夏は好き?

ninjin

夏は好き?

「夏は好き?」

 間もなくやって来るであろう夏を前にして、何て質問をするのだろう、この人は。然もエアコンのガンガンに効いた車のハンドルを握りながら、唐突に可笑しな質問をするものだ。

 フロントガラスの先に見える江ノ島と、その手前の波の合間で波待ちをするサーファー達、そこに照り付ける太陽、如何にも暑そうな景色に、二割のワクワク感と残り八割のうんざり感というのが正直なところだ。

「どうして?」

「どうしてってことではなくて、好きか嫌いか、だよ。因みに僕は嫌いなんだけどね、暑いから」

 そう言って笑う彼なのだけれど、やはり質問の意図は全く分からない。

「そうねぇ、そう言われると、私も夏は嫌いかな。暑いから」

 取り敢えずそう答えるしかない。しかし不思議とワクワクしてくる。この先の話の展開はどうなるんだろう、と、ワクワク感が二割から三割くらいには上昇した。

「だよね、やっぱり。話し合うね、僕等」

 更にクスクス笑う彼に釣られて、つい私もクスッと笑ってしまう。悪い癖だ。

 彼は左手だけでハンドルを握り、右手で器用に胸のポケットからタバコとライターを取り出して、前方に目を向けたままそのタバコに火を点けながら「でもさぁ」と続けた。

「昔、そう、子どもの頃って、夏は好きだったよね、皆。僕も夏は好きだったし、君もそうじゃなかった?」

「?」

 そう言われるとそうだった気がする。いや、そうだった、間違いなく。

「でさ、僕等は皆、何時から夏が嫌いになったんだろう?って、一昨日の夜、そう、君との電話の後、ふと考え始めちゃってさ、それから一昨日は一晩中、反省会だったよ」

 彼が言う『反省会』とは、一人お酒を飲みながら物思いに耽ることを言うらしいことは、前に彼が話していたことだ。

「それでさ、結論としては、多分なんだけど、仕事始めてからなんじゃないかなって思ってさ。つまり、社会人になってから。・・・だけど、本当にそうかな?って気がしないでもなくてね。そう思い始めたら止まらなくなっちゃって、それで一昨日の晩は飲み過ぎだよね」

 相変わらず可笑しな話をしだす人だ。

 どこまで本気なのかしら。

 本当に人ってそんなことを考えながらお酒を飲み続けることが出来るのかしら。

 いや、この人なら遣りかねないし、そういうことが出来ちゃうような気がする。

 そしてこの人の本気とも冗談とも思えないその語り口に、いつも笑わされてしまう私は、それでも今日こそは必ず確かめたいことがあると同時に、最悪、・・・ても構わないと決心を固めていた筈だった。

 多分大泣きするんだろうけど・・・私が。

 なのに、ついうっかり笑って話に乗ってしまう自分が、少し情けなくもなるのだけれど、

 そうは言ってもどう仕様もないことなので仕方がない。

「あはははっ、可笑しい。本当にそんなことで一晩中?でも、普通そんなこと考える?」

 私が笑ったので、彼は如何にも嬉しそうにそれに答える。

 彼の中では「普通じゃない」とか「変わっている」とか、もっと言えば「馬鹿」とか「阿呆」みたいな言葉は全て褒め言葉になるらしい。

「君はいつから夏が嫌いになった?ちょっと待って。君の答えを当てる。君は高校生くらいかなって、答えるよ、多分。女性がお化粧を始めたり、それと一緒に日焼けすることを嫌がるようになる年頃って、そんなものでしょう、違う?」

 彼はチラッと私の方に目を向けて「どう?」という仕草で笑って見せて、再び前方に視線を戻す。

「うん、多分、その頃だと思う」

 少し考える風にして答えると、彼は更に可笑しなことを言う。

「でもさ、それってほんと?本当に高校生の頃に嫌いになったかい?」

「?」

「いやね、僕も最初は単純にそう思ったんだ。僕の場合は学校卒業して、就職したら、途端に夏が嫌いになったような気がして、ああそうか、それで一件落着って。でも、よく考えてみたら、本当にそうかな?って。大方その頃で合ってはいると思うんだけど、何処かに『夏は嫌いだ』って感じるピンポイントなタイミングが有ったんじゃないかと思い始めちゃってさ、もう十年以上前のことだから、記憶を辿るのが難しくって。それに更に、『じゃあ何で?理由は?』って疑問も湧いてきちゃって、ずーっと考えちゃったよ」

 この人がそんなことを考えながら、一人お酒を飲んでいる姿を想像するだけで笑ってしまうのだけれど、そのこじらせ加減を笑いながら話されると、ついつい声まで立てて笑ってしまうのは何故だろう。

