第12話 加奈の部屋で

 せっかく、気分よく眠っていたのに誰かに鼻と頬を撫でられた感触があって、裕人は目を覚ました。すぐ目の前に加奈の顔があって、かなり驚いたが、向こうも、びっくりした様子だった。


「あ、起こしちゃいました?ごめんなさい」


 加奈は慌てて、裕人の顔を触っていた右手を引っ込めて、ベッド脇のサイドテーブルに置いてあったメガネを取ろうとしている。そうだった。神大路さん、学校ではコンタクトではなく、メガネだと言ってたよなと寝起きのぼんやりした頭で、この状況に全く関係なさそうなことを裕人は思い出していた。


 なんで俺は神大路さんと添い寝をしているだ?昨日は彼女と浅草でデートして、ディナーに誘われて、ロシア料理店でコース料理を食べてたよな?それから、どうしたっけ?


「ここは、どこ?」


「ボクのマンションですよ。覚えてないですか?」


 俺が神大路さんのマンションに泊まった?びっくりして自分の服装を確認すると、ちゃんと服を着てたので安堵したが、念のため加奈にも尋ねてみた。


「すいません、私、神大路さんに変なことしてないですよね?」


「えーっと、里中さんが酔ってたから、

 冗談で『ボクにキスしてくれますか?』ってお願いしたら、

 本当にしてくれました。でも、そこまでです」


「えっ?! 神大路さんにキスしたんですか?!

 も、申し訳ないです」


「いえいえ、ボクも悪ふざけで誘ったんで気にせずに。

 あと添い寝は、床に敷いてあった布団で寝ようとしたら

 ベッドで寝てた里中さんから『こっちで寝たらいいじゃん』って

 誘われたからで、勝手に横に寝てたわけじゃないですよ。

 ただ、里中さんの寝顔を真横で見てたら、我慢できなくて

 顔や髪を結構、触ってました。それは、ごめんなさい。

 あ、里中さん、喉が渇いているでしょう?ちょっと待ってください」


 そう言いながら、キッチンから水の入ったコップを持ってきてくれた。起き上がってベッドの上に座り、渡された水を飲みながら、裕人は昨夜の記憶を手繰った。


 キスして添い寝に誘ったか。酔っていたとはいえ、やっちまってるな。神大路さんが怒っていないことが、せめてもの救いだな。


 ……そうだった、昨日はスパークリングワインを飲んで、キャビアがのったロシア風パンケーキを食べて、ボルシチがテーブルに置かれる前に神大路さんが、変わった名前のウオッカを注文したんだよ。あれは何て言ったっけか?ズブなんとか……そう、ズブロッカだ!たしかポーランド製のウオッカで、ボトルに長い草が一本入っていて、独特の清々しい香りがするとか神大路さんが言ってた。

 シェフ夫人が、キンキンに冷えたズブロッカとショットグラス2個、ピッチャーに入ったグレープフルーツジュースと、皿に盛られた塩を持ってきた。あれがヤバかったんだ。


 _______________________________



 加奈は、ズブロッカをショットグラスの1/3くらい注いで、ピッチャーのグレープフルーツジュースは別のグラスに注いだ後、左手の甲に塩をスプーンで盛る。


「ウオッカのカクテルと言えばソルティドッグですけど、

 普通は飲み口の周囲に塩を付けたグラスに

 グレープフルーツジュースで割ったウオッカを注ぎます。

 ボクはお行儀が悪いんで、こうやって飲むんですよ」


 そう言うと、手の甲の塩を舐めて、一気にショットグラスのズブロッカを飲み干し、次いでグレープフルーツジュースをゴクゴクと飲んで、最後に舌で上唇に残る塩を軽く舐めた。


 素早い一連の動作が、びっくりするほどカッコ良かった。そして、岩倉智子が中学生になったような見た目の加奈が手の甲の塩を舐めて、ショットグラスを煽るというラフな行動のギャップに裕人は完全に心を奪われた。加奈は、すぐに二杯目を飲んだ後、裕人に聞いてきた。


「里中さんも、如何ですか?最初はウオッカを少なめの方がいいですよ」


 ショットグラスの1/4ほどにズブロッカを注ぎ、グラスにジュース、それから手の甲に塩をのせて準備は完了。見よう見まねで、塩をぺろりと舐め、口の中が塩味だらけになったところで、ズブロッカをくいっと一気に飲む。いい香りがしたなと思ったら、アルコールが押し寄せてくる感じがしたので、ジュースを多めに飲む。

 意外と飲み易かったうえに、加奈が「里中さん、素敵です!」と褒めてくれたので、いい気になって、ついついお代わりをしてしまった。


 …途中までは良い具合に酔いが回って、お喋りになっていた裕人だったが、メインディッシュのシャシリク(羊肉の串焼き)を食べ終わり、デザートのチョコレートケーキが出てきた辺りで「あれ?ちょっと飲み過ぎたかな?」と急に眠気に襲われ、椅子に座ったままウトウトし始めた。加奈と違って、裕人は、それほどアルコールには強くなかった。


 シェフ夫人が「加奈ちゃんのお友達、酔っちゃったみたいね。少し寝かせてあげたら?」と言ってくれたので、加奈も様子を見ていたが、ちょっと寝た程度では酔いが醒めるとは思えなかった。このまま地下鉄駅まで連れて行っても、階段をちゃんと降りられるか怪しいし、どこかで寝てしまう可能性が高いので、電車に乗せるのは危険だなと考え、少し嘘をつくことにした。


「おばさん、里中さんは一人で電車に乗って、

 自宅アパートまでは帰れないと思うのでタクシーを呼んでくれますか?

 里中さんのアパートはボクのマンションのすぐ近所なんです。

 一緒に乗って、ボクがアパートまで送りますから」


 実際には自分のマンションに連れていくつもりだった。酔いから醒めた裕人に嫌がられるかもという不安もあったが、裕人を自分の部屋に泊めたいという気持ちが勝った。


 幸い裕人は酔って歩けないではなく、起こして声を掛ければ、反応があるし、誘導すれば立って歩くこともできた。

 父からもらった家族カードでディナーの支払いを済ませて、お土産の焼きピロシキを受け取ったところで、丁度、レストランの前にタクシーが停まった。


「里中さん、起きてください。

 タクシーで帰りますよ、乗れますか?」


 加奈が起こすと「大丈夫!」と言いながら裕人は立ち上がり、割と普通に歩いて、タクシーに乗ってくれた。加奈のマンションは本駒込にあり、この時間であれば渋滞もないので、車なら浅草から10分ほどで着く。

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