一章 旅は道連れ(一)
一、
「もし、彼奴らに私について尋ねられたら、正直に答えなさい」
静かな夜の空気に混じっているのは、遠い足音だ。それも、複数。猛々しい殺気とともに、こちらへと向かってくる。
その女とは昼間の市場で出会った。大都市・
今日の女もまたそうで、年は鉄よりも少し上……と見えるが、こなれた諦観は思ったよりももっと年上なのかもしれない。中心街から水路ひとつ跨いだところに二間の家を借りているらしい。鉄も旅の途中で疲れていて、いくつか要り物をそろえるために女の案内を借りたらすぐに宿に引っ込みたいと告げた。
表は寂れた通りだったが、彼女の家は手が行き届いて綺麗だった。道すがら聞いた女の身の上話は涙を誘うようでいて、あまりに出来過ぎていて嘘か本当かわからない。戦で故郷の農地を追われて街に出てきて伴侶こそ得たが、その伴侶は徴兵されて戻ってこない。伴侶との間にこさえた
「それは大変でしたね」と鉄が言えば、「あなたにもあるでしょう、大変だったことの一つや二つ」と女はからりと言う。苦笑いで誤魔化せば女はそれで察したらしい。けれども臆することもなく、そして世渡りのうまさを物語るように「今夜はいくら出してくれるんだい? 銀一つから受け取るよ」と言われる。なぜかおかしくなって三本の指を見せれば女は目を丸くして、「景気がいいね」と笑った。
気持ちのいい女だった。宿とともに後腐れなく楽しい一夜を過ごせそうだとめずらしく浮き立っていたのだが、それが仇になったのか。惜しいが甘い言葉で別れを告げてやるほどの仲ではない。そうはならないのが鉄の義理だった。
「正直に?」
女は鉄の意図を図るように尋ね返す。鉄は頷いた。
「正直に、あなたの好きなように。脅されたとでも言えばいい。この銀は、隠しておいて。あなたが稼いで溜めた、へそくりですから」
女の乾いた手のひらに銀を五つ忍ばせた。唖然とする彼女の視線を振り払い、外に誰もいないのを確認して飛び出した。
立夏を目前にして夏の気配が濃くなっているとは言え、夜は冷える。しかし内陸よりはよほど過ごしやすく、人死にが出るほどではない。外衣を身体に巻き付けながら鉄は耳を澄ます。まだ、物騒な気配は遠い。昼に案内された街の地図を頭に描きながら、さびれた家々のはざまにある路地へと入り込む。
水辺の近くは音がよく響いてくる。足音は西から聞こえてきた。西門から入ってきた……つまりは、鉄への追手の可能性。ため息を吐く。よくも飽きずに、こんな男一人に構っていられるものだ。――そう仕向けたのは鉄と、今は亡き銅琳公なのだが。
街より一段低いところにある水路の脇、船着き場を駆け抜ける。目指すは東門だ。夜明けの門が開くのと同時に、行商人たちに紛れて街の外に出たい。さてどうするか、と悩む。夜が白むまで一刻、いや二刻? とにかくひと気のないところ、彼奴らが得手としている騎馬戦に持ち込まれないところへとやってきたものはいいものの、ここでじっとしているのが得策か否か、悩む。
石畳から生えた雑草の濃い場所に滑り込み、寝そべる。濡れた草の青い匂いに包まれて、鉄は一先ずそこに落ち着いた。少し離れたところには橋が架かっており、向こうからは見えにくく、こちらからは観察しやすい。炬火でかざして目を凝らさない限り、見つかることはないはずだ。
匍匐体勢で、腕に顎を載せる。ここひと月ほど、追手の気配はとんとなく、油断していたのかもしれない。故郷の金路城市を出て約七月、追手を撒くために八人の仲間とは城市を出てひと月もしないうちに二手に分かれ、さらに散って鉄はひとりになった。他の者たちは二人以上で行動している。
『次の立夏、无仙城市の港で会おう。』
故郷を出た日から何度も口にしてきた言葉だった。仲間たちに、そして自分自身に。
逃亡の、終わり。それを夢見ている。无仙城市の港から船を出して、南の都、
夜の暗闇の中、鉄はひそやかに息を吐く。予定では今頃、柔らかい寝床と温かい人肌で穏やかに休んでいたというのに。自ら望んだ役目とはいえ、冷たい夜と硬い寝床に投げ出されてみると惜しくて仕方ない。いつになったら騎馬軍団に脅かされない安らかな寝床が得られるのか!