 今日の私は、心の中ではかなり悲壮な決心のもと、一日中冴えない表情をしている筈だったのに。

「そんなこと考えたこともないけど、それってどうなの?相変わらず可笑しなことばかり考えるのね。おっかしい」

「でもさ、嫌いになった理由って、大事じゃない?だってさ、もし仮に、季節に人格があったとして、夏はもの凄く混乱して怒って、泣き叫びながら理由を訊いてくる案件だよ」

「?」

 またちょっと何言ってるか分からない。季節に人格って、何を言い出すんだろう。

「俺のこと、あ、ここ『あたしのこと』かもしれないけど、君はあんなに好きと言ってくれたじゃないか。若しくは、あたしのこと貴方はあんなに愛してると言ってくれたじゃない、あの日・・・なのに、どうして?どうしてなのっ、って夏が発狂しながら迫ってくるわけ」

「あはははっ」

 まずい、また声を上げて笑ってしまった。

 彼はまだ続ける。

「それに対して君はなんて答える?『理由なんかないよ、嫌いなものは嫌いなんだよ』って言える?『いつ?いつから嫌いだったの?』って聞かれて『そんな事は分からないよ』って答えられる?そんな不義理が君には出来るかい?」

 だめだ、ヒーヒー笑い過ぎて涙まで出てきた。

 そんな私を見て、彼はいかにも楽しそうに、それでいて声のトーンは至って普通に「ね、もうなんか、夏に刺されちゃいそうでしょ。怖くない?」と言う。

 それから更に続けて、今度は芝居がかった台詞調に

「浮気?浮気なの?相手は誰?春?それとも秋?ま、まさか、冬なんてことはないでしょうね・・・え、そうなの?ほんとうに、ふ、冬美のことが・・・」

「ククッククククッあははははっ、ははははっ」

 もう堪えきれない。

「ま、冬は無いけどね。寒いの嫌いだし」

「も、もう止めて。く、苦しい。笑い過ぎちゃった」

 ニコニコしながら片手ハンドルでタバコをふかす彼は、「あ、大きい波が来たよ、あのサーファー乗れるかな」と、もう今の話を忘れたようかのように海の方を見遣る。

 私も同じ方向に目を向けると、確かに大きなうねりがやって来ていて、それを見付けた一人のサーファーがタイミングを計るようにバチャバチャとパドリングを始めているのが見えた。

「乗れるかな、どうかな」

 前方と海の方を気にしてチラ見しながらの彼が、一瞬息を止める。そして「あちゃ・・・」と溜息をついた。

 大きなうねりが波になる瞬間、サーファーはボードに立ち上がったまでは良かったのだけれど、波のスピードが思ったより速かったのか、それとも彼の乗るタイミングでの前足の体重移動が遅かったのか、波はボードの下を潜り抜けて、サーファーは後方にひっくり返るようにして海に沈んでしまった。

 今のシーンを見て、何かまた可笑しなことを言うのかしら、この人。

 私は期待半分に身構えるのだけれど、そういう時に限って彼は何も言わない。ただ黙ってハンドルを切りながら何かを考え込んでるような表情をしていた。

「どうかした?」

 私は何とはなしにそう訊いてみる。

 彼は一瞬ハッとしたような素振りをしてから「いや、どうもしてないよ」と微笑んで見せたが、或る意味彼はそういうところは隠すのが下手だ。絶対に何か考え事をしていたと思う。

「さっきの夏が嫌いって話なんだけど」

 今度は私からそう話し掛けてみた。

「ん?どうした?嫌いになった瞬間を思い出した?良かったら教えてよ」

 そう言って微笑みかける彼に、私は「ううん」と首を振って、「そうよね、あんなに夏が好きだったのに、どうしちゃったんだろう、あたしたち」と、思ったままをそのまま口にした。それから、「今、何か考え事してた?」と訊いてみる。

「うん、あ、いや、そうだね。うん、考え事してたかな、多分」

 少し歯切れの悪い彼の返答に、私は少し安心する。この人は正直なんだ、嘘がつけない人なのだ、と。

 その安心が、自分が喋ることを促してくれたようにも思う。

「そういえば思い出したことがあってね、子どもの頃にね、夏休みになると、あたしと弟って、毎年岐阜のおじいちゃん、おばあちゃんの田舎に行ってたんだよね。結構な山間やまあいの田舎なんだけど、単純に親の帰省旅行とかじゃなくて、ほぼ一か月間、ずっと田舎に居たの。預けられてたって感じ」

