世界は今日も、何事も無く



 空が青い。


 そんな当たり前の事実が、俺にとっては何よりも愛おしい。地面が地面であり、家が家のままである事。この世界の誰も気にしない当然の事実が、俺にはとても美しい物に見えた。




 目が覚めた時、俺は病院のベッドの上に居た。




「…………病院?」


 いや、病院ではない。ここは梧医院。つかささんの経営していた場所だ。だから天井がやけに狭いのだ。代わりに窓が近く、外の景色が明瞭に見える。何故こんな所に運ばれたかは分からないが、この場所を知っているという事は彼と少なからず交流があった人物という事になるが―――


「やあ、檜木君。君は随分しぶといんだな。正直驚いたよ」


 そう言って隣のベッドから馴れ馴れしく声をかけてきたのはこの医院の主こと梧つかさ。患者衣の上から白衣を着て取り繕ってはいるが、その右腕には全く中身が無い様に見える。この近距離で見間違うものか。


「つかさ先生ッ? な、何でここに?」


「何故と言われれば見て分かるだろう。怪我人だよ僕は。それも普通の病院に行った方がよさそうな怪我だ」


「じゃあ何で行かないんですかッ?」


「僕自身ここが落ち着くというのもあるが、まともな病院は何処も患者だらけでね。心拍が異常に早く過呼吸気味な患者が多くてまともな病院は何処も満杯さ。原因は全くの不明。普段は情報の早いテレビも何も情報が無いもんだから報道のしようがない。不特定多数の人間が突如として病院に運ばれた以外何を言えってんだか」


「だからここに?」


「そうそう。流石に何らかの病気を併発してしまったらそうもいかないが、生憎と健康体でね。御覧の通り腕は無いが、この程度ならここを使った方が手っ取り早いという訳だ。勿論君もね」


 言われてから自分の身体を見遣る。外傷らしき外傷は見当たらない。入院する必要性は全くない様に思えるが、どうしてここへ運ばれたのだろうか。口には出さずに考えていると、察したつかささんが先んじて説明してくれた。


「ここへ運ばれた時、君は呼吸をしていなかった。健康体の死体が手に入ったと思ったときは大喜びしたんだがね。君は神の使者みたいに息を吹き返してしまった。残念だ」


「…………先生らしいですね」


 俺に叩きのめされた事は気にもしていない……



 というより覚えていなさそうだ。



 俺と彼を繫いだのはどう考えても『彼女』の存在なのだが、そこだけが抜けて、結果だけが伴っている。勘違いなら困るので直接尋ねようかと思い喋りかけた―――瞬間。待合室の方から扉を開く音が聞こえ誰かが入ってくる足音がした。





「失礼しま…………あ! 檜木さん!」


「おにーさん! 意識戻ったんだ!」


「……創太様。ご無事で何よりです」





 入って来たのは幸音さん、莢さん、空花の三人。その順番からするに、どうやら幸音さんが二人を案内した様だ。記憶に変化はなく、三人が三人とも親し気に話しかけてくるが―――丁度いい。全員に確認するまたとないチャンスだ。


「済みません。全員に聞きたい事が―――わふッ」


 言葉の続きは遮られた。三人の中では一番反応の薄かった莢さんが、言葉とは裏腹に俺を抱きしめて来たのだ。しかしながらベッドで座る俺を抱きしめようとすると必然的に顔が胸に行ってしまう。その柔らかさの前には俺も口を噤むしかなかった。


「本当に……何よりです……! 創太様がご無事で…………!」


「……さ、莢さん。腕はもう良いんですか?」


 彼女は俺から離れると、不思議そうに両腕を見遣った。


「―――腕が、どうかしましたか?」


「えッ」


 悲惨な事になっていた腕がギプスもなしに元通りなのはおかしいと思っていた。そうなるまで俺は眠っていたのかとも思ったが、どうも最初からそんな事実は無かった事にされているらしい。




「済みません。全員に聞きたいんですけど。メアリって名前に聞き覚えありますか?」

















 つかささんも含めて反応は芳しくない。幸音さんも莢さんも空花でさえも、そんな人物に一切の心当たりはないと言った。それは俺達にとって理想の反応であり、こうならなくてはいけなかったのだが、いざそういう状況になると混乱してしまうのが人間だ。


