第13話 カフェの軒先に張り出す赤い日除けの下
目の前には水路がある。
水路は建物の間を流れる狭いもので、しっかりと水を湛えている。街の中を流れるにしては、綺麗な水だが少し緑がかっている。自然の川のように勢い良く波立って流れるものではなく、水面は殆ど平らで岸辺の石壁を打つ音もささやか。そんな穏やかな水面に、景色が映り込んでいた。
運河に繋がるそこを、細長の手漕ぎ船が、ゆるゆると通り過ぎていく。
両舷を掴んで座る乗客と、その後ろに立って櫓を扱う船頭の二人だけ。こうした船は、運河と水路の多い王都では、主要な交通手段だ。幾ばくかの賃金で適当な場所まで運んでくれる、ありがたい存在だった。
グライドは、カフェの軒先に張り出す赤い日除けの下で、ぼんやりとしていた。大柄な身体を小さな椅子におさめ、しずかに外の景色を眺めている。
昼下がりの穏やかな頃合い、微風に含まれる水の匂いを強く感じられた。緑がかった水面が船の通過で波打って、映り込む景色が散らされる。そこに日の光が微塵に散らされたように反射し、揺れに合わせて煌めいて、グライドの目はそちらに奪われてしまう。
紅茶のカップを口元に運ぶ。
「薄い……」
色から想像していたとおり、殆どお湯と言っても良い。これでは香り付きのお湯だ。適当に店を選んだのは失敗だったと思いつつ、勿体ないためしっかりと飲む。
傍らを一瞥すると娘のフウカも、薄さにめげずに飲んでいた。
しかし向かいに座ったアイリスは、白いカップを両手で包むように持ったまま、一度も口をつけていなかった。もしかすると、それを手を温めるための物だと思っているのかもしれない。そんなぐらいの扱いだ。
生活の差というものが如実に現れているようだった。
しかし、そんな事は少しも気にせず、フウカとアイリスは楽しげに話している。
もっぱらフウカが喋って、それに頷くアイリスがいつもの調子で答えるだけ。それでも二人が楽しそうである事は見て取れる。
今日も護衛で散歩のお供だ。
これまでの散歩と違って、こうした食事処に寄って休憩がてら、食事や会話を楽しむ事が増えていた。あの運命について語ってから、アイリスはすっかり気を許すようになった。安心し信頼してくれて――この表現が妥当かは分からないが――懐いてくれている。
そしてフウカとアイリスは、すっかり仲良くなっていた。
「お父さんね、ああ見えてウッカリなの。だから、私がしっかりしなきゃダメなのよね」
「なるほど。グライドはギャップ萌えな、ちょっと抜けた性格なのですね」
「うん、そんな感じね。しかもね、時々思い込んだら融通が利かなくなったりするのよ」
「フウカも似たところがあると思うのです」
「えっ、ひどーい!」
仲は良いはずだ、多分。
グライドは香り付きのお湯のカップを口元に運ぶ。この店の良いところは、殆ど客がいない点だ。グライドたちのように、うっかり迷い込んだ客が来るだけなのだろう。常連客といった姿はなくて、おかげで二人の会話以外は殆ど静かだ。
こうした日々も悪くない。
ゆったりと時間を過ごし、賑やかな声を聞き、明日の食事を心配する必要もない。だがグライドは知っている。どんな時にも終わりが来るという事を。そして、その時になって初めて、自分がどれだけ幸せな時間を過ごしていたのかを思い知らされるのだ。
おそらくきっと、今という時間が幸せだと気付いているだけ恵まれているのだろう。そう考えてしまえば、香り付きのお湯も美味しく思えてきた。
ふいに、アイリスが小さな声をあげた。
「あっ」
「……どうしたの?」
フウカが訝しげに表情を変えて、アイリスの見ている方を振り返る。
水路を細長の小舟が通過するところだったが、そこに座った乗客の男を見て声をあげたらしい。その男は、フウカの反応によって顔をあげ、軽く目を見張った。どうやらアイリスの声を聞いて、アイリスの存在に初めて気付いたようだ。
普通は一艘に四人か五人の乗客がいるが、その小舟は男が一人。どうやら貸し切っているらしい。身なりからしても、男は上流階級だった。
「そこに舟を止めなさい」
男の指示に応え、船頭は巧みに櫓を操り減速し、小舟をカフェに横付けした。そしてグライドたちがカフェを訪れた時と同様に、水路に面した乗降口に降り立った。
グライドは僅かに警戒しながら、小舟から降り立った白髪の男を見やる。
量の少ない髪は丁寧に撫で付けられ、身に付けているものは仕立てが素晴らしく良い。痩せ気味の細身で毅然とした眼差しをしているため、少々神経質そうな印象がある。大股に歩きやってくるが、そこに敵意はないと判断した。
白髪の男はアイリスの前で足を止め、丁寧な仕草で一礼する。
「御嬢様。ここが散歩道とは、些か驚きでした。ところで、そちらの方々は?」
「アイリスの雇ったグライドとフウカなのです。そして、家老のバートンなのです」
両方に説明したアイリスを間に挟み、説明された両者は会釈をした。互いに互いを観察している。グライドは相手の身のこなしを見たが、バートンは相手の身に付けている衣装を見たようだ。
「御嬢様がお雇いになった方々であれば、とかく言う事はしません。しかし何があってこのようになったのか。その詳しい事情を伺ってもよろしいでしょうか」
「アイリスは構いませんのです」
そしてアイリスは簡潔に告げた。即ち、散歩の途中で危ない目に遭い、偶々その際に出会って助けてくれた二人を護衛として雇ったというものだ。
全く嘘は言っていない。
だが、幾つかの重要な事柄を省いている。すらすらと述べる様子にグライドは軽く呆れ、フウカは少し感心していた。
バートンは静かに聞いて、小さく何度か頷いた。
「なるほど。危ない目に遭ったという点は、些か気にはなりますね。この場合に私は御嬢様を叱責し、強引にでも邸宅までお連れするべきなのでしょう」
「アイリスは、それを望まないのです」
「そうしますと、些か残念ではありますが。氷の戦乙女とも呼ばれる御嬢様に敵わぬ非力な私としましては、ここで見た事を胸に秘め、何も見なかった事にして大人しく立ち去るとしましょう」
「ありがとうなのです」
「ですが、お小言は言わせて頂きます。些か、御身が軽すぎます。もう少し、公爵家の御令嬢としての自覚を持って行動をしてください」
家老としては渋い顔で言わねばならないのだろう。
確かにアイリスは貴族として異質だ。社交の場には行かず鍛錬場に赴き、無骨な武器を身に付け思うがままに出歩く。トリトニア公爵家の権威があるからこそ許されるが、そこらの貴族であれば失笑では済まないところだ。
毅然とした眼差しは、続いて傍らの二人にも向けられる。
「グライド様にフウカ様ですね。御嬢様は、私どもが幾ら言っても、お供の一人も連れて下さらなかったのです。この可愛らしい見た目に反しまして、なかなかに頑固な方なのですよ」
不満の声が聞こえるが、バートンは茶目っ気のある顔で聞き流した。
「どうか御嬢様を、お守り下さい。トリトニア公爵家のため、お頼みいたします」
バートンは胸の前に手をやって、恭しい仕草で頭を下げた。そして踵を返すときびきびとした動きで、まるで何事もなかったかのように、小舟に乗り込んだ。
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