1-9 再始動
ザバンッと揺らめいていた輝く水面が突如として飛沫を上げた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
(生きてる……。生きてるな)
水の中から這い出して、荒い息を整えるために自分の胸に手を当てて、そしてようやくと気が付いた。
(腕も、胸も、体中の傷が治っている……?)
同時に死の間際の記憶がフラッシュバックされる。肋骨を正面からまとめて砕かれる感覚とその砕けた骨が肺に突き刺さる感覚、太刀筋を受けて腕が寸断される感覚とそれを追いかけて手を伸ばした時の激痛と無力感。
「あ、あ、ああ、あああ、ああああああ!!」
ただの記憶だというのに、体中の関節という関節が軋む気がして、体中の腱という腱が引き千切れる気がした。
吐き気と震えが止まらず、その場にうずくまり膝を抱える。
「あっ、ああああっ、ああああああっ!!!」
赤子のように小さくなって、壊れた絶叫を吐きだし続ける。
長く、長く、長く、長く。
やがて息が続かなくなって、それでも吐き出すことをやめられず、掠れた音を鳴らし続けた。
だけれども、それはそう長くは続かなかった。
死の恐怖と身体に対する高負荷による失神。
意識が落ちるということは思考の恐慌状態が解かれるということでもある。硬直していた全身の筋肉からぶわっと力が抜けて、呼吸と心拍も平常値へと戻る兆候を見せる。
肉体の平常化は異常なほど速やかに行われた。速やかに行われすぎていて何かの力で強制的に均されていくかのような違和感があった。
意識のシャットアウトからおよそ五分、
「はぁ……、はぁ……、はぁ……。生きてる……、生きてるん、だよな……?」
もう一度目を覚ます。
頭を押さえながら体を起こして、具合を確かめるように体を揺する。
痛みはなかった。
痛みがないどころか塞がった傷口や繋がった欠損部位に対して違和感の一つすらなかった。
「あの傷が、治った……? 一体どうして……?」
疑問が頭の中を覆いつくした。
振り向けば輝く地底湖が悠然と広がっている。
奇妙な確信があった。湖に落ちて決定的な何かが変わった、そういう確信。
「そう、だ。バスダロトは……、」
一瞬の淡い希望は視線を振る。
そこには死ぬ前と寸分違わぬ姿のバスダロトが転がっていた。
儚い望みはあっさりと無残に砕け散る。
分かっていたことではある。同じ奇跡が二度も続けて起きるわけはないのだから。
だがそれでも――――、
「ちくしょうっ……、ちくしょう……ッ!!」
唇を噛まずにはいられなかった。
拳を強く握り込みつつも、ダンッ!! と足で一度だけ強く地面を叩いた。
ビリッとした衝撃が、かかとから臀部まで響いて抜けていく。
それから深呼吸で無理やり意識を押さえつけてバスダロトの死体へと駆け寄る。無様に地面に倒れ伏す彼の体を仰向けに直して近くに落ちている切り落とされた半身と揃え、目を閉じさせる。
本当ならばきちんと弔ってやりたいが、今は少しでも時間が惜しかった。
(アイツらがもういない、ということはあの眠り薬の効果が切れたということ……。あれから何時間経った? 村の人は逃げられたのか、それとも……)
最悪の事態にはあまり考えを回したくはない。だけれど、ネウメソーニャが上手くやれない可能性も十分に高い。信憑性の薄い情報を頼りに綱渡りな話術を駆使しなければ情報の整合性が取れないからだ。加えてネウメソーニャ自身は術式に対する理解が薄いため、状況を正確に説明することすら難しい。そういうことを加味すると不測の事態が起きることは考慮に入れたうえで行動することがもっとも現実に即していると言える。
(急いで追いかけないと……、でもそれよりも優先することが一つだけあるか……)
急く気持ちを押さえつけて足元へと視線を落とす。
バスダロトから出来た血だまりのその下には簡略化もされていない大出力転移術式陣が敷設されている。
これをそのままにしておくということは、あの
「これだけは確実に破壊しておかないと……」
問題は方法だった。
大きくて力の強い陣を打ち消すのはかなり骨が折れる。本来であれば打ち消すための反術式を組み上げエネルギーの消費を阻害して術式の起動をせき止める。しかし反術式を組み上げるということは同程度の大きさの術式陣を組み上げる必要がある。
使い慣れたこちら側の転移術式陣であるならばともかく、細部の仕様が分からない魅入られし存在側の転移術式陣を打ち消すための反術式を組むとなれば相応の時間が掛かってしまう。
しかしそれでは遅い。
反術式を組み上げるのではあまりにも時間が掛かりすぎる。自分が行けばどうにかできるなんて自負は全くない。だからと言って完全に諦めることだって出来はしない。
だからもっと手っ取り早くて直接な手段を選ぶ必要がある。
「ちょっと力を借りるな……」
未だ固まり切っていない血糊を指につけ地面に簡易的な陣を描く。
採掘の象徴たる槌の紋様をベースに力を補助する三角形と拡散を意味する蝶、それらに指向性を与えるための雷の紋章。
簡易的な地形破壊のための術式陣。
『
言霊を紡ぎ術式陣に力を通す。
空間が振動し、血で描かれた陣に光が宿る。
バギッ!! と地形破壊のための術式陣から転移術式陣へと真っすぐにヒビが走っていく。
そして轟音が響いた。
大地が砕ける音が、幾重にも反響して空気を揺らす。
自然エナの共振作用など関係なく物理的に大地が揺れて、刻み込まれた転移術式陣が刻まれた地表を丸ごと損壊させていく。
術式の無効化に時間が掛かるというのならばその土台となる大地の方を砕けばいいという単純明快な手立て。
「さてと、それじゃあ急がないと」
砕けた陣に背を向けてキレイにくり抜かれた出入口へと足早に向かう。
本来の機能を失った出入口を通り抜けるときに自分たちの荷物の一部が置きっぱなしになっていることに気が付いた。時間が惜しいと言えども、最悪の事態を想定するならば予備の食糧や水は持っていた方が間違いなく良いはずだ。
何より今は迷う時間そのものが惜しい。だから瞬時に荷物を引っ掴んでそのまま上階へと向かう。
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