 知り合う過程でメアリが関わっていた事実さえ消えてしまい、俺は困惑していた。そして俺の傍にメアリは居ない。力を失わせたことと引き換えに友達になったのは誰だ。何故その友達が傍にいてやらないのだ。


「アイツ……何処にいるんだよ」


 外の空気を吸ってくるという名目で外出。幸いにも運び込まれた時の服装は塔に突入してきた時と変わりなかった。つまり俺の意識が目覚めたのはアイツとの意地の張り合いが決着してまだ間もないという事でもある。


 そもそも絶頂死を迎える途中だった者達が病院へ運び込まれている時点でそれは分かっていたが、これで確信に変わった。道中数人とすれ違ったが、もう俺を見て何かをしようとする事はない。興味すら無く、そのまますれ違った。


 それもその筈、町の人間が俺を虐げてきたのはメアリという存在があっての行為だった。人は正義の後ろ盾を経た時、その正当性の下に残虐になる。絶対正義たる彼女が消えれば当然その残虐性は鳴りを潜める訳で。


 被害こそ残ったが、十年以上前に拝んだきりだった普通の世界が帰って来たのだ。


「…………メアリ! 何処だ!」


 居る筈のない人間の名を叫びながら、俺は黄泉平山へと足を踏み入れる。自殺の名所たるこの山だが、その先には神社があるのだ。そしてそれはメアリに拘らず存在していた筈だ。俺の薬指には未だに婿たる証の指輪が刻まれている。不可視の存在との交流が嘘っぱちでなかった証拠だ。今まで通りそこには神社がある筈だ。


「……あった」


 適当に上っていたら見つけた。百段を超える石階段とその先に聳え立つボロボロの鳥居。常邪美命様の神社。メアリを探しながら何故ここへ来たかと言われると理由は単純。俺が五体満足で無事なのは命様が助けてくれたお蔭だからだ。挨拶ついでにメアリの所在も聞こうという訳である。


 いつもの調子で階段を上り切って鳥居を潜った瞬間―――ずっしりとした弾力と共に、何かが俺にしがみついた。




「だーれじゃッ!」




「―――命様!」


「ククク、よく分かったのう! 流石は妾の信者じゃなッ」


 改めて前方に回り込み、命様は俺を抱きしめた。大きく開けた着物から見える谷間が俺の顔を埋め、惜しげも無く露出された肉付きの良い脚が下半身に絡みつく。呼吸すらままならないが、それがどうでも良くなってしまう程には心地よい。


 力を取り戻した命様は、決して変わる事なく俺の事を覚えていた。


「創太~! 妾は嬉しいぞ? ん? 今日ここに来たのは如何なる理由か? 七日七晩の契りで以て妾と夫婦になる準備が出来たか?」


「フー! フーッ!」


「む。そうじゃな。顔を埋めたままでは喋れぬ。当然じゃな」


 上半身は離れたが、脚は俺に絡みついたままだ。これはこれで至近距離から谷間が見えるし、その圧倒的なボリュームに息を呑まされた。ポールダンスのポールになった気分だ。


「……命様。まずはどうもありがとうございました。貴方が居なかったら俺達は死んでいたでしょう」


「何を言う。全てはお主の信心が無した事よ。主のお蔭で妾は考えを改める事が出来た。礼を言うのはこちらじゃ」


「え?」


「妾はかつての様に多くの人間に崇め奉られたいと望んでおったが……あまりにも俗世に迷惑を掛け過ぎると学習したのじゃ。人は神を必要としなくなった。それは神に対する決別ではなく、戒めだったんじゃな。神に頼り過ぎれば堕落してしまうと誰が気付いたかは知らぬが、今回の事で妾はそれを思い知った。故に―――」




「今から我は弓月命じゃ。神としてではなく、これからは一人の女として創太と関わっていきたいと考えておる」




 せっかく力を取り戻したのに、とは思わない。それは命様―――弓月命が決める事だ。俺に対して積極的なのは全てが終わったのもあるだろうが、神の役目から降り、対等な立場で接しているからだろう。一人の雌として。



