第3話 土竜の心得

目前に新軍司ダムの現場入り口が見えた。

「ここで大丈夫です」

袈裟丸はその手前で神戸に告げた。

「大丈夫ですか?中まで行けますけれど…」

神戸の気遣いを丁寧に断り、手前の百メートルほど手前で停車した。袈裟丸がそうしたのは、現場入り口の手前、土手の上にも警察車両が停車していたからである。

神戸のライトバンではこれ以上近づくのは大変だろう、という判断だった。

「えぇ…着いたぁ?」

まだ半覚醒の居石を引っ張るようにして車を降りる。

今朝、小林からの電話の後、袈裟丸は居石を叩き起こし、転げるように身支度をすると、居石を強制的に着替えさせた。

寝ぼけ眼の居石を引きずるようにして玄関へと向かうと、驚いた表情で神戸が事情を尋ねてきた。

要点だけを伝えると、車で送っていく、という申し出をありがたく受けた。

ダムまでの足がなく、タクシーを拾うかどうか、むしろ拾えるのか、迷っていたところだったからである。

神戸の車の後部座席には、登山で使うザイルや登山靴が置かれていた。学生時代からの趣味らしく、二人が乗るスペースを作るために、乱雑にトランクスペースへと投げつけていた。自然の多いこの地域では抜群な趣味だろう。

