第21話 敵意、恐怖、怒り、悲しみ

 外に出たグライドだが、フウカには手の合図で室内に留まるよう指示している。

「忘れ物を返してやろう」

 再び起き上がろうとしていたシノマの顔面に、革袋を叩き付けるように投げた。しっかりと重量のあるそれに鼻を強打され、シノマは再々度転倒している。

 辺りから駆けて来た二人の仲間に助けられ、立ち上がったシノマだったが、地面に転がる自分の剣に飛びつくと、それを手に鼻息も荒く斬り付けてきた。しかしグライドは鞘に入ったままの剣を抜きもせず、これを躱したばかりか、またしても腕を掴んで捻りあげ投げ飛ばしてしまう。

 まったく問題にもならない。

 このまま三人とも斬って倒すか、それとも逃がして泳がせ後を追うか。早くも次の行動を考えるグライドだったが、急に表情を変えた。

「っ!」

 飛び退いて向きを変え、抜き放った剣を向けた先は、家の裏手にある石井戸の方向。そこにいつの間に居たのか、一人の男が林を背に軽く腕を組み、グライドを凝視していた。

 茶色を帯びた短い髪は綺麗に整えられ、その下の両眼は鋭い刃の雰囲気を宿した、背筋の伸びた細身の長身。この辺りでは、あまり見かけない異国風の色鮮やかな服は、眉目秀麗さと合わさって見る人の目を引くだろう。

「お前は……スラスト!?」

 思わず呟き、立ち竦んだグライドの背筋に、ぞっとした寒気がはしった。これはかつて死闘を繰り広げたスラストだ。不安が現実となり姿を現し、そして過去が追いかけて来たというわけだ。


「よぉ、久しぶりじゃないかグライド。元気でいてくれて嬉しいぞ」

 とても友好的とは思えない態度で、スラストは言った。

 沈鬱な顔に皮肉な笑み浮かべ、目には暗い怒りがある。ゆっくりと抜き放たれた剣が、赤みを帯びた日射しを反射し不吉に輝く。

 脳裏に過去の出来事が次々と蘇り、グライドは手を固く握りしめ、込み上げる感情を堪えた。敵意、恐怖、怒り、悲しみ。だが同時に、泣きたくなるような懐かしさもあって、それを簡単に言い表すことはできない。

 何か胸に来る感情を抱えたまま、互いに剣を手にして駆け出して、間合いに入った瞬間に抜き放って刃を打ち合わせる。そして今はお互いだけを見つめ咆えるように叫んでいた。

「スラスト、スラスト!!」

「グライドぉ!!」

 剣と剣が激突し、凄まじい音がした。

 そのまま恐ろしい勢いで次々剣戟を交わし、互いの動きを見定め、読みあい騙しあう。突き動かされるままに戦いを繰り広げる。

 スラストは、かつての死闘の時よりも、確実に強くなっていた。もちろんグライドも幾つもの危機や苦難を乗り越え、時には戦場も駆け抜け強くなっているつもりだ。

 剣がぶつかり合う度に、砕けた破片が火花となって飛び、その内の幾つかが顔を傷つける。グライドの頬から血が滲み出し、これがつたい落ちていく。傷は浅いが汗がしみ、チリチリと似た身を感じる。

 互いに距離を取って、剣を構えつつ、睨み合って動かない。

「どうしたグライド。本気を出さないのか? また逃げる気か!?」

「黙れ! 逃げて前に進めないのは、お前の方だろうが!」

 とたんにスラストの眼に力が込められ、猛然と前に跳んで斬り付けてくる。これに合わせグライドは滑るように後ろに引き、剣を躱した瞬間、後ろにやった足に思いっきり踏張り前に行く。


 だが、その瞬間。

 横からシノマが剣を突き込んで来た。

 油断と言えば油断だったが、全神経をスラストに集中していたグライドの反応は遅れる。無理に身体を捻り、横から襲い来る剣を躱した。否、躱しきれなかった。

 剣の先が左の肩を掠め、グライドは痛みに顔をしかめ、それでも斬り払った。

「くっ……!」

 シノマは胴を斬り払われ、そのまま数歩進んで、前のめりに倒れた。そちらを確認する事もなく、グライドはスラストから目を離さない。脳裏には焦りの思考が駆け巡る。傷は浅く、まだ戦える。しかしスラストを相手に戦うには、この傷は間違いなく大きな不利だ。

 しかも剣を合わせて分かった。

 間違いなくスラストは強くなっている。思った以上に強くなっている。

 何としても生き延びねばならない。娘を守るためにも、娘と共に生きていくためにも、娘を悲しませないためにも。

 剣を握る手に力を込め覚悟を決める。

 だが、そのタイミングであった。肝心の娘が、家から飛び出してきたのは。

「お父さん!」

 家から飛び出してきたフウカは、グライドの側に駆け寄り、自分の剣を構えスラストを威嚇した。もちろん敵う相手ではなく、むしろ邪魔な足手まといにしかならない。そんな事はフウカ自身も理解している。だが父親の危機に、いてもたってもいられず行動したのだった。

 やはり人は無意味な馬鹿な事をしでかすという事だ。

 これに視線を向けたスラストは――僅かに目を見開き、何かを言いかけ、しかしその言葉を呑み込む。そこに驚きや怯みのようなものが存在する事は誰も気付かない。

 スラストが後ろに下がり剣を収めると、グライドは訝しんだ。

「なんのつもりだ?」

「……気が変わった。今日のところは挨拶だけだ」

 ブラックマスターシュの二人が不満そうな顔をするが、これを鋭い視線で制したスラストは、倒れて動かないシノマを回収するように告げ、踵を返し悠然と立ち去っていく。全く興味を失った様子だ。

 残された二人を顔を見あわせ、グライドの様子を窺いながらそろそろと動き、シノマに駆け寄って両手両足をそれぞれ持つと逃げるようにして後を追った。

「お父さん怪我、怪我してるわ。回復薬ないのよ、どうしよう」

「問題ない浅い傷だ。大した事はない」

「でも……!」

「大丈夫だ」

 後に残ったグライドは荒い息を繰り返し、今にも泣きそうなフウカの頭に片手をやって、反対の手には剣を握ったまま、スラストの立ち去った方向を見つめ続ける。

 助かったという気持ちはない。悔しいという気持ちもない。

 ただ、辛うじて命を拾ったという気持ちが心に強く刻まれるばかりだ。

 日は沈んだ空には、まだ残照があって、黒ずんだ雲の底を赤く染めている。何とも言えない気分を表しているような空の色だった。

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