第5話 木火土金水
「なんか久しぶりに来た感じしねぇか?」
居石はなぜか嬉しそうだった。
新軍司ダムを間近で見たのは昨日なのだが、確かに久しぶりに感じる。
巽の車で新軍司ダムの工事現場に再び戻ってきた。到着してから、工事関係者が一人いた方が良いだろうという巽の意見により、小林を連れてくることになった。
巽が直接行った方が話は早いということで、家から出ないように通達していることもあり、車を飛ばして行った。
静水館はチェックアウトして荷物はすべてこちらに持ってきていた。
今日こそは、何があっても帰ることを誓って。
警察関係者がまだ現場にいるとはいえ、二人は仮囲いの外で待っていることにする。
「食後ってさぁ、その後また飯食うんだから、食前だよな」
居石はこういうことをたまに言う。
言われる方からしてみれば、リアクションに困る。
はあ、としか言えない。
以前にも、新幹線の座席を倒すか倒さないかで、揉めることがあるのならば、座席を倒している状態をデフォルトとすればいいじゃんか、と飲み会で強く訴えていた。
居石としては、その後に座席を好きな角度にすれば、むしろありがたく受け入れられるだろう、と続けた。
ただ、そうだな、としか返答できない。
「それは…事件に何か関係あるのか?」
居石は真剣な表情になる。事件を象徴するものなのかもしれない。
「いや…全く関係ない」
少しでも期待した自分を呪う。
今日は穏やかな気候だった。雲一つない青空で、風が少し強い。そんな中でも囀り、自由に飛んでいる名も知らぬ鳥は、まるで風景の一つであるかのように思う。
袈裟丸は、両手を伸ばして背伸びをする。
その手を勢いよく下げると、大きく息を吐いた。
「時々わからなくなるんだよな。例えばこのダムだって、完成すれば地域の人たちの生活のためになるだろう?そういう意味では土木だろうが建築だろうがそこに住む人のためってことになる。でも土木の人たちの客は国や行政だってことがほとんどだ。だから、その指示には従わなければならない…。小林さんたちは…いったい誰のために仕事しているんだろうな」
居石は言い終わった袈裟丸の表情をじっと見ていた。
「珍しいな。すげー喋ってんじゃん」
「時間を潰すためだよ。普段考えていても言えないことをこうした空気の良い場所で吐き出せば、代わりに新鮮な空気が入ってきそうだなって」
居石は笑う。
「間違いねぇな。もっとこの自然を楽しみたかったよ」
腕を組んで居石はあたりを見渡す。
風に草木が揺れる。
「よくわかんねぇけど…小林さんたちみたいな建設業の人たちしか、その…国とか行政の人たちと、地域の人たちの間にいねぇだろう?」
袈裟丸は頷く。
「小林さんたちしか、この地域の人たちの声を聞けねぇんだよ。国とか行政とかデカすぎんだろ?デカすぎっから、そいつらには小さい声が聞こえねぇんだと俺は思うんだよ。だから小林さんたちがどう立ち振る舞うかってことが重要なんじゃねぇ?」
「小林さんたちは荷が重いな」
そうだよなぁ、と居石は理解を示すがすぐに言い返す。
「それが建設業界のやんなきゃいけない、足りないことなんじゃなねぇか?まあこの分野に限ったことじゃねぇかもしんないけどね」
俺って偉そうだな、という居石に袈裟丸は苦笑する。居石なりの精一杯の回答だろう。
「ただ、うーん…俺の欲を言えば、小林さんたちは、人間と自然の間にいるべきなんじゃねぇかって思うんだよ。この地球に住んでんだから、自然の中で間借してんだよな。だから、こう礼儀っつーか…ちゃんとしなきゃって思うんよ」
語彙力ないのは勘弁、と歯を見せて笑う。
「十分言いたいことはわかったよ」
居石が真剣に答えてくれたことが、袈裟丸にはありがたかった。
そして、普段居石から聞けないような考えを聞けたことが、新鮮でもあった。
それだけでもここに来てよかったかもしれないと思えた。
「あ、失敗したなぁ」
居石が眉間に皺を寄せて呟く。
「どうした?何かマズいことでも?」
「ん?いや、巽さんにお願いしておけば良かったなぁって」
頭を掻きながら言う。
「今から巽さんに頼むっていうのはダメなのか?」
「いや、まあいいわ。本当に必要だったらまた頼むことにするわ」
その会話の最中、遠くに車が見えた。巽の煙草の匂いのする車だった。
車は仮囲いに入り、駐車スペースで停車する。
二人は、その車へと近づいた。
「待たせた」
巽の後に小林が降りてくる。ちゃんと作業着だった
「やあ、お疲れ様」
「小林さん、お疲れ様です。大変なことになりましたね」
「まあ仕方ないよ。こんな状況だしね」
「工事の方は?」
「しばらくは中断だね。先方も理解してくれているから大丈夫。まあでも僕らの滞在は伸びたことになるけれどね」
「話はもう車内でしている。私が把握していないことがあれば小林さんに」
「僕でもわからないことがあるかもしれないけれど、知っている範囲で答えることはできるから」
袈裟丸と居石は頭を下げる。
「小林さん、なんかすんません。あれよあれよという間にこんな形になっちゃいました」
「問題児だな。巻き込まれ体質ってやつかな?」
小林は巽と同じようなことを言う。
「居石君、さっそくだがどこを見たいんだ?」
巽は会話を終わらせるように居石に言った。
そうっすねぇ、と居石は現場を見渡す。
「鍵、見せてもらっていいっすか?」
「鍵…というと旧軍司ダムのか?」
「そうっす」
巽は小林を見る。
小林は、こっちです、と案内をする。
現場に初めて来たときに事務所の一階、外階段の脇に鍵のボックスが置いてあった気がする。
小林が案内したのは、袈裟丸の想像通り、階段脇のキーボックスだった。
「鍵は僕の知る限り全部このボックスに保管しています」
「このボックスの鍵は?」
「基本的につけていません」
「不用心だな」
「そうですね。仰る通りです。他の現場ではそんなことはありません。一応、このキーボックスも蓋を閉じているくらいはしています」
そんなことはセキュリティにならないだろう。だが、しないよりはマシなくらいだ。
居石はキーボックスをじっと観察すると、閉じてあった蓋を開けて、中の鍵を見渡した。
鍵は一本一本鉄のフックにかけられており、フックの上には小さなテープが貼り付けられていて、その鍵の用途が書かれている。
顔を近づけて一つ一つ確認していった居石は、あった、と言って二本の鍵を手に取る。
「それが旧軍司ダムの鍵だね」
「なるほど」
居石はその鍵をじっと眺める。
横から居石も観察する。一般的な形式の鍵で、村側と水無瀬市側のゲート、両方とも同じ形状だった。そして鍵にはキーホルダーが取り付けられている。
そのキーホルダーも同じ形状で、黒い水滴のような形状をしていた。その中心が円形の蛍光色になっていて、居石が触っているのを見る限り、中にスポンジのようなものが入っているのか、わずかに盛り上がっていた。
さらに村側と水無瀬市側でその色が異なっている。
「この色は…えっと村側が蛍光ピンクで…水無瀬市の方が蛍光グリーンってことっすかね」
居石はキーボックスのテープの記載を見比べながら言った。
「そうだね。形が同じだから見分けがつくように色で分けているよ」
「この鍵の組み合わせは本当にあってるんすか?」
「どういうこと?」
「その鍵が入れ替わっていないか、ってことか?」
巽は確認する。居石は頷いた。
「それは無いだろう。広井の死体が発見されたときに、その鍵を使ったが、水無瀬市側のゲートを開けられた」
広井の死体発見時に巽が警官を使って鍵を持ってこさせ、ゲートを開けていた。
水無瀬市側のゲートを開けられた、と言うことは、もう一つの鍵は村側のゲートを開けられる、と言う事である。入れ替えはなかったと考えてよい。
居石は何度も頷くと鍵を元の場所に戻した。
「ん?もう一個同じキーホルダーの鍵、あるんすね」
居石は手に取る。確かに同じ形状のキーホルダーで、中心の蛍光色がイエローである。
「そっちは隣の倉庫の鍵だよ」
事務所隣の小ぶりの倉庫は、備品などが保管されているとのことだった。
居石が確認している横から、袈裟丸も観察する。旧軍司ダムのゲートの鍵とは形式が異なっており、シャッターに使われるような短いタイプの鍵だった。
「了解っす。次に…ダムの上、見てみたいんすけど。良いっすか?」
「ダムの上?」
「いや、耕平は見たんすよね?俺も見たいなぁって」
自分が満足するために来たのだろうか、と疑い始めた。
小林は了承すると、居石に安全靴を渡し、人数分のヘルメットと安全帯を準備した。
安全帯の着用に手間取っている巽と居石の手伝いを小林と袈裟丸で行った。最後に小林がチェックして、やっとダムへと向かう。
「結構大変なんだな」
小林と同じタイプの安全帯を着用した巽が歩きにくそうにしている。
「刑事さんのはフルハーネスですからね。慣れないと違和感があると思います」
「なんか両サイドからこんなん伸びてんのロボットみたいで格好いいじゃん」
居石は腰から伸びているカラビナを伸縮させたりしている。楽しそうだ。
四人は右ウィングにあるエレベータからダム堤頂部へと上がる。
むき出しのエレベータに、巽は挙動不審である。
「こんなエレベータなのか?これを使って毎回上まで上がっているのか?」
そうですよ、と苦笑する小林だった。