車の中で、再び袈裟丸は説明をする。

神戸のみならず、理由を告げないまま連れてきた居石に説明する目的もあった。

居石がそれを理解できたかはわからないが、目は覚めてきたようだった。

神戸の車から現場へ降りる坂まで、徒歩で進む。

何人もの捜査員とすれ違う。

警察官の制服がこの風景の中に存在しているだけで、異世界に迷い込んだように思えた。

坂に到着すると、黄色いテープが張られて封鎖されていた。

野次馬がほとんどいないのは、場所柄なのだろう。

「入れねぇなぁ」

袈裟丸は坂の上から現場の方を覗き込む。

広々とした工事現場を捜査員が動き回っていた。

ダムの前あたりの一角にブルーシートが貼られている。

その中が、警察にとっての現場、ということなのだろう。小林に連絡を取った方がよいだろうか、と考えていると、視界の端、旧軍司ダム側に伸びる道の上に人影があった。

「あれって…娘さんじゃねぇか?」

居石も同じ人物を見ていたようだった。

美里の視線は、今いる場所からでははっきり確認できないが、新軍司ダムの方を見ているようだった。

気になると言えば気になるが、今は違う。

袈裟丸は手にしたスマートフォンで小林に折り返しの電話をする。

到着した旨を伝えると、捜査員がそちらに向かうということだった。

なあ、と居石から声をかけられたのは、袈裟丸が通話を終えた時だった。

「なんだよ」

「なんでそんなに急いでんだよ」

え、とだけ言うと黙ってしまった。

「なんでって…」

「誰か死んだっていうのはわかったけどよ。それに俺たちが関係してんのか?」

荒巻が亡くなったことは、車の車内で説明したはずだが、居石の言いたいことはそういう事ではないようである。

「別に急がなくてもよかったんじゃね?」

「まあ、そうかもしれないけど…」

居石は欠伸をすると。立ったまま目を閉じる。まだ眠いのかもしれない。

坂からスーツの男性捜査員が登ってきた。腕に腕章を巻いている。

男性に促されるようにして、テープを潜る。

まるで連行されるようにして坂を降り切ると、仮囲いに取り付けてある横開きの扉に鑑識がいて、指紋を採取していた。

「事務所に集まってもらっていますので」

スーツの捜査員が言うと、二人は事務所へと向かった。

事務所一階の会議スペース、そこに人が集まっていた。

ブルーシートの中が気になるものの、まず事務所に入る。

中にいた人々が一斉にこちらを向く。

事務所の奥、ホワイトボードがあるところにコートを身にまとったスーツ姿の男性がたっており、その前のテーブルを囲むようにして社員が座っていた。

座っている人々は昨日、袈裟丸たちが事務所内で目にした人物たちだった。

「ああ、ここに」

小林が椅子をすすめたので袈裟丸はそろりと座った。

居石は頭を掻きながら足を大きく広げて座る。

「その二人がさっき言っていた?」

コートの男性が目を細めて言った。

小林が、はい、と頷く。

「G県警捜査一課の巽です。どうも」

淡々と自己紹介をする。

胸まである長髪を白いゴムで束ねて胸の前に垂らすようにしている。

中性的な顔立ちで、素直にモテるだろうな、と袈裟丸は感じた。

しかし、それ以上に声が特徴的だった。声が低く、それだけならまだしも、ガサガサとしていて、極端に言えば汚い声である。聞き取ることは容易であることが救いだろう。

天は二物を与えず、という諺を体現したような人物だった。

「ここで社員の方が亡くなっていました」

事務的に冷静に状況を説明する。

「死んだのは、荒巻幸三氏、秋地建設工業の社員です」

巽はじっと二人を見て言った。

「二人は学生だと聞いたんだが。昨日ここの工事現場を訪ねた、ということは間違いない?」

袈裟丸は頷いた。

「目的は?」

高圧的な質問だったが、素直に事情を説明する。

巽は途中から興味なさげに聞いていた。

恐らく、小林から事前に話を聞いていて、その確認のための質問だったのかもしれない。

「研究…ね。回答に感謝します。荒巻氏と面識は?」

「喫煙所を横切るのを見たっすよ」

居石が代わりに答える。

「デカ…いや、えーっと…岡部さん…だったかな。それと伊達さんと。あ、あとこいつも一緒に見たっす」

伊達はその場にいなかったが、名前を挙げられた岡部は目を見開いて居石を睨む。

居石は岡部の顔を見ていなかったので、威圧は不発に終わった。

「それ以外で荒巻氏を見かけなかったか?」

「その後すぐ帰ったっすからね。俺たちが見たのはその時っすね」

巽は頷きもしなかった。

「事故っすか?」

「なぜそう思うんだ?」

「なぜって…え?ここ工事現場っすからね。事故で亡くなったんじゃないかって思うんすけど。違います?」

「まだ調査中だ。だが、荒巻氏は額、こめかみ寄りの位置が陥没するレベルの打撃を受けている。死因は、その一撃とみて間違いないだろうと思う」

居石は、ふーん、と言って口を閉じる。

普通の現場であればその可能性もあるのかもしれないが、この現場だけは特殊なのだ。

広井の存在である。

彼の存在が、事故ではないことを指摘している。

彼がいれば、事故は起こらないはずなのだ。

居石がそれを忘れたのだろうか、それとも鎌をかけたという事か。後者だとしたら相当度胸があるが、その意図はわからない。

袈裟丸が見た限りでは、広井はこの場にいないようだった。と言うことは、事故だった可能性もあるのだろうか。

代わりに昨日見かけてない人物が着席していた。

袈裟丸は見かけたことがある記憶がある。

「警察側の意見としては殺人、という事なのですか?」

万願寺が腕を組んで言う。

「断定はまだできませんが…捨て去るような説ではないです」

唸る万願寺はゆっくり目を閉じた。

「最初っから殺人だって思ってんだろ?それで、俺たちが容疑者ってことだ」

岡部が嫌らしく言う。

「まだ調査中ですので、断定は遠慮ください」

これは岡部の意見に賛同できる。そうでなければ捜査一課が乗り出してくることはない。

「ちょっと疑問なんだけどさ」

見かけたことのある人物が、律儀に手を挙げて発言する。

「なんでこのメンツだけ呼ばれてるんですか?この現場は三社が合同で進めている現場なんですよ?他にも各社の社員は詰めてるんです。我々だけ拘束されることの説明をしてください」

「落ち着いてくださいよ、郡谷さん。ここにいるのは、昨夜、荒巻氏が亡くなったと思われる、死亡推定時刻の間に、アリバイがない方々です」

郡谷と呼ばれた男は黙って座った。

「アリバイがないって言っても、ここにいる大半が水無瀬市の寮に住んでるんです。もちろん一人暮らしで。アリバイなんて…意味がないと思います」

鴻上がはっきりとした口調で抗議する。

「鴻上さん、仰る通りですよ」

「じゃあ、どうして…」

郡谷が再燃する。

「皆さんは、死亡推定時刻の間に、寮にもいらっしゃらなかったんですよ」

その発言に全員が沈黙した。

「水無瀬市に皆さんの寮がありますね。このダムの建設用にわざわざ建てた、とお聞きしました。これはこうした工事ではよくあることなのですかね」

巽の視線は本田に注がれていた。

「そう…ですね。もとからあるマンションを押さえることもありますが…すでに住まわれている方もいるので部屋数確保の問題もあります。工事後も普通のマンションとして分譲できることもできる、ということで一棟作ってしまっていますね」

