付録編

プロローグ 何か大事件が起きている

 谷沿いの山道は狭く勾配も急。

 山を削ってつくられた道の左は壁のような山肌で、道の右は崖になって目も眩むような深い谷だ。うっかり足を滑らせでもすれば命はない危険な道である。しかし、この小石交じりの赤土の道だけが、麓と山村を繋ぐ唯一の道だった。

 猟師のグリンタフは、ふうふう息を乱しながら急な山道を登っていく。

 若い頃は飛ぶように駆け上がれた坂が、今はゆっくりとしか進めない。こういう時に、ついつい自分の年齢というものを考えてしまう。随分と歳をとってしまった。

 獲物の大猪を担いで上がって、村の皆を驚かせた時もあった。しかし今では、猪を獲るような元気もなく、精々が山鳥を数羽で、坂を上がることさえ苦労している。だが、そんな事で弱音を吐くわけにはいかない。

 なぜならグリンタフは、かつて王都に行って領主の兵士として働いたことがある。兄が亡くなり故郷の家を継ぐため村に戻ったが、名誉ある仕事を行った者として、村の名士として一目置かれているのだ。そうした事情があるため、情けないところは見せられない。

 しかし歳は歳。

 そろそろ家族には猟を止めるよう、畑でも弄って大人しくするようにと、懇願されていたがグリンタフにそのつもりは少しもなかった。山の中を動き回り猟をするのは好きであったし、やはり動いていなければ老け込んでしまう気がするからだ。

 なにより、いまさら畑仕事をするなど、真っ平ご免だった。

 急勾配を上りきると、道は広く緩くなる。汗の滲んだ顔に、吹きよせる風が心地よい。グリンタフは足を止めずに、しかし幾分ゆっくりと進んだ。ここで立ち止まり息を整えないのは、誰も見ていないとはいえ、自分なりの若さを誇るプライドであった。

 生い茂る緑の壁のような木々の間を通り過ぎると、そこがグリンタフの暮らす村だ。

 特に村の名はない。

 しいて言うなら、さらに山奥に一つ小さな村があるので、そちらを奥の村と、グリンタフの村を前の村と呼ぶぐらいだった。 

 道とも空き地ともつかない村内を歩き、自宅にいって納屋の軒先に獲ってきた山鳥を縄で吊す。このまま干しておけば、数日もすれば味が格段に良くなる。虫も少ない今の時期であれば、特に手間もいらない一工夫であった。

「なんだ爺様、帰って来たか」

「儂を年寄り扱いをすんな。まだまだ若いぞ」

「分かった分かった。それより用事だ。戻ったら直ぐに顔を出せと、村長むらおさが言っておったぞ。なんだか様子がおかしかったからな、急いだ方がいい」

 息子のウェルデットは、意固地な父親に呆れた様子で言った。

 グリンタフが顔をしかめたのは、そんな息子の態度もあるが、村長に呼ばれたせいだ。わざわざ呼びつけるなど、間違いなく面倒事に違いない。

 湧き水を手ですくって顔を洗い、軽く口に含んですすいで吐き出す。遙か遠くまで見渡せる大地の上に、青く晴れ渡った空がある。山の麓の街も、さらには若い頃に夢のような暮らしをした王都までも一望できる。

 王都の姿は記憶と同じように、遠く霞んで見えていた。


 村長の家はグリンタフの家よりも大きい。

 部屋は四つもあって客間もあれば、家の周りには石垣や木の柵まである立派な家だ。かなり昔には、この地を治める御領主を迎えた事もあるし、今も稀に訪れる旅人があれば客間に泊めてやっている。村一番の格式がある家だ。

 近づくと辺りを見回していた若い衆が、グリンタフを見つけ、大急ぎで走って来て手を掴んで家の中にまで引っ張り込んだ。もう大急ぎといった様子だった。

 そのまま立派な客間に通される。

 薄暗い中に集まった人々を見て、グリンタフは軽く驚いた。こんな昼前の時刻から何人もが集まっていて、しかも村の主要な者ばかりだったのだ。間違いなく何か大事件が起きている。

「よく来てた」

 村長のセダメンは言って、若い者に水を持ってこさせようとした。しかし、既に自宅で飲んできたグリンタフは、これを断って床に座り込んだ。早く話が聞きたかった。

「いったい何があった?」

「うむ……実は奥の村が襲われたらしい」

「ほう?」

 セダメンが潜めた声で告げれば、グリンタフは眼を丸くして何度も瞬かせた。

 そして話の内容が進むにつれ、驚きよりも恐怖と不安が強まっていく。朝方頃に――ちょうどグリンタフが猟に出かけた後に――奥の村から、ボロボロになった男が辿り着いたらしい。ささやかな治療を受け、今も奥の間で横たわっているそうだが、その男が告げたのは亜人種による襲撃を受けたという話だった。

