第15話 今は怒るべき時なのだと

 翌朝になって、柔らかな色に満ちた部屋で、アイリスは宣言するように言った。

「アイリスは、今から出かけるのです」

 これに対し堕落したメイドのフリージアは、不満そうな顔をしてみせた。相も変わらず主の優美で華奢な椅子を勝手に使い、あまつさえスカートで足を組んで座り込むといった、メイド以前にいろいろ問題がありそうな事をしている。

「ですからー、お供の一人もつけて欲しいですよ」

「つけました」

「そりゃ出歩くなとは言いませんけど、お供の一人ぐらいは……って!?」

「アイリスは、護衛の人を雇ったのです」

 鈴を転がすような透明な声を聞き、フリージアは椅子から転げ落ちた。しかも自分が落ちた事よりもアイリスの言葉に驚いてしまって、椅子に縋り付きながら、まだ何度も目を瞬かせている。

「雇ったって言われましても……それは本当ですか? いえいえ、御嬢様を疑うわけじゃありませんよ。ただあれですよ、御嬢様は猫みたいにふらふら歩いて、自由気儘で勝手に動き回るでしょう。そんな人につく護衛なんて、可哀想すぎますよ」

「今月の、お給金はさらに一割カットです」

「酷い!」

 無慈悲な宣告のおかげで、フリージアはようやく我に返ることができた。

 そんな幼馴染みのメイドが階級社会の横暴を嘆いている間に、アイリスは服を着替えてしまう。いつもの散歩スタイルとなった。軽く身体を捻って、おかしなところがないか確認しているが、背負った無骨なハルバードについては気にしていないらしい。

「お出かけ準備は万全なのです。アイリスは出かけます」

「ちょっと待って下さい、待って下さいって」

「なんですか」

 呼び止められて、ちょっと不満げな顔をするアイリス。


「さっきの話はともかくですね。護衛が本当にいるのでしたら、あれですよあれ。素性の分からぬ者を勝手に雇ってはダメなんですよ。ちゃんとした相手ですよね」

「アイリスは知っています、あの人は信用出来るのだと」

「もしかして、それ男の人じゃないですよね」

「グライドは男の人なのです」

「……変な人、つまり問題のある人じゃありませんよね? 嫌ですよ、そういう困った事になると。もう本当に、御家騒動に発展するかもしれませんから」

 フリージアは冗談めいた態度を投げ捨て、本気で心配していた。御家の行く末、自分の行く末、さらにはアイリスの行く末と。どれを一番心配しているかは分からないが、その全てに不安を抱き心配をしていた。

「グライドは変な人では……変な人ではないです」

「やややや! いま迷いましたよね!? なんで迷ったんですか!?」

「大丈夫なのです。グライドは問題のある人ではありません」

「みんな、そう言うんですよ。いいえ、まあメイド仲間に聞いた他の家の醜聞の話なんですけどね。その後で困った事になってしまって、一年ぐらい別荘で身を隠して暮らすことになって後は修道院行き……いえ、これは余計な話ですね」

 急にフリージアはバツが悪そうになって、如何にも余計な事を口にしたと、頬を掻いている。それでいて、心配そうな態度は崩していない。

「とにかくですよ。その男の人と二人っきりで、変なところに行ったりしてませんよね」

「変なところではありません、いつもは散歩をしているのです。あとはグライドの家に遊びに行ったりするぐらいです」


「ああ、もう終わりだ……男の家で二人っきりの密会だなんて。ええ、ええ分かりましたとも。私は絶対に口外しませんよ。どこまでも、お供しますよ。なんでしたら、産まれてくる子を私の子という事にして――」

「何を言っているのか、アイリスには理解不能なのです」

 アイリスは、この幼馴染みの奇妙な反応に首を捻るばかりだ。

「推測ですが、フリージアはグライドの存在が不安なのですね。問題ありません、グライドはしっかりとした信用出来る人なのです」

「えーっ、本当に?」

「もちろん娘であるフウカも同じなのです。とっても良い子なのですよ」

「子持ち!? なんだか修羅場の予感じゃないですかぁ」

「なるほど、アイリスは理解しました。今は怒るべき時なのだと」

 笑顔で睨まれてフリージアは肩をすくめた。このアイリスは機嫌が悪くなると、むしろ笑顔になると知っているからだ。そのグライドという人物に対しては不安があるが、しかし自分の主である幼馴染みを信用するしかなかった。

「分かりましたよ。もう何も言いませんよ。どうせ私は、駄目なメイドですから」

「おおむね、その通りなのです」

「酷い! ここは可哀想なメイドを慰めてあげるべきところですよ?」

 フリージアが騒いだとき、ハルバードを背負ったアイリスは窓に向かっていた。どうやら、また窓を出口に使うつもりらしい。薄いレースのカーテンが引き開けられると、室内の光量が増す。その光の中に立ったアイリスの姿は、同性であるフリージアが見ても美しいと思えた。

 ただし、開け放った窓の枠に跳び乗らなければだが。

「それで、どこに行くのですか」

「学園なのです」

 言いおいて、小柄なアイリスは窓から軽々と身を躍らせた。

 いつもこうして窓から飛び出す理由は、普通に玄関から出ると、見送りが大勢集まって面倒になってしまうためだ。そんな気を使ってくれるアイリスのため、メイドたちが総力をあげ、窓の下の地面は小石一つに至るまで丁寧に取り除かれている。互いに気を使っているのであった。

 一人部屋に残されたフリージアは迷っている。

 アイリスは確かに変わった。

 数日前に髪や服を土や砂で汚し戻ったかと思うと、さらには宝石の一つを持って出かけたのだが。それから急に、まるで地に足がついたように、心がという時間に存在するようになった。

 それ自体は喜ばしいのだが、聞いたことのない男――しかも子持ち――の名前が出たりするようになった。自分の知らないところでアイリスが何かをしている事が、不安でもあるし寂しくもある。だから、喜ぶべきか不安になるべきか迷ってしまうのであった。

 迷いながら報告に行った先で、母バビアナの眼を赤く腫らした姿にフリージアは驚いてしまって、このトリトニア家で何か大きな変化が起き始めている事を確信するに至った。

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