「そうですか。三社ともですね」

本田は頷く。

「ご丁寧にオートロックだったので、入室の記録が残っていました。その中で荒巻氏が殺害されたと思われる時間帯に部屋にいらっしゃらなかった方々です」

巽は淡々と説明する。

「外出されていた理由に関しては、先ほどお聞きしましたが、全員おひとり、ということだったので、現在この場に集まってもらっています」

「じゃあ、俺たちは関係ないっすね」

「そういえば、聞いてなかったな。君らは昨夜どこに?」

「二人でずっと旅館にいたんすけど?」

「旅館の名前は?」

「静水館…だったっけ?」

袈裟丸は頷いた。

巽はそれをメモに取り、部屋の隅に控えていた警官に顎で指示した。

旅館の名前を出した途端に全員の視線が袈裟丸たちに集まる。

支配人と彼らの関係を知っているから、尚更気まずくなる。

巽に指示された警官は頷いて部屋を出ていく。

「二人でいた…ってことだけではアリバイは弱いな」

「いやいや、旅館の人とも話してっから」

まるで友達と話しているようで、袈裟丸はヒヤヒヤする。

「旧友と話しているみたいだな…まあ良い」

巽も同じことを感じていたようだった。

「先ほども言いましたが、荒巻氏が亡くなった理由についてはまだ断定できる段階ではありません。しかし、状況的に見れば、私個人の意見では、何者かに殺害されたと思っています」

部屋に緊張感が走る。巽は続ける。

「理由の一つは、倒れていた場所です。荒巻氏はダムの前、最も見晴らしの良いところで亡くなっていました」

袈裟丸は先ほど見かけたブルーシートを思い出す。

左ウィング側で覆われていたことから、そちら側で倒れていた、ということなのだろう。

「その周囲には鉄パイプや中身のない一斗缶等々、凶器となり得るものもありました。ちなみに皆様、そのような凶器に心当たりはありますか?」

全員無言で首を横に振る。巽は一息つくと続ける。

「二つ目は、やはり致命傷になった傷です。一つ目の理由と重なるところもありますが、その周囲から見れば事故に繋がりうる状況は考えられない、という点が挙げられます。例えば高所から落下した、転んで頭を打った、などが考えられますね」

