アウイナイトの誘惑
宮守 遥綺
アウイナイトの誘惑
鏡は嫌いだ。
見せたくないもの、見たくないもの、すべてを細部まで写し出すから。過去も現在も関係なく、すべて平等にありのままを写し出すから。
締め付けた身体を用意された真新しいシャツで包む。上に誂えられたばかりの白のウェストコートを着ると一層身がしまった気がした。鏡に全身を写し、クルクルと回りながらおかしな所が無いかをくまなく確認する。目線で身体のラインを何度も辿り、大丈夫だ、と息を吐く。
「本当に大丈夫なのかな……」
本音を呟いてしまえば、途端に自分にかけた魔法が解けてしまう。身の内にそっと落としたはずの自信は川面に降りた雪の粒のように淡く、跡形もなく溶け去ってしまった。
見た目は大丈夫だ。いつも通り。ちゃんと兄さんが褒めてくれた、アルフォード家の次男だ。歩き方や所作、ダンスのステップだって完璧に覚えた。「きちんと身につきましたね」とあの厳しい執事のブラウンがお墨付きをくれた。大丈夫なはずだ。
しかし身体は強ばっていてうまく動かないし、握りしめた手は冷たくなっている。表情だって何だか滑稽に凍えているような気がする。胸のあたりを押さえて深呼吸をひとつ。しかし、大きく鳴り続ける心臓は収まりそうもない。
鏡の中では異様に青い目をした若い男が、戸惑ったような、自信無さ気な情けない顔をしてこちらを見ている。
本当に、大丈夫だろうか。
「ルカ坊っちゃん、準備はできましたか。タイは結んで差し上げますから、準備を終えましたら出てきて下さい」
ドアの外からブラウンの声が聞こえて肩が跳ねた。懐中時計を確認すると思ったよりも時間が経っていて、僕は慌てて「今行く!」と返した。兄さんがくれた青い石のカフリンクスで袖を留め、イートン卒業以来のテールコートを羽織る。シャツの袖で輝く青を顔の前に掲げてみる。金の台座に収まっているのはまるで海の底のように透明で柔らかな青だ。この石の名は、何だったか。「お前の瞳と同じ色だ」と笑いながら兄さんが教えてくれたけれど、思い出せない。
最後にもう一度鏡に全身を写す。
大丈夫。大丈夫だ。
自分に言い聞かせるように繰り返し、扉を開ける。
廊下にはホワイトタイを持ったブラウンが待っていた。出てきた僕を見てメガネの奥の目を一度丸くした後、可笑しそうに笑った。
「いらっしゃい、タイを結びましょう」
「うん。お願い」
手招くブラウンの目の前に立ち、顎を持ち上げる。シワの寄った彼の手がカーラーを整えて、タイを結んでくれる。
「そんなに緊張しなくても……。最初のお相手はオルコット侯爵婦人が務めてくださるということですから。慣れていらっしゃる方ですので、多少足を踏んでも大丈夫です」
「いや、ご婦人の足を踏むわけには……」
「冗談ですよ。大丈夫。この前ルーク様と踊られた際には、完璧にエスコートされていたではありませんか」
「そうなんだけど……」
「ホワイトタイの指定の際には、きちんと額を出さなければなりませんよ」と呟いたブラウンに腕を引かれてもう一度部屋に戻る。鏡の前でオイルを塗られ、ゆっくりとブラシで額を出すように前髪を上げられた。自分の顔がくまなく鏡に写り、眉を顰めてしまう。この顔は、嫌いだ。
「ルーカス・アルフォード様」
「え?」
突然フルネームで呼ばれて、鏡の中のブラウンを見返す。彼の目は真剣な光を湛えて鏡越しに真っ直ぐ、僕の目を見ていた。その口元がゆっくりと、はっきりと、僕の名前を紡ぐ。
「あなたは、ルーカス・アルフォード様です」
「それ以外の何者でもない」と音の外で彼が告げているのがわかった。髪を整えてくれた手がブラシを置き、そっと僕の肩に添えられる。「ご覧なさい」と告げられて、僕は鏡を正視した。
男がいる。華奢で心許ない身体付きではあるが、佇まいは間違いなく男だ。前髪を上げたことで際立つ中性的な顔立ちも、女性好みの秀麗な顔立ち、と言えなくもないだろう。
「大丈夫。あなたはルーク様の弟君で、この家の次男です」
強張っていた身体から無駄な力が抜けていくのがわかった。手にも次第に温度が戻る。肩越しにブラウンを見上げると、目元に皺を作って微笑んでいた。二度、柔く肩を叩かれる。
「さぁ、馬車でルーク様がお待ちです。いってらっしゃいませ」
「うん。行ってくる」
『ルーク・アルフォード様とルーカス・アルフォード様ですね。ホールへどうぞ』
受付の男に案内されたホールの入口で、僕の脚は止まってしまった。どこを見ても、タキシード姿の男たちとドレスで着飾った女たちがいる。揮発したワインのアルコールの匂いと女たちの
遠くから兄さんと僕を見つけた令嬢たちの色めいた声が聞こえる。耳に届くそれが妙に甲高くて、耳を塞ぎたくなるのを必死に堪えた。手袋に包まれた手をきつく握り締める。
隣を歩いていた兄さんが気付いて脚を止め、振り返る。
「どうしたんだい、ルカ。怖くなってしまった?」
「い、いえ、その……」
「アルフォード公爵。お久しぶりですな」
ぐずぐずしている僕の手を取ろうとした兄さんに、背が高く恰幅のいい男から声がかかる。反射的に跳ねた僕の肩を、宥めるように温かい手が包み込み撫でてくれた。たっぷりと温かな空気を含んだ柔らかな声で兄さんが応対する。
「これはリチャード公爵。ご無沙汰しております」
