第14話 また明日に、ご機嫌よう

 軽い合図で船頭が櫓を使い、小舟が水路の壁から離れ、後はゆるゆると漕ぎ去っていく。そこに乗るバートンは一瞥もせず前方を見ており、どうやら本当にアイリスについて見なかった事にするらしい。

 フウカは遠ざかる船を見ながら頷いた。

「ちょっと厳しそうだけど、話の分かる人だよね」

「そうなのです。バートンは、いつもアイリスを心配してくれるのですよ」

 アイリスは嬉しそうに言った。

 貴族という存在は、それほど暇では無い。自らの地位と立場と生活を守るため、あちこち走り回って動かねばならない。物語に登場するような放蕩貴族では、瞬く間に身代を潰し没落してしまうだろう。

 トリトニア公爵や公爵夫人にしても、頻繁に外出し様々な政務や社交に務めているはずだ。そうなるとアイリスにとってはバートンの様な家臣が、最も身近で頼れる存在に違いない。ただし頼れるからと、全てを打ち明け相談できるわけではないのだろうが。

 グライドは空を見上げた。

 日除けの先の、建物に挟まれた狭い空から時間を推し量れば、アイリスを送り届ける頃合いだ。狙われている自覚がありつつ、それでも出歩く御嬢様を無事に館まで連れて行かねばならない。

「そろそろ行くとするか」

 グライドは、水路に向け片手を挙げる。

 通りすがりの小舟が気付き、カフェの水路に面した入り口に横付けされた。

 小舟の先客は一人だけで、これならフウカとアイリスに加え、大柄なグライドが乗っても問題はない。ここからリット通りに出るなら、歩きよりも舟の方が早い。しかも護衛という点で考えても、その方が楽だった。


 乗り込む二人に続き足を運び、船内に腰を降ろす。剣を前に抱え座り込めば、直ぐ脇に水面がある。カフェを離れ少し進み狭い水路に入り込むと、両脇の石造りの家屋がぴったり張り付き続き壁のようだ。

 人造の渓谷のような水路を、小舟は静かに進み、櫓を扱う音と水音が聞こえる。

 橋の下を潜り抜け、向かいから来る小舟とすれ違う。そこから運河に出て横断するが、船頭の巧みな櫓さばきで資材運搬船の間を通過していった。

 リット通りで下船、少し歩けばトリトニア公爵家の敷地だ。

 敷地の柵の向こうは低木の植え込みが続き、茂った枝葉が壁のようになっていた。それに沿って門の方に歩いて行くと、そこに小柄な者なら何とか通れる隙間がある。ここまで送るのが護衛の仕事だ。

「それでは、アイリスは戻るのです。また明日に、ご機嫌よう」

 アイリスは一礼すると柵と生け垣の隙間へと、淑女にあるまじき事に、四つん這いで潜り込んでいく。それを見送って、今日の護衛は完了だ。

 フウカは腕組みして小首を傾げた。

「どうして門から入らないのかしら?」

「さあ? 理由があってとは思うが、それが何かは分からんな」

 すっかり顔なじみになったトリトニア家の兵士に手を挙げ、グライドとフウカは帰宅の途についた。日は少し傾き、夕食を何にするか考え始める頃合いだ。

 護衛をしていたと言うよりは、のんびりとした一日であった。


◆◆◆


 トリトニア家の豪華な広々とした部屋には、大きな窓から夕の日射しが差し込んでいたが、それは白いレースのカーテンを通して入ってくるので、光は柔らかなものになって眩しさはなかった。

 穏やかな室内で、アイリスは大きなテーブルにつき、いつものように黙々と夕食をとっている。壁際に控えたメイドたちは少しの物音もたてず、身動ぎもしない。大勢に囲まれながら、たった一人での食事だ。

 それはアイリスが香ばしく焼かれたパンを口にした時だった。

「美味しいのです」

 嬉しそうに微笑んでアイリスは言った。

 これを耳にしたメイド長のバビアナは軽く目を見張った。なぜならアイリスの反応が、とても珍しかったからだ。アイリスは広々とした食堂で数多くのメイドに傅かれ、大きなテーブルに一人で向かって、礼儀正しくも黙然と食事を取る。ぱくぱくもぐもぐと、美味しそうに食べはするものの、それはどこか淡々としたもので、いつもお代わり以外の言葉は発しない。

 そんなアイリスが、思わずといった様子で、言葉を口にのぼらせている。

 だからバビアナは驚いたのだった。

 今日の料理は、いつもと同じ料理人が料理をしているし、食材も同じ商家から運ばれている。料理自体が格別美味しかったとは考えにくい。しかし、たとえそうであっても、アイリスが言葉に出すとは到底思えなかった。

「うん、美味しいのです」

 もう一度言って、アイリスは上品な手つきでフォークを使い、ソテーされた鳥を口元に運んでいる。しかも、その仕草には楽しさや嬉しさがみなぎっているのだ。まだ十代も半ばの、僅かに幼さを残した顔には、これまでは殆ど見られなかった、年相応の情動が自然に見られている。

 つまりこれは、アイリスの心境に、何か大きな変化があったという事なのだろう。


 メイド長のバビアナは綻びそうな顔を引き締め、いつものように咳払いをして、放置される赤トマトに、アイリスの注意を向けさせた。もちろん、それを食べるまで食事は終わらせないつもりだ。

「ごちそうさまでした」

 アイリスは最後に残ったトマトを口に入れ、呑み込むようにして食べた。

 ひょいっと椅子から飛び降りるようにして立つのだが、その仕草にしても、すたすた歩く足取りにも、常には見られない弾むような雰囲気が漂っている。

 バビアナの心が、すっと軽くなった。

 安堵したのである。

 このアイリスという小さな主は、ぼんやりとして浮き世離れした印象がある。

 だが、実際には違うというのがトリトニア家の者たちの考えだ。この表現は難しいのだが、アイリスはとしか言い様のない部分がある。喜んだり楽しんだり、怒ったり悲しんだりといった感情の度合いが薄いと言うべきか、どこか一歩引いた視点から見ているように思えるのだ。

 朧気ながら、放っておけば、いつかどこかに消えてしまうような危うさがあった。

 だからトリトニア公の方針で、アイリスを現実に繋ぎ止めるため、御嬢様らしからぬ服装や武道を学ぶことも自由にさせてきた。メイドの一人を友達のような存在にさせもした。

 全ては現実に執着を持たせるためのことだ。

 どれも殆ど効果がなかったのだが、アイリスは、ここ数日で急に変わった。まるで欠けていた何かが満たされたように、しっかり笑うようになって、幾つもの感情を強く見せるようになったのだ。

 バビアナはメイド長になって以来初めて、涙を堪えることに苦労していた。ついには部屋を離れ、ずっと昔の新人メイドだった頃のように、人知れぬ場所で声を抑えて泣いてしまったぐらいだ。

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