周囲にそのような高所はなかったし、陥没するほどの勢いで転んたとも考えられない、ということだろう。

「以上の二点から、私は殺人だと考えています」

室内が静寂に包まれた。

その様子をわざとらしく見渡すと、居石が手を挙げる。

「どうぞ」

小学校みたいだと袈裟丸は思う。

「刑事さんが殺人の可能性ってやつを考えるのは、まあ、プロだからいいと思うんすけど、聞いておきたいことがあるんすよ」

巽は黙ったままだった。先を促している。

「まず一個目、凶器って見つかってるんすか?」

巽は口を曲げると、首を横に振る。

「殺人だったら、凶器ってやつが必要っすよね」

「持ち去った可能性もあるが?」

おーなるほど、と大げさに言う。

「でも、結構大変っすよね。もしここにあるものを使ったなら、持って帰ったら結構かさばるもんが多いし」

それも納得できる。隠せるようなものではないし、殴打されているのだから、それなりの大きさが必要だと思う。

「凶器はその点も踏まえて、この現場とその周辺を捜索している」

巽は少し苛立っている。

巽の中では、殺人ということを決め打ちしているのだろう。

「そもそもなんすけど、荒巻さんはあそこで何してたんすかね?」

「それはまだわからない。捜査中だと言ったはずだが?」

「そうっすか。じゃあそれはいいとして」

さらっと流した居石に、巽は苛立っているようだった。

「ダムの前に倒れてたってことは、そこで傷を負ったってことっすよね?」

巽は素直に頷く。

「それ、誰かが殴ったってことなら、どうやって近づいたんすかね?」

巽は一瞬、迷うような表情だった。

「すげー見晴らし良いじゃないっすか、刑事さんも言ってましたけど。誰かが近づいてきたら、すぐわかりそうなもんだと思うんすよ」

「それは…事務所にいたかもしれないだろ。それで襲撃されたので、逃げてあそこで…」

「だったら入り口付近で倒れてないとおかしくないっすか?」

居石の言う通りだと思った。確かに逃げる意志があったのであれば、襲撃場所がこの事務所であってとしても、現場入り口付近で倒れていなければおかしい。

「気が動転してたんだろ。突然そんな状況になれば人間正常な判断はできなくなるんだ」

苦しい説明だと思う。ゼミだったら総ツッコミが起こるだろう。

「あーそうっすか。はい。了解っす」

全く納得してない、という表情と声色で居石は引き下がった。

殺害されたとしたら、その状況がおかしく、事故だとしても、今のところ、想定できる原因は見当たらない。

それに、荒巻はそこで何をしていたのだろうか。

だが、少なくとも巽以外の、この場にいる人間は、広井のことが気になっている。

あらゆる人的事故を防ぐことができる、出鱈目な人物、彼はこの現場にいる。

確かに荒巻氏が亡くなったときに、広井はそこにいなかったのかもしれない。しかし、それが事故であれば事前に荒巻に告げることはできたのではないだろうか。

そうなると、荒巻は殺害されたのではないか。

少なくともこの場の人間は、そう思っているはずである。

誰もそれを指摘しないのが、袈裟丸には不思議だった。およそ信じられないことだから、巽が理解できるとは思っていないのかもしれない。

それは、袈裟丸でも同じように考えるだろう。

不安に襲われていると、警官が近寄ってきて巽に耳打ちする。

「荒巻氏の死亡推定時刻が正式に判明しました。昨夜十一時から深夜一時の間、だそうです」

「その時間帯の…そこの学生二人のアリバイは、旅館の支配人の神戸さんが証言してくれた」

これで居石と袈裟丸は容疑から外れたことになる。

そして、と巽は続ける。

「これまた正式に皆さんのアリバイがないことが確定いたしました」

巽がニヤリと笑った、ような気がした。

その後、巽は一度席を外した。

部屋の外に警官が二人常駐しており、監視されているようでいい気分ではない。

袈裟丸と居石以外が疑われているのが、はっきりと分かった。

誰も口を開かず、重々しい雰囲気が流れている。

二人はすでに容疑を免れているので、その場にいる必要はないのだが、かといって帰って良いかどうか言えずにいた。

事務所の一階はこのミーティングスペースしか人がいなかった。

他の社員は自宅待機となっているらしく、また、今日は土曜日で工事が休みだったこと、さらに工程にある程度余裕があったこともあり、この場には疑われている人間しかいなかった。