「最近めっきり夜会に顔を出して下さらないから、ご令嬢方が悲しんでおりましたよ」
そろり、と兄さんの顔を盗み見る。「ルーク様の社交術は完璧ですから、参考になさるといいですよ」とブラウンに言われていたからだ。そこで僕は思わず息を飲んだ。
大きなシャンデリアからキラキラと光の粒が降っている。兄さんの淡いプラチナブロンドに吸い込まれたそれらは発光し、ダイヤの如く輝きを放っている。柔らかく笑みの形を作る唇は血を透かして赤く、透き通るブルーの瞳は穏やかな湖面のようだ。鷹揚な笑みを崩さず、涼しい顔で年上と渡り合っている。
「ああ、なんて美しいのだろう」と思った。兄さんが美しい人であることはもちろん知っていたけれど、僕に向けてくれる慈しみを込めたあの温かな笑みと今の一分の隙も無い笑みは全然違う。違うけれど、どちらも美しい。
体温が急に上がり、心臓がドクリと不自然な音を立てた。目が離せない。この美しい横顔をもっと見ていたいと思ってしまう。
「して……そちらが弟御ですかな」
「ええ。ルカ。こちらはリチャード公爵だ。ご挨拶を」
「あ、はい」
促すようにポンポン、と肩を叩かれて我に返る。すでに五十を超えているであろう公爵は高い位置から僕を見下ろしてニコニコと人好きする笑みを浮かべていた。
「ルーカス・アルフォードと申します。以後、お見知りおきを」
「ダミアン・リチャードだ。こちらこそよろしく、ルーカス卿」
差し出された大きな右手に手を重ねる。熱い手だ。やんわりと握られて、僕からも握り返す。悪い人ではないのだろう、ということが話し方の端々や手の握り方から伝わってきて、少しだけ安心した。
「それにしても、兄弟揃って美しいものですな。
「そんな……」
「弟御は今日が社交界デビューでしたな。最初のワルツの相手は決まっておいでで?」
「ええ。最初はオルコット侯爵婦人にお願いしております」
「オルコット侯爵婦人! 私の息子も最初の相手は彼女にお願いしましたよ。彼女のダンスは素晴らしいですからな。さすがはアルフォード公爵。良い相手をお選びになる」
「ありがとうございます」
「それでは、他の方にも挨拶しなければなりませんので」と言って兄さんが軽く頭を下げ、僕の腕を引いた。僕もリチャード公爵に頭を下げてその場を辞す。
それからは怒濤の勢いで様々な人たちから声をかけられた。貴族は上と横との繋がりが重要である、とブラウンから教えられていた通りで、声をかけてくるのは公爵と侯爵ばかりだ。娘を呼んで紹介してくる父親もいれば、あからさまに秋波を送ってくるご婦人もいる。次男だからそんなに声をかけられることもないだろう、と思っていた予測は外れて様々なところに引っ張りだこになった。
慣れないアルコールの匂いと化粧品の匂いに酔いながら、砂糖や脂で固めたように重くこってりとした言葉を吐き出す。胃や胸がどんどん重さを増して、ともすればひっくり返って中身をぶちまけてしまいそうだ。
何よりきついのが、混ざり合ったご婦人方の香水の匂い。これが脳に直接入り込んでは掻き回し、奥底に仕舞い込んでいる思い出したくもない記憶を引き摺り出そうとしてくる。やめてくれ、と頭の中で叫ぶが効果はない。ガンガンと警鐘が鳴っている。
「もうすぐ最初のワルツが始まるが……ルカ、大丈夫かい?」
「……ええ、何とか」
吐き気を耐えていることを悟られないよう、慣れた作り笑いを浮かべる。しかし兄さんは反対に眉を顰め、近くにいた給仕に水を頼む。
「飲みなさい。顔色が悪いよ。奥の部屋で休ませてもらうかい?」
「いえ、兄さんの顔に泥を塗るわけには」
手渡されたグラスに口をつけ、ゆっくりと水を飲み干す。内臓が冷やされて、少しだけ気分が楽になった。スルリ、手からグラスが取り上げられる。給仕にそれを渡した兄さんが僕の頬に触れた。「お前は優しいね。だけど、無理はしないでおくれよ。いいね」と言われて小さく頷いてみせると、満足したように兄さんが笑った。いつもの温かな笑みを向けられて身体が少し緩む。
周囲には人が増え、ダンスの申し込みの声も聞こえてきている。チラリと見渡すと、こちらをじっと見ている令嬢たちと目が合ってしまい、慌てて逸らした。彼女たちの狙いは僕ではなく、兄さんだろうが。
若くして爵位を継いだ美しき公爵閣下、だなんて社交界で注目されないはずがない。彼女たちはもちろん、その後ろにいる父親たちも公爵家と家としての繋がりを持つために熾烈な争いを繰り広げているだろう。
兄さんの妻の座を射止めるのは一体誰なのか。
それはきっと多くの貴族たちにとって注目すべき話題のひとつだ。
考えてしまうと、なんだかモヤモヤとしたものが胸の奥に生まれてすごく嫌な気分になる。
兄さんには、自分の選んだ人と幸せになってほしい。
僕のことなんて、気にしなくていいから。
彼女たちの視線に気がついて笑顔で手を振る兄さんの背に、胸が軋むように痛んだ。
「一曲、お相手を願えますか」
「ええ、喜んで」
