第20話 月の光のように優しく儚げな光

 強く輝く月明かりの下、世界は青に満ちている。空は深く黒みを帯びた青になり、地上に近づくほど優しい青になる。そらに浮かんだ雲は白さを維持しながら、ところどころ暗い影となる。

 木々の間に見える運河の流れは、滔々とした流れが月光に煌めく。林の中では小さな月光虫が無数に飛び交い、その名の由来になった通りの、月の光のように優しく儚げな光を放ち舞っている。

 グライドは、井戸から汲み上げた水を頭からかぶった。

 薄暗い林に囲まれた家のわき、空になった桶を井戸へと放り込む。穴の奥から響く水音が聞こえたところで、ロープをたぐり寄せ、汲み上げた水を頭からかぶる。やや冷たいが、酒で火照った身体には案外と心地よかった。

 月光に肌を晒した身体はよく鍛えられ、あちこちに傷跡がある事が分かる。それらは明らかに斬られたり刺されたりした痕で、幾つもの戦いを乗り越えた事を物語っていた。

 外での水浴びは、あまり褒められたものではない。

 規則としてではないが、人目に触れる場所で水浴びをする事は非常識とされている。その点で、この林の中の敷地は都合が良い。人は近づかぬし視線も遮られる。

 仮に見ているとしても、時々出現する亡霊ぐらいのもので――今も林の中の闇に、ぼんやりと白い塊が月光虫と共に存在していた。気の弱い者なら悲鳴をあげるところだが、グライドは平然としていた。見慣れた事もあるが、元からあまり気にしていない。

 それよりも気になる事があるので、余計にそうだ。

「スラストか……」

 盗賊ギルドで聞いた名を呟く。


 ブラックマスターシュに雇われたという相手だが、それは昔の知り合いと同じ名前だ。それだけであれば、同一人物かどうかは分からない。だが、スラストという名と剣聖というジョブの両方があれば、間違いなく同一人物なのだろう。

「厄介だな」

 水をかぶりながらスラストを思い出す。

 最初に出会ったのは、ずっと昔の事で、それこそ娘のフウカと変わらぬ年頃だった。共に剣を学び、技を競い切磋琢磨。意見の相違で喧嘩もしたが、いつも笑っていた。

 しかし一つの事件を契機に、その関係性は全ておかしくなった。

 ついには死闘を繰り広げるにまで至ったのだ。

 幾つかの幸運と偶然が重なってグライドが辛うじて死闘を制し、スラストは瀕死の重傷を負って、その後はどうなったかは知らない。確認する余裕もなかった。グライドは辛い思い出に覆われた故郷を捨て、幼い娘を抱え逃げるようにして祖国を離れたのだから。

 長く旅をして、この地に辿り着き数年。ようやく平穏な暮らしを手に入れたが――。

 できれば人違いであって欲しいと願う。

 だが、自分の知るスラストで間違いないだろうとも思っている。

「スラストか……今度は勝てるのだろうか。いや生き残れるのだろうか?」

 グライドは月夜を見上げた。

 家の方から扉の開閉音。ぱたぱたとした足音に振り向けば、腕まくりをしたフウカが、布を手にやってくる。グライドは、じりじりと増していく不安を胸の奥に隠した。

「お父さん、背中流してあげるから」

 月光虫が林の中から迷い出て、目の前を過ぎった。


◆◆◆


 数日の過ぎた夕方の事だった。

 グライドが夕食をすませたところへ、家の戸が叩かれた。やや乱暴なぐらいの強さだ。いきなりだったが、これにグライドは驚きもしない。もっと早い段階から――聞こえてくる虫の音の変化で――何者かの接近は気付いていた。

 戸の向こうから、男の低い声がする。

「失礼、在宅かな」

「開いているので、用事なら入って構わんよ」

 狭い家のことなので、戸に近寄るまでもなく声は届く。また、わざわざ出迎えるような格式ばった家でもない。ただし目配せをして、フウカを下がらせておいた。

 がさつな勢いで戸が開く。

 そこから入り込んできたのは、戦いを生業にしているといった体格の者で、顔つきは大雑把で短な顎髭を生やし、額から頬にかけ刃物傷の跡があった。その頑丈そうな身体に剣を一振り帯びている。間違いなくファイターのジョブを持っているだろう。

 グライドは椅子に座ったまま、その男を見上げた。

「さて、どちらの方かな」

「ブラックマスターシュに所属するシノマだ。使者として伝言を持ってきた」

「わざわざ、ご苦労な事で」

「これが返答となる」

 言ってシノマは重たげな革袋を、懐から取り出した。中を見せられるまでもなく、じゃらりとした音でコインが詰まっていると分かる。恐らくは金貨だろう。膨らみ具合を目算すれば、五十枚かそこらはゆうに詰まっていると思えた。

 意図は読めるが、グライドはとぼけた。

「ゼルマンがこれを? どういったつもりかな」

「その通り。これで手を引け」

「手を引くの意味が、わからんなぁ」

「言葉通りだ、今回の一件には関わるな。俺たちは依頼として受けた以上、それを止めろと言われても止められない。この業界でやっていくための面子というものがある」

「なるほど」


 グライドはちらりと革袋に目をやった。

 どうやら、その金額がゼルマンの面子という事らしい。なにやら急に笑いたくなってきたが、理由はスラストという名に、ここ数日悶々と悩み不安を抱えていたせいだろう。

 感情が表情に出てしまったのか、使者のシノマが強い目付きで睨んできた。

 フウカは部屋の奥で大人しくしている。

 グライドはそのまま笑みを強めた。

「この金を受け取って、トリトニア家の御嬢様の護衛を止めてしまって、後は全部忘れてしまえと言いたいわけか」

「分かったなら、それでいい」

「誰が受け取るものか、はっはっは」

 シノマの目付きが鋭く細まると、革袋を放り上げ一気に飛びだし、剣を抜き放ってグライドの脳天に叩き付ける。躊躇いのない動きを見れば、最初からそうするつもりだった事は明らかだ。

 椅子に座るグライドに、避けようもない一撃が叩き込まれた。

 しかしグライドは僅かに動く事で回避。それどころかシノマの腕を掴むと、自らが立ち上がる動作と共に引き寄せ、そのまま投げ飛ばしている。

 シノマは壁に激突。そこをぶち抜いて、外へと転がり出ていったが、きっと何が起きたかも理解していないだろう。その時になって革袋が床に落ち、じゃらりと重たい音を響かせた。

 新たに出来た出入り口から、新鮮な空気が室内へと流れ込んでくる。

 室内から皿の一枚が飛んだのはフウカの仕業で、呻きながら起き上がろうとしたシノマの額にみごと命中。驚かせ、再度転倒させている。その間にグライドは己の剣を手に、革袋を拾い上げ、大穴状態になった開口部から外に出た。

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