「相手の種族は?」

 グリンタフは兵士の顔になって、間髪入れずに問うた。

 亜人種も種族によって強さや凶暴さが違う。村を襲って食料を奪うだけもいれば、人間を食料と見なす連中もいる。

 だがセダメンは静かに頭を振った。

「まだ分からぬ……」

「分からぬか。しかし、何かの対策をせねばいかんな」

「それよそれ、流石はグリンタフ。ここに皆を集めたのは、まさにその相談。悪いが話が話なので、お前さんが来る前にも相談を進めておった」

「構わぬよ。それより、むしろ先に話をしてくれて良かったわい」

「すまんな」

 村長の貫禄を漂わせ、セダメンはゆっくりと頷いてみせた。

 しかし決まっている内容はささやかな事で、敵に備えて防御を固めるという話や、見張り番をどうするかといった話だけだった。

 裏の開いていた窓から、何か驚きを含むどよめきが聞こえてきた。

 同時に若い衆が部屋に飛び込んでくる。

「来ました」

 その言葉に敵襲かと、集まっていた皆は――グリンタフも――跳ねるように立ち上がるのだが、よく聞けば、どうやら来たのは奥の村から逃げて来た者たちだったらしい。

 全員でバツの悪い顔をしながら、そそっかしい若い衆を睨み家の外に出た。

 村の皆が走って行く後を追いかけると、山奥に続く道から大勢が歩いてくる姿があった。一様に暗い顔をして俯き、髪は乱れ服は汚れ、何人かは怪我をして血を流している。それは見覚えのある顔で、間違いなく奥の村の者たちだ。村人が駆け寄った途端、崩れるように座り込み泣きだす者もいた。

「おいっこら! 皆の衆よ、ぼさっとするな。集会場にまで運ぶのじゃ!」

 そこは流石に王都で兵士を務めただけはあり、グリンタフは即座に大きな声をあげた。それで村人は我に返り、大急ぎで逃げて来た人々へと駆け寄った。


「どうやら奥の村を襲ったのは、人食い鬼のオークで間違いないようじゃ」

 それは人間を食料にする連中だった。

 数は分からないが少なくとも五十。朝方に一気に襲って来て、何人かが即座に殺され、残りは抵抗出来ぬように傷つけられ、狭い家に押し込められた。その後で食料が引き出され、殺された者たちと共に喰われだした。

 逃げのびた者たちは、オークの注意が食事に向けられるまで隠れ潜み、恐怖と悲しみと悔しさを堪え、道なき道を這うようにして逃げ、ようやく前の村に辿り着いたのであった。

「しばらく連中は動かんだろうが……」

「食い尽くしたら、間違いなく来よるな」

 再び村長の家で村の中心人物による話し合いが持たれていた。もはや、容易ならぬ事態だった。風の噂で、こうして壊滅する村々の話を聞いたことはあったが、それがまさかに自分たちの身に降りかかろうとは誰も思っていなかった。

 村を捨て逃げたところで、流浪人になるのみ。

 どこの土地も誰かの支配地であって、都合良く住める場所はない。流浪の中で飢えや寒さに苦しみ、野垂れ死ぬかのどちらかだ。

 沈鬱な顔をする皆の中で、セダメンはしっかりと顔をあげた。

「皆よ聞け、まだ望みはある! グリンタフ、お主にしか出来ぬ仕事があるぞ」

「……御領主様に訴えるのじゃな」

「その通り。かつて、儂の家で休まれた御領主様は言われた。何かあった時は迷わず助けを求めよと、必ず助けてみせると言われた。きっと、この話を聞けば兵を派遣して下さるだろう」

 集まった皆の間から感嘆の声がもれ、一様に顔をあげた。

 しかしグリンタフはしかめっ面だ。

「村長の言いたい事は分かる。じゃがな、そんなものは何十年も前の話じゃろう。今となっては、どこまで気に掛けて下さっておるか分かったものではない」

「いや、あの御方であれば間違いない」

「そうじゃとしても、王都までいかねばならん。往復するだけでも五日や六日はかかる。しかも兵を用意するとなれば、さらに時間がかかりよるぞ」

「だがそれしかない」

 セダメンは力強くグリンタフを見つめた。

「御領主様であらせられる、トリトニア公爵様の下で兵士をしていた、お前さんにしか頼めん。王都まで行って、この村の窮地を訴えてくれ!」

 村の存亡を背負わされたグリンタフは、やはり面倒事になってしまったと心の中で肩を落とした。

 多少なりとも王都という、この山村とは違う世界を知っているだけに分かるのだ。

 確かに御領主は良い貴族かもしれないが、会いたいと言って簡単に会える相手ではなかった。遠方の領地の者と名乗ったところで、簡単に信じてくれるはずがない。そうした理由もあるので、王都に知己のあるグリンタフが選ばれたのであった。

 グリンタフは深く息を吐く。

 遙か昔の兵士だった頃を思い出そうとするが難しい。

 記憶は細く曖昧で、石造りの建物があった道があった美味いものを食べたといった覚えはあるのだが、それが実際どうであったか景色や光景としては少しも思い出せないのだ。

 知己である相手についても同じ。バートンという気の良い男と、バビアナというとても美しい少女は覚えているが、やはり明確な姿は思い描けなかった。

 だが行くしかない、行って二人に会って頼んでみるしか手はないのだ。

 住みなれた小さな村の、顔見知りの人々の、大切な家族の、全ての命運がグリンタフの肩に、ずっしりのし掛かっていた。

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