頭を下げた僕に彼女は微笑んで首を緩く傾けた。差し出した僕の手に乗せられた手は指が長くすらりと細い。彼女は前アルフォード公爵婦人の友人で、婦人が生きていた頃には何度か家に来ていた。その頃から美しい人だったと記憶しているが、前公爵とその婦人が立て続けに流行り病で亡くなってからすでに十年近く経っているというのに、彼女の美しさは色褪せることを知らないようだった。首元や手元、目の端に重ねた年齢は見えるが、それすらも自らを彩る宝飾品としてしまうことができる女性というのは、素晴らしい。
左手で彼女の右手をとり、右手は彼女の肩甲骨に添える。彼女が僕のホールドに沿って、腰を反らせた。
タクトが振られるのが見えた。
ヴァイオリンの音が空気から浮き上がるように形を持ち、緩やかなワルツを奏でる。
左脚を踏み出し、緩くターンする。周囲に気を配りながら彼女の身体を支え、他のカップルとぶつからないようリードする。兄さんと踊っていた通りのステップを身体はなぞるが、ぎこちなくはないだろうか。少々心配になる。
「そんなに自信のない顔をしなくても大丈夫よ。とても踊りやすいリードだわ」
「そうですか?」
「ええ。小柄な分、女性にも優しいステップだし、手も優しい。あとは自信を持つだけよ」
「ありがとう、ございます」
「ふふふっ」と婦人が笑い、「あなたなら、すぐに結婚の申し込みがあるわよ」と柔らかな声で言った。
「そんな。僕は爵位のない次男ですし、ましてや養子です。いくら後継ぎが欲しくとも、いい顔はされないのでは」
「そんなことないわ。公爵家と繋がりを持つことができるし、お嬢様が気に入った若い殿方ともなれば、結婚もスムーズですしね。何より、お兄様も素敵だけれど、あなたの夜のような黒髪にサファイアのような瞳も素敵だもの。お嬢さん方はきっとお近付きになりたくてうずうずしているわ。お仕事は、何をされているの?」
「船の設計を」
「あら。軍用艦? それとも貿易船?」
「客船です」
「まぁ、素敵ね。もしかして、この前
「ええ、ほんの少しですが」
「それなら大丈夫よ。すぐにいい所にお婿に行けるわ」
「自信を持って」と言う侯爵夫人に「ありがとうございます」と微笑んだところで曲が終わる。ホールドを解いて身体を離し、最後に離れる左手は名残惜しく。婦人がドレスの裾を持ち上げて深く礼をする。僕も倣って頭を下げた。
侯爵婦人の控え目な香水の匂いでダンスの間は何とか耐えられていた胃と胸の不快感が、彼女と離れると同時に戻ってくる。「給仕に水を貰って、一度バルコニーに逃れよう」とダンスフロアを離れるために動き出したのだが。気が付くと、いつの間にか周囲には令嬢たちが集まっていて、口々に「次は私と」「ではその次は」と話しかけられていた。上品でありながら大胆に迫ってくる彼女たちに、一気にたくさんの人と話す機会などほとんどなかった僕は気後れしてしまう。いつもなら作れる笑顔すら引きつっている気がする。
さらに悪いことに、若い女性がつける香水のさまざまな匂いが混ざり合い、脳の中の深い部分に入り込んでくるのだ。それは上品な香りであるはずなのに、脳の中で安っぽく変換され、ホコリと腐った木、人間同士が交わり合う欲の匂いすら引きずり出して甦らせる。貼り付けた笑顔の裏側で僕は必死に吐き気を耐えた。しかし脳裏に赤黒く落ちた一滴が視界を真っ黒に染め上げた。
『お前は母親に似て器量が良いからね。店に出たら、きっとたくさんの男が寄ってくる。早く大人になって、たくさんお客をつけなさい』
ねっとりとした女店主の声。「早く大きくおなり」と何度も何度も繰り返し言ったあの声が木霊する。ダンスを終えたばかりのフロアは暖かいにも関わらず体温は下がり、身体は押さえつけられたかのように動かなくなった。「訓練」と称して身体を好き勝手に這った女たちの細い手の感触が今も皮膚に残っている。
気持ちが悪い。嫌だ。僕は……僕は。
「弟は女性と踊るのは今日が初めてでね。緊張しすぎて、具合が悪くなってしまったようです。申し訳ないのですが、ダンスはまたの機会にお相手を願えますか? レディ」
暖かな手にそっと硬直しきった肩を抱き寄せられる。反射的に震えたそこをやんわりと撫で、耳元に「大丈夫かい」という囁きが落とされた。兄さんの声だ。
「奥に部屋を用意して貰ったから、少し休んでから屋敷に戻ろう」
「でも」
「大丈夫。挨拶もしたし、ワルツも踊った。上出来だ」
「侯爵婦人の足も踏まなかったし」と付け加えた兄さんが「よく頑張った」と肩を撫でてくれた。すっかり冷え切った肩にその手はとても暖かい。レディにする様なエスコートは普段なら恥ずかしくもなったのだろうが、今日はそんな余裕もなかった。
頭の中に響く声が、肌を這う手の感触が、安宿に立ち込める若い女たちの匂いが、どうしても消えてくれない。
柔らかく包み込んでくれる腕に身体を預けて目を閉じたまま廊下を進んだ。兄さんは僕のぐちゃぐちゃになった頭の中などお見通しのようで、「もう少しだから」「大丈夫だよ」などと何度か声をかけてくれた。その度に一瞬意識が現実に戻るのだけれど、すぐに強すぎる記憶の波が押し寄せて、抵抗する気力すらない僕はたちまちのうちに飲み込まれてしまう。そんな自分が、たまらなく嫌になる。
部屋に入ってソファに座り膝を抱えた。行儀が悪いことはわかっているけれど、そんなことはどうでもいい。兄さんは僕の頭を一度撫で、「馬車を呼んでくる」とだけ言って出て行った。扉が閉じられる。