「そこら辺の絶叫マシンより怖えぇな」
居石は楽しそうだった。
ダム堤頂部に到着すると、下よりも風は強い。
突風とまではいかないが、それなりの風量だ。
小林が通路脇のアンカにフックを付けるように指示する。等間隔に設置されたアンカにそれぞれフックをかける。袈裟丸も使った見学用のフックだ。
しかし。
「小林さん、あっち行きたいんすけど、このパイプでいいっすか?」
居石は左ウィング側に行きたいといった。
「ちょ…あっちか?」
「出来ればお願いできますか?」
震えた声で巽もお願いする。
「じゃあ、そのパイプにアンカをひっかけて…じゃあ僕が最初に行くから、僕の通りに動いて」
小林が先導して左ウィングに向かう。
左右のフックを付け替えながら小林は進んだ。鉄パイプとダム堤体を繋ぐ金具部分でどうしても引っかかってしまうので、そこでフックを付け替えなければならない。
小林は常に左右どちらかのフックがパイプに取り付けられた状態になるように進んだ。
居石も袈裟丸もそれをマネしながら進む。
「排水口近くは危ないからいけないよ?」
「うっす、その近くまで良いっす」
歩き出す居石に突然の光が襲う。
「うおっ」
居石も巽も同じような声を上げて驚く。
「あ、消し忘れた。申し訳ない」
小林が人感センサで点灯するライトのことを説明する。
「そういうのは先に言っておいてくれますか?」
真剣な表情で巽は叫ぶ。小林は平謝りだった。
慎重に進んでいると、小林が足を止める。
「ここまでかな。これ以上は危険」
ウィングを分度器と見た場合、三十度程度のとこまで進んだ形になる。
通路に壁のように立っている小林の足元を見ると、そこから先には資材などが置かれていて足元が悪い。小林が、ここで終わりだ、という理由だろう。
居石は恐る恐るダムから下を覗き込む。
腰までしかない壁面に寄りかかるようにしている姿勢が、袈裟丸には怖かった。
「うおーすげぇな。やっぱりこの高さは怖いわ」
居石は楽しんでいるが、後方の巽はフックのかかったパイプをしっかり握っている。
「おい居石君、もういいだろう、何が気になっているんだ」
巽が声をかける。
「えっと…荒巻さんが死んだ場所ってどこっすか?」
巽は、ええぇ、と声を上げて下を覗き込む。
「ちょっと待ってろ」
巽はスマートフォンを取り出して、姿勢を低くして電話を掛ける。
「警官に荒巻氏が倒れていた場所に立ってもらっている」
それでなんとかしろ、ということだ。
「あざっす」
入り口近くから駆けてきた警官が、ダムの前に立つ。
「あそこってことっすねぇ。うーん」
居石はじっと下を見つめる。
袈裟丸も下を恐る恐る覗いてみる。上から見るとかなり小さく見える。
「おい、要、お前まさか上から狙ったって思っているのか?」
荒巻の死の不自然なところはあれだけ見晴らしの良い場所、誰か近づいてくることがはっきりとわかる場所、で荒巻が撲殺されていることだった。
逃げることは可能だったが、その場合は入り口近くで、その方向を向いて倒れていないとおかしいのではないか、と居石は主張していた。
もし上から、何らかの方法で殺すことができれば、と袈裟丸は考えた。
「ここから?どうやって?」
「だから…何か重いものを上から投げ落とす…とか」
「よくさぁ。世界ビックリ映像みたいなテレビで、高いところからバスケットボール落としてよ、下のゴールにうまく入れるってやつあるじゃん。あれって何回も投げ込んでんだよ」
言いたいことはわかる。
「そうだよな…」
それに、と後方の巽が続ける。
「荒巻氏は額を正面から殴られている。上からの打撃じゃない」
そうなると何も言えない。
居石は下を覗くことを止めて、小林の足元の資材を見渡す。
「これって片づけないんすか?」
「これから排水口の施工に使うものもあるからね」
ふーん、と言って居石は、小林のすぐ足元にあったフック付きのワイヤーを手に取る。
「要、巽さんが限界みたい」
巽の顔色が悪くなっている。
「そりゃマズい。帰りましょう」
小林に伝えると、巽を先頭にしてエレベータまで戻る。
脂汗が滲んでいる巽はエレベータの中で目を閉じたままだった。平然とした顔をしていたが、やせ我慢していたのかもしれない。下で待っている選択肢もあったはずだが、それでも一緒についてきたのは事件を解決させたい、という意志によるものだろうか。
地上についてから安心したように息を吐くと巽はフラフラと歩く。
「居石君、もう上に行くのは勘弁してくれ」
「いや…ついてこいって言ってないんすけど…」
それは同感。下で待っていても同じだったのに。
小林が巽を介抱しながら歩かせる。袈裟丸と居石は後ろからついていくことにする。
「そういえばさ、要、なんで急に事件に乗り気になったんだ?途中から急に積極的になってないか?」
自分の少し先の足元を見ていた居石は、おお、と少し小声になった。
「やっぱり広井さんか?」
「まあそんなとこよ」
やはり広井との出会いは、短かったが、居石にとって貴重な体験になったのだろう。
こうして積極的に事件の中に入り込むような性格ではない。
小林は喫煙所の椅子に、巽を座らせると、事務所に水を取りに行った。
「大丈夫っすか?」
「…まあな」
「なんかすんません。高いところ嫌いだって知らなかったんすよ」
居石が誤ることではない。
「いや、それは構わない。それで…何かわかったのか?」
「高いなぁってことはすぐにわかったっす」
「そろそろ殴ってもかまわないか?」
巽は袈裟丸に尋ねる。袈裟丸はゆっくりと頷いた。
小林がペットボトルの水を持ってくると、巽は勢いよくそれを飲む。
「どうです?」
心配する小林に巽は手を挙げるだけで返答する。
「いや、刑事さんね、ここだけ見てもわかんないっしょ?旧軍司ダムの方もかかわってんすよ。大きな視点でものを見ねぇと、全体像は把握できないんすよ」
偉そうに居石は言うが、正論なので何も言えない。
居石はしばらく考えると、口を開いた。
「どんなふうに殺害したのか、っていう方法だけなら、わかってんすけど…説明した方がいいっすか?」
全員が居石の顔を見る。
「ちょっと…急すぎるんだけど…」
「え?いや…言っておいた方がいいんじゃねぇかって…思っただけなんだけど…」
居石の方が驚いた顔をしている。
「じゃあ、犯人が分かってるってことか」
巽は気分が悪いことも忘れているのか、勢いよく立ち上がる。
この刑事の印象が短い間にかなり変わったな、と思う。最初に事務所であった時と今と、どちらが本省なのだろうと呑気に考えていた。
「え?それは知らないっす」
「なんだって?」
「だってそれはそちらが考える事っすよね?」
これもまた正論だ。こちらが考えることではない。
「う…ん、じゃあその方法は?」
「バスケットのボール、買ってきてくれないっすか?」
巽の開いた口はしばらく閉じなかった。
巽が、正確には優秀な部下が、バスケットボールを調達しに行っている間、居石は小林に別のお願いをしていた。
「土嚢ってありますかねぇ?」
「ないけど…袋だったらあるから、作れるよ?」
「じゃあ…刑事さーん」
離れて電話をしていた巽が振り向く。
通話を終えて近寄ってきた巽に、居石は言う。
「土嚢作ってくれます?」
「は?土嚢?」
「小林さんから袋受け取って…えっと…荒巻さんって体重何キロ?」
突然、意味の分からないことをいくつもお願いされた巽は、動揺していた。
「荒巻氏は…七十五キロだったか…」
「じゃあ…十キロの土嚢を七つと五キロの土嚢を一つ、お願いしゃーす」
丁寧に頭を下げると、巽は別の部下を呼び出して説明した。
その後ろ姿に、何か哀愁めいたものを感じていた。
「そういえば袈裟丸君、あの壊れた試作機、また取り付ける?」
「あ、忘れてましたね。旅館に戻って持ってこないといけませんけど…」
「帰る前でいいんじゃねぇかな?」
居石は欠伸をしながら言った。
「急いだほうがいいだろう?」
いいんだよ、と諭すように袈裟丸に言う。
どうも先ほどから居石の様子がおかしい。何を考えているのだろうか。
三十分ほどして、台車に土嚢を乗せた優秀な部下が巽のもとに戻ってきた。
「これでよろしい…でしょうか?」
「どうだ?」
台車に乗った土嚢を確認して、居石は顔を上げる。
「いいっすね」
居石は土嚢を積みなおすと、横から眺める。
乱雑に積まれていた土嚢を横に倒して、丁寧に積み上げた。最後に五キロ分を積む。
「よし、じゃあ、荒巻さんが倒れていたところまで運んでくんないっすか?このまま台車で運べば楽っすね」
これまた優秀な部下が台車を押して進む。
台車に載せているとはいえ、運ぶのは大変そうだった。
その間に、バスケットボールを調達できた優秀な部下が戻ってくる。
「ほら、これで良いか?」
巽は鋭いパスで居石にボールを渡す。あざっす、と居石はパスを受け取った。
「じゃあ、俺たちはダムの上にいるんで、荒巻さんの倒れてたところの、ちょーど真上に、台車に載せたままでいいんでおいてもらえないっすか?」
「そこまで厳密にしなきゃいけないのか?」
そうっす、とあっさりいう居石を睨みながら、巽は部下に指示を出す。
小林にお願いして、居石と袈裟丸はダムに上がる準備をする。
「まさかバスケットボールを投げてってことじゃないよな?」