そもそも、そもそもだ。金路城市は下天を支える
だが、侵略者にとってはそうではないらしい。
彼らは神獣を追っている。すでに金路城市だけではなく、
神獣の居である六神城を焼き、神獣を仕留める――
なぜそれが侵略者たちの目的となるのか、中つ原を支配したいならまっすぐに銀京に向かえばいいのに――そう思っていたはずだが、野に下り无仙城市に向かう道中の人々の顔色を見れば彼奴らの目的は知れた。金路と玄森が落ちた、下天を支える二つの城市が落ちた、それは人々にとってこの世の終わりの象徴であり、また、侵略者たちには抗えないという空気を強く作り出していた。
そこに、神獣の首級が上がれば。
鉄は、深く息を吐いた。いやな想像を振り払う。无仙城市はすぐそこだ。港から海へ出てしまえば、少なくとも騎馬の追手はこない。そして、ここよりずっと南の銀京に辿り着けば一先ずは安心だ。おそらくは。
じっと、夜の闇よりも濃い水路を見つめる。滞った水特有の、生臭さが立ち込めていた。どれほどの時間そうしていたのか。呼吸は細くかすかに、身じろぎもせずに、けれども神経は張りつめて、石畳の一つになったつもりで夜をやり過ごす。東の空から新月にほど近い下弦の月が上って、中天にかかる頃、やっと、空の縁が白く染まり始めた。同時に、街は静かに目覚め始める。
鉄が立ち上がった。朝の煮炊きの白い煙が、青白く照らされ始めた街の屋根から立ち昇る。まだまどろみの中にいるような街は、けれども静かに寝返りを打って、目覚めの準備を始めていた。鉄は水路を静かに駆けて、東へと向かった。人のいる通りからは離れないように、しかし上から注意深く見下ろさなければばれないように影になる場所を進んでいく。
慣れない街で迷ったのか、まっすぐ東門に向かっていたはずが少し南に出た。複数の人影を見つけて水路から街へと上がった。その頃には少し薄暗くはあるもあたりは明るく、行き交う人の姿もまばらながらに少なくはない。夜のうちに時折聞こえた騎馬の足音もしなかった。諦めたはずはないが、安堵の気持ちはぬぐえなかった。実際、鉄の顔をよく知っている人間は追手のなかでもわずかだ。人相書きは回っているだろうが、一番目立つ特徴は隠している。
先を急ぐ旅人を装って、人の流れのまま東門へと向かう。空の牛車は一日をかけて近くの農地へ買い出しに行くのか。故郷ではよく見た駱駝の隊列はなく、ものものしい行商や旅の一行は馬や驢馬を連れている。脚が短く太い姿は、金路ではあまり見ない馬種だった。門に近づくにつれて人が増えていく。遠目に見た門はすでに開いていた。
人ごみより高い所から、馬上の兵士があたりを見回していた。
咄嗟に、踵を返しそうになった。知らない顔だった。顔を伏せては怪しい。わざと背筋を伸ばして、呼吸を深く、遅すぎず速過ぎずの調子でなんとか足を進める。
神経を張りつめながら、自然な足取りで。視線が自分の上を通過するのに過敏に反応してしまいそうになる。大丈夫、俺が俺だとは気づかれていない。そもそも、鉄を追う追手ではないという可能性も――
不意に、その男と目が合った。騎馬のすぐ隣、門の脇で、誰よりも注意深く群衆を睨んでいた男の猛禽の双眸が、獲物を捕らえる。獲物はその目線に絡めとられたことに気づく。歯車が合うように、お互いの顔と、立場とを認識する一瞬。そして、漫然としていた二つの警戒心が、鋭い殺気と、獲物の生存本能に変わった。
踵を返し駆け出した鉄の目の端で、男が前動作なく肩を引いた。六尺の長身に似合わない丹色の刺繍が入った臙脂の外衣。いいものを着ている。アレは梟族の兵士の装束だ。
「あの男だ! 黒髪の旅装!」
ブン、と空気を切り裂く音が重く迫ってくるのを聞くのより先に、鉄は角を曲がった。曲がり際に屋台の旗やなにやら立てかけてあった道具を引き倒す。後ろで複数の悲鳴があがるが振り返らない。男が投げた剣か槍が、街の誰かを巻き込んでいないことを祈るばかりだ。
追ってくる足音に追い立てられて、何度も角を曲がった。ここがどこだか、街のどのあたりにいるのかも定かではない。脚を止めるか、思考を止めるか、どちらにしてもとらわれる。とらわれたところでどうなるのか? その場では生き長らえたとしても、すぐに首を切られるか、嬲りつくされた後に首を切られるかの違いだ。
水路に面した通りに出る。一瞬、また下に降りるかと考えるが、日が昇った今では上から手足を串刺しにされて終わりだろう。のんびりと舟をこぎながら物を売る商人たちに血を見せるのは、あまりにも忍びなかった。
鉄が足を止めて逡巡している間にも、背後から梟族の兵士たちは迫ってくる。向こう側にわたる橋は遠い。クソ、と吐き捨ててもうこれしかないのかと水路へと身を投げようと膝を曲げたその瞬間、強く腕を引っ張られて横へとよろめく。
「こっちだ」
「え?」
振り返ったところには一人の男。知り合いか? と思考を巡らすにもそんな余裕はない。少なくともぱっと思いつくほどに近しい仲ではないはずだ。しかし簡素な黒い袍を着た船商人のような男は鉄の腕を引くと、強引にそばに置いてあった樽に頭を押し付ける。異臭のする樽にとっさに抵抗すると、男は小さく、けれども険を含んだ声で叫んだ。
「入れ」
「ハァ?!」
「いいから!」
そしてケツを叩かれる。いってえ! と叫ぶ間もなく兵士たちの足音が近づいてきて、鉄は男のいうことを聞くしかなくなってしまった。樽の中に入り込んだ途端、鼻がひんまがりそうになる。おまけに底にはぬめった何かがあり、ぴちゃぴちゃと小さな魚だか何だかが跳ねている。まだ糞だまりのほうがましなのではないか。知らぬ男が容赦なく樽の蓋を閉めやがったから、その思いはさらに強くなる。指で鼻をつまもうとしても樽の底に触れた指先はもう匂いがしっかりとついており、口で呼吸をすれば毒を吸い込んでいる気分だ。ああ、叶うなら気絶してしまいたい。
だが、残念ながら鉄の意識は目覚めたまま、樽の外で兵士たちが彼を探してうろつきながらも離れて行く気配を確認した。そしてそのまま、なんの意思確認もされずに樽が動かされたと思ったらどうやら牛車に乗せられたらしい。鈍くも勤勉な生き物の体臭にも苛まれながら、結局鉄はその宿場町の門をくぐることができた。知らない男のおかげで、足の裏を蛭に噛まれまくりながら。
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