煌びやかなシャンデリアと姦しい人々の話し声が遠ざかった部屋に灯りはなく。広い窓から入る月明かりだけが室内を照らしている。香水や化粧品の匂いはなく、幾分軽い空気を吸い込むと、フワリと瑞々しい香りがする。首を巡らせると、窓辺のテーブルに白いオールドローズが咲いていた。月の光を反射して穏やかに、静かに佇むその姿に兄さんが重なった。
しなやかで、強い。穏やかな微笑の裏側にはいつも意志の強さと曲がらない芯がある。
あの人は美しい。外見だけでなく内面も。羨望すらも通り越して、畏怖の念すら抱いてしまうほど圧倒的に。
比べて僕は、なぜこんなにも弱いのだろう。
なぜ、十年以上も前のことを忘れられないのだろう。
男として生きていくと、あの地獄から逃げたときに自分で決めたはずなのに。
全て忘れるのだと、兄さんが弟にしてくれた日に決めたはずなのに。
「ルカ、あまり自分を責めてやるな。人は忘れたいものほど忘れられない。それは忘れたい記憶ほど深く心に傷を付けるものだからだ。嬉しいことよりも楽しいことよりも、記憶に残り続けるのが辛いことなんだよ」
いつの間に戻っていたのか、隣に座った兄さんの手が伸びてきて肩を抱き寄せられた。目に見えないものから守るように包まれて、グルグルと渦巻いていた不快感が溶けていく。呼吸が少しだけ楽になる。耳に心地の良い声が紡ぐ赦しの言葉はどこまでも甘く、つい「このままで良いのだ」と兄さんに寄りかかる自分を肯定してしまいそうになる。手袋を嵌めたままの手を腿の上できつく握ってそんな自分を戒めた。
「……兄さん、あまり僕を甘やかさないでください。兄さんがいないと何もできなくなってしまいます」
少し笑って、「困った」という声で告げる。
責めたいわけではないのだ。これは兄さんの優しさだとちゃんと知っているから。
「弟を甘やかすのは、兄の役目だよ」
「僕だってもう二十五を過ぎた、立派な大人なんですよ?」
「何歳になったってお前が僕の弟であることに変わりはないよ」
「ですが……いつか兄さんは相応しい誰かと結婚します。そうなれば僕は屋敷を出てひとりで生きていかなければならないのですから。あまり甘やかされては困ってしまいます」
胸の奥で小さな炎がチリチリと心臓を焦がす。殺しきれない醜い感情に吐き気すら覚えるが、顔は穏やかに笑顔を作る。
腕の中から兄さんを見上げるとその顔は辛そうに歪んでいて、驚いてしまう。どうしてそんな顔をするのだろう。僕と兄さんは血が繋がらずとも兄弟で、当主が結婚したらあくまで平民の身分である次男が屋敷を出るのは当然のことなのに。そんなことはわかっているはずなのに。
「……ずっと、いればいいじゃないか」
「ダメですよ。夫の兄弟が共に住むだなんて、兄さんが良くても、ご婦人が嫌がりますでしょう?」
「お前を大切にしてくれない女との結婚など、僕から願い下げだ。それに、屋敷を出て……お前はどうすると言うんだい? どこかのご令嬢と結婚でもするのかい?」
「珍しく意地悪なことをおっしゃるのですね。そのようなことはできないと、誰よりもご存じでしょうに」
おもちゃを取られた子どものような表情をこちらに向ける彼の頬に、やんわりと手を這わせる。
別に今すぐ、という話ではないのに僕まで名残惜しくなってしまうから、そんな顔をしないでほしい。僕が屋敷を出たって、一生会えなくなるというわけではない。しかし確実に会うことができる時間は減るだろう。アルフォード家に養子に入ってから悲しいことや辛いことがあったときに、必ず側にいてくれた兄さんと離れることは心細いけれど、我が儘など言えるはずもない。
コンコンコン、と静かに扉がノックされる。馬車が到着したと、ホールの担当が呼びに来たのだろう。手を下ろして立ち上がると、兄さんも続いた。先に歩き出した兄さんの背を追った。
部屋から玄関までの道中、兄さんは言葉はなくとも僕の歩調に合わせて殊更ゆっくりと歩いてくれた。その心遣いが今は胸に痛かった。
すっかり日が落ちた往来に出ると、家の紋章が入った馬車が止まっていた。兄さんが箱の扉を開けて、振り返り、手を伸ばす。
その姿に、思わず足が止まる。
屋敷から漏れてくる喧噪とワルツ。窓から漏れるシャンデリアの灯りが石畳に反射して月明かりと混ざり合う。光を反射したプラチナブロンドが白く光る。
ああ、美しいな、と思った。
同時に、まだ見ぬ未来に彼が差し出す手を取ることができる
「え……?」
自分の感情を理解した瞬間、背筋が冷たくなった。
この感情は何だ。なぜ、僕は兄さんにこんな感情を抱いているのだろう。
これは……これはまるで。
「……ルカ? ……っ」
動かない僕を見て、兄さんがはっとしたように目を見開いた。
霧深いこの国では珍しい、青空のような瞳が僕を射貫く。
すべてを見透かされてしまいそうなその瞳が怖くて、僕は咄嗟に手を握り締めた。
認めてはいけない。この感情の芽生えを僕は許してはいけない。そして、見透かされてはいけない。
自身を戒めるために求めた痛みは、白の手袋に阻まれて消えた。
馬車の中で、僕たちは無言だった。屋敷に着いてからは、僕は声がかかる前に、逃げるように部屋に戻った。タイを外して、テールコート、ウェストコートを脱ぐ。皺になることも気にせず応接セットのソファに放り投げ、その足で寝室のドアを開けた。靴も履いたままベッドに身体を投げ出す。
