耽溺して(ワンライ)

 船がひっくり返り、私は波に飲まれた。

 酷い嵐に荒れる海は、浮かび上がろうとする私を絡み付くように捕らえ、 翻弄した。

 口を開けばたちまち海が私の中を占拠する。鼻腔に塩水が入り込み、頭蓋の半分を撹拌する。鼻の付け根を内側からぶん殴られるような感覚。塩の辛さは暴力的に喉を焼く。無防備な目は、針で刺されたように傷んだ。

 どれだけ手を伸ばしても、波が押し潰すように飲み込み、水の重さが重力よりも残酷に挙手を折る。

 蹴れども蹴れども、不定形の水の塊は踏ん張ることを許さず、ただ、纒わり付く様に私を沈めていく。

 荒れる濃灰色の空と、泡立ち白む波の間で、死に物狂いで空気を求めた。痛みで霞む目で、それでも船を捕らえ、泳ごうとした。

 そんな私を嘲笑うように、遂に海は私を飲み込んだ。

 必死に水を掻いても、水面は遠ざかる。泡だけが私を置いて登っていく。

 涙は海の中では見えないという。こぼれた先から溶けてしまうから。

 懺悔するように号泣する私の涙も、海の中では見えないのか。こんなにも苦しいのに、こんなにも泣いているのに。そもそも観測者がいない。

 遂に酸素が足りなくなって、四肢の動きが鈍くなっていく。

 どろついた絶望に飲まれるように、私は海の中で反転した。海流に逆らうだけの力が、残っていない。尽きてしまった。

 冷酷な殺戮者め。

 恨みを込めて、私は何処ともなく海を睨めつけた。

 生存戦略を放棄した脳みそが、切り捨てた思考の分だけ少し晴れる。

 そこでふと、気づく。

 あれだけ荒れていた海の内部は、表層の残虐さとは打って変わって、思うより穏やかだった。

 酷く濁り、先は見えない。

 けれど淡々と沈んでいく私を包む全ては、驚く程に優しかった。遠海だから、漂流物が少ないせいだろうか。

 私の口から漏れていた泡は、とうとう本当に微かなものになり、もう内部にほぼ空気がないことを表していた。

 海と私の境が消えた。元々人の七割は水だという。だとすれば、今ここで、海と私には三割分しか違いがないのか。

 深く深く沈んで行くに連れ、灰色はより暗くなっていく。その中に目を凝らせば仄かな色がある。青、緑、赤、紫、黄……。それらの密度がどんどん濃くなって言って、黒く、暗くなっていく。

 その中に煌めくように何かが居る。

 きっと見えていないだけで、この濁った水を挟んで、すぐ目と鼻の先に、地上ではお目にかかれない、たんと奇妙な奴が山ほど。上から来た、彼らから見れば奇妙な私をじっと観察しているのではないか。

 彼らのお眼鏡に叶えば、仲間に入れてもらえるだろうか。私は、七割くらいはこの海と変わらないものらしいんだけど、どうかな?

 思考はどんどん単調に、視界はどんどん狭くなる。

 けれど私は、何んだか楽しかった。

 鼓膜まで包んだ海水は、さざめきの様な轟きの様な賑やかな音楽を奏でている。海の鼓動だろうか。

 緩やかな流れに回されていると、踊っているような気分になってくる。

 思わず高揚する喧騒のような、足並みが逸る街のような、海の中は幸せな場所だ。喧しくて、耳障りで、鬱陶しくて、心地よい。どうして人類はここを出て陸に上がってしまったのだろう。

 ふと、濁りを掻き分けて大きな大きなものが姿を表した。全体像は掴めないけれど、でっかいでっかい尾が、水中の砂埃を散らす様に、悠然と振れて行った。私よりも深い所を、私が今から行く所を、その巨大な奴は、のびのびと行進していった。

 ああ、海の生き物になろう。でっかい奴になって、もっとでっかいやつに食われよう。

 意味もなくそう決心した。


 私は運良く浜に流れ着いたらしい。寄せる波に打たれてよく晴れた空を見上げながら、私は思った。

 来世は絶対、海の生き物になろう。

 決められることでもないのに、私は決めた。

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