だが、殺人と思われる事件が発生した現場である。発注者にどう説明するのだろうか。

「耕平、腹減らね?」

「はあ?」

「朝飯食ってこなかったじゃん。夕飯美味しかったから楽しみだったんだよ」

口から、知らねぇよ、という罵倒が飛び出しそうになるが、鴻上の方が先に口を開く。

「お菓子だったらあるけど?食べる?」

「あ、食べたい!」

母親と子供のような会話だ。

鴻上は警官に断って部屋の隅の棚に行き、中からお盆を取り出す。

その上には和菓子や個別包装のお菓子が乗っていた。

「昨日の来客用に出したものだけど、よかったらどうぞ」

こうした状況でも笑顔で接してくれる。土木系女子、通称ドボジョ、は強い。

居石は片手でお盆の上のお菓子をがっつり掴み、丁寧に包装を解いて食べだす。

袈裟丸君も、と言われたので、ありがたく頂いた。

朝一でストレスに見舞われたため、確かに空腹を覚えていた。

居石のがつがつ食べる決して小さくない音だけがミーティングスペースに響いていた。

誰も口を開かず、じっと机を見たり、目を閉じていた。

一番この状況に不満を抱いていそうな岡部でさえも。

「まあ、まだ足りねぇけど落ち着いた感じだな。ごちそうさまでしたっと」

満足してはいない表情で居石は言った。

「お前…本当にがさつだな」

小声でつぶやくように言った。

「あのー、皆さんはなんであの刑事さんが言った事故の可能性を否定しなかったんすか?」

唐突すぎて袈裟丸は体が固まってしまった。

全員が居石に視線を向けた。

「どういう意味だね」

郡谷が苛立つように言った。

「郡谷さん、彼らは知ってます」

小林の発言に視線だけ向けて郡谷は引き下がる。

「君らはどうだったか知らんが…普通にそんなこと受け入れられるわけねぇだろう?」

万願寺は眉間に皺を寄せながら口を開いた。

居石は、うーん、と口元を歪めながら唸る。

「まあ、そんなもんすか…」

「頭が足りねぇやつしか信じないんだよ」

岡部が仰け反りながら言った。

「それだとここにいる全員がバカってことになるぞ」

万願寺が皮肉っぽく言う。

「俺は信じてないっすよ。そんなの…あり得ねぇ」

岡部は視線を落とす。

「でも言わなかったら…現にみんな疑われてんじゃないっすか」

「君が言った通り、荒さんを殺害したにしては状況がおかしい。それは全員が理解している。わざわざ広井さんのことを持ち出す必要はない。日本の警察は優秀だ」

本田が部屋に広がるような声で発言する。

その場を鎮めるような、清めるようなつもりだったのかもしれない。

確かに万願寺の意見には同意できる。普通の感覚であればそんなことは信じられない。

この業界で伝わっているだけの話である。

それにただ単に注意深いだけ、という様に理解されるだけだろうと思う。

ただ、広井のことを根拠に事故を否定してもしなくても、巽は事故の可能性を否定しているのだから、結果は変わらない。

この議論自体意味がないはずである。だとしたら。

居石はなぜこんな話をしだしたのだろうか。

ただ、居石なので、思いついただけなのかもしれない。

「俺は信じてるんすけどねぇ」

居石は頷きながら言った。

ほら、と岡部がつぶやく。

巽が入室したことで、パタリと会話が止まった。

「失礼。正式な司法解剖の結果が出ました。荒巻氏はこめかみと額の間を一撃されていました。その傷から円形の物体で殴られている、とのことです」

円形の物体、頭の中にその形のものを思い浮かべる。だが、どれもダムの工事現場で見かけるようなものはない。

「あまり思い浮かべられませんね」

本田が静かに言った。

「まあ、ちゃんと調べればわかることでしょう。皆さんが気づかないようなものでも、実際に殴ったときに、そのような傷が残ることも考えられます」

巽は、一息つくように息を吐く。

「荒巻さんには殺害されるような理由はありますか?多額の借金をしているとか」

万願寺が深くため息を吐く。

「郡谷さん、東平さんどうですか?」

指名された二人は座りなおす。

「プライベートに踏み込むほど付き合いはないですが…知る限りでは見当たりません」

東平が穏やかな声で答える。

「私も知らない。そんないざこざがあったとしても、周囲に相談する人ではない」

郡谷は声を荒げて言う。東平と正反対だ。

「勤務態度はどうでしたか?」

そんなこと関係あるのだろうか、と疑問に思う。

「どうですかね…真面目だったと思いますが…」

東平は周囲を見渡す。肯定を促しているのだろう。

それに反応するようにテーブルに着いている容疑者たちは頷く。

「性格なんだろうが、神経質なところはあったぞ」