まるで夢のようだった、社交界デビューの夜。
自身の中に見つけてしまった感情は、僕が僕である限り、決して実らせてはならないものだ。
「……引っ越し先を、探さないと」
このままここにいては、いつか気づかれてしまう。それだけはいけない。僕と兄さんは兄弟なのだから。
兄さんは貴族の、それも数少ない公爵家の血を引いていて、そこに生まれた以上は子孫を残すことが絶対条件だ。ということは、どれだけ本人が嫌がったとしてもいずれは必ず結婚し、子どもを作らなければならない。それが貴族として生まれた者の宿命だ。『夢は持たない。決められた場所でしか、僕は幸せにはなれないから』と、まだ幼かった僕に悲しそうに語った彼の顔を僕は今も鮮明に覚えている。
対して僕は、安物の香水と欲の匂いが混ざり合い、女たちの嬌声が絶えず聞こえる娼館で生まれた。当時一番の売り上げを上げていた娼婦の娘として。生まれた時点で将来は娼婦になることが決められていた。それ以外の選択肢はなかったのだ。経営者の老女も、他の女たちも、訪れる客も、実の母でさえ、「お前は美しい顔立ちで良かったね。絶対に売れっ子になる」「早く大きくおなり」と猫なで声で僕に接した。吐き気がした。僕の身体は僕のものであるはずなのに、自分ではその使い道を選ぶことができない。商品として男たちに差し出すことを当然のこととして求められているという事実が、気持ち悪くて仕方が無かった。女に生まれついてしまった自分が憎かった。僕は、男になりたかった。
プライマリースクールに通う年齢になってからは昼には文字や計算、言葉遣いに社会常識など話で客を楽しませるための教養を、夜には身体で客を楽しませるための教育を施された。教養を叩き込まれたことは幸いだった。勉強は好きであったし、ここで基本的な学力を身につけられたことが、後の大学進学にも繋がったと思っている。問題は夜だ。押さえつけられ、無理やり身体に這わされる手の感触は耐えがたく、この頃僕はまともに食事を摂ることができなくなった。この時期のことは、未だに忘れることができない。
胸が徐々に膨らみ、初潮が来て……一歩一歩女に近づいていく自分の身体を嫌悪し、心底気持ちが悪いと思った。
正式に店に並ぶ日取りが決まった日。僕は娼館から逃げ出した。日の出前の一番暗い時間に、貯めていたパンと一本のナイフだけを持って。裸足の足に石畳の冷たさが刺さったのを覚えている。行く宛も、生活をどうするかも何も決まっていなかった。これから自分がどうなるのかさえ、考えなかった。それでもあの場所にいるよりはずっといいと思った。
街の中心を流れる大きな川の縁で、長かった髪をナイフで切り落とした。その瞬間、急に世界が色を持ち、呼吸が楽になった。訳もなく、涙が溢れた。
しばらくは、男の子の格好でいわゆるストリート・チルドレンとして過ごした。
そして、兄さんと出会う。
一度は教会の孤児院に預けられたものの、宗教上異性装が禁じられているこの国では僕が男の格好をすることは許されなかった。毎日着せられるワンピースに、強要される女性としての振る舞い。再び食事を摂ることができなくなり、もう生きようという思いすらなくなっていた。死んでしまえばいいのだと、その頃には本気で思っていたのだ。
その後様子を見に来た兄さんが見かねて「うちにおいで」と僕を連れ出し、男として生きたいという僕の希望を叶えて弟としてくれたから、今があるのだ。
公爵と娼婦の子ども。
これだけ身分に差がある僕たちが一緒にいられたのは奇跡というほかない。本来ならば一生、相手の声も顔も名前も知らずにいることの方が自然なのだ。
「兄さん……」
この兄弟という心地良く、確かな繋がりは、兄さんの優しさが作り出してくれたものだ。
けれどその影に隠れて成長していたもうひとつの感情に気が付いてしまっては、もう一緒にいることはできない。この感情が表に出てしまう前に、離れなくてはならない。世間的にはすでに僕は男で、同性同士の恋愛は異性装と同じく犯罪だ。それに輪をかけて、兄弟。許されるわけがない。
明日からフラットを見に行こう。兄さんには気づかれないように。
そう心に決めてしまえば少しだけ楽になった。脱ぎ捨ててきたテールコートなどを思い出し、執務用の部屋に戻る。投げっぱなしの服をハンガーに掛けて皺を伸ばし、寝室でナイトシャツに着替える。ガウンを羽織り、紅茶を淹れるためキッチンに足を向けた。
ブラウンはすでに部屋に戻ったのか、姿が見えなかった。他のメイドたちも同様だ。それなのにリビングの灯りが点いていることが気にかかり、水を入れた鍋を火にかけて、僕はそちらに向かった。
「何をしているのです?」
「あまり飲めなかったからね。寝る前に飲みたくなって」
「だからといって、おひとりでボトルを二本も空けるのは感心しませんよ」
窓際で外を見つめながら手酌でグラスにワインを注ごうとする兄の手から、ボトルを奪う。驚いたようにこちらを見た後、おもむろに差し出されるグラスに態とらしく溜息を吐いたあと、ゆっくりとワインを注いだ。半分より少し下で止めると「ありがとう」と小さく言った兄さんがゆるり、とグラスを回す。暗い赤が、膨らんだボウルに沿って回る。アルコールで華やかさを増したブドウが甘く香り立ち、空間に溶ける。傾けられたグラス。色の薄い唇とワインの赤、グラスを支える手の白さ。その絶妙なコントラストはまるで絵画だ。見とれてしまう。心臓が大きく音を立てる。