「半分正解。ちなみにこれは凶器の代わりだよ。本当は違うと思う」
「ついさっき、上からもの投げるのは無理って言ってなかったか?」
自分の言ったことさえ忘れることがある。その可能性はあるだろう。
準備を終えて、ダムに向かう際中、居石は小林に麻紐があるか、と尋ねた。
小林は不思議そうにしながらも、事務所に戻り、麻紐の束を持ってきた。
「これ、借りますね」
麻紐とボールを大事そうに携えた居石と共に、ダムへと向かう。
途中で巽と優秀な部下がセッティングをしているところの横をすれ違う。
「ちょっと待って」
居石は走り出し、隅に置いてあった空のアルミ製のバケツを持ってくると、小林からサインペンを借りた。
「折角だから、臨場感を…」
サインペンをバケツに走らせると、へのへのもへじを描き、五キロの土嚢の上に逆さに置いた。
「…不謹慎じゃないか?」
「不謹慎ばっかり言ってると、何もできなくなるぜ。俺からすりゃそんな生き方が不謹慎だ」
言っている意味は分からないが、気持ちは伝わってきた。
セッティングはもう終わったようで、あとは居石待ちとなった。
三人で再び見晴らしの良いエレベータで堤頂部へと上がる。
「左ウィングっす」
小林を先頭に左ウィングへと進む。人感センサのライトが点灯する。
進める限界まで着くと、居石はその場にしゃがみこむ。
麻紐を伸ばして適当な長さにすると、歯で噛み切る。切るものを忘れてきたということが居石らしい。
切った麻紐を使ってバスケットボールを手際よく結ぶ。
「よしっ」
出来上がったものはバスケットボールを包むように十字に結び、結び目を輪っか状にしたものだった。
「なんだよこれ」
「仮設凶器」
本物の凶器ではない、っていうことか。
「小林さん、足元のワイヤ、使いますよ」
小林が言うより先にワイヤを手元に引き寄せる。鉄線を捻じり上げたワイヤだった。
その先端、安全帯と同じような、カラビナフックが付いているところに先ほどの麻紐の輪をひっかけた。
ワイヤを伸ばしながら、反対側の先端にもあるフックを確認する。
「じゃあ、やってみるか」
「これで…」
小林は真剣に見ていた。
「要、これだとさっき話していた上からもの投げて殺すっていうのと変わらないと思うんだけど。ワイヤが付いているけど、それは回収のためだってわかるけど…」
「まあまあいいから」
そういうと、下を覗き込み、両手で大きなマルを作った。こちらは準備オッケーと言う意味と、下はオッケーか、という両方の意味だった。
下の巽は、同じようにマルを作る。
「おお。準備できたな」
居石は手を使って、下の巽たちに離れるように指示した。
巽と優秀な部下たちが離れたことを確認する。
「じゃあ、離れるぞ。ワイヤを持つの手伝ってくれ」
「え?」
居石はエレベータの付近まで戻る。
「ここじゃあ、狙えないだろう?」
いいんだよ、と言って、バスケットボールが取り付けられている反対側のフックをパイプに取り付けた。
ここから下に向かって投げたら、下の土嚢の横、四十メートルほど離れたところを狙うことになる。
下の巽も不思議そうな表情をしているだろう。
「せーのっ」
よいしょ、と言いながら、居石は、下ではなく上方に思い切り投げた。
袈裟丸と小林に見守られながらバスケットボールは、上空でワイヤがピンと張り、そのまま振り子のように下に落ちていく。
その後、袈裟丸の予想通り、積み上げられた土嚢の横、全く見当違いな場所を通り抜けてダムに勢いよく当たった。
その音が現場全体に響く。
だが、ダムに跳ね返ったボールは、まっすぐ土嚢へと向かい、そして居石の書いたへのへのもへじのバケツに当たった。
バケツは大きくはじけ飛び、十メートルほど離れた所に落ちる。
「おーうまくいった。よく考えてんなぁ…」
居石が満足そうに頷く。飛び跳ねながら下の巽にマルを送る。
袈裟丸と小林は茫然とその様子を見ていた。
何が起こったのか、居石は全く見当違いの方向に投げたはずだ。
その後ダム堤体に当たったところまではわかる。
だが、反発したボールを土嚢のバケツに直撃させることなんてできないだろう。
それこそ偶然としか言えない。
先ほど否定した上から凶器を投げて殺すことと本質的にはわからないだろう。
横の居石を見ると、自信満々の表情だった。
ダム堤頂部から下に降りてきた三人は、仮想荒巻の元に向かう。
巽が、警官が拾ってきたであろうバケツを土嚢の上に置いて、腕を組んでいた。
「なんでこうなった?」
巽はそういうと居石を睨む。
眼光鋭い巽に、居石は一切怯むことはない。
そういえば巽に最初に会った時から居石はそうだった。
「なんでって…そうなっている…から?」
「いや、だからなんでそうなっているんだっていう事だ」
禅問答のように聞こえる。
ただの偶然だろう、そんなに上手にボールが当たるはずがない。
「ボールが凶器、ってことか?」
「そんなわけないでしょ?ボールが当たって人が死なないっしょ?ドッヂボールが生死をかけたゲームになっちゃうし」
巽は複雑な表情になる。
「一応手に入るかな、っていうもんを用意してもらったんすけど…多分凶器はもっと小さくて…げんこつくらいかな?あ、解剖の結果で傷の大きさってわかってんすよね?それくらいの大きさの球体状の何かっす」
「球体状の何か…」
「加えて言えば…反発しやすいってことも条件っすね。硬質ゴムとかかなぁ」
巽は黙々とメモを取り始めた。
「ダムの上で、その凶器にこんな風に紐かなんかで取れないように結んで、それを上にあったワイヤに取り付けて、上から投げるだけ、って感じ」
麻紐に包まれたバスケットボールをプラプラとさせる。
「ちょ…要、もう少し分かり易く説明してくれよ」
うーん、と居石は頭を掻く。ならばこちらから質問を投げかけてみよう。
「じゃあ、今回、荒巻さんが死んだのは、お前が言う凶器が頭に当たったから、ってことだな?」
「そうだよ。しっかり正面からボールが当たっているからよ、バケツじゃなくて人間の頭だったら、きっと同じ傷になるじゃねぇかな」
「わかった。まず…偶然に頼りすぎていると思う。お前自身が言ったんだ。上からものを投げて当たるなんて、ワイヤが取り付けてあって振り子運動になっているとはいえ、そうそう当たるもんじゃないだろう?」
「まあ単に投げるだけならな、でもこれは当たるんだよ」
要領を得ない。
「つまり…その犯人は確実に当てられたってこと?」
「そう。何も考えず決まった方法で投げれば確実に荒巻さんに当たるようになってんだよ」
ただし、と続ける。
「荒巻さんには、ここだって場所に立ってもらわなきゃいけねぇんだけどな」
決まったところ、と何度も頭で反芻する。
「それは、このダムじゃねぇとできねぇんだよ」
居石はダムを振り返る。
変わらず存在感を発揮している新軍司ダム。
このダムじゃなければならないとは。どういうことなのか。
「この形、何かに似てんなって思ったんすよ」
居石はダムを上から下まで視線を動かした。
二連のマルチプルアーチダム。
構造形式としては、そう分類できる新軍司ダムだが、居石は何に似ていると思ったのだろうか。
「金村さんちに行ったときに思い出したんすよ。これ、パラボラアンテナなんすよね」
巽はメモを取る手を止めて、顔を上げると眉間に皺を寄せてダムを見る。
袈裟丸は居石の顔を見てからダムを改めて見直す。
左右二つのウィング。横方向にアーチ構造を取りつつ、縦方向にもアーチを描いている。
確かに、言われてみればパラボラアンテナの上下を切り取った形のようにも見える。
「ダムがパラボラアンテナに似てるって…だからどうなんだ?」
「その形が特別なんすよ」
「焦点、か…」
袈裟丸の言葉に、居石は頷く。
「さっすが優等生、やるねぇ」
「どういうことだ?」
まだ理解していない巽へ向けて、居石から説明を引き継ぐ。
「パラボラアンテナの電波受信部はアンテナの前にあるんですよ」
「なんかアームが伸びてる先にあるやつか?」
「そうです。あのアンテナの特徴は放物線になっていて、アンテナの中心軸に平行に入ってきた電波が反射してあの受信部に集まるようになっています。その受信部はアンテナを放物線として見た時にその焦点になるように設計されているんです」
「流石、リモートセンシングを勉強しているだけあるなぁ。俺より分かり易いじゃんか」
居石はなぜか満足そうに頷く。
内心、袈裟丸は動揺を隠せなかった。
それは自分より先に居石が気づいたことだ。
自分の専門分野だったはずなのに、それを連想できなかった。
そういえば、金村家でアンテナ設置を手伝っていた時、仕事が終わった居石は屋根を見上げて何か考えていた。その後、家を出てからスマートフォンで何かを調べていた。
あれは、横から見ていてグラフや数式にしか認識してなかったが、放物線について調べていたのではないか。あの時から、居石にはある程度見えていたのだ。
いや。
袈裟丸はダムの下、自分の試作機が取り付けられている部分を見る。
一つだけ鉄板がむき出しの場所、設置の翌日にただ一つだけ、何者かに壊された試作機。
あれは、荒巻を殺害した凶器が当たったことで破壊されたのだ。
鉄板のある位置から真直ぐ上に視線を動かす。
そこは居石がバスケットボールを投げた場所だった。
そこまで、いや、その時点で、居石はわかっていたのだろうか?
