第25話 これから起きるであろう出来事の断片

 運河に沿って南へ進むにつれ、川岸は周囲より少し高い地形となっていく。木々が枝葉を広く伸ばした小道を、ゆるゆると上っていくと建物が一つ。周りに塀などないが、周囲の林がその代わりをしている。

 林の中の空けた地面に、座り込むグライドの姿があった。

 どっかり腰を据え胡座を組んだまま、傍らには鞘に収めた剣を置き、瞑目しながら深く静かな呼吸を繰り返している。

 戦いに向け、心を研ぎ澄ませているのだ。

「…………」

 風が吹く、梢が揺れる。ひらひらと木の葉が舞い、地面に落ちる。虫が飛び、鳥が襲う。グライドは目を閉ざしたまま、それを感じ取っていた。

 ふいに薄く目を開ける。

 この場所に続く緩い上り道に何者かの気配を感じたのだ。しかし坂を走って向かってくるのは一人、微かに聞こえる足音は乱れている。さらに近づくと足音の軽さが分かり、やがて聞き覚えのあるものだと理解した。

 同時に訝しむ。

 本来であれば安全な場所に、二人でいるはずの相手だ。

 それがどうして一人で、しかも慌てた様子で走ってくるのか。嫌な予感を覚えたグライドは、立ち上がりながら手に取った剣を腰に帯びる。そして振り向けば、予想していたとおりの相手がいた。

 息も絶え絶え汗を流し、長い髪を乱したアイリスだ。

「……グライド……ごめんなさい……」

「何があった?」

「フウカと二人で外に出ました。そこを襲われ、フウカが連れ去られたのです」

「っ! 出ないように言った筈だが……」

 グライドの声に怒りはなく、あるのは失望だけだった。だが、その感情にこそアイリスは項垂れ、申し訳なさと悔しさで一杯になってしまう。何とか誤解を解きたいと、さらには伝えねばならない事を訴える。

「理由があるのです。アイリスの話を聞いて欲しいのです」

「どうぞ」

 頷くグライドには、好きにしろと突き放した様子が強かった。

 アイリスは、唇をぎゅっと結んで顔を上げた。

「今が話すべき時なのかは分かりません。ですが、アイリスの全てを話します。前に伝えたように。アイリスには世界を漂う大きな運命の流れが、少しだけ見えているのです。それは、これから起きるであろう出来事の断片なのです」

「…………」

 グライドは僅かに眉を上げたが、それでも何も言わない。


「ある日ある時から。アイリスの頭の中に、そうした見た事もない風景や言葉の断片が、幾つも閃くようになりました。でも、それはとても恐ろしいものでした」

 その閃く光景の中のアイリスは、悪逆非道な悪い人間で、周りの人々を苦しめてばかりいた。皆から嫌われる内に身も心も邪悪へと染まってしまい、ついには禁呪にすら手を出し世界を滅ぼそうとさえした。しかし、良き心ある人々によって禁呪は阻止され、闇に落ちたアイリスは全てから憎まれ、誰からも省みられる事なく一人死んでいったのだ。

 滑らかな白い頬をつたう涙が一粒。

「最初は信じませんでした。でも、その閃く光景にあった出来事は、実際に起きました。だから気付いたのです。アイリスの見ているものは、未来に起きる事なのだと。そして、その未来で死んだアイリスの悔恨が、今のアイリスに、それを避けるようにと告げているのだと」

 アイリスの声に力が入り、胸の前で両手が強く握られる。

「だからアイリスは、ずっと運命に抗おうと努力してきました。そうして、幾つかの運命を避けたのですが……」

「避けられなかったのか?」

「はい、と、いいえです。避けたはずの運命は、いつも別の者の手で起こされ、アイリスもそれに大きく巻き込まれてしまうのです」

 まるで逃げた事への罰のように、逃すまいとするかのように。

「だから思うのです。世界には、避けられない運命という大きな流れがあるのだと。しかし同時に、その運命の流れ中で、誰がどんな役割をするのかは、完全には決まってはいないのであろうと」

 風が強く吹き、林の木々を大きく揺らす。

 木の葉が次々と舞い散る中で、アイリスの白さを宿す長い銀色の髪がなびく。だが、澄んだ紫色をした瞳の眼差しは少しも動かず、ただグライドに注がれている。

「今回の事も、そうなのです。アイリスが誰かを襲わせる事は、世界にとっての大きな流れだったのです。でもアイリスはそれをしませんでした。だから別の誰かがそれをして、一番関わりの深かったアイリスが襲われるのです」

「話は分かった。だが外に出た理由と、どう繋がると?」

「今日になって運命の流れが、さらに見えました。本来は襲われる筈だった誰かを救うためグライドが駆け付け、そして見事に救う姿です。だから今は襲われる立場になったアイリスの側に居て欲しかったのです。信じてくれますか?」

 必死に語られる内容は、到底信じがたいものだ。

 自分のミスを誤魔化すための言葉かもしれないし、そもそも妄想や世迷い言かもしれない。こんな言葉を信じる者など居ないだろう。だがグライドには分かった――この言葉に嘘はないと。

「必ず信じると言っただろう」

 グライドの静かで落ち着いた言葉に、アイリスは虚を突かれ、そして表情を輝かせた。しかし、すぐにそれを曇らせ下を向いてしまう。

「でも、代わりにフウカが攫われてしまったのです。あのスラストという強い人がいたのです。アイリスには勝てませんでした、ごめんなさい」

「…………」

 小さく息を吐いて、グライドは微苦笑した。

「スラストが一緒にいるなら、フウカの事は心配する必要はない。なぜならスラストは、フウカの――」


◆◆◆


 スラム街の一画に連れてこられたフウカは、前は外から眺めた建物の中にいた。

 船着き場で捕まって、周りをブラックマスターシュの連中に囲まれ、しかも隣にはスラストがいたので逃げるに逃げられなかった。堂々と振る舞っているつもりだが、それでも心の中は恐怖で一杯だ。

 拘束はされず、武器すら取り上げられていない。

 しかし逃げようと思う方が間違いだろう。周りに敵意を持った大人たちが多数いるので、武器の一つ二つがあったところで何の意味もない。下手な動きは見せず大人しくしている方が賢い。それでもフウカは、逃げる方法を探って、辺りを見回した。

 干し草の臭いを甘くした煙と、お酒臭さが漂う大広間。

 よく見れば床にはゴミが散乱し埃もあって、何かが零れた染みも多い。フウカとしては掃除を始めたくなるぐらいの汚さだ。

 広さはかなりあって、其処此処に木箱や酒瓶が転がり、テーブルの上にはカードと金貨が無造作に置かれている。辺りは薄暗く、小さな灯火があるだけで、隅の方は暗がりになっていた。その其処此処そこここに荒くれといった者たちが座ったり寝たりしているので、この中を下手に動く方が危険だろう。

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