 ―――月喰さんに毒されたな。



 雌ではなく女だ。


「じゃあ命様」


「命で良いぞ♪ 敬ってくれるのは嬉しいが、最早神ではないのじゃからな。それにこれから夫婦となるのにそれでは格好がつかなかろう、旦那様?」


「―――み、命。えっと…………その。今回来たのはメアリの安否を確かめたくて。何処にいるか知ってますか?」


 長い間使ってきた喋り方は簡単には抜けない。相変わらずの敬語に命様はむっと口を尖らせたが、敢えて何も言わずに社の中へと手を向けた。


「……中に居るんですか?」


「『知らぬ』。じゃが行けば分かるであろう」


 案内はしないとの事で、俺は言われるがまま社の中へと入り、目を瞠った。



 命様の社は、以前来た時とはくらべるべくもない程に広くなっていた。



 外見構造を無視して内部を広げるのは彼女もやっていたが、命様がやると規模が違う。こじんまりとした社が、一転して大神殿だ。西洋風の喩えになったのは偏に俺の語彙不足である。奥に鎮座するご神体も初めて見た時より随分と大きくなっており、その大きさは牛久の大仏にも引けを取らない。


 そんな巨大な空間の中心に、彼女―――周防メアリは立っていた。


「メアリ」


 声を掛けても彼女は背中を向けたままだ。仕方がないのでこのまま話を続ける。


「何でこんな所に居るんだ? 俺はお前が傍に居なくて心配したんだぞッ」


「…………ここは、私の住所」


「……住所?」


「―――力が全部なくなる前にね、あの神様に言われたの。貴方以外に『視えなくなる』私には俗世で暮らす場所がない。あの家は跡形もなくなったしね。だからここに住んで良いよって。本当は私もお見舞いに行きたかったけどごめんね。創太君には他の友達もいるから、誰からも視えない人が来たらややこしくなると思って行かなかったんだ」


「…………そうか」


 力を失ったにも拘らず、メアリはあの巫女服を命様から受け継いでいるらしかった。あの時は印象最悪だったが、こうして見てみると―――結構似合う。


「ねえ創太君。私達、もう友達?」


「じゃなきゃ必死に探さない」


「必死に探してくれたんだ」


「すぐ見つかってくれて何よりだけどな。もし見つからなかったら一晩中町を走ってでも見つけるつもりだったよ」


「私の為に?」


「友達になりたいって言ったのは俺なんだ。それくらいはするよ」


 俺にもメアリが認識出来なくなっていたらそれはそれで考えがあったが、使う事にならなかったのは手間が省けて助かる。もう彼女の中から嫌悪感は感じない。無数の人格は露と消え失せ、目の前に居るのは何でもない周防メアリ。俺の大切な友人。


「なあメアリ。こっち向いてくれよ」


「嫌だ」


「何で」


「本当の私は陰気で、表情が乏しいの。そんな不細工な顔、貴方に視られたくない」


「今からでも明るくなっていけばいいさ。お前の笑顔、結構可愛いと思うぜ。前は確執があったから素直に言えなかったけど―――今は何も無い。もう一度俺に見せてくれよ。今度は『本当の笑顔』をさ」


 埒が明かないのでこちらから回り込もうとすると、それに応じてメアリが反転。頑なに顔を見せないのは、それだけ本当の自分に自信が無いらしい。俺は『そのままでもいい』と言ったが、人間、青天の霹靂でもない限りは早々変われたりしない。 


「……ねえ創太君。私ね、一つ目標が生まれたの。話してもいい?」


「何だ?」


「私ね、貴方の事が好き。友達としてじゃなくて男の子として好き。今は友達のままだけど、いつか絶対貴方の事振り向かせたいッ。貴方さえ居てくれるなら何も要らない!」


「…………それを伝えられても反応に困るんだが」


「聞いてくれるだけでいいよ。これは単なる目標。今度は自分の力で貴方を振り向かせるっていう意気込みだから!」


 右足を引いて、メアリが振り返った。


「創太君―――」


 きっと、忘れることなどあり得ない。


 猛毒の抜けた少女の笑顔には、希望が満ち溢れていた。























「ありがとう!」




  











  





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

メアリー・スーには屈しない 氷雨ユータ @misajack

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