「そうなると…つまり、荒巻氏が倒れていた場所が…」
「焦点ってやつっすね。あのダムの中心軸に平行に…だっけ?その方向に入ったものが反射すれば、荒巻さんが倒れていたところに集まるんすよ」
「疑問なんだが…荒巻氏が倒れていたところは、その焦点っていうやつなんだよな?」
居石は頷く。
「なぜ荒巻氏はそこに立っていたんだ?とりあえずそこに立っておいて、と言うわけにもいかないだろう?」
「そりゃそうっすよ。言われて正直に立つわけない」
巽は頷く。
「荒巻さんは自分からそこに行ったんすよ」
首を傾げる巽に居石は続ける。
「想像っすけど…荒巻さんて神経質だったって話じゃないっすか。作業している人たちがちゃんと点検して終わった現場でも自分の目で確認しないと気が済まないって」
居石と喫煙所にいた時に通りかかった人物、陰気で神経質な雰囲気だったことを改めて思い出す。
「そんな人間が、帰るときにここに鍵が落ちてたら、どうするんすかね?」
「鍵?」
「そう。犯人は、ここに鍵を置いておいたんだと思うんすよね。その方が簡単な気がする」
「なんで鍵だったってわかるんだ?」
「倉庫の鍵だと思うんすよ」
巽の言葉は無視された。また説明がおかしい。
「要、まず…荒巻さんがここに立たないと、さっき言った方法で殺害できない。ここまではわかる。次にどうやってここに荒巻さんを立たせるのか、っていう疑問になる。それもわかる。それでなんで鍵なんだ?鍵である必要はあるのか?」
「鍵だったら、はっきりとそこに落ちてるってわかんだよ」
「なんでだよ」
「光るんだよ」
鍵が光る?
「倉庫の鍵は蛍光色の入ったキーホルダーが付けられてただろ?後で言うけど荒巻さんは懐中電灯持ってたんだよ。それを持ってるってことは夜ってことだぜ?暗闇で懐中電灯、その光が倉庫の鍵のキーホルダーに当たったらさ、どうなるよ?」
袈裟丸の脳裏に、そのシーンがはっきりと描かれる。
夜、何かの目的で懐中電灯を持って現場を歩く荒巻、その先に懐中電灯の明かりにチラチラと目につく蛍光色、この現場で働く人間ならば、誰もが一度は目にしている倉庫の鍵、それがなぜか現場に落ちている。
荒巻でなくても拾いに行ったかもしれない。
それは荒巻の性格を把握していれば、容易く予想できる。
「鍵を回収しに行ったところを…」
巽の発言に続けるように、居石はげんこつで自分の頭を叩く。
「もう一つ、教えてほしい。お前さっき上でエレベータの方に戻っていってからボールを投げ込んだよな?」
居石は頷いた。
「もっと近づいて…というか、中心軸に近いとこから投げても良かったんじゃないか?」
居石に、そういえばそうだったな、と言わせたかったのかもしれない。
その気持ちは否定できない。
だが。
「うーん…ライトが点いちゃうしな」
「…人感センサーか」
「あの位置がセンサに反応しない位置だったんじゃね?俺はお前の試作機が壊れた所から逆算してあの場所から投げたけどよ、死亡推定時刻を考えても夜だったの当たり前だし、上でライト点いたら誰かいるってわかっちゃうしな」
心霊現象って思うかもな、と居石は笑う。
少なくとも現象から導いた仮設として、納得のいくものだ。
「実際に荒巻氏に致命傷を与えた凶器はどこにあると?」
「捨てたか、まだ持ってるか…いや、持ってないな。もう捨ててるんじゃねぇかな?ここら辺は捨てたら簡単には見つけられないんじゃねぇかな?」
「凶器を探すという線は難しいか…」
巽は顎に手を当てて考え込む。
「いや、それより犯人は?荒巻氏を殺害した犯人は、もうわかっているのか?」
居石は、目を見開いた。
「そういうことは刑事さんの仕事っすよね?俺はどうやって荒巻さんを殺しちゃった方法、その仮説ってやつを示しているわけっすよ」
ただ、確度は高いだろうと袈裟丸は思う。
「それをどう使うかは、刑事さんたちの領分ってやつっす」
居石のスタンスに、巽は唸る。というより、どうしようか思案しているといった方がいいのかもしれない。
「それにしても…そんな方法を使ったのか…」
小林は困惑している様子だった。
「要、犯人はなんでこんな方法で荒巻さんを殺害したんだ?まあ街を歩いている時に襲うよりは人に見られる心配はなさそうだけどさ。手が込んでるだろう?」
居石は、うん、と言って顎を摩る。
「後で話すけどさ、犯人はどうしてもここで殺害したかったんだよ。で、そうすっと見晴らし良い場所だから、隠れておいて、っていうのも難しい、だからかな」
まだここで説明しても理解できない、ということなのだろう。
袈裟丸は、そうか、というと大人しく黙った。
「小林さん、このダムって最初からこういう設計だったんすか?」
居石は小林に尋ねる。
視線を下に落として考え込んでいた小林は、呼びかけられると、はっと顔を上げる。
「え?ああ…秋地建設工業さんとウチで設計をやってたんだけどね。それぞれで案を出して、この形式にしようということになった
「設計変更的なことってあったんすか?」
「いや…基本的にない。ただ、細かいところはもちろん修正はあったけどね」
「変な意味で上手くいっちゃいましたね。まあ犯人にとっては、ってところっすけど」
それはそうだろう。恐らく荒巻を殺害したのは現場関係者なのだ。
しかし、居石はぼんやりと気が付いているのではないだろうか?さりげなく設計に関わったのが、鳥飼建設と秋地建設工業の二社であることを確認している。
どちらかに実行犯がいる、と考えているのかもしれない。
居石がそういった推論を披露しないのは、言ったように警察の仕事だと思っているのか、それとも下手な推論はしない方が良い、と考えているのか。
そもそも、そんな思惑を抱いているのか、付き合いの長いはずの袈裟丸でも見当がつかない。
いや、付き合いが長いが、居石のことを何もわかっていなかった、それだけなのかもしれない。
「荒巻氏殺害の方法についてはわかった。可能性だという点も含めて検討しよう」
巽はメモを取り終わると、居石を見ながら何度も頷く。
「じゃあ、広井のおっちゃんが殺された現場、見せてもらえないっすか?」
巽は了承し、小林にゲートの鍵を貸してもらえないかと打診する。
「鍵の貸し出しは構わないのですが、私はまた社内会議がありまして…」
今後の方針を決めなければならないのだろう。会社勤めは複雑だと思う。
「分かりました。鍵、ありがとうございます。それとこの件は内密にお願いいたします」
もちろんです、と小林は言うと、寮へ戻っていった。
会議はオンラインでするのだろうそうだ。
それを見送ると三人は巽の車に乗り込み、旧軍司ダムへと向かう。
その道中。
「刑事さん、神戸って人、建設会社に勤めてたってことないっすかね?」
ハンドルを握る巽は、ん、と呟き、思い出すようにして話始める。
「いや、それは無いな。国立大学の建築学科を卒業して、今の旅館で働き始めたはずだ。父親が始めた旅館らしいな。今の時流に乗って隠れ家的な宿を作ったようだ」
後半は旅行案内に乗っているようなフレーズだった。
それがなにか、と尋ねる巽に、気になっただけっす、と居石は返した。
話が終わるころには旧軍司ダムに到着していた。
ゲートの手前、路肩に車を停めると、ゲートの前まで歩いて向かう。
巽は借りてきた鍵でゲートを開ける。三人とも中に入る。
すぐ左手ある階段は壊れてしまっているので村側まで堤頂部を歩く。
近いうちにこのダムは水の底に沈む。あの階段も壊れたまま。
階段を慎重に降りて折り返し、旧軍司ダムのちょうど中央に当たるところで巽は足を止める。
「この岩だな」
ポンポンと叩くようにして巽は言った。
広井を押し潰していた岩は、高さが巽の肩あたりまであり、横幅もほぼ同じ程度の長さである。
その形は、よく見れば、コンビニの三角形のおにぎりを膨らませたような形だった。
「やはり私たちがしたように、下から掘って広井が下敷きになるようにしたんだろうな」
「実際、どうだったんすか?一回、下を掘ってればやっぱり緩くなるんすよね。簡単に掘り返せると思うんすよ」
巽は腕を組む。
「まあ掘るのは大変だったな。俺がやったわけではないがね」
優秀な部下が汗をかきながら穴を掘っているのが目に浮かぶ。
今は、その掘った穴を埋めた後が、岩の目前にある。
そもそも、と巽は続ける。
「広井はここで何をしてたんだ?」
「知らないっす」
あっさりと言い切る。
