7
七、
声が聞こえる場所は段々移動しているような気がする。
始めは、同じ三階の他の病室から聞こえ、次は四階への非常階段。
四階に上がると、一番奥まった所の病室から、コハルの声が聞こえた。
錆びて開かなくなったドアを力任せに蹴破る。
がらんとした部屋に人の気配はない。
破れた窓から振り込んでくる霧雨に床が濡れ、懐中電灯の光を妖しく反射していた。
今度は、コハルの声が窓の外から聞こえた。
窓からは、中庭が見下ろせる。
窓に駆け寄った時、私は焦りで正常な思考をしていなかったかも知れない。
中庭に、コハルが倒れていた。
先程の霊に連れて行かれてしまったのではないかと、本当に恐ろしかった。
彼女を見下ろす様に、痩せた一人の老人が傍らに立っている。
その老人の霊には、眼球がなかった。
霊はこちらを見上げると、にたりと笑ったように見えた。
怖気と同時に、腹の底から憎悪が沸き上がってくるような笑みだった。
踵を返し、再び駆け出そうとした瞬間、物凄い力に引き留められた。
『走るな。転けても知らんぞ』
何が面白いのか、冬悟が笑いを堪えながら言った。
こっちは心臓が止まるかと思った。
「……私は幼児か…」
そのままより高く吊り上げられて、爪先さえ地面に付いていない。
冬悟は遂に爆笑し始めた。
その位置関係から考えると、私を吊っているのは教方が妥当か。
『猫の仔の方が近いのではないか』
とは、私を吊り下げている張本人の発言だ。
「手を放せ、親猫……」
これ以上吊られていると首が絞まる。
『承知した』
冬悟と教方は二人して、私を追いかけてきたらしい。
『手間の掛かる大家を持つと、店子は苦労のし通しだ。なあ?教方殿』
『されど、それも一興だ』
幽霊達は、窓の方を一瞥すると、意味あり気な視線を交わした。
『高村、下へ行くんだな?』
「ああ……」
『では、この方が早い』
そう言って、教方は私を抱え上げた。
………どっかで似たような事があったぞ……。
またか…?またなのか…っ!?
教方は割れた窓の窓枠に足を掛けた。
そして、今度は博物館の吹き抜けならぬ、病院の四階から地上へと。
降下決定。
「やっぱりかぁあああ!!」
人生二度目の、飛び降り体験など経験してみたくも無かった。一度でも十分過ぎる。
先に飛び降りた藤野さんのマンションと比べれば、四階くらい易しいものかもしれないが、昼と夜では随分事情が違った。
夜の方が、何も見えない分怖い。
しかも、教方の迫力が二割り増しに見える。
本気であの世に連れて行かれるかと思った。
「コハル、は……?」
中庭には、影も形もなかった。
霧雨が、まるで我々を引き留めるかのように、じっとりと肩を包んでいる。
『逃げられたな』
『そう遠くへは行っておらぬぞ』
病院の奥へ奥へと、誘い込まれているような気もするが……。
「怪しいと言えば、あれが一番怪しいよな?」
中庭の反対側、九階建ての病棟の陰に隠れる様にして、小さな木造の建物が存在していた。
中庭は草が伸び荒れてはいたが、中庭の隅のボイラー室などには一切落書きもなく、誰の侵入も受けていない様子が、酷く不気味だった。
小さい方の建物を、ここでは「旧館」としておく。
旧病棟への入り口は、二カ所。正面玄関と新館と繋がっている渡り廊下部分。
正面玄関はできることなら近づきたくないくらい荒廃しているが、新館一階を探索していた冬悟の話によると、渡り廊下の新館側の鉄製の扉は、頑として開かなかったそうだ。施錠されている可能性があって望みは薄い。
諦めて旧館正面玄関の戸を開けて、中に入る。鍵はボロボロで、戸は難なく開いた。
雨の所為か、湿気た匂いが充満していた。
床板が、一歩歩く毎にぎしぎしと音を立てる。
ここにも人の気配はないが、私はコハルの名を呼んだ。
呼びかけた後、耳を澄ませてみても、何の応答もない。