 そこまで話して、一度息を吐く。

「へぇ、君の田舎って岐阜なんだ。初めて聞いた」

 彼の相槌に促されるように、私は話を続ける。

「うん、そうなの。それでね、中学校の二年生くらい迄かな、その後行ってないんだけど、あの頃は田舎は田舎で楽しいんだけど、夏休みの間ずっと友達に会えないのが辛いのと、裏の畑で採れるナスとキュウリの浅漬けが嫌だったのを思い出しちゃった。今思えば贅沢な夏休みだったような気がするけど。それと、おじいちゃんが川で捕って来る鯉を、『鯉こく』にしてくれるんだけど、それもあたしは嫌いで、冷凍唐揚げをレンチンしたのと、ふりかけご飯ばっかり食べてたなぁ。弟は鯉こく大好きみたいだったけど、あたしはあのフォルムがダメで。おじいちゃん、おばあちゃんちの食べ物はあんまり好きじゃなかったけど、思い出したら、何か、久しぶりに田舎に行ってみたくなっちゃったな」

 自分でもびっくりするくらい、思ったことをそのままに口にしている私が居る。

「分かるぅ。おじいちゃん、おばあちゃんの料理って、子どもの口には合わないこと多いよねぇ。僕も子どもの頃、時たまなんだけど、母親が用事で居ないときに、近所に住んでたおばあちゃんがお弁当作ってくれて、それ持ってサッカーの試合に行ったことあるんだけど、小学生の時ね、それが煮物弁当で、ニンジン、ジャガイモ、コンニャク、それに蒲鉾が甘辛く煮付けてあるのがおかずな訳。嫌だったなぁ。子どもだから、唐揚げとか焼き肉が好きじゃん。でも今なら絶対、煮物弁当の方が魅力的なんだけどなぁ。ブリの照り焼きが一枚くらい入っていれば最高なんだけどね」

「そうそう、大人になってから、今なら絶対に美味しいって思えるものって、ある」

 彼に同意しながら、あの夏の日が脳裏に鮮明に蘇る。

「あれ?でもさ、いつも君が行ってるおばあさんのとこって、確か戸塚だったよね」

「あ、そっちは母方のおばあちゃん。岐阜は父方。戸塚はおばあちゃんだけだけど、岐阜はおじいちゃんもおばあちゃんも、もう居ないんだ」

 彼は「ん?」と、少し困ったような表情になる。

「そっか。要らないことを訊いちゃったね、ごめん」

「ううん、全然。もうおじいちゃん、おばあちゃんが亡くなって十年も経つんだよ。ちょっと昔のことを思い出して話しただけだから、気にしないで」

 私はそんなことは全く意図していなかったので、寧ろ久しぶりに田舎のことを思い出して、話していて少しばかり楽しい気分になっていた。

「そっか。なら良いんだけど・・・。ところで岐阜ってさ、山の中とかだと、やっぱりクワガタとかカブトムシとかって、たくさん居たりするの?」

 男の人って、夏休み=カブトムシ、なのかしら、やっぱり。

 少し可笑しい。

「そうね、多分、そうなんだと思う。弟が結構たくさん捕ってきてたから。あたしはあんまり興味無かったけど」

「へぇ、そっかぁ、良いなぁ。僕は昔、そういうのに憧れてさ。友達が夏休みに田舎に行ってカブトムシ捕った話とか、川遊びの話とかしてるとさ、自分ちの親に『なんでうちには田舎が無いの?』って訊いたもんだよ。今思うと、変な質問だよね」

 そういえば、この人の実家って、東京葛飾の下町って言ってたっけ。ご両親とも東京生まれの東京育ちだとか。だったら、帰省とかいっても、東京⇔横浜じゃ、あんまり変わり映えしないかぁ。

「分かる?そういうの?夏、爺さん、婆さんの所に行っても、ただ暑いだけで何の変わり映えもしない夏休みの風景」

 あ、同じこと考えてたんだ、この人も。

 良い悪いは別にして、そんなものなのだろうなぁと、何となく理解は出来ると同時に、自分自身が経験したことって、ひょっとして貴重な体験なんじゃないかって、ふと気付かされたように思った。「感謝」って言葉をふと意識する。

「ま、それでもさ、この歳になってやっと分かったことでもあるんだけど、人ってそれぞれで、僕と君が生まれも育ちも違うように、本当に人ってそれぞれ違うんだなって。体験も経験も違えば、その体験や経験に対して起こる感情も違うだろうし、それによって受ける影響だって違うんだろうなぁ、ってさ」

 ん?この人は何が言いたいのか、時々分からなくなる。今がその時だ。いや、基。しょっちゅう何を言っているのか分からない。だけど、何だかワクワクする。私の知らないこと、考えたこともないことに気付かされるところが、好きなのかもしれない。

 違う違う、そういうことじゃない。

「そういえばさ、北海道にはゴキブリが居ないって、知ってた?」

「?」

 また何の話?