「内容は知らないっすけど、呼び出しを受けたんじゃないっすかね?話したいことがあるとかで」
つまりその呼び出した人間が犯人、と言う事だろう。
「誰が…っていうのは我々が調べること、なんだな?」
「いや、呼び出したのは荒巻さんっすよ」
二人は、え、と口に出す。
「どうしてそう言えるんだ?」
巽も狼狽を隠せない。
「荒巻さんが殺されたからっす」
広井を殺したから荒巻が殺された、復讐ということか。
「つまり、広井さんが殺されなければ、荒巻さんも死なずにすんだ、ということ?」
再度かみ砕いて質問することになった。
居石の考えていること、それを穴埋めしていかなければ、袈裟丸には理解できない。
「つまり復讐だった、と?」
「違う違う。そういう事じゃないんよ。つまり…おっちゃんの力、それが目的なんだよ」
現場にいれば、絶対に事故を回避できる、という特殊な力。
「荒巻さんは、おっちゃんの力を貰おうって考えたんだよ」
「それは…郡谷氏が言ってたこと…か?でも、噂だっただろう?」
「そうっす。でも噂だってことは、本当か嘘か、はっきりしてないってことだと思うんすよ。つまり…信じている人も信じてない人もいる、ってことじゃないっすかね?」
それはそうかもしれないが。
「それを信じている人が、自分のものにしたい、って考えた。それに憑りつかれちゃった人は…そんなこともしちゃうんじゃないっすかね?」
絶句している巽と袈裟丸を見ることなく、広井が潰された岩をじっと見ながら居石は言った。
「おっちゃんの力のこと、そのものは建設業界に、まことしやかに伝わってんだろうけど、力を持った人間を現場で殺せば、殺した人間のものになるなんて、ぶっ飛んだ噂が流れてんのは、秋地建設だけっすよ」
郡谷が話したことを思い出す。
そして、関係者で荒巻以外に、秋地建設工業の人間の顔が浮かぶ。
巽も居石の話の途中から何度も頷いていた。
「さっき新軍司ダムで言わなかった、荒巻さんがあんな方法で殺された理由っていうのがそれっす」
つまり、荒巻さんが広井から力を奪って、さらにそれを荒巻から奪おうとした人間がいた、ということだ。
能力の継承、それも強制的で不本意で強引な、それが殺害の動機だ。
居石の話は、そう結論付けられる。
まことしやかな噂、それだけで人間はここまで動いてしまう。
ただ、それほど欲しかった力、それを所持できたと仮定して、メリットはあったのだろうか。事故が発生しないようになる、ということ以外、メリットはないと思う。
でも殺害の動機なんてそんなものかもしれない。
他人がそれを理解することは難しい。
「居石君、広井氏が鍵を二つ持ってここに来たことが、わからないんだが…」
巽は考えることを放棄したかのようだった。居石に頼りっきりになっている。
広井が鍵を二つ持ってここに来た理由。
普通に考えれば水無瀬市側の鍵だけで良い。
何かの事情で村側から入らなくてはならなくても、同じ理由で鍵は一本で良い。
「あれっす」
居石の回答は、簡潔なものだった。
居石の視線の先には、水無瀬市側のゲートを入ったすぐ脇にある、使えなくなった階段だった。
「あの…階段か?あれが何だっていうんだ?」
「おっちゃんが死んでるのが見つかって、刑事さんたちがダムに入った時、その時初めてこの階段が壊れたんすよ」
確かに警官の一人が足をかけた瞬間に、堤防に止めてあったボルトが抜けて階段が使い物にならなくなった。
「私の部下が落ちそうになったんだ。それは覚えているさ」
「重要なのは、初めて壊れたってことなんすよ。それより前には壊れてない」
巽は考え込む。
居石は当たり前のことを言っているように思えた。
「じゃあ…おっちゃんの視点で考えてみると分かりやすいんすかね。荒巻さんに呼び出されたおっちゃんは、言われた時間にここに来ることになった。恐らく事務所から直接向かうって言ったんすかね?人目につかないように村側のゲートから入るようにおっちゃんは指示されたんだと思うんすよ」
憶測が甚だしい。
しかし、袈裟丸には否定できる材料がない。
一度居石は言葉を切る。
広井が潰された岩を撫でるようにして手を動かす。
「持ち出すこと自体は、まああんなセキュリティだから問題なかったんすけど、でも、ここでおっちゃんの力が発揮される。その時点で、あの階段がすぐにでも壊れることを察知した。自分が村側の鍵を持ち出せば、水無瀬市側の鍵を使って荒巻がダムに入ってくる可能性がある。そうなれば、確実にあの階段を使うだろう。そうおっちゃんは考えたんすね。だから二つとも持って出ることにした。そうすりゃ、荒巻さんはゲートで立ち往生するから、そこでこっちから開けて危険を知らせりゃ、万事オーケーって感じ」
「荒巻氏を事故に合わせたくなかった、と?」
「そりゃその時は殺されるなんて思ってなかったんだと思うんで」
「こんなところに呼び出されて怪しく思わなかったのか?」
「多少はあったかもな」
袈裟丸の質問を簡単に認める。
「でも、断れることもできなかったんだと思うんすよ。俺の主観しかないんすけどね。少しでも話した感じで、すげぇいい人だったんすよ」
居石はダム見上げる。
さっき通ってきた堤頂部の通路、そこから広井は突き落とされた。
「相談したいことがある、って言われたとしたら…断れなかったんすよ」
広井の能力は、意図されたものを察知することはできない、といわれている。
つまり事故を起こそうという意志、殺害しようという意志をもっている場合、それを防ぐことはできないのだ。
そのメカニズムはわからないが、広井をはじめとした能力を持っている人々の経験などで共有されているのだろう。
巽は一歩、居石に近寄る。
「つまり、その後、荒巻氏は鍵を回収して事務所へと戻った…と。すると、死亡推定時刻からみてその後にダムで殺害されたっていうことになるのか」
「そうっすね。夜のダムっすから懐中電灯も持ってたと思うんで、倉庫の鍵のキーホルダーが良く反射したんじゃないっすかね」
巽は唸る。
「ということは、荒巻氏は広井氏殺害後、下まで降りてきて鍵を回収、ダムの下に広井の体を移動させて事務所へと戻った、と?」
「半分正解っす」
「半分?」
「荒巻さんは広井さんをダムの下には移動してないっす」
居石は岩をポンポンと叩く。
風がダムの河床を流れていく。袈裟丸の髪が風を捕まえる。全身に鳥肌が立った。それは、居石に発言にではなく、風で体温が低下したからだ、と自分に言い聞かせる、
「そうなのか?」
「そうっす。荒巻さんはその方法を知らないんで」
巽は眉間に皺を寄せる。
「荒巻さんがしたことは、おっちゃんを殺して、鍵を回収してこの場を去ったってだけっす。おっちゃんはここに置いてったんすよ」
「じゃあ、誰が広井氏をダムの下敷きにしたんだ?」
「神戸さんっす」
巽は口を開けて黙った。
ちょっと時間貰います、と言って居石はダムの一段目に積まれている岩を数個、端から端まで舐めて回った。
袈裟丸は慣れているものだが、巽はその不思議な行動に戸惑いながらその様子を見ていた。事件に関係すると思っているのだろう。
まあそうかな、と言って居石は二人のもとに戻ってくる。
「要、なんで神戸さんなんだ?」
「神戸さんは俺と同じことに気が付いたんだよ」
今度は袈裟丸が眉間に皺を寄せる。
見せた方が早えな、と居石は腕を組む。
「ちょっと二人とも離れてくんないか?」
居石の言う通り、巽と袈裟丸は後ろへと下がる。
「何をするんだ?」
巽の質問を無視すると、広井が潰されていた岩を観察しつつ、その横に立つ。
「えーっと…多分こうかな」
袈裟丸と巽が怪訝な表情で静観する。居石が何をやろうとしているのかわからない。
居石は、岩を両手で抱えるように掴むと、時計回りの方向に力を加える。
それと同期するように、鈍い音と共に岩がわずかに回転した。
「ちょ…君は何を…」
居石は巽の方をちらっと見るとほほ笑む。
「行くぞぉ。せぇーの」
居石は袈裟丸たちの方向に引っ張るようにして力を加える。
崩れる、と巽が叫ぶ声が響く。
居石が引っ張った岩は存外静かに、約九十度転がって、本来収まっていた場所から文字通り移動した。
ダムに空いた空間は、その形を保ったまま、もちろんダムも崩れることなく、存在感を持ったまま、同じ場所に佇んでいる。
その光景が、恐らく巽にも、理解できなかった。
「なぜ…ダムが崩れない?」
巽の疑問はもっともだった。
