよ?」

 答えたシラオリは訝しげな表情をして、続けて言った。

「ハルエトが早かったのよ」

 ハルエトは返答に窮して、“そうかな”とだけ応えた。特別空腹だったわけでもない。にもかかわらず、ハルエトは素早く栄養食品に手を伸ばしていた。彼にとって、この現象は思考するに値するものだった。夫の懸念を知ってか知らずか、シラオリは迷わず桃色と橙色を選び、手元に置いていた。ビリッ。シラオリはオレンジ風味の栄養食品の袋を破った。

「オレンジはいいわよね。安定してる」



 そのまた翌日。起床後にリビングへと向かったハルエトは、コーヒーのドリップを済ませ、食卓へ着いた。その手には、薄黄色と橙色の栄養食品が1本ずつ握られていた。

「レモンとオレンジか……」

 ハルエトは、自身が選んだ栄養食品を見て、困り顔で呟いた。

「どうしたの?」

 夫の様子に気付いたシラオリは、心配そうに尋ねた。

「あ、いや、俺がとうとうレモンを選んでしまうなんてと思ってね」

「そうね。酸味の強いもの苦手だものね」

 何故だろう。甘味に飽きたと言うにしては、三日間も酸味系統を選んでいるのは長過ぎる。挙げ句の果てには、ほぼ選ぶことのないレモンまで選んでしまっている。偶然? にしては、できすぎているだろう。認知的不協和でも生じただろうか……“認知的不協和”?

 同時にハルエトは駆け出していた。流しに着くや否や、呻き声をあげて吐きだした。空っぽの胃からは、ただ胃液だけが噴き上げた。

「どうしたの? ハルエト」

 ハルエトが顔を上げると、心配そうな表情をした妻が見つめていた。

「ああ……大丈夫。ごめん、食事中に」

「そんなことはいいけど、どうしたの」

 ハルエトは返答に窮していた。言いようもない不快感を説明する術はない。

「ごめんね。ちょっと風に当たってくるよ」

 妻にそれだけを伝えて、ハルエトは鍵と電子端末だけを持って、屋外へと出た。いつも見ているはずの光景のはずだった。しかし、今日は何故かとても空虚な感じがしていた。しばらく無心で歩いた後、ハルエトはとある公園のベンチへと腰掛けた。何も無い、ベンチがただぽつりと置かれた公園。

「広いもんだな」

 彼以外は誰もいないこともあり、ハルエトにはその公園がひどく広く見えていた。ふと遠くに目を向けると、そこには一際高い建造物がそびえ立っているのが見えた。そして、同時に違和感を持った。

 あそこは、確か……何だっけ? 駄目だ。名前が思い出せない。これだけ長く住んでいて、かつあれだけ目立つ建物なのに……あそこの菓子屋も、あそこの服屋も分かる。それなのに……

 違和感の正体を確かめるため、ハルエトは冷え切った腰を上げ、名無しの建造物へと歩みを進めた。


「――ここの名称すら答えられないって、どういうことですか?」

 建造物のロビーにて、ハルエトは受付係の女性へ説明を求めていた。

「ですから、私からお伝えすることができないだけで……担当者をお呼びしますので、しばらくお待ちください」

 女性は片手で壁を指し示して伝えた。そこは椅子すらも無い場所だったが、通路を塞がないちょうど良い場所でもあった。これ以上の問答は不毛だと感じたハルエトは、大人しくそこで待つことにした。程なくして、黒服の男性がハルエトのもとへとやってきて、深々と頭を下げた。

「お待たせして申し訳ございません、ハルエト様」

「いえ、構いませんが……ここは一体どういう場所なんですか?」

「どういう場所とは?」

「あー、おかしく聞こえるかもしれませんが、今朝急に気分が悪くなりまして……その時、公園でこちらの建物が目につきまして、自然と迷わず辿り着けたんですよ」

「ほう」

 黒服の男性は顎を撫でながら、ハルエトの話を興味深く聞いていた。

「そしてここに来て確信しました。私はこの場所に来たことがある。けれども、それを思い出せない……改めて聞かせてください。ここはどういう場所なんですか?」

 黒服の男性は、しばらく眉だけを動かしていた。そして、自分の通って来た一番奥の扉を、左手で指し示した。

「ここは“コグディス”という機関です。あなたの欲する答えは、おそらくあの先にあるでしょう」

「あの扉ですか」

 ハルエトには選択肢が無かった。違和感も吐き気も、既に耐えられないほどのものとなっていた。このまま自宅に帰ったとして、シラオリとこれまで同様に笑って過ごせるわけがなかった。彼は、扉を開けた。


 そこは、一面に花畑が広がった大きな部屋だった。もっとも、その花々はリアルな3D映像であり、本物ではなかった。

「やあ、ハルエトさん」

 黒い短髪の女性は、ハルエトに声を掛けた。

「お久しぶりです、フォルスティンガーさん」

「フォルスで良いですよ」

 この部屋に入り彼女の姿を見た瞬間、ハルエトは全てを思い出していた。自分が20歳の時にここに来たことがあり、そして、今と風貌の変わらない彼女から“処遇”を受けたことに。