もう一度、声を掛けようと息を吸い込んだ時、激しく戸を叩く音が、どこからか聞こえてきた。
音の聞こえる方に目を遣ると、待合室らしき空間の向こうに、二つ並んでいる木製の扉が目に入った。
叩かれているのは、『診察室一』という札の下がった、左側の扉のようだった。
「コハルっ!?ここに居るのか!?コハルっ」
扉の向こうに向かって叫ぶと、
「高さんっ!!助けて!」
コハルからの返事があった。
私はドアノブに手を掛けようとした。
けれど、
「駄目っ!駄目だよっ!」
コハルの声に驚いて、私は手を引っ込めた。
「……コハル……?」
その声は、右側の扉から聞こえてきた。
まるで、こちらにいる自分が本物だと主張するかの様に、右の扉が激しく叩かれた。
「帰って!お願いだから帰って!」
「嫌だよ……、助けてよ……。高さん、助けてっ」
左側から聞こえる声は、段々泣いてしまいそうに、今にも消え入りそうになっていく。
一方、右側の声は、声を涸らし叫ぶ様にして、帰れと訴え続ける。
両方に霊の気配があるらしく、教方達にもどちらが本物か分からないようだった。
冬悟も教方も、扉に向かって刀を構えたまま、微動だにしなかった。
「私……、どうしていいかわかんないよ…。怖いよ……っ。ここから出して……」
「高さんっ…、高さん……っ!こっち来ちゃ駄目だよっ!逃げてよ、お願いだから…、お願いだから逃げてよ!!」
どちらのコハルも、扉のすぐ裏側にいることは間違いがない。
私は、一方の扉を指して言った。
扉ごと斬ってくれ、と。
教方は、私に頼まれるまま左側の扉に刀を突き立てた。
扉に突き刺さった切っ先を伝って、血が滴り落ちる。
『小賢しい真似を……』
教方が吐き捨てるように言う。
『ただの幻術だ。気にするな』
冬悟は忌々しそうに扉を睨み付けた。
教方が更に刃を深く突き立てると、扉の奥から獣の様な咆吼がこだました。
『戸を開けてやれ。これで開くようになったはずだからな』
右のドアノブに手を掛ける。
木製の扉は、耳障りな音を立てながら、ゆっくりと開いた。
コハルは、両手で顔を覆い、床に座り込んで、必死で泣き声を押さえていた。
床には、握り締めていたのか、ぐしゃぐしゃになった写真が落ちていた。
就職が決まった記念に二人で撮った写真だった。
私は写真を拾うと、その場に膝を付いて、そっと彼女に呼びかけた。
「コハル……?」
急に強い光を見るのは良くないだろうと思い、懐中電灯を違う方向へ向けた。
「……コハル…」
「………なんで…。なんで…、来たの……?」
しゃくり上げながら、コハルが言った。
「なんで…って、心配したから」
「…………ごめんね…」
「水臭い。心外だ」
コハルは、わかっているのかわかていないのか、「うん……」と曖昧な返事をした。
「生きてるよな……?」
「……大丈夫…。生きてるよ」
まったく……、寿命が縮むかと思った…。
「高さん……、どうしてこっちが私だってわかったの……?」
手の甲で涙を拭いながら、コハルが訊いた。
「……無理してる感じだったし」
帰って欲しいはずがないのに、泣くのを我慢して叫び続けていたのだろう。
「心配されてる感じもした」
私がそう言うと、コハルの目から涙がまた零れ落ちた。
「あともう一つ。化け物ってあんまり、同じ事を二度三度続けては叫ばないしな」
偶に例外がいるけど。
最近ウィリアム専用になりつつあるハンカチを取り出して、コハルに渡した。
「帰ろうか」
私は、コハルを支えながら旧館の階段を登った。
しかし、途中でコハルが寝てしまったため、今は冬悟が背負っている。
冬悟は『何故、俺が!?』と文句を言っていたが、理由は簡単だ。
教方に背負わせると、鎧が痛い。兜も邪魔になる。
羽織を着ていることや、鎧の形状の違いをとっても冬悟の方が適任だった。