ロックフィルダムを構成している石積みの一つを、なぜ可能なのかはさておいて、外してしまったのだ。
崩れると考えないことの方が難しい。
張本人の居石は、転がった岩を叩いていた。
「これは、外れるようにできてるんすよ」
「外れるように?」
「そう、最初から外れるように設計されてんすよ」
意味が分からない。
「なぜそんなことを知っているんだ?そういうものなのか?」
ダムについて詳しくは知らないだろう巽の質問に居石は首を振る。
「いや、そんなわけないっしょ。普通は外れないっすよ」
「そう…なのか…いや、そうだよな」
自問自答をする巽に、居石は続ける。
「俺もね、おっちゃんほどじゃないけど、特技があるんすよ」
なあ、と袈裟丸に同意を求める。
袈裟丸は、巽に居石の特技を説明する。
味覚で土や石の組成成分を判別可能であるということだ。
「君も滅茶苦茶な人間なんだな。頭が痛くなってくる。腹壊さないのか?」
「腹壊したことは今まで一回もないっす」
強く言い切った居石をじっと見た巽は、だろうな、と言った。
「そんで、おっちゃんが下敷きになってんのが見つかって、耕平と邪魔しに入った時のことなんすけど…」
袈裟丸は邪魔しに行ってはいない。
同期の愚行を止めようとして侵入せざるを得ない状況になっただけである。
「ロックフィルダムの石ってどんなんだろうな、って思って確かめてたんすよ」
確かに警察の目を盗んで居石が岩を舐めていたのを思い出す。
「そんで、こっそりとおっちゃんの下敷きになった岩も確かめてたんすけど…あ、ちゃんと警察が調べ終わった後っすよ。一応」
前だろうが後だろうが、岩を舐める行為は人前ではやめてもらいたい。
「そしたら、この岩だけ他と味が違ったんすよね」
そんな食リポは居石以外にしないだろう。
「つまりさっきの説明だと、この岩だけ成分が違う、と?」
「いや…成分が違うっていうより、組成がちょっと違うなって感じっすね」
巽は理解してなさそうだったが、先を促す。
「変なのって思ったけど、無視してたんすけどね」
でも、と居石は続けた。
「保存会で読んだこのダムの設計図に、岩の組成とか特徴とか書かれてたんで見てみたら、まあ自分が感じた通りだったんすよね。ああやっぱりって思ってたんすけど、この岩のことは書かれてない。イレギュラなことだったらメモにしておくもんだと思ったんすけどね」
保存会で、人に場の回し役を押し付けておいて、熟読していたのはそういう事だったのか、と袈裟丸は思った。
「それで金村さんの家で長策さんのメモを読ませてもらったら、そっちに書かれてたんすよ」
「岩が違うってことを、か?」
「そうそう。違う岩を使っているところがあったのか、やっぱりな、って思って読んでたんだけど、それだけじゃなかった」
居石は、ダムの堤体に手を添えた。
「ダムの構造自体も、保存会の設計図とは全く違ってた。刑事さんでもわかるように言えば、ここだけ、応力がかからないように設計されてるんすよ」
応力は一般の人はわからないだろう、と袈裟丸は思う。
「それは、つまりこの岩だけ力がかかってない、ということか?」
「そうっす。この軽い岩以外でアーチ構造を形成してんすね。この岩の部分はあってもなくても問題ない構造ってこと」
「さっき力いっぱい動かしてなかったか?」
「あれは引っかけてあるだけなんすよ。俺、岩を回転させてたっしょ?ロックを外して動かせる状態にしてから、ゴロンとね」
岩の話してるのに、ロックって言葉をチョイスするあたりが居石らしい。
「つまり、さっきまでは岩が固定されている状態だったと」
居石は頷く。
「これだったら、岩の下敷きにするのなんか簡単すよね?」
巽は唸ると、何度も頷く。
「要、軽い岩っていうけどさ、そんな岩あるのか?」
そんな岩があるとは思えない。
「密度が軽いっていうことだけどさ、うーん、いわゆる軽石っていうのに近いくらい多孔質なんだろうな。でも軽石くらいだとわかる人が見れば、すぐわかっちゃうからなぁ」
居石は腕を組む。
「二酸化ケイ素が多いと密度が軽くなるんだけどさ、味的にはケイ長質岩っていうのと同じだから、やっぱ多孔質なんだな」
勝手に結論付ける。
「それは、あとで二人でゆっくり話してくれ。さっき広井氏を岩の下敷きにさせたのが、神戸だと言っていたが、その理由はなぜなんだ?」
「神戸さんは俺と同じもの見てるんすよ。金村さん家で」
確かに保存会の発足時に金村家へ報告に向かっていた。
華がその時にメモを見せたと言っていた。
「一応建設系の学部出てるから、それなりに内容は理解できると思うんすよ。この岩だけ動かせるって考えた」
そこで居石は言葉を切った。
何かを迷っているような表情を一瞬する。
「死亡推定時刻は夜だが、神戸はそんな時間になぜここに?」
「それは俺が悪いんすよね」
巽が怪訝な表情になる。
「宿でライトアップしたこのダムは綺麗だろうな、って言ったんすよ。そしたら、保存会でライトアップする機材があるから、次の日に見せてくれるって言ってたんすよ」
確かに言っていた。そこまでダムにかけているのだな、と思っただけだったが。
「ありものの写真を見せてくれるんだと思ってたんすけど…撮影しに行ったんじゃないかなって思うんすよね」
「そのタイミングで…」
「殺害したところを見てたかどうかはわからないんすけど、おっちゃんが倒れているところは見えたんじゃないかな」
「ちょっと待ってくれ。神戸氏はどうやってダムに入ったんだ?鍵は荒巻が持ち去ったわけだろう?ダムに入れないじゃないか?」
「神戸さんは趣味で登山やってんすよ。車に登山用のザイルとか、靴とか置いてあったんすよね」
確かに後部座席に置いてあった。
「それを使ったんすね。このダムは反対側がコンクリで補強されて斜面になってるんで、そっちに降りたかもしれないっすね」
こちら側でも同じかな、と居石はつぶやく。
「それで…神戸氏はダムに入れたわけか…じゃあなぜ広井氏を岩の下敷きにしたんだ?」
巽の問いに居石は少し考える。
「やっぱり、恨みがあったんすかねぇ。新軍司ダムの工事関係者に…」
動機としては分かり易い。
「要、神戸さんが登山用のロープで下に降りたってことなら、広井さんを殺害したのも神戸さんっていう可能性はないのか?お前が言うには動機もあるんだろう?」
「その場合は登山ロープ使う必要ないんだけどな。中におっちゃんいるんだから。だとしても、鍵が返却されてたことの説明がつかねぇんだよ。神戸さんが鍵を回収したってことになるんだから、そうなると事務所のキーボックスに戻せねぇ」
翌日に鍵が戻っていたという結果にそぐわない、ということだ。
居石は、同じように、と続ける。
「荒巻さんが、おっちゃんを岩の下敷きにしたってことはねぇんだよ。旧軍司ダムの設計図は、もしかしたら見たことあるかもしれないけどさ、金村さん家に行ってないんだから」
特定の岩が動くことを知るには、保存会が持っている設計図と長策のメモを見比べなければわからない。
荒巻には機会はない、ということだ。
つまり、広井殺害とロックダムの下敷きにさせた行為は、それぞれ別の人間である、と言う結論だ。
巽が、また居石の発言をメモに取っている中、居石は岩と、それが収まっていた穴を見て、物思いに耽っている。
そして、意を決したように岩を元の場所に戻した。
居石の説は、広井と荒巻殺害に関して、それなりに説明がつく。
後は、巽たち警察が捜査することになる。その方向性としては申し分ないのではないか。
居石が、事件を解いてしまったと言っても、おかしくないのかもしれない。
積極的に事件に関わろうとしていたわけではない、というのは負け惜しみだろうか。
言い表せない不安が、袈裟丸を襲った。
普段適当な人間がこうした場面で頼りになる。
それは普段真面目に行動している人間ができる範囲を軽々しく超えてくる。
居石の前には、袈裟丸が越えられない壁がある。
それは、努力すれば超えられるものではない。
窪みも取っ掛かりもない。いつまでたっても登れない壁だ。
「居石君、ありがとう。あとはこちらで外堀を固めていく。とても感謝している」
巽は手帳を胸に戻すと礼を言う。
「いや、おっちゃんにこれ、貰ったからさ。恩返しってやつっすよ」
居石はポケットからライターと煙草の箱を取り出した。
「そうか…広井氏は君に出会えたことが運命だったのかもしれんな」
