case19.最上乙葉の罪〜面舵いっぱい〜

 私は自分のことを平凡だと思っているし、実際にその通りだ。

 だから私の人生もそうなるものだと思っていたし、実際に昨日まではその通りだった。


 しかし、人生は何がきっかけで方向転換するのか予想がつかないらしい。

 何かにぶつかったのか、何かにぶつからなかったのか、それは後になってみないと分からないけれど。とりあえず、後で振り返ってみればあれが人生のターニングポイントだったな、というものが存在するみたいだ。


 それで上り調子になるならいいのだけれど、それでお先真っ暗、下り坂まみれ、という最悪なレールに乗ってしまうこともあって。


 ところで私はどうなのだろう、と考えてみたのだけれど、今のところよく分からないのだ。





 週5日。たまに休日出勤で週6日。

 私は今日も飽きずに電車に乗っている。


 普通列車に乗ればまだマシなんだろうけど。朝早く出る方が苦痛な私は、今日もぎゅうぎゅうに詰め込まれた電車の中でひたすらに耐えていた。


 迷惑になるのでスマホも触れない。とりあえず電車の中は暇なのだ。だけど今日はラッキーなことに扉前に立てた。景色と言えるほどの景色ではないが、少しぐらいの気晴らしにはなるだろうと窓の外を眺める。

 カタンカタン、と規則正しく響く音と振動に自然と欠伸が出てしまう。昨日は夜遅くまで推理ドラマを観ちゃったしな、と気になる犯人の正体に思いを巡らせていた時であった。


「すみません」


 と、耳元で突然囁かれた言葉に肩が跳ね上がった。

 私の左後方から聞こえた声に慌てて振り向けば、満員電車故にピッタリとくっついた体の持ち主がもう一度「すみません」と口にした。

 それは英語で言うところの"エクスキューズミー"ではなく、"ソーリー"の方の"すみません"で、心当たりがない私は怪訝な顔をしてしまう。


 私より一回りくらい若いだろうか。白に近いほどの金髪、両耳にピアス、首元にタトゥーをいれたその男の子は、申し訳なさげに眉を下げた。

 私のこれまでの人生で関わることのなかった見た目の彼に思わずギョッとする。私は彼に謝られるようなことをされた覚えはないのだ。聞き間違いかと思ったが、彼の表情を見るにそうでもないらしい。

 咄嗟に曖昧に微笑み返せば、"こいつ分かってないな"とでも思われたのだろうか。彼はもう一度私の耳に唇を寄せた。


「俺のちんぽがお姉さんに当たってて、……勃っちゃった」


 えへへ、と照れながら可愛く笑う彼の口元から、ちろりと八重歯が覗く。


 何を言われたのか理解できなくて思考停止した私のお尻に、彼は硬くなったそれを押し付けた。

 先ほどの発言の証拠を見せつけられているその行為に、だんだんと意識が覚醒し出す。

 立派な痴漢行為、犯罪です!と、彼を詰問しようとした私の声は、スカートの中に無遠慮に突っ込まれた彼の手によって奪われてしまった。


「……っ、」

「わぁ、すごい。女の人ってこんなにすぐ濡れちゃうんですか?」


 散々遊んでそうな見た目とは裏腹な発言が、私の羞恥心をこれでもかと煽ってゆく。

 人との距離がゼロセンチの、こんな電車の中で口に出していい言葉じゃない。私の下着を楽しそうなリズムで擽る指を捕まえて、今すぐ「この人痴漢です!」と突き出したいのに。


「ねぇ、これから仕事ですか?俺も大学サボるから、お姉さんも一緒にサボろうよ〜」


 いつもの私なら絶対に首を左右に振ってた。そもそも痴漢なんて憎むべき犯罪で、気持ち悪い以外の感情は湧いてこないのだ。

 なのに、どうして。こくんと頷いてしまっているのか。私にも分からない。

 余程彼の顔がタイプだったのか。それとも知らず知らずにストレスが限界にきてて、頭がおかしくなっていたのか。


 素直に頷いた私を見た彼は、満足そうな顔で笑った。笑うと覗く白い八重歯が、やっぱり可愛いと絆された。





 彼は自分を「たっくんです」と名乗った。その本名を名乗らない行為は明確な線引きで、私とのセックスは今回限りのただの気まぐれのようだ。……私にとっても好都合なんだけど。


 それなのに"たっくん"は私がラブホテルのお手洗いに行っている間に(恐らく)鞄を漁り、「おーとーはーさんっ」と勝手に名前を把握していたのだから、本当に気分が悪い。


「勝手にやめてよ!」

「ごめ〜ん、怒らないで?」


 顔の前で手のひらを合わせて謝る姿はやっぱりなんだか信用できない。軽すぎる。途端に気持ちが削がれて、なんなら怖くなって「やっぱり帰る」と踵を返した私を、彼は後ろから抱き留めた。


