第20話 皆さん準備を、どうぞよしなに
山奥にある村の老若男女が、土の地面に膝を突いて頭を下げ勢揃いしている。
トリトニア公爵家のアイリス御嬢様が直々にやって来たと知って、驚天動地となっての騒ぎだった。誰もまさか、これほど偉い貴人が来るとは思っていなかったのだ。
アイリスは一人台座に立っている。
貴人用にと用意されたはずだが、小柄なアイリスが皆に見えるように用意されたのではないかと、グライドは疑っていた。
そして村人たちは、全く未知の美しい生き物が降臨したような様子で崇めている。
幼さを僅かに宿した美しく整った顔立ち、瞳の色は淡く薄く神秘的な紫で、肌はどこまでも白く滑らかなもの。身に付けているものは上質で、白い上着に黒い衣類と見た事もないようなもの。
日の光に燦然と輝く白銀の髪が風に揺らぐ姿は、どこまでも美しく気品がある。
村に到着した直後は息も絶え絶えだったアイリスであるが、今はそれもなく、少しも臆したところのなく堂々として、静謐な眼差しを静かに向けていた。
「トリトニア公爵家継嗣、アイリスです。父であるモントブレアの名代として、この地の窮地を救うべく兵を率いて参りました。どうぞ、よしなに」
鈴を転がすような澄んだ声で告げられると、村人たちは誰が命じたわけでもないが、地に頭を擦り付けるようにして平伏した。
その中から老人が膝を動かし、這うようにして進み出た。
「自分は。ここで
「ありがとう。さて、堅苦しいのは嫌いなのです。今は危急の時。無駄な時間を費やしたくはありません。状況を聞き、これからどうするのか決めるのです」
「は、はぁ……」
「グリンタフが村を出てからの変化は?」
「はっ!」
セダメンは目を輝かせ頷いた。
このアイリスが本気で村を案じて救おうとしていると気付いたのだ。遠く王都から来た貴族の少女が村を気に掛けてくれている、それが分かって心から嬉しくなったらしい。
「はい、それからの事は――」
セダメンは一生懸命に訴えた。
命からがら逃げ伸びてきた者の話では、さらにオークは増え続け、意を決して様子を窺いに行けば、オークの数は五十匹どころではなく百匹以上ということだった。
既にこの村の周りでも、ちらほらと姿を見かけだしているという。
「そんなっ、百匹だなんて……!」
パンタリウスが悲鳴のような声で息を呑んだ。しかしカールドンに睨まれ、両手で口を押さえ首をすくめた。
そのお陰で、次の言葉で本当の悲鳴をあげずにすんだ。
「さらにオークロードらしい姿も確認されております」
「…………」
グライドは眉を寄せ事情を悟った。
オークロードという存在は、人間で言うなれば特殊ジョブ持ちのようなもので、たった一匹でオーク百匹分に匹敵する強さと言われ、災害扱いされる。そしてオークは繁殖能力を持つ存在でもあり、放っておけば次々とオークが増えていく。
こんな時期にオークが動いた理由は、つまりロードが繁殖をするためだったのだ。
ふいにアイリスが視線を巡らせ、鈴を転がすような声をあげる。
「グライド、献策を」
どうして自分がと思うのだが、不意に、アイリスがこの言葉を投げかけてきた理由が、公爵から剣聖将軍と呼ばれたからだと思い当たった。
今ここにいる中で、そうした策を考え助言できる者は他にいない。
「グライド」
もう一度、名を呼ばれる。
その時に一瞬だけ見えた縋るような眼差しに、グライドの心は決まった。子供と女性からの助けは無視できない性格なのだ。
軽く頷き、目を閉じ思案する。
一番は逃げる事だ。しかし、これが運命の大きな流れと言っていたのであれば、アイリスは逃げる事に頷かないはずだ。だから戦う前提で考えねばならない。何が正しいかは分からない。
だが、限られた時間と情報の中で決めなければならない。
いろいろな事柄が頭を過ぎる。
戦力はトリトニアの家士にアイリス、山の民。フウカは危険な目に遭わせたくない。グライド自身はオークロードの相手で手一杯。もう少し戦力が欲しいが、麓の町に応援を求めたところで、足下に火が付いていないのだから逃げ腰になるのは決まっている。
まして王都からの援軍を呼ぶ時間の余裕はない。
「……相手の数が多い。ここで待ち受けては村への被害が大きすぎる。どのみち、いずれ襲われるのであれば。こちらから打って出て、奇襲し数を減らしたた方がいいだろう。ロードを放置しておけばオークが増え、強力な個体が生まれかねない」
しかしそれだけではない。
この村は思った以上に山奥で、そして素朴で貧しかった。
畑の広さを考えれば、王都から来た一行が長期間滞在し、さらに奥の村の生存者を加わえた状態で食事を賄い続けられるとは考え難い。麓の町から食糧を買い付けるにしても運搬は厳しく、そちらにもさほど余裕があるわけでもない。
つまりグライドたちが滞在すればするほど、村の食糧は消費され、やがて迎える冬の生活を圧迫する。たとえオークを撃退したとしても、これでは本末転倒だ。
さらに士気の問題もある。
到着した直ぐは戦いへの緊張があるが、時間と共にそれは薄れ、やがて弛み及び腰になっていくだろう。一度落ち着けた腰は、なかなか上がらないのと同じ事だ。
兵は神速を尊ぶとい言葉は、何も行軍だけの話ではない。
「奴らが襲ってくれば防ぎきれない」
グライドが鋭い目をすれば、それだけで辺りにびりびりとした緊張が漂う。
「村は壊され、弱い者から襲われ喰われていく。自分だけではない。家族や隣に居る者たち、そうした者が苦しみ命を失うだろう」
淡々とした言葉に、辺りに恐怖と不安が広がる。
だが、とグライドは笑った。不貞不貞しく堂々として、何より恐ろしげにだ。
「それを防ぐには、こちらから討って出て、オークの不意をついて少しでも数を減らすしかない。そして上手くすれば、襲われた村の、まだ生きている者を救えるかもしれない」
村人を鼓舞するためでもあり、また微かな可能性でもある。もはやアイリスへの献策だけではなく、周りの者に言って聞かせている。
「動ける者が全て武器を取り、力を合わせ必死に戦い、ようやく勝ち目があるだろう。奴らは夜目が利く。今から出発し、日中に攻撃して決着を着けるべきだ」
どこまでも落ち着きのある声が、強く辺りに響き渡る。
台座の上で静かに耳を傾けていたアイリスは、風の悪戯で肩にかかった髪を優雅に払って頷いた。
「では、そのように。皆さん準備を、どうぞよしなに」
高貴な身分の美しい少女の言葉に皆が肯き、そして動きだす。静かな山村に戦いの熱気がこもり始めた。
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