巽は納得したかのように頷く。
「私は行くが、君らはどうする?ゆっくりとダムを見ていくか?」
「まあ、鍵必要ないっすからね。ゆっくり帰るっす。入り口に俺らの鞄、置いといてくれないっすか?」
巽は頷くと、では、と言ってダムから出て行く。
「やっと帰れんな。あー疲れたわ。明日は大学行かねぇぞ」
居石は背伸びする。早速不真面目な発言である。
首をさすりながら階段へと向かう。
複雑な気持ちでその後を追いかける。
すると、二人の後方、水無瀬市側のゲートから声が響いた。
「居石、袈裟丸君」
叫んでいるわけではないのに、良く通る声だった。
二人同時に振り向く。
ゲートを抜けた堤頂部の道に塗師が立っていた。
こちらを見下ろすようにして立っている。
「なんだ…?塗師さん?」
「おい、どうやって鍵開けたんだよ」
確かに。
「まあまあ、そんなことはどうでも良いだろう?」
どうでもよくはない。
「そんなとこで何してんだよ」
「二人ともご帰宅かい?」
そうだよ、と居石がぶっきらぼうに言う。
「そうか…。居石、お前は悪い奴だな」
そんなことは、言われなくてもわかってるだろう、と思って居石を見る。
そんな顔は見たことがなかった。
この世の終わりのような表情で斜め下を見ている。
「心当たりあるようだね」
塗師は一度水無瀬市側のゲートに戻ると、いつの間にか停まっていたワゴンの扉を開ける。塗師が仕事で足としているワゴンである。
その中から、美里に支えられた華が出てきた。
下からはわからないが、華と二言三言交わした塗師は、その前でしゃがむと、華を背中におんぶする。
美里を後ろに従えて、旧軍司ダム堤頂部を塗師は歩く。
しっかりと華を背負い、村側の階段を下りてくる。
塗師の足取りは軽く、華を背負っているとは思えない。
まだ緊張している居石の横を通り抜けて、塗師は華を下ろす。
「ああ、ありがとうねぇ」
「華さん、怖かったかな?」
「全然。頼りがいのある背中だったわぁ」
「お母さん、足元気を付けてね」
美里が華のすぐ横につく。
どうも、と華が袈裟丸と居石に頭を下げた。
美里は手に持っていた簡易式の椅子に華を座らせる。
「美里さんは下まで降りたことはあるんですか?」
「いえいえ。だから不思議な気持ち。上から見下ろすしかなかったから」
そんな会話を聞きながら、塗師の目的が分からずに不安になる。
わざわざ華と美里を連れてきてまで、何をしたいのか。
「タイミングばっちりだな」
「お、やっと喋ったな」
「塗師さん、僕らがここにいるのが分かったんですか?」
袈裟丸が間に割って入る。
「まあね、ほら僕、便利屋じゃないか」
だからだね、と塗師は言った。
全く答えになってない。目的が分からない。
「塗師さん、あの、急に連れてこられたのですけれど、何が…」
美里も、恐らく華も、塗師に連れてこられた理由を知らないようだ。
理由を告げずに連れ出すのは、世の中では誘拐と呼ばれるのだが。
「そうですね」
塗師はそう呟くと居石を見る。
「居石、君が決着つけるか?」
居石は黙ったままだった。
「最後までしっかりやらないと、やってないことと同じだよ?ピリオドを打たないと、文章読んでいる人はいつ終わるのかって思っちゃうよね?」
居石の表情は戻っていたが、塗師の言葉に黙って頭を掻くだけだった。
袈裟丸はその会話に入れない。
塗師と居石、華と美里、そして自分。
世界から乖離してしまったかのような、足場がなくなって浮遊しているような、居心地の悪さを感じる。
それだけ塗師に詰め寄られていながら、居石はだんまりを決め込んでいる。
「仕方ないね。僕が代わろう」
呟くぐらいの音量で、無感情に言うと、塗師は一歩前に出る。
袈裟丸君、と急に声をかけられる。
身体が強張る。
上ずった声で返事してしまったのが、情けなかった。
「君もあと一歩、質問が足りないでしょう?聞きたかったのかもしれないけれど、居石に負けている」
居石に負けている、と言う点で図星だった。
だが、質問が足りない、というのは自覚がない。
聞き漏らしたことがあった、というのが塗師の主張だが、思い至らない。
塗師は柔和な笑顔で袈裟丸を見ている。
自分の回答を待っているのだ。
必死に頭を回す。巽と居石の会話、何が足りないのか。
あ、思わず声にしてしまった。
それが正解かはわからない。だが、塗師が華と美里をここまで連れてきたことを考えれば、それしかない。
確かに、聞かなければならなかったことだった。
「要、長策さんはなんでこんなダムを作ったんだ?これだけの設計をしてまで、岩を動かせるようにした理由はなんだ?」
塗師は、うんうん、と頷く。
「そう。その質問が抜けていたよね。袈裟丸君、あとは引き継ごう」
塗師は居石と対峙する。
「居石、君がなぜそこを説明しなかったのか?理由を言えるかな?」
居石は溜息を吐く。
「別に黙ってたわけじゃねぇよ」
「だろうね。そうだな…さっき岩を動かした時かな?理由が分かったのは」
居石の表情を見れば、塗師の指摘は当たっていたようだった。
「あんたもなんで岩が動くって知ってんだよ。俺が動かしたとき見てねぇだろうよ」
「僕も長策さんのメモ見てるからね」
塗師はあっさりと言う。
「保存会の設計図見てないのにわかるのかよ」
塗師はにっこりと笑う。
「僕、一応建設会社で働いてたからね。長策さんのメモだけ見ればわかるよ」
建設会社に勤めてただけでそんなことがわかるのか。
恐らく塗師も保存会の設計図を見ているはずだ。
塗師は問題の岩に近寄ると、居石がしたのと同じ方法で岩のロックを外し、前方にゴロンと倒す。
美里は、その光景に驚いていた。
「そんなこと…崩れないのですか?」
塗師は居石が説明したことを端的に話す。
美里がすべて理解したかはわからない。
「単純に言えば、この岩だけ外れるようにできてる、ってことです。それだけわかっていてもらえれば」
にこりと塗師は笑う。
「さて。こんな、不可解な構造にした長策さんの意図は何かってことです」
塗師は一瞬黙る。
袈裟丸には言葉を選んでいるように思えた。
「長策さんは、このダムで水無瀬の水害を防ぐことに、文字通り心血を注いでました。工事責任者という立場にも関わらず、わざわざ自分も参加してこのダムを作り上げたくらいです」
美里の表情を見るが、まだ話しが見えない、と言った様子だった。
「その中で、こんな細工をすることに意味はないです。ダムにとってクリティカルな欠陥となり得る可能性がある。どれだけ緻密に構造計算しようともね」
塗師は身を屈めて、岩の収まっていた穴を覗き込む。
「結果論として崩れてないですけどね。長策さんは正真正銘の高潔な精神を持った技術者だったのでしょう。知識は言うまでもなく、精神面でも気高いものを持っていた」
穴を見て、軽く頷くと塗師は立ち上がる。
「そして、不思議な力も持っていた。ここで殺害された広井さんと同じ、ハインリッヒの法則を察知できる、不思議な力。今回の事件の原因とも言える力です」
塗師は居石を横目で見る。
「さて、そんな長策さんが、最も恐れていたこと、それは何だと思いますか?」
塗師は美里に向かって投げかける。
突然のことで、美里は体が強張る。
「え?えっと…何だろう…お父さんが怖いと思っていたこと…ダムが壊れること?」
答える美里の横で、華はじっとダムを見ている。
塗師は、僕もそうだと思います、と言った。
「このダムは、水無瀬を洪水から救ってくれる。その最前線で働くことになるダム、そう考えた。それは住人を守ることになるし、何より」
塗師は美里と華を見る。
「大事な家族を守ることにつながる」
長策がダムに大きな期待を寄せていたことは理解できた。
理解できたからこそ、こんな細工を施す理由が不可解になる。
塗師の指摘通り、欠陥となり得る可能性があるのだ。
「長策さんは考えた。このダムが壊れずに、これから水無瀬の街を守るためにはどうすれば良いのか?」
袈裟丸は華の表情を見る。
口元に僅かな笑みを浮かべ、懐かしいとも悲しいとも言えない、そんな表情をしている。
「それまでは僕も憶測で考えていたことでした。ですが…この穴を見てそれが正しいことを確認しました。長策さんは、現代では到底考えられない、いや、当時でもそこまで考える人間がいたかどうか…」
初めて塗師の眉間に皺を寄せる。
美里の表情が不安で包まれる。