「いや、本当に居ないんだって」

「へぇ、それがどうかしたの?」

「それでね、カブトムシも居ないんだ。カブトムシって、昆虫図鑑でしか見たことがないんだって、北海道の子どもは」

「へぇ、ほんとなの?」

「そんな人が、東京なんかに出て来て、ゴキブリと初めて遭遇すると、ゴキブリを見て、カブトムシと思って大喜びするらしいよ」

「嘘でしょ⁉」

「いや、ほんとだって」

 彼はクスクス笑いながら「と北海道出身の奴が言ってた」と付け足す。

「やだぁ」

「信じる信じないは、あなた次第です」

 ダメだ、笑いを堪えられない。「あははは」と声を立てて笑ってしまう。

 今日もやっぱりこの人のペースで一日を過ごしてしまうのだろうな。仕方ないか。

 諦めにも似た心持と、当初の悲壮な決意とのせめぎ合いは、どうやら諦めに傾いてしまっているようだ。ダメだなぁ、私って。

 車は江ノ島水族館の前を通過しながら、順調に加速を続ける。

 サーフボードを抱えた少年たち、もう既に夏の格好をした女の子たち、そして青く透き通る空に、白色の太陽。

 夏が来るのね。



 今日も一日、何をしていたのか、ちっとも覚えていない。

 お昼に食べたペスカトーレとサラダも、「美味しぃ」って自分で言ってた割には、どういう味だったのか本当は覚えていない。

 ただ、いつも通り、彼と一緒に過ごすことが楽しくもあり、心地良くもあり、少しドキドキして、陽が傾くにつれて何となく切ない。

 お昼を食べた後、小田原まで足を延ばし、小田原城の菖蒲園を散策し、鈴廣かまぼこをお土産に買って、湘南まで戻って来ていた。

「夕陽を見に行こう」

 そう言う彼に「うん」と頷いて、私はどうにもやるせない気分になる。やっぱり、何か、物足りない。その「何か」も本当は分かってはいる。でも、その「何か」が無いせいで不安になったり、反対に「何か」を実際に手に入れることが怖かったり・・・。

 車を国道近くのパーキングに停めて、私達は鵠沼海岸を並んで歩いた。

 近くのコンビニで買ったバドワイザーとほろ酔いピーチをぶら下げて、オレンジ色に染まり始めた砂浜は、日中の暑さは影を潜め、時折吹く西風が心地よい。

「この辺りにしようか」

 遊歩道沿いのベンチの前で立ち止まった彼は、私が座るスペースの砂を手で払ってから、自分も座って、私を促す。

 ほろ酔いピーチの缶を受け取りながら、私は彼の右隣に腰掛ける。

 あれ、いつもと並んだポジションが違う。違和感を感じて、何気なく彼に目を向けると、彼も同じようにこちらを見て、今日一番の優しい笑顔でニコリと微笑む。

「やっぱり、違うな。うん、僕も違和感しかない。とてもよく分かった」

「え、何が?」

 彼はそれには答えずに、黙ったまま立ち上がり、自分が腰掛けていた位置から反対の、私の右隣に移動して再び腰掛ける。

 そして今度は納得顔で、「うん、良かった。間違いない」と自分に言い聞かせるているのか、それとも私に語り掛けているのか、どちらとも分からないのだけれど、視線はしっかりと私に向けながら、彼は再び微笑んでいた。

「ねぇ、何がどうしたのよ?」

「うん、そうだねぇ。その前に、飲み物が冷たいうちに乾杯しようか」

 そう言ってバドワイザーのプルタブを押し開ける彼に倣って、私もほろ酔いピーチの缶を開ける。

「じゃ、乾杯。そして今日一日おつかれさん」

 彼は私が「えっ」と驚くほどの勢いで、ビール半分ほどをゴクゴクと一気に煽った。

「あぁ、旨いっ」

「なぁに?そんなに喉渇いてたの?」

「ああ、ずっと、今日は喉が渇きっぱなし」

 今度は何故かちょっと意味深に笑みを浮かべる彼は、「ふぅ」と小さく息を吐いてから、夕陽の方向に遠い目をする。

 そしてそのまま沈みかけた夕陽を見詰めた格好で、少しばかり低いトーンで話し始める。

「先に謝っておくよ。君はこれから事故に巻き込まれる。でも、それは君が悪いのではなくて、きっと僕が悪い。だけど、その事故を回避するのもしないのも、君次第・・・。

 ・・・本当は今日は止めておこうかなって思ったんだ・・・覚えてる?今日、波に乗れなかったサーファーを見たのを・・・。だから、止めておこうかなって・・・」

 嗚呼、来てしまった。

 きっと、私はフラれる。

 せめて私の方から切り出したかった。『貴方は私のこと、どう思っているの?』『私たちの関係って、ずっとこのままなの?』『私って、貴方にとって、そんなに重たいのかしら?』