そうだな、と万願寺が呟く。

「そんな性格だと、周囲と意見が合わないこともあると思いますが?」

「でも…間違ったことは言ってませんから。個性だと思います」

鴻上の意見は概ね受け入れられた。

「俺は嫌いだったけどな。でも殺すまでじゃない。人生賭けてまでやることじゃねぇよ」

岡部が眉間に皺を寄せて言う。だが、巽は冷静に聞いていた。

動機はない、と言いたいのだろうが、あくまで本人談である。

「その性格で助かる部分もあったしな」

本田が言い終わるとすぐに巽が口を開く。

「そうですか。現時点で皆さんに殺害の動機はない、と言うことですね。ですが、皆さんのアリバイはありません。一応容疑者であることには変わりありません」

これから冷静に捜査していく、と言う事なのだろう。

「みなさんの連絡先をお願いいたします。そして勝手に遠出することのないよう、ご協力お願いいたします」

「遠出って、まだ現場残ってんだからさ。遠出することなんかねぇよ」

巽の方に顔を向けることなく岡部が言った。

「工事の方はどうすればよろしいでしょうか?」

本田は冷静に尋ねる。

「しばらく中止してください。現場保存の関係で数日で構いませんので」

本田は、分かりました、とだけ言った。

「じゃあ工期が遅いってお上に言われたら、よろしくお願いしますねぇ」

岡部が、今度は巽の表情をしっかりと見て、言った。



「すまなかったね。荒巻さんと話しているように見えたからさ…」

小林は二人に謝罪する。

居石と喫煙所にいたとき、岡部と伊達とだけ話していたのだが、荒巻がその横を通りかかった瞬間を見かけたらしく、巽に二人のことを話という事だった。

「ちょっと察してくれたら…今頃帰ってたのに…」

居石はぐちぐちと文句を言う。小林が申し訳なさそうに謝罪していた。

「仕方ないだろ。今更文句言うなって」

巽が退出した事務所内。袈裟丸たちと小林だけミーティングルームに座っていた。

本田は、関係各所に事態の説明と工事の延期を打診しているようで、万願寺をはじめ、バタバタと動き回っている。

小林はとりあえず二人の子守り、という役割だった。

「ん?なんか忘れて…あ、耕平、なんか故障してたんじゃなかったっけ?」

その指摘で思い出した。

「ああ、忘れていた。小林さん、ちょっといいですか?」

小林に試作機の一つが信号を返していないことを告げる。

「じゃあ…取り替えるか…大丈夫かな。予備は持ってきてる?」

「旅館ですね。バタバタでとりあえず着替えてきたって感じなので」

「俺まだ寝てたしね」

酒が入っていたから仕方がない、とはいっても、あれだけ横でドタバタしていても目を覚まさないでいるのは、少し怖い気もする。

災害などで起きることなく家の下敷きになってしまうのではないか。

「そうか…じゃあ、その故障した試作機の方を見てみようか。その場でなんとかなるかもしれないし」

「そうですね。もし修理可能だったら工具お借りしても良いですか?」

もちろん、と小林は言うと、立ち上がって外の警察官に事情を説明した。

二人の警察官の一人は、その場を離れてどこかに向かった。

袈裟丸たちも外に出る。

「今、刑事さんの許可が出るか聞いてもらっているところだよ」

「同じ敷地内なんだから良いっしょ」

うんざりとした表情で居石が言う。

敷地の外から巽がやってくる。

「構いませんが私が同行します」

ガサガサの声で告げる。

「ダムの方とか?」

「ええそうです。左ウィングの麓です」

左ウィング、とつぶやく巽に小林は指で示す。

「わざわざ一緒にくんのかよ」

居石のボヤキは止まらない。

巽は無視して歩き出す。

「小林さん、せっかくなので伺いたいことがあるのですが」

「なんでしょうか。僕がわかることでしたら…」

小林の声は頼りなく聞こえた。

聞きたいことがあったため、わざわざ巽は同行しているのだと気づいた。

「この敷地は…夜間のセキュリティはどうなっていますか?」

「敷地入り口を閉めて…形状が横開きのシャッターになっているのですが、その取っ手の部分に鎖を巻いて南京錠で施錠しています。中の事務所はもちろん施錠している、という感じです」

袈裟丸と居石の前を小林と並んで歩く巽は、何度も頷いた。

「南京錠だけというのは不安なセキュリティですね。よく工事現場の資材が盗まれる、というような話を聞いたことがあるのですが、その対応はどうなっているのですか?」

「現場が佳境の時は夜間も動いていることがあるので、特に対策はしていません。現在はもう終わりに近づいている、ということもあって、セキュリティ自体はそのレベルになってますね」

