一章 旅は道連れ(二)
二、
文句の一つも言いたかったが、一応は恩人なのだ、そしてその隣には人がいる。その男はともかくここまで運んで、意図はわからずとも鉄を敵の巣窟から連れ出してくれたのだ。文句は言いたくもまずは感謝を述べねばなるまい。そう、たとえどんなに不満があってもまずは命あってのことだ。
しかし彼は行商人と話し込んでいて鉄が間に入る隙間はなさそうだ。近くにいる雇われらしい商人に聞くと、少し下ったところに小川があるらしい。無意識なのだろう、鉄と向き合うと身体が後ろにのけぞる彼に軽く感謝を述べると、そそくさと言われた通りの斜面を降りていった。
午前の小川の水は冷たかった。それでも青黒い泥で汚れた身体を流すのは心地よい。下履きから
「悪かったな、着物を駄目にしてしまったかな」
背後からの声に振り返ると、黒い袍の男が斜面を下ってきていた。かなり傾斜があるだろうに、危なげもなく軽やかな足取りはまるで山羊のようだ。
「じゃあな、アンタらも気を付けろよ」
斜面の上から声をかけてくれた商人の一行に、男は手を振った。彼も商人の一行かと思ったのだがそうではないらしい。早々に別れを告げて、一体どういうつもりなのかと川沿いに立つ男を見つめると、彼は呆れとも不機嫌ともつかない表情で大きく息を吐いた。
「なんだ、その不服そうな顔は。一応、俺は貴方の命の恩人だと自負があるのだが」
「素性がわからなすぎる」
「なんだ、素性のわからないヤツには感謝はしてくれないのか?」
男は大仰に驚いたように目を見開く。その芝居がかった仕草に唾でも吐いてやりたかったが、命の恩人には変わりない。
「大変、感謝しております」
「おう」
「俺の足をこんなにしやがってな!」
じゃばじゃばと水の中から早くも赤く点々と腫れ始めている足をあげて見せつける。男はそれを見て、大いに笑った。少しは申し訳ない顔でもすればいいのにそうはしない。まったく常識がない。
「ああ、もう、これは二、三日じゃ治らねえだろ」
「蛭に噛まれたことはないのか?」
「ヒル?」
「人の血を吸う虫だ。見た目はあまり気味のいいものじゃないが、
「……で、帰りには俺が詰め込まれた、と」
「蛭は見た目もよくないし、人を噛んで血を吸う。だから医は重宝するんだが、医者でもなければ見るのも嫌がるものだ。だから梟の兵士たちも樽の中身までは見聞しなかった。そのおかげで貴方は今ここで蛭に噛まれた足を洗うことができている」
滔々と黒い男は語る。鉄に恩を売るつもりにしては、どこか遠くを見るような目線だった。午前のぬくい日差しの中、彼は川原の石山の腰を下ろす。腰に下げた革の水筒にひとつ口をつけて、「貴方も飲むか」と尋ねてくる。
「……
「ん?」
「俺の名は、鉄という」
「そうか、鉄」男の朗らかな低音で言われる自分の名が、なぜだかくすぐったい気がした。「喉は乾いてないか。全部飲まれたら困るが、飲めよ」
「助かる」
遠慮なく手に取りながら、思いのほか喉が渇いていて一気に飲んでしまいそうになる。それをこらえて慎重に一口分含んで、その冷たさを味わうようにゆっくりと飲み込んだ。
「これも使ったらいい。かゆみ止めだ。蛭の噛み痕自体は毒はないし大したことないんだが、かゆむのは確かだから」
男から貝合わせの薬入れをもらって、そこから軟膏をとる。赤い斑点になっている場所へ塗るとつんと痛んだ。その感覚が効きそうな気もして、遠慮なく、ひとつの漏れも内容に噛み痕へと薬を塗りこんでいたら、頭上から男が尋ねた。
「貴方は、あいつらに追われているのか?」
「……そうだが」
「じゃあ、俺は貴方の味方だ」
黒衣の男はからりと言ってのける。鉄は顔を上げた。鴉の濡れ羽色というのか、男の結い上げた総髪も黒目がちの瞳も驚くほどに深い黒をしていた。首をかしげるとほつれ髪がうなじにかかる。そんな仕草が男でも様になるということを鉄は初めて知った。
鉄の視線に気づいて、あ、と彼は何かに気づいた表情をする。
「すまない、俺のほうは名乗ってなかったな。俺の名は
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