真夜中の帰宅

 子供の頃の話だ。


 北海道に住む祖母の家に、母と、二人の弟とで滞在することが度々あった。父と母は事実婚だったのだが、父の浮気や、性格上の折り合いがつかなくなったことが原因で、当時増え始めていた母子家庭というやつになっていた。

 祖母の邸宅は、建築士だった祖父が設計して建てたもので、2階建ての洋館でありながら、和室も備え、小さな庭もある、きれいな家だった。

 祖父は私が生まれたあとすぐに病で亡くなり、祖母はこの家に、10年以上ひとりで住んでいた。


 夜は、2階の、建物の端に位置する広々とした和室部屋を兄弟3人で使うことになっていた。といっても、毎年のこととはいえ、10歳前後の3兄弟は、旅行気分ですっかり楽しくなっている。私たちがそうすぐに眠りに就くはずもなく、いつまでも話をして他愛ないことで繰り返しツボにはまったように大笑いし、トランプをしたり、広い部屋を走り回ったりしているうちに、やっと、年の小さい順に力尽きるように寝入っていくのだった。

 長男だった私は、真ん中の弟が寝入ったあとも興奮冷めやらず、翌日の「雪まつり」とやらに思いを馳せていた。早く眠ろう、という発想すらほとんどなかったように思う。


 真っ暗な広い部屋。弟たちの寝息だけが響く部屋で、非日常の夜の雰囲気をひとり静かに楽しんでいた。デジタル時計の示す時刻は、午前3時を回ろうとしていた。




 水の音。

 今いる部屋、そのちょうど真下に位置する風呂場から、誰かがシャワーを浴びる音が聴こえるのである。こんな時間に、祖母か母が風呂を使っているのだろうか。

 自分だけが眠れず、多少の退屈を感じていた私は、まだ起きている大人がいたことに安堵し、トイレに起きたという体で、話し相手にでもなってもらおうと思った。和室を出て下の階へ。月明かりに照らされる、吹き抜けの大きなシャンデリアを見上げながら降りていく。





 しかし、風呂場の明かりがついていない。

 シャワーを浴びる物音はするが、脱衣所の扉は開いたままで、風呂場も含め1階全体が真っ暗なのである。私は確信する。





 10歳過ぎの私は、あまりに不可解な状況に対し、困惑を通り越して恐怖を感じた。物音の主に気取られないよう、息を殺して階段を戻り、祖母と母の眠る部屋の戸を、ほんの少しだけ、物音を立てないようこれまた細心の注意をはらって開ける。

 何度も目を凝らして確認する。何度も。おかしい。まずい。ふたりともそこにいて、眠っている。





 母は呑気にいびきをかいている。はっきりといびきだけが響く。





 風呂場の水音が止まっている―――!





 自分の心臓も止まる思いだった。私は気取られるのも構わず、走って和室の戸を開け転がり込む。恐怖が子供の身体能力を限界まで引き出し、尋常ではない勢いで扉を閉め、布団に潜り込んだ。

 暗闇で急いだために誰かの足を軽く蹴ってしまった。「うるせーな」と呻く次男の声に心の中で謝罪し、頭まで掛け布団を被ったまま戦慄していた。





 翌朝。


 いつの間にか眠れていたことにほっとしながら、早朝に目が覚めていた。すっかり明るくなっていて、1階から味噌汁の匂いがする。恐る恐る部屋を出て降りていった。祖母が鼻歌交じりに朝食の準備をしている。

 すっかり安心した私は、昨晩の出来事を祖母に話した。すると、祖母は嬉しそうな顔をして話し始めた。





 祖母の話を簡単にまとめると、風呂場を使っていたのは、亡くなった祖父であるという。

 お盆のあたりや命日などになると、祖父がこの家に戻ってきて、風呂を使うのだという。実際に見に行ってみると、風呂場の床や壁は濡れていて、昨晩の水音が幻聴でなかったとはっきり理解した。

 祖母は、亡き伴侶がいっとき帰宅したのだと言ってにこにこしていた。祖母の解釈によれば、孫たちがやってきたので、嬉しくて帰ってきた、ということらしい。


 起きてきた母に、同じ話を喜々と聞かせる祖母を見て、複雑な気持ちになるのであった。





霊は水場を好むというが、これもまた、そういう話なのだろうか。

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ホラー短編集 〜眠れなくてもいい夜に読む話〜 @naoyas0716

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