「今後一週間、なんでも好きなもの食べていいから、機嫌直せよ」
『………考えてやらんこともないが……』
『素直に喜んでおけば良いものを…』
『の、教方どのっ!!』
慌てた冬悟を見て、教方がふっと口元に笑みを浮かべた。
二階の渡り廊下では見慣れた連中が待っていた。。
『ほら、秋ちゃん達は大丈夫だっただろ?』
『はい…、本当によろしゅう御座いました……っ』
陽平と号泣中のウィリアムだ。
その横には、長岡もいる。
今の今までウィリアムは本腰入れて泣いていたらしく、夥しい数の鬼火がうようよしている。
私達が、新館側へやってくると、長岡は
『では、最後の仕上げと参りましょうか』
と言って、先にハンカチを巻き付けた木の棒を、取り出した。
『これは私の持ち物ですからな。よく燃えるでしょう』
長岡が、木の先端を鬼火にくべると、確かにハンカチは勢いよく燃え上がった。
そしてトーチの様になったそれを旧館側に投げた。
鬼火は、あっという間に廊下に燃え広がった。
降り注ぐ小雨に、火勢は勢いを増した。
『鬼火は、雨の日の方がよく燃える。現実のものは燃やせずとも、この世ならぬものに焼き尽くせぬものはない』
旧館は瞬く間に青い炎に包まれた。
雨でずぶ濡れになりながら、日浦さんの車のあった辺りに戻ると、そこではまだ、藤野さん達が私を待っていた。皆濡れ鼠である。
「こんな所で何して……っ…いった!!」
佐伯に小突かれた。
不服を込めて、佐伯を睨み付けると、奴は「心配料だ」などと抜かした。
「ウィリアムがどない言うて連絡したんかはしらんけど、ねえさんと車は、主任の奥さんが引き取りに来てくれはったよ。危うく、ねえさんの失踪届出すとこやったって」
恐らく、ジャンが日浦さんの親戚である大沢主任の奥さんを頼ったのだろう。
「もう三時間ほどで夜が明けるで……」
明日も仕事なのに……。
三者三様にうんざりした表情を作った。
帰りも佐伯が送ってくれるという。
何故かと聞くと、「乗りきれねえだろ」との返事が返ってきた。
藤野さんの車は四人乗り、佐伯の車は六人乗りだ。
佐伯は、幽霊も頭数に入れてくれるらしい。
長岡先生は藤野さんに付いていったが、それでも家の居候連中は四人。
それに、コハルと私も居るので計七人になる。
「本宮とお前で0.5人ずつな」
幽霊達は車内では姿を消していたらしく、佐伯には見えていなかったが、私の目にはあんまり映像化して欲しくないような光景が映っていた。
教方は辟易したらしく、車の屋根に上がってしまった。
雨の日は嫌いではないそうだ。
佐伯には見えない為害はないが、フロントガラスの向こうに、屋根に腰掛けている教方の足が下がっている。
雨はさっきよりもずっと小降りになっている。
私は車の中から、ひっそりとそびえ立つ、『病院跡』を振り返った。
真っ暗な雨空にぼんやりと見える白亜の塔には、未だ妖気めいたものが漂っていた。
『病院跡』はこの辺りの建物の中では、飛び抜けて巨大だ。
あの廃病院の持つ「高さ」が、あの奇怪な出来事をこの場所に呼び寄せたのだろうか。
中庭に居た老人の姿を思い出すと、今でも背中がぞっとする。
「秀さん……、当分『干瓢』は食べたくないよな……?」
「……当分どころか、二年は要らねえ……」
あの老人の姿は、佐伯にもバッチリ見えていたらしい。
コハルは、ひょっとすると『干瓢』など一生食べたくないかもしれない。
さらば巻き寿司。昆布巻き。
これでひとまず、災難は終わった。
『干瓢嫌い』という副産物を残して。
これには長岡先生も一役買っていると思うのだが、深くは追求しないでおこうと思う。
奇人百景 冥土ノ道先案内 巴屋伝助 @tomoeyadensuke
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