 って。

 泣きたくなるくらい惨めな思いになりながら、言葉も出せずに必死に涙を堪えていると、その横でいきなり立ち上がったと思った彼は、そのまま私の前に跪く。

 一瞬、何が起こったのかと混乱してしまう。

 違う、私が思っていたのと・・・。

「あやね・・・さん、僕と、結婚してください。お願いします」

 ・・・え?・・・

 私の聞き間違いかしら?

 でも、そう言って彼が私に差出したのは、いつの間に引きちぎったのか、バドワイザーのプルリング。

「あ、いかんいかん、間違えた」

 彼は実に芝居がかった動きで上着の内ポケットをゴソゴソを探り、そこから小さな箱を取り出した。

 テレビドラマなんかで見たことのある、小さな箱。その箱をパカッと開けると、その中にはアレが入っている筈なのだ・・・。

 そうして彼は、その小箱を私の目の前に差出しようにして、やっぱりそれを両手でパカッと開けた。

 開ける瞬間、私は「ちょっと待って!」と叫びそうになったけれど、出てきたのは声ではなくて、両の目からの涙だった。それも溢れ出すように。

 涙を流す私の姿を見て、彼は少し驚いたように、そして無理におどけるように言う。

「ごめん、プルリング、笑えなかった?笑わせようと思ったんだけど・・・」

 私は怒っていた。怒っていたけど、涙でぐちゃぐちゃになってしまった顔には、見る見るうちに笑みが零れてくるのも分かっていた。

「笑えないわよ」

「ごめん・・・怒った?」

「怒る訳ないじゃない」

 私は我慢出来ずに、彼にしがみつくように彼の首筋に両手を回した。

「あだぢの方ごそ、お願いぢばす」

 涙と鼻が詰まって、発音がかなり可笑しい。

 今この瞬間、世界が終わっても良いと思った。



 あの日から五年。

 毎年、私達はこの日に、ここへ来る。彼は必ず休暇を取って。

 去年から、一人、メンバーが増えた。その子も、今年はよちよち歩きのオチビさんになっている。

「僕はまた夏が好きになったよ。いや、夏の始まりが好きになった、が、正しいかな」

「あたしも、毎年、今日が好き」

「でもさ、夏も好きになってきたよ。アイツの誕生日が待ち遠しいから」

 彼の視線の先ではよちよち歩きのオチビさんが、何やら真剣に砂を見詰めて考え込んでいる。

「多分、あの子も、僕とも君とも違う成長をして、いつか大人になるんだろうなぁ。楽しみじゃない?」

「本当にそうなの?大人になっちゃっていい訳?」

「ん?何で?」

「そのうち、いつか、彼氏とか、連れてくるかもよ。然もその彼氏が、貴方そっくりな人だったらどうする?」

 私はちょっと意地悪っぽく言ってみる。

「そ、それはダメだ、絶対に駄目。僕がそいつをぶん殴ってでも諦めさせる」

 ちょっと面白い。

「殴るって・・・、貴方は自分を否定する訳?」

 クスクス笑いをしながらそう言うと、彼はワザとらしくムスッとして見せて「意地悪か?君は?」

 二人で同時に笑い出した。

「あ、でもね、その連れてきた男が、あの子を左側に置くような奴だったら、認めても良い、かな」

「なに、それ?」

「僕がそうだった。自分の心臓を預ける位置なんだってさ。要は、信頼してるってこと」

「ん?」

「僕にこれ以上言わせるな」

 そう言って、少し照れたように笑う彼は、彼の左腕で、私の肩をグイッと引き寄せた。

 オチビさんが危なっかしい足取りで駆け寄ってきて、私と彼に同時に抱き着く。

 夕陽が綺麗だ。

 来年もまた、来れたらいいな。

 私も夏が好きになるかしら。

 この人と、この子と一緒なら、水着も悪くないし、麦わら帽子に虫捕り網を持って駆け回っても楽しそう。

 もうすぐ、夏が来る。

 ぼんやりとそんなことを考えながら、沈みゆくオレンジを眺めていた。




     おしまい

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夏は好き? ninjin @airumika

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