「17年ぶりですか……“認知的不協和”ってこんなにも持続するものなんですね」

「ふふふ。案外、そして存外にも根深いでしょ、私の不協和。でも、大多数の人達は死ぬまでそのままなんですよ?」

 死ぬまでか……今になって考えると恐ろしいことだ。失った記憶に気付かず、感情に枷をはめられた日常を続けていたなんて。

「ところで、どんなきっかけでここに来たんですか?」

 フォルスは映像であるはずの花に、そっと手を添えながら尋ねた。

「いえ、きっかけは些細なことなんです。選ぶ栄養食品が変わったとか、いつもは飲まないコーヒーが目についたとか」

「ほう。“日常”から逸脱しようとしていたわけですか、無意識で」

 彼女の発した“日常”という言葉が、17年間の日常を差していることは明白だった。

「私は……私の無意識は、認知的不協和に気付き始めていたということですか?」

「どうでしょうね。気付き始めたとは、また違うかもしれません。ホメオスタシスって知ってますか?」

「一定の状態を維持するような、身体の自動調節機能ですよね」

「ざっくりはそんな感じです。もっとも、身体というか、心身ですね」

「あー、ホメオスタシスによって、認知的不協和の生じていない状態へと戻ろうとしたということですか?」

「はい、それが一つ目の仮説です」

 フォルスは花に添えていた手のひらを、風船を持ち上げるかのようにゆっくりと持ち上げた。同時に、彼女の手の中の花は、ふわりふわりと空中へ舞っていった。

「そして、二つ目の仮説は、自我同一性……つまりはアイデンティティに関するものですね」

「アイデンティティ……“自分が何者であるか”ですか」

「そう。“自分には何ができるのか”、そういったことも含みますね。そして、それはひどく現実的でなくてはならない。あー、妄想的だったり誇大的だったりする人もいますからね。それは別なのです」

 フォルスは、舞っていた花びらの一枚をつまんで笑った。ハルエトは待ちきれずに尋ねた。

「そのアイデンティティがどんな仮説に結びつくんですか?」

「そうですねぇ、アイデンティティが確立されている……つまりは、自分のことを主観的にも客観的にも深く理解できていることで、自分と外界との文脈的な違和感に気付きやすいんじゃないか、という仮説ですね」

「文脈的な違和感ですか……」

 なるほど、こちらの方が納得がいく。初めに違和感を持ったのは、好みではないはずの栄養食品を選んだことだ。シラオリが指摘しなければ気付かなかったのかもしれないが、そこは確かめようがない。しかし、であるならば何故17年間気付かなかったのだろう。違和感を持つ場面が無かったわけではないだろう。そこを説明するのは、ホメオスタシスの仮説でどうにかなるものだろうか……17年もの長い期間を。

「なるほど、少し理解できました。でも、どうして17年もかかったのでしょうか?」

「さあ、何故でしょうね。ハルエトさん以外の逸脱者さん達の年数も、バラバラですから」

 ハルエトは内心驚いていた。違和感に気付いた人が、自分以外にもいる可能性は当然あった。しかし、それを意識してはいなかった。

「その人達は、気付いた後どうしているんですか?」

 フォルスはくすりと笑いながら、右手のひらを向けた。

「まあまあ。ハルエトさんも逸脱者になられたので、ちゃんと説明しますから。まずは、私の認知的不協和の説明をさせてくださいよ」

「レオン・フェスティンガーが提唱した認知的不協和理論を応用した、プログラムのことでしょう?」

 フォルスは、今度は驚いた表情を見せて言った。

「あら、そこまで覚えていらっしゃる方は初めてかもしれません」

「もともと認知的不協和理論自体は知っていましたから」

「なるほど、道理で……じゃあ、詳しい説明を続けますね。具体的には、ここで脳の扁桃体に影響を与え、負の感情を起こしにくくする。その後で、“抑揚が無く平和な毎日こそが幸福だ”という認知を埋め込む。同じ処遇を受けた人達の街で、ただただ同じような日常行動をさせることで、さらに認知を定着させ、結果的に行動も付随して定着する。と、そういう仕組みですね」

 なるほど、分かりやすいような、分かりにくいようなプログラムだ。

「つまりは、“平穏こそが至高”という認知と、“平穏な日常生活”という行動とを繰り返させて、定着させるということですか?」

「そういうことです。素晴らしい理解力ですね、うちに欲しい」

 そこまで言って、フォルスは真面目な表情になった。

「うん、ちょうど先ほどの質問に回答すべきタイミングが来ました。認知的不協和に気付いた方々がどうなったか、でしたよね? その答えは非常に単純明快です……どうもしていないんです」

「どうもしていない?」

「はい、本当は二つの選択肢があるんですよ? 私達と同じAIになるか、自宅に帰って今まで通り暮らすか。けれども皆、後者を選ぶんですもの」

 なるほど、確かに俺も後者を選ぶ。何故と言われると困るが、少なくともシラオリの側にいたいからだ。

「ほら、ハルエトさんも後者なのでしょう?」

「分かりますか……はい、私も帰ることにします」

 そう言って扉へ向かうハルエトに、フォルスははっきりと呟いた。

「どちらを選ぶも、逸脱者さんの自由ですから」



 一月後。ハルエトは命を落とした。疑いようのない、綺麗な自殺であった。

「自由ですよ、自由ですけどね。違和感の外に出たあなたが、違和感の中にいる彼女と、平穏に暮らせるわけがないのです……せめて彼女の側に、眠りなさいな」

 フォルスは、部屋に広がる3D映像に触れた。直後、墓石に刻まれた文字の横には、彼の名がゆっくりと浮かび上がった。

 “シラオリ ハルエト ここに眠る”

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