その妙な鼓動にはっとして、サイドテーブルにボトルを置いた。空の二本の瓶とぶつかるカン、という音が響く。
「の、飲み過ぎないようにしてくださいね。このボトルで最後に、」
「ずっと、ここにいれば良いじゃないか」
「え?」
さっさとキッチンで紅茶を用意して部屋に戻ろうとしていた僕の脚を兄さんの呟きが止める。小さすぎて何を言っているのかまでは聞き取れずに思わず聞き返すと、顔を俯けたままの兄さんが「ずっとずっと、お前はこの屋敷にいればいい」と繰り返した。
「またその話ですか。先ほども言いましたが、兄さんはいずれ結婚するでしょう? 僕がいたら、きっとご婦人は嫌がります」
「なら、結婚なんてしない」
「そうできないことは……兄さんが一番ご存じのはずでしょう?」
顔には出ていないが酔っているのだろうか。なんだか駄々をこねる子どものような口調だ。意識してゆっくりと穏やかな口調で告げるが、諭すようなそれが気に食わなかったのか兄さんがサイドテーブルに空のグラスを置いた。思わず手を引くが時すでに遅く、掴まれた右手首を引かれる。
そして。
「兄さ、」
アルコールがふわりと香る。
目の前にある顔は近すぎて焦点が合わない。
唇が、暖かい。
「ちょっと……!」
離れようとすると、後頭部に手を添えられる。同時に右手首を握っていたはずの腕が背中に回された。
「ルカ……ルーカス、愛してる」
強く掻き抱かれて、再び唇が合わさる。
兄さんの空色の目は白い瞼に隠されて、表情は窺えない。
こちらまで酔ってしまいそうなほどアルコールを含んだ吐息が合わさった唇から流れ込んで、しかしそれは決して不快ではない。むしろ……。
「んっ……に、いさ……!!」
いけない。
これは、いけない。
何とか動かした両手で胸を押し、ほんの少し距離を取る。隙間であげた僕の声に、ピクリ、と兄さんの瞼が震えた。ゆるりと開かれた瞳が僕とかち合って、驚いたように大きく見開かれる。
「あっ……」
頭と背に回されていた手がそろそろと離れていって、兄さんが一歩、二歩と後ずさる。その顔は蒼白になっていて、酔いはすっかりと醒めてしまったようだった。
「自分のしたことが信じられない」と表情がありありと物語っている。それが何だか気の毒で「兄さん」と呼んで伸ばした僕の手は、彼に届くことはなかった。
「触れないでくれ、頼むから。僕は、僕はお前を……!!!」
兄さんの顔が苦しそうに歪む。白くなるほど握り締められた手が震えているのが目に入り、「痛そうだ」と思った。
立ち尽くしたまま何もできない僕の横を、足早に兄さんが通り過ぎる。入り口で一度立ち止まり「ごめん、ルーカス」と絞り出された声が震えているように聞こえて、僕は何も言えなかった。
雨の音で目が覚めた。
もう一度眠ろうと目を閉じるが、細く降るいつも通りの雨の音がなぜか耳について目が冴えた。
寝返りをうち、布団にくるまって目を開ける。真っ暗で物音ひとつしない。今、何時だろう。
サイドテーブルのランプに火を付けて、懐中時計を確認する。午前三時。嫌な時間に目が覚めてしまった。寝る前に持ち込んだティーカップの中で、半分ほどになった紅茶が冷えている。飲み干して乾きを潤し、ベッドから抜け出した。
ランプをもって書斎に入り、読みかけで机に置いたままだった本を手に取る。ベッドに戻ってカーテンを開き、本を開いた。
いつから、互いの中で相手を見る目が変わっていたのだろう。
少なくとも、僕の中で兄さんは兄さんだったはずだ。誰にでも優しく、美しく、優雅で、地位があるのにそれを笠に着ることのない、立派な兄さん。この人が納めることになる土地の人々はきっと幸せだと、何の疑いも持たずに思えるほど、あの人は完璧で僕の憧れだった。生まれだとか血だとか、そういうのを抜きにしても、人としてあまりにも眩しかった。
それが、一体いつから欲に塗れた醜い感情に変わってしまっていたのだろう。
男になるのだと、決めていたはずなのになぜ。
「……血は争えない、ってか」
父親のことは知らないし、興味も無い。あんな場末の娼館に通うような男だ。ろくなヤツじゃないだろう。
母親だってそうだ。毎日違う男に抱かれて悦んで、自分の子どももそうして生きることを「幸せだ」と信じて疑わなかったバカな女。熱を上げやすくて、客として来た男を好きになっては捨てられて、そのたびに別の男に慰めを求めていた救いようのないバカな女だ。
僕は、そんな男と女の間に生まれた子ども。
汚らわしいほど色に狂いやすい血なのだ、この血はきっと。
そうでなければ兄さんに、こんな感情を持つはずがない。
リビングで兄さんに口づけられた瞬間。
驚きと共に身体中が歓喜した。
自分はこの人に愛されているのだと、身体の奥深いところが熱を持ち震えたのだ。
『僕は、この人のためになら女になってもいい』
確かにそう思った自分が、ひどく恐ろしい。
『ルカ……ルーカス、愛してる』
それなのに、あの初めて聞いた熱っぽい声を思い出すだけでまた身体が熱くなる。心臓が大きく脈を打ち、全身に熱が巡る。本の上、握った手がいつもより熱い。
