第13話 初めてのキス

 裕人はタクシーの後部座席に座ると、すぐに項垂うなだれて眠り始めた。これじゃ電車でアパートのある千葉県市川市の本八幡駅まで帰るのは、おそらく無理だったろうなと加奈は改めて思った。


 ドライバーは40代くらいの感じの良い女性だった。とりあえず加奈のマンションに近い東西大学に向かってもらい、そこから先の道順は、着いたら指示しますと話していると、シェフ夫人が店から出てきた。「何だろう?」と思って、加奈がタクシーのドアガラスを下げると、窓越しに手提げ紙袋を渡してきて、耳を貸してのジェスチャーをする。


「加奈ちゃん、足止めしちゃって、ごめんね。

 これね、タッパー2個にボルシチが四人分くらい入っているの。

 今日の残りだから、もう具がオニオンとキャベツしかないんで、

 牛肉やニンジンを足して煮込んでね。明日の分?

 これから仕込むから大丈夫よ。イケメンなお友達と一緒に食べてね。

 見てて思ったけど、絶対に彼も加奈ちゃんのことが好きだよ。

 この人なら、加奈ちゃんのお父さんだって納得でしょう。

 加奈ちゃんは美人なんだから、好きなら友達とか言ってないで、

 勇気を出して行動しなきゃ。こんな素敵な人、放っておいたら、

 すぐ誰かのものになっちゃうよ。

 おばさんも応援しているから、まずは明日、彼の胃袋を掴みなよ。

 タッパーは返さなくていいからね」


 加奈が御礼を言ってドアガラスを上げるとタクシーが走り出す。


 加奈は横で寝ている裕人を眺めながら「初対面で、それほど会話を交わしてないシェフの夫人から高評価を得ちゃうんだから、つくづく里中さんは『人たらし』で、しかも本人が無自覚なのがタチが悪いよな」と感心する。


 そして「おばさん、そんな彼が素敵なのはボクが一番わかっていますよ。悔しいけど里中さんは、もう誰かのものなんですよ」と少しだけ泣きたくなった。



 走り始めて10分ほどでドライバーが、間もなく東西大学なんで、そろそろ道順をお願いできますかと聞いてくる。「今、見えてる二つ先の信号を右折して道なりに走ってもらって、24時間営業のお弁当屋さんが角にある一方通行の道に入ってください。そこを真っ直ぐ行くと丁字路に突き当たるんで右折して、しばらくするとコンビニがあります。その二軒先のマンション前で降ろしてください」と指示すると、ドライバーが加奈をちら見して「中学生?それとも高校生?しっかりしているのね。酔っぱらっているはお兄さん?」と質問してきた。


 「ボクは高校一年生で兄は大学生です。浅草の叔母がやっているレストランで飲み過ぎちゃったんで迎えに行ったんです」と相手が納得しそうな話を咄嗟にでっち上げて、悲し気な口調で喋る。


 上京したばかりの頃は、加奈も中学生や高校生に間違えられる都度、「違います。もう大学生です」と訂正していたが、今はもう、そんなことはしない。適当に相手に合わせた方が万事がスムーズに進むと理解したからだ。案の定、ドライバーの女性から同情するような言葉が返ってきたが、加奈は、ちゃんと聞きもせず、相槌を打ち、愛想笑いをして会話を終わらせた。


 タクシーが加奈のマンション前に到着したので「里中さん、降りますよ。起きてください」と裕人の身体を揺すると、すぐに目を覚ます。加奈が歩けるか尋ねると、大欠伸おおあくびをしながら「大丈夫、眠いだけ」とタクシーを降りて、マンションのエレベーターに乗ってくれたが、やはり普段より足元がおぼつかない。


 加奈の部屋は5階建てのマンションの3階で、一人暮らしの学生には広めの8畳1Kだった。昨夜、片山範子が泊まったが朝から裕人とデートだったので、彼女が使った布団がそのままになっていた。普段なら部屋に人を上げる前に片づけるが、裕人が酔っているので、すぐに入ってもらうことにした。

 部屋に入るや否や裕人は「結構、広いね」と言うと、一直線にキッチンに行き、適当なグラスを手にして、蛇口から水を汲んで、ゴクゴクと飲んで椅子に座った。かなり喉が渇いていたらしい。ここは、どこか尋ねられたので「ボクの部屋です。里中さんの酔いが醒めるまで休んでもらいます」と伝える。


「そうか、神大路さんの部屋か。なんか迷惑かけてごめんね。

 この御礼は絶対にするんで、俺にできることがあれば、

 なんでも言っちゃってください」


「じゃあ、里中さんの彼女にしてくださいよ。

 友達じゃなくて彼女ですよ」


 普段の冷静で紳士的とは全く違って、グダグダで弱っている裕人を加奈は面白がっていた。ちょっと揶揄からかいたくなったので冗談っぽくお願いしてみた。


「いいよ。神大路さんは、今日から彼女!」


 加奈は思わず笑ってしまった。おいおい、いいのかよ?合コンのとき素敵な人とか言ってた本当の彼女が泣くぞ。加奈は、さらに悪のりをする。


「彼女だから、もちろんボクにキスしてくれますよね?」


「OKです」


 えっ?!と思ったら、すっと立ち上がった裕人に抱きしめられて、えっ?!えっ?!えっ?!えっ?!と頭がバグっている間に裕人が唇を重ねてきた。あ、こんな簡単に里中さんとキスってできちゃうんだ。酔っているのに裕人は唇を合わせたまま、右手で加奈の頭を優しく撫でてくれるので、加奈も裕人に抱き付く。嬉しさや驚きや興奮、心地よさ、少しの悲しさなど、いろんな感情が頭の中で交錯しているうちに裕人が唇を離した。

 加奈が余韻に浸る間もくれず「ダメ、もう眠い。限界」と言って、裕人はベッドの横に敷いてあった布団に倒れ込む。加奈は裕人の顔をペシペシ叩いて起こし、上着を脱がせて、なんとかベッドに寝かせる。


「このベッド、寝心地が美緒んちとは全然、違う!」


「ホテルでも使われている製品なんですよ。

 里中さんの彼女さん、美緒っていうんですか?」


「違う。今の彼女は神大路加奈!」


 一瞬イラッときたが、台詞が嬉しかったので許すことにして、この際だから素面しらふでは言いそうもない情報を探ることにした。


「神大路加奈の前の彼女は誰ですか?」


「岩倉智子だよ。行方不明になっちゃった。今でも忘れられない。

 神大路さんは、彼女にちょっと似ているから好き」


 お!なんか、すごい情報が出てきたぞ。冷静沈着な実務タイプかと思っていたけど、昔の彼女を忘れられないとか案外、ロマンチストな一面があるんだな。その彼女にちょっと似ているってことは、ボクにも勝ちの目があるってことか?岩倉智子か。確かフィリピン人ハーフで、例の僕っ娘の呪いの子だったな。あとでノリ坊に詳しく聞いてみよう。


 その後、加奈は半分寝ている裕人をなだすかして、麻木美緒の名前を聞き出すことに成功した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る