「長策さんは…自分自身でダムを守ることにしたんです。自分の力を使って」
美里は困惑した表情になる。それは、自分もそうだっただろう。
塗師と居石、そして華も表情は変わらなかった。
「つまり、人柱になった」
自分が息をしていないことに気が付いた。深く息を吸う。
「人柱?人柱って…塗師さん、そんなことできるわけないでしょう?いつの時代ですか?昔と言っても、数十年前の話でしょう?」
必死になって否定する自分がいる。
それは、自分で信じられなかったから、だけではない。
塗師の向かいで、同じように意味が分かった、美里の血の気が引いた表情を見てしまったからかもしれない。
「袈裟丸君、そういう事じゃないんだよ。君がそう考えないっていうだけ。長策さんは、そう考えたんだ。常に自分がダムにいることで、ダムが決壊したり、何かしらの理由で壊れるっていうことを回避できると考えた。自分の力を有効に、このダムのために使おうと考えた結果がその行為だ」
塗師は再び穴の中を見る。
美里が歩きにくい河床を駆け出し、塗師に近寄って穴の中を覗き見る。
しばらくして、嗚咽が響いた。
両手で顔を覆い、その場に座り込んで泣いている。
「君も、この分野で学んでいるのなら、目に焼き付けておくと良い。自分の作った構造物を末永く使ってもらおうと考えた技術者の姿をさ」
塗師が誘う姿に、袈裟丸はゆっくり近寄る。
まだ嗚咽交じりに泣いている美里の向かいから、塗師に代わって、穴を覗き見る。
岩のあった空間のさらに奥、人ひとりが座れるくらいのスペースに、それは鎮座していた。
もう骨だけになった頭に、ボロボロになったシャツ、そしてスラックスを履いていることはわかる。
知らない人間が見れば、身元不明の死体、と映るだろう。
だが、骨になった右手の先にある切れ切れになった写真が、この場にいる全員にその骸骨が誰のものか、物語っていた。
楽しそうに笑う被写体の三人は、長策と華、そしてまだ赤子の美里だった。
「長策さんの覚悟は想像を絶する。誰も理解し共感することはできないと思う。でも、彼は自分に与えられた能力を正しく使おうと考えた結果なんだね」
失踪する前に家族で行った旅行、一番楽しそうにしていた長策の写真を思い出す。
娘と撮影された何枚もの写真、それは、最初から人柱となる覚悟をしていた長策が、少しでも娘と一緒に過ごした記録を残そうとしていたのかもしれない。
それが、未来の娘に残るように。
自分がどれだけ娘を愛していたか。それを知ってもらうために。
一枚だけ、穴の中に持ち込まれた写真は、最後まで家族のことを考えていた証拠だろう。
日の光が入らない、暗闇の中で、家族の思い出を握りしめて、長策は未来のことを願っていたのだ。
「この場では不謹慎な話だと思いますけど、建設会社の技術者たちは自分の作った構造物が地図に載ることがやりがいだと感じる方々が多いと言いました。長策さんは自分自身も地図に残せた、とも考えられますね」
袈裟丸は立ち上がる。
流れていた涙を土っぽい手で拭う。
「塗師さん、長策さんはどうやってこの中に?自分だけではこの穴は閉じられな…」
そこで背筋が冷たくなる。
塗師は黙っている。居石も。
袈裟丸の視線は、その人物に向けられる。
「袈裟丸君、この岩は、なぜ軽く作られているかわかる?長策さんは中からもこの岩を閉じられるようにしていたんだよ」
「まあそうだろうな。そうでないと軽い岩をわざわざ探してきた意味がねぇ」
塗師と居石の意志は一致していた。
それが正しいことかはわからない。
だが、二人の声は袈裟丸の発言を忘れさせるかのように大きく谷に響いた。
「神戸さんが広井さんの遺体をなぜ岩の下敷きにしたのは…」
「たまたま、だろうね。この事実を知っていたとは思えない。でも、広井さんがそうした力を持っていたっていうことは知っていた。ならば広井さんの力を使ってこのダムを救えないか、そう思ったんだろうね」
神戸は自力で長策と同じ考えに至った、というわけだ。
神戸は長策と考え方が似ていたのかもしれない。
仮に神戸自身に、広井の能力が備わっていたのだとしたら、長策と同じことをしただろうか?
袈裟丸には答えが出せない。
おばあちゃん、という声に現実に戻る。
座って静観していた華が、立ち上がり穴の方へと歩いていく。
躓きながら、ゆっくりと進んでいる。
居石が駆け寄り、華の手を持つ。
支えられながら、華は穴の前に来た。
美里が居石と代わり、華はゆっくりと膝をつき、穴を覗き込むような姿勢になる。
「お父さん、また、会えたねぇ」
華の目には、涙が滲んでいる。
でもその顔は、晴れ晴れとした笑顔だった。
「じゃあ、僕は華さんたちを家まで送っていくから」
ワゴンに華と美里を案内すると塗師は二人に告げる。
華と美里は長策の意志を尊重し、遺体に手を付けることなく、そのままにすることに決めた。
旧軍司ダムそのものが、金村長策の墓石となった。
もうしばらくすれば、このダムは新軍司ダムの底に沈むことになる。
だが結局、ダム湖の中に長策の遺体はあるのだから、新軍司ダムを守ることにもなるのではないかと袈裟丸は考えた。
なあ、と居石は声をかける。
「あんた、本当にそう考えてんのか?」
塗師は少し、考えるとワゴンの扉を開けて、少し二人と話がしたい、と告げた。
ワゴンから離れた所で塗師は声を潜める。
「そうなる確率は低いかもね」
惚けた表情で頬を掻く。
袈裟丸はどういうことかと、尋ねた。
「長策さんや広井さんの力は、工事現場等で生じるだろう危険をあらかじめ察知することができる、っていうものでしょう?長策さんが人柱になったことで、あのダムに生じる危険を回避できる、とは到底思えない」
長策の意志は、無駄である、と言う事だろうか。
「でも…あれだけ丁寧に作られたダムなんだ。そうそう簡単に壊れることはねぇよ」
居石の声は、力強かった。
僕もそう思うよ、と塗師は笑顔で言った。
長策は土木技術者として、結果的に自然と人間との橋渡しになるという目的を、文字通り人生を賭けて、果たしたとも言える。
「僕のかつての上司が言っていたんだけれどね。土木工学は人間工学だっていうんだ。技術や知識だけ身に付けただけだと半人前、人間のことも考えた仕事ができて一人前。僕はこの言葉が好きなんだよ」
塗師はダムを見下ろしながら言った。
土木工学は人間工学。
自分たちの仕事は直接的、間接的にも人間の生活に関わってくる。ただ構造物を作って終わりではなく、それによって生活が豊かになる人間のことも考えなくてはならない、そういった意味の言葉なのだろう。
「大変だったね」
塗師は二人を労う言葉をかける。
「やっと帰れるよ」
居石はふてくされたように言い捨てる。素直ではない。
「また、バイトして欲しかったら、こっちから連絡するから」
「普通、こっちがバイトしたいから連絡するんじゃねぇのかよ」
まあまあ、と笑いながら誤魔化すと塗師はワゴンに乗り込む。
すぐに発信しないと思ったら、後方の窓が開いた。
華がひょっこりと顔を出し、頭だけをちょこんと下げた。
「居石さん、袈裟丸さん、本当にありがとうねぇ」
二人は深々と頭を下げる。
「おばあちゃん、体気を付けてね」
「お元気で。また遊びに行きますね」
二人が声をかけると、華は笑顔になる。まるで孫を送り出すように手を振った。
同時にワゴンが走り出す。
「じゃあ、帰るか」
「そうだな」
二人はワゴンに背を向け、歩き始める。
後方でブレーキの音がしたので、振り向くと、同時に塗師が二人に声をかけた。
「二人とも、えっと…十秒待ってから歩き始めて。じゃあね」
そういうと再びワゴンは走り始めた。
「あいつ何言ってんだ?」
「見送ってからにしろ…ってことかな?」
ワゴンの後方を見送りながら言っていると、後方のこれから進んでいこうとする道で、大きな音がする。
振り向くと、大木が倒れて道を塞いでいた。
「うおっ、あぶねぇ」
「何で急に木なんて倒れてくるんだ。誰も木なんて切ってないよな」
言い終わると、二人とも同じタイミングで身体が硬直する。
さらに同じ方向に振り返る。
もうワゴンは見えない。
「…まさかな」
居石は引きつっていた。
袈裟丸は、小林が言っていた全国に広井のような力を持っている人間は複数人いるんだよ、という声が再生されていた。
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