「兄さん……ルーク兄さん……」
僕はあなたを、愛してしまった。
あなたが僕を、愛してしまったように。
本を閉じ、窓の外を見る。
端から集中などできるはずもなかった。考えることが多いときに読書は向かない。
外は相変わらずの雨だ。霧もかかっている。
晴れていれば見える大きな時計塔やできたばかりのタワーブリッジも見えない。暗く霞んだ街の景色に細く細く雨が降っている。
ふと、自分はどうしたら良いのだろう、と思った。
恐らく言うつもりのない言葉だったのであろうが、兄さんは自分の心に名前を付け、僕に告げた。それは「愛である」と。
では僕はそれに答えなければならないのではないだろうか。
気が付いた心を肯定するか否定するかは別として。
去り際の兄さんの顔が浮かぶ。
そこにはいつも鷹揚な態度を崩さなかった彼には珍しく、驚愕と動揺、そして僅かな怒りと多分な悲しみが滲んでいた。
きっと、兄さんは自分を責めている。
兄弟だと、弟だと言っていた僕に向けていた愛情が、異性に向けるものであったことが僕を傷つけると思っている。
それが男としての僕を、ルーカス・アルフォードを否定することになると知っているから。
だけど、兄さんが自責の念を抱く必要など実際にはひとつもないのだ。
兄さんが僕を女として愛したように、僕もまた紛れもなく女として兄さんを愛したのだから。
少し考えて、ランプを掴む。隣に並べて置いてあったカフリンクスも持って、僕は書斎への扉をくぐった。
顔を合わせて伝えるのは気恥ずかしい。僕にそこまでの勇気はない。言葉で伝えてくれた兄さんには悪けれど、手紙で伝えようと思った。
相手に愛情を乞うわけではなく、気が付いたことをただ文字にして拙いながらも心を乗せる。このような手紙は初めて書いた。気持ちを伝えるための文章は、大学で書いた論文よりもずっとずっと難しい。
頭を悩ませながら答えのない文章を綴り、何度も何度も書き直す。
いい加減手が痛くなってきて、紅茶を淹れて少し休もうかと万年筆を置いた。
半分も書き上がっていない手紙は読み返すとひどい文章だ。僕はこんなにものを書くことが苦手だったろうか、とため息を吐く。
カタリ、と小さな音が聞こえた。
兄さんの部屋の方からだ。
懐中時計を見る。午前五時少し前。まだ起きるには早い。
何かあったら大変だ、と思い、ランプを持って部屋を出る。何もなければそのままキッチンでお湯を沸かして、紅茶を淹れて戻れば良い。
「兄さん? 何かありましたか」
小さめに寝室のドアをノックして声をかけてみる。返事はない。気のせいだったかと踵を返す。
そこで、妙なことに気が付いた。
隣の部屋、兄さんの書斎のドアの隙間から灯りが漏れているのだ。
今度はそちらをノックしてみる。
「兄さん? まだ起きているんですか」
カタカタ、と抽斗か何かを急いで閉める音がして、少しの間のあと「お前の方こそ、起きていたのかい……?」とどこかよそよそしく、怯えたような声がした。
その声に、僕と顔を合わせたくないのだと悟ってしまう。兄さんはやはり、ひどく自分を責めている。
「……目が、覚めてしまって」
「そうかい……まだ、起きるには時間があるだろう。ハーブティーでも飲んで、心を落ち着けて……ベッドに戻りなさい」
「はい……兄さんも、いかがですか。淹れましょうか?」
「あ、いや、僕は……」
核心を避ける当たり障りのない会話すら続かない。話さなければならないことがこれではないと、お互いにわかっていた。あとは、どちらが踏み出すか。きっかけだけが必要だった。
「……ルカ、僕はね。ずっとお前のことを弟だと思っていたよ。これは本当だ。偽りなんてない。だから、いつの間に自分がお前を傷つけるような感情を持ってしまっていたのか……それがわからないんだ。お前が男として生きるため、僕の弟として生きるためにどれだけ努力してきたのか、僕は知ってる。それなのに……僕は……」
懺悔する声は濡れ、震えている。
許しを請う必要などどこにもないのに、兄さんは僕に許しを請うていた。
その声が胸に刺さり、痛む。
閉めたままの扉に額を付け、僕は声を絞り出した。
ここで言えなければきっと手紙にも書けない。そう思った。
「兄さん。兄さんが『愛している』と言ってくださったとき、僕は自分でも驚いたのですが、嬉しかったんです。兄さんが誰かと結婚して、知らない誰かが兄さんの隣に立つことが、僕にはたまらなく苦しかったから。……ねえ、兄さん。僕は、兄さんが望むなら、ドレスを着たって構わないんです」
ドアの向こう側で息を呑む気配がした。
絨毯に吸い込まれて足音は聞こえないけれど兄さんがこちらにやってくるのがわかって、扉から額を離す。恐る恐るといったように開けられた扉の隙間から、柔らかに光を弾くプラチナブロンドと、どこか臆病な色を乗せた瞳が覗いた。
「……ルカ」
「兄さん。僕は、あなたを愛しています」
気が付いたときには兄さんの腕にきつく抱かれていた。頬にさらさらとした金髪が触れていて、少しくすぐったい。背中に回されている腕が思ったよりも力強くて、「絶対に離さない」と言われているような気がした。その大きな背に、僕も腕を回す。
