第五話~性の喜びはもう知れない~


 ――ちゃぽん。


 小さな水音がして目を覚ます。日はすっかり落ちていて、いつもは満点の星々を輝かせている夜空には薄く雲がかかり、光源の無い洞穴はいつにもまして暗闇に覆われていた。ハルマは寝ぼけ眼のまま背後に視線を投げる。ドラゴンの目は暗闇の中でもある程度の視界を保つことが出来た。昼間少女を寝かせていたところを見てみると、そこには残飯となったきのみのカスと、乱雑に広がった葉っぱが残っているだけだった。


「……さすがに出て行ったか……」


 寝床にまた自分一人になったことに、安堵と一抹の寂しさと未だ胸の中で渦巻く違和感を感じながら、ハルマは一つ欠伸をして再び眠ろうとして、


 ――ちゃぽん。


 再び不自然な水音が聞こえ、湖の方を見やる。鏡のような水面が星のない暗闇をゆらゆらと映していた。魚でも跳ねたのだろうか。顔を顰めて目を凝らしてみると、景色の中に影が一つ見えた。少し距離があるため、ドラゴンの目を持ってしても暗闇の中でソレが何なのかを判別することは難しかった。


 目が慣れるまでじーっと見ていると、夜空を覆っていた雲が途端に晴れ、月明かりと星々が周囲を一気に照らした。そして、その目の前の光景に、ハルマは固まってしまう。


 湖にいたのは、あのエルフの少女だった。太ももより下を水に沈め、それより上の肢体は一糸まとわぬ姿で水浴びをしている。


「――」


 鼻歌を歌いながらツヤのある瑞瑞しい素肌を――腰を、乳房を、うなじを、撫でるように洗っている。濡れた前髪をかき上げた少女の相貌は、昼間よりもどこか大人びて見えた。滴る水滴が月明かりを反射し、キラキラと輝いている。その姿は筆舌に尽くしがたい神秘的な美しさを放ち、思わず見蕩れてしまうような芸術性すら持っていた。


 しかし、どんな芸術作品だって、性的倫理観が思春期のままで止まっているハルマには意味をなさない。男子中学生は英語の時間に先生が発する『six』のネイティブな発音でにやにやするし、英和辞典や国語辞典の卑猥な単語にマーカーを引いてあるし、保健の授業の後は絶対前かがみになる。端的に言えば、「エロい」という感想以外は出てこないのである。


 更に言えば、目の前にあるのは生身の美少女の裸体だ。ハルマでなくたって、一般男性の性的興奮を刺激するのに十分な破壊力を持っていることは間違いない。そんな光景を目の当たりにして、女性経験皆無のくせに性欲だけはやたら強い三八歳の独身男、辰巳榛真の理性が保てるわけがない。


 はずだった、


「っ――」


 ハルマはようやく気づいた。少女を見つけてから、自分の中に生まれていた違和感の正体。目の前で年頃の美少女が、全裸で水浴びをしている。その事実に、ハルマは今、まっっっっっっっっっっっったく興奮していないのだ。


 それは少女がハルマにとって幼いからとか、好みでないからとかそういう話では決してない。二十歳に届かないぐらいの年齢でありながら、体つきは確かに本人が言っていたようにちょっと腰回りに肉がついているかもしれない。だが決して太っているというわけでもなく、しまっているところはしまっていて、出るところは出ているといった感じ。寧ろそのむっちり具合が非常にものがある。正直、どストライクの体型だった。


 しかしハルマは、そんな若い年齢に、ボンッキュッボンな恵体、さらにエルフという異種族の美少女という性癖トリプル役満な彼女を、性の対象としてまったく見れないのだ。少女が動くたびにいろんなところがぷるぷる揺れる様を見ても、猫の毛づくろいを見ている程度の感情しか湧いてこない。


 その理由に、ハルマはすぐに思い至る。簡単な話だ。今、彼はドラゴンなのだ。その生態系はまったく謎だが、少なくとも人間の容姿で興奮したり、性的な本能が働くことはなくなってしまったのだろう。


 ――嘘だろぉおおおおおおおおおお!!!


 その事実に頭を抱えて蹲る。人間に対する性欲が亡くなってしまったことよりも、そのことに対してあまりショックを受けていないことがさらにショックだった。男として大切な何かを失ってしまったような感覚。そもそも自分はドラゴンのオスなのかという疑問すら湧いてくる。


 ハルマはまるで月明かりに照らされた少女を拝む方にうずくまり、生涯使うことのなかったムスコのことを思いしくしくと涙を流すのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る