短文供養塔
しうしう
浪漫病(ワンライ・SF)
時は現代。何時かは未来と呼ばれた時代だ。
人類は、青いタヌキが見せてくれた未来を、過去に変えて久しい。
かの有名なドアが開発され、全ての目的地は敷居を跨ぐだけで到着する場所になった。星の彼方も宇宙の果ても、海底の二千マイルも次元の隙間も、辿り着く場所では無くなった。
デザイナーズチャイルドという言葉が無くなり、オーガニックチャイルドという言葉が生まれ、無くなった。体外受精も試験管ベイビーも、普通になって、過去になった。
タイムマシンも発明されて、歴史はくまなく詳らかにされ、飽きられた。
スーパーコンピューターが各家庭の幼児にまで普及し、解けない数式は無くなった。
あらゆる病は克服され、ウイルスはガラス瓶の中で鑑賞されるだけの存在になった。
テクノロジーシンギュラリティは穏やかに過ぎ去り、地球外生命体はただの隣人になり、とうとう現実は想像を追い越した。
全ての謎は解明され、全ての苦難は克服された今、安全と平和が飽和した世界で、ある奇病が人類を蝕んでいる。
それは死に至る精神病。
長ったらしい正式名称はさておいて、巷に蔓延る通称を見れば、その概要は察せられる。
パンドラ症候群、スリル渇望症、致死性希望症、イカロス症候群……。
けれど数ある呼び名の中でも、人々は特に好き好んでそれをこう呼んだ。
『浪漫病』と。
それは、人類の最も偉大なパートナーだった。
人類はいつも、好奇心と希望に手を引かれて発展を遂げてきた。
希望が怯む道では好奇心が、好奇心が怯む道では希望が手を引き、時には道を誤りながらも、人類という種は、進化と進歩の最高峰まで導かれた。
人類の発展史には、いつだって尽きせぬその精神が寄り添っていた。
どんな壁を、どんな困難を前にしても、心の奥から湧いてくるその熱い気持ちが、人類の足を一歩前へと誘った。
けれど。あるいは、だからこそ。それは人類という種が初めから抱えていた疾患だったと言える。
切り開くべき道が、打開すべき困難が、処方すべき鎮静剤が無くなってしまった今、宛てどないそれはただ鬱屈し、濁り、煮詰まり、やがて毒となって人類に牙を剥く。
病的なフロンティアスピリッツ。有史以来人類と共に在った最も偉大な精神が、浪漫病の病原だ。
夢よりも妄想よりも魅力的な現実なんて、誰も望んでいなかった。
それが、現代の総意だろう。
人間には、開拓すべき道が、敵対すべき悪が必要だった。
生まれていない過去を語るなとか、決まっていない未来を嘆くなという言葉は、タイムマシンの発明とともに詭弁になった。
遠い過去で、世界に未知や不可解や不条理が溢れていた頃、人類は不幸であると同時に幸せだった。いつ訪れるともしれない死や、犯さなければならないリスクは、命に輝きと潤いを与えていた。
朝は、夜が来るから朝になる。光は影があるから光になる。発見は、未知があるから発見になる。成功は、失敗があるから成功になる。命は、死があるから意味がある。
生まれたい時に生まれ、死にたい時に死ねる。最初から何もかも手に入り、最後まで何にも脅かされない人生。擬似的なスリルと、娯楽的なサスペンスしかない人生。それは、何も無いのと同じじゃないか。
冒険がしたい。苦しみを耐えて、弱点を乗り越えて、葛藤と成長の果てに、宝を掴み取るような冒険がしたい。
恋がしたい。反対を押し切って、悲劇を味わって、悩んで、悶えて、戦って、身を焦がすような恋がしたい。
探求をしたい。まだ、何にも触れられていない純白を汚し、心を唆るヴェールを引きちぎり、未踏の地を一等に踏み荒らすような探求をしたい。
「誰か助けてくれ、死にそうだ」
そんな声が木霊して、今日も病床には予測されていた数の浪漫病患者が増えて、計算通りの数が減る。
浪漫病は死に至る精神病。その死因は、初めは退屈への絶望を動機とした自殺だと思われた。
けれど、現代科学は残念ながら優秀で、すぐさまその誤解を正し、本当の死因をつきとめた。科学者が噛む余地もなく、最初の浪漫病患者の出現から17秒後にはコンピューターが死因を割り出していた。これが現代。人類の思考はたった17秒しか自由になれない。
最初の浪漫病患者は、己のヨダレで溺死した。二番目は心臓破裂、三番目は枯死。
垂涎する程の期待が、逸る心が、手に握った汗が、人を殺した。
窒息するほどのヨダレが分泌される時点で分かるが、この病はペースメーカーや温度調節でどうにかなるものでは無い。
それでも、浪漫病は不治の病では無い、克服された病のひとつだ。現代科学は優秀で、死因特定の17秒後には治療法を見つけていた。
けれど誰も治療を望まなかった。
死にたい時に死ねる。夢よりも妄想よりも魅力的な現実に生きるより、このまま浪漫に死なせてくれと、人類は選択した。
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