「だめぇ、帰さない。今日お姉さんは俺に抱かれるんだよ?」

「……、」

「ほら、まだパンツ湿ってるじゃん。俺のも硬くなってきたぁ」


 そう言って、彼は再び私のお尻にそれをグリグリと押し付けた。

 きゅん、と子宮がときめいて、私は途端に逆らえなくなってしまう。顎を掴まれ無理矢理後ろを向かされた私の唇を"たっくん"が奪った。

 遠慮などない。初めからフルスロットルの舌を絡める濃い口づけに、腰の辺りをゾワゾワと快感が走り抜けてゆく。息を荒くし、とろんと虚な瞳になった私を見て、"たっくん"は「かわい〜」と子供みたいにはしゃいだ。




 浅く開いたトップスの首元から見えていたタトゥーはほんの一部だったらしい。服を脱いだ彼の右肩甲骨から右腕にかけてもびっしりと彫られている。しかしそれを怖いと思うより、なぜだが美しく感じてしまう。戸惑うようにそっと触れた私に、"たっくん"は首を傾げた。


 好きじゃない人と、つまり彼氏じゃない人とセックスをするのは初めてだった。どんなもんかと思っていたし、自己嫌悪でいっぱいになると思っていたけれど、実際はそんなことなくて。何度も強い力で腰を打ち付ける彼に翻弄されながら、私は自由になった気がした。


「っはぁ〜、めっちゃイッたぁ!気持ち良かったぁ!」


 バフンと豪快にベッドに寝転びながら、半ば叫ぶようにそう言った"たっくん"に思わず笑みがこぼれる。


「あ〜、お姉さん、今俺のこと子供っぽいと思ったでしょ?」


 私が笑ったことに臍を曲げて、唇を尖らせて抗議をする彼は、確かに子供みたいだ。いや、年の差ーー正確には分からないがーーを考えれば、実際に子供みたいなもんなのだ。


「そんなことないよ」

「うっそだね、俺分かるもん」

「……まぁ、実際にだいぶ年下でしょ?」

「12歳だね」

「ほらね、12歳も下なんて子供みたいなもんだよ」


 失言だったかな、とさらに不貞腐れた彼を見て思うが、発言を取り消すことはできない。しかし謝ることはできる、と謝罪をしようとした私に、"たっくん"は満面の笑みを向けた。


「そんな子供に痴漢されて、パンツぐしょぐしょに濡らしたくせに〜」

「そ、それは……!」

「さっきまで『イクぅ、イクぅ』って乱れてたお姉さん、ちょー可愛かったよ?」


 揶揄うのが面白いのか、にんまりと口角を上げて"たっくん"は楽しそうだ。


「ね、今日で終わりだなんて寂しいこと言わないよね?」

「……えっ、」

「え、お姉さんひどい!俺のことやり捨てするつもりだったの?!」


 被害者ヅラして、泣きまねするみたいに瞳をウルウルさせてる。だけどそんな風に言われて悪い気してない自分が恐ろしい。年下の男の子の口車に乗せられて良い気になっちゃってる。


「違うよ!ちょっとビックリしちゃっただけ!」

「あ、そーなの?ならまた会ってくれる?」

「う、うん……まぁ、今は彼氏もいないし、いいよ」


 私の答えを聞いて、「やったぁ」と嬉しさを爆発させて喜ぶ彼はとても可愛い。見た目は確かに怖いけど、顔は整ってるし、性格も素直で明るい。"たっくん"にこそ彼女いないのかな、と不安になって聞いてみれば「いな〜い」と軽い返事。


「モテそうなのにね」

「俺〜?モテるけど、好きな人としか付き合いたくないし」


 意外だ。痴漢したノリでセックスを誘うような、破綻した倫理観の持ち主らしからぬ答えに驚く。


「あー、ひっでー。今絶対『意外!』って思ったっしょ?人を見た目で判断しないでほしいなぁ」


 見た目で判断したわけじゃないんだけど。と、思うが反論する気もなくて、とりあえず「ごめん」と謝れば、彼はまたすぐに上機嫌だ。


「あ、そうだ、それなら連絡先教えてよ」

「うんうん、もちろん!」


 どうやら彼は"佑(たすく)"という名前らしい。……だから"たっくん"か、なるほど。


「あと、私の連絡先も教えておくね」

「あー、それは大丈夫」

「え、なんで?」


 若い子は電話番号を交換せずにSNSのアカウントだけを教え合うと、情報番組で見た気がするが、これがそれなのか?

 しかし、私の予想は大外れ。たっくんは八重歯が覗くほど、にこりと笑った。


「んー?俺はもうお姉さんの番号、とっくの昔に調べて知ってるんだぁ」


 ……?ん?それってどういうこと?

 頭の中がはてなでいっぱい。キョトンとしたままの私を見つめて、たっくんはさらに笑みを深くした。


「んふふ。どういうことだろうねぇ?」

「……?」

「もう逃がさないよ」


 あ、これはきっとダメなやつだ。

 そう分かるのに、私の意思が彼に逆らうことを拒否する。


 こうして私の平凡な人生は思いもよらぬ方向に舵を切ったわけだ。

 それが吉と出るか凶と出るかは、今の私には分からない。その判断は未来の私に任せよう。

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みんな誰かに許されたい 未唯子 @mi___ko

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