「ルカ、出て行くなんて言わないでくれ。僕はずっと、ここでお前と暮らしていたいんだよ」
「はい」
「恋文や結婚を考えてほしいという手紙がたくさん来ているのは知っている。でも僕は、嫌なんだ」
「はい」
「……我が儘だと笑うかい?」
「……いいえ。自分の人生を受け入れることができずに逃げ出して、罪を重ねてきた僕に、あなたを笑う資格はありません」
「なあ、ルカ。もし本当にドレスを着ても良いというなら……」
そっと身体を離される。
見上げると、臆病さがすっかりと拭い落とされた濁りない水面がある。
「僕と、結婚してほしい」
「聞きました? アルフォード公爵、ご結婚なさったんですって」
「ええっ?! どなたかとお付き合いなさっていたということ?」
「あり得ないわ。公爵閣下とお付き合いなんてなさっていたら噂になりますもの。そんなお話、聞いていないでしょう?」
「ええ。アルフォード公爵の女性関係のお噂なんて、聞いたことがなかったわ」
「どなたとご結婚されたのかしら」
「遠縁の親戚にあたる方みたい。社交界にも出ていなくて、ずっと田舎で引きこもってらっしゃったんですって」
「そんな田舎娘が、」
「しっ! いらっしゃったわよ」
ざわざわという話し声が一気に止んで、ホールが静まりかえる。視線が一斉にこちらを向いて、僕の全身をなめ回すように見ているのがわかった。
「ほら、行くよ」
固まってしまった僕の手を兄さんが引いてホールへと歩を踏み出す。
そんな僕の一挙手一投足が周囲から穴が開くほどに見つめられている。
「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ、ルーシー」
兄さんが少し強めに僕の手を握ってくれる。
手には、揃いの青い石を嵌めた指輪がある。
兄さんが僕にくれたカフリンクスに填まっていたのと同じ石だ。
『お前の瞳の色だよ』
そう言って渡されたカフリンクスを使うことは、きっともうない。
代わりに兄さんは、結婚指輪に同じ石を使ってくれた。
「おお、アルフォード公爵。ご結婚、おめでとうございます」
「ありがとうございます。リチャード公爵」
「初めまして、アルフォード公爵夫人。ダミアン・リチャードと申します。以後、お見知りおきを」
「お、お初にお目にかかります。ルーシー、と申します。こちらこそよろしくお願いいたします」
「それにしても……お美しい方ですな。艶やかな黒髪に、サファイアのような瞳。曇りない白皙の肌。子どもも、さぞ美しく育つでしょう」
屈託なく笑う公爵の言葉に、兄さんは苦笑して「気が早いですよ」と言った。僕も思わず笑ってしまう。
子どもはいずれ作らなければならないけれど、まだ無理はしない、と兄さんと決めた。男としての生活から女に戻り、さらに貴族の女性としての作法を身につけなければならないのだから大変だろう、という兄さんの気遣いだった。
「しかし、ご結婚なされたとなっては、弟御は肩身が狭いでしょう。今日は姿が見えないようですが……」
「実は、弟は異国に行ってしまったのです」
「異国に?」
「ええ。船を作る仕事をしておりましてね。異国の技術も学びたい、と言って」
「ほう。感心な弟御ですな」
「ええ。僕も誇らしいです」
「ご令嬢方は嘆くでしょうがね」
僕は眉を下げて苦笑する。兄さんは「皆が嘆いていると、あの子には手紙で伝えましょう」と悪戯する子どものように言った。
遠くからワルツが聞こえてくる。兄さんのホールドに沿って、僕は身体を預けた。
「そういえば……」
「何だい?」
「指輪に使われている石。前に教えてくださいましたけど、何という名前だったか忘れてしまって……。サファイアではありませんよね」
「違うよ」
「……もう一度、名前を教えていただけませんか」
微笑むと、兄さんは「仕方ないな」と言って耳元に顔を寄せてきた。
「アウイナイト。過去との決別、という意味を持つ」
一瞬、息が止まる。
指輪の石。それは兄さんが送ってくれたカフリンクスと同じ石を使っている。
学校を卒業したときにくれたあのカフリンクスの意味を、僕は五年以上経った今、やっと知った。
「過去との、決別……」
それは、兄さんの願いだった。
どこまでも優しく、僕を思ってくれた兄さんの。
僕が娼婦の子どもだという過去を捨て、女である自分を憎悪した過去を捨てて、健やかに生きることができるように、という願い。
「バルコニーに出ようか」
涙が出そうになっているのを察したのか兄さんがそう言って僕をエスコートする。
誰にも気づかれないように外へ出て、僕の頭をそっと包み込んでくれた。
「ありがとう……ありがとう、ございます」
外の空気に安心したのか、涙がひとつ、またひとつと落ち、止まらなくなる。タキシードが汚れてしまう、と思ったけれど腕から抜け出す気にはならなかった。
「ルーシー……ルカ」
呼ばれて顔を上げる。
月明かりが兄さんの髪に反射して、金色に美しく散る。
「愛してる」
重ねられた唇。
そっと僕の手を兄さんの左手が握った。
その手にも、アウイナイトが光っている。
Fin.
アウイナイトの誘惑 宮守 遥綺 @Haruki_Miyamori
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