左ウィングの排水口だけだと言っていたことを思い出す。特に大型な重機を持ち出すこともなく、資材もそれほど置いていないのかもしれない、と袈裟丸は思った。

「南京錠の鍵はどなたがお持ちで?」

「現場の人間は全員持っています」

「どなたも?」

小林は頷く。

「そうですか、じゃあ荒巻氏の遺体を発見した鴻上さんもということですね」

荒巻の遺体を見つけたのは鴻上だったことは初耳だった。

鴻上自身としてはショックだっただろうな、と想像する。

それでも気遣ってもらえたことは、ドボジョだからというより人間として強い。

ブルーシートで囲まれた脇を通って左ウィングへと到着した。

「え?」

袈裟丸は目を疑った。

思わず駆け出して近寄る。

PC上で受信できなかった一つ、左ウィングの最右端にしかけた試作機が粉々に破壊されていた。

思わずほかの八つも確認する。これ以外に壊れていることはなかった。

昨夜の時点で信号を受信できているのだから問題ないはずだと気づく。

それほど動揺していた。

「これは…なんでだろう」

小林も驚いているようだった。

ハーフパンツのポケットに手を突っ込みながら居石も確認していた。

破壊されていた試作機は、取り付けられたタッパだけがその場に残って、中身の基盤やバッテリ、そして蓋が下に落ちている。

「随分と壊れていますね。作りが甘かった、とかですか?」

巽も気になっているようだった。

「作りが甘いもなにも機械をタッパに突っ込んでるだけっすよ。こんな壊れ方しねぇって」

巽も居石も中々な言い方をする。知らない人間からすればそんなものなのである。

「なんで壊れたんだろう」

下に落ちた部品を拾い上げながら袈裟丸は言った。

基盤は亀裂が入っており、タッパの蓋も割れている。

「大事そうに作ってたのになぁ。残念だったな」

居石は袈裟丸の横顔を見ながらつぶやく。

「形あるものはみんな壊れるから。それはいいんだよ。ただ、壊れ方にしてもちょっとひどいっていうか…」

一歩下がって巽は三人の行動を見張っているようだった。

一言意見を言ったが、それ以外は自分の業務に徹しているようだった。

「修理できそうか?」

「いや、無理だろこれ。割れた基盤は修理できないよ」

「やっぱり予備の出番かな」

袈裟丸は、そうですね、と小林に告げる。

「予備の方は問題なく動く?」

袈裟丸は頷くが、問題なく動いているのだから持ってきているのだ。

壊れたのは袈裟丸には関与できない所で起こっている。

「これさ、壊されたんじゃねぇの?でないとこんな壊れ方しねぇだろうよ」

最初に思いついて、口に出さなかったことを簡単に居石は口にする。

ただ、間違いなく故意でなければこうした壊れ方はしない。

誰がだよ、と聞きたくなるが、決まりきった答えが返ってくることも想像できるし、それを信じたくない気持ちの方が大きかった。

「とりあえず、予備を持ってこようか。静水館だよね。刑事さん、構わないですか?」

後ろで見ていた巽に、小林は恐る恐る尋ねる。

「静水館、というと水無瀬の旅館ですね。その程度ならば問題ないですよ」

淡々と答える巽はすぐ後ろのブルーシートを気にしていた。

袈裟丸たちは事務所まで戻ると、その足で静水館に向かうことになった。

小林が車を出してくれるというので、後部座席に並んで乗り込む。

「そういえば、お前安全靴履いてなかったな」

「今はそういうこと言ってる場合じゃねぇだろうよ」

そういうことじゃないだろう、と思っていると、車が発進する。

入り口のゲートを抜けて、坂を上がる。

右手に進むと水無瀬の街である。

右折しようとする小林がハンドルを切る。

その時、左手の道から誰かが走ってくるのが見えた。

「あれって美里さんじゃないか?」

その言葉に居石も身を乗り出してみる。

「小林さん、ストップ」

「え?」

小林が急ブレーキを踏む。どうした、という声を無視して居石が転がり落ちるようにして扉を開けると、美里の方に駆け出す。

袈裟丸も何が起きたかわからずに、その後に続いた。

時折、足がもつれるようにしてこちらにかけてくる美里を迎えるように、居石が近寄る。

美里が転びそうになるが、それを居石が抱きかかえるようにして受け止める。

「大丈夫っすか?」

ゆっくりと美里を立ち上がらせて、居石は顔を覗き込む。

肩で息をしている美里を落ち着かせる頃には、袈裟丸も追いついた。

「どうしたんですか?」

「あ…あの…腕…ダムに」

居石は真剣な表情で、美里の声に耳を傾けている。

「ダムから…腕が」

「美里さん?ど、どうしたんですか?」

居石は駆け付けた小林に美里を預ける。

「小林さん、警察呼んで。旧軍司ダムだ」

それだけ言うと美里が来た方向へと駆け出す。

袈裟丸は居石の方と小林を見て、居石の後を追うようにして走り出す。

ビーチサンダルなのに走るのが早く、スニーカタイプの安全靴を履いている袈裟丸でも追いつくことはできない。

アロハを大きくはためかせながら、居石は走っていく。

先に旧軍司ダムが望める場所に居石が到着する。

ここに初めて来たときに、美里を見かけた場所である。

立ち止まった居石は微動だにせずに、じっとダムを見下ろしていた。

「お前…早いよ…どうした?」

汗一つ書いていない居石は黙って一点を見ている。

その視線の先に袈裟丸も視線を向ける。

岩で構成された旧軍司ダム、静かで壮大な姿の中に、ただ一点の異物。

ダムの下から、天に向かって何かを掴もうと腕が伸びている。

「なんだよあれ」

「腕だろ」

それは見ればわかる。その状況が異様だった。

後方から複数の足音が聞こえる。

警察が到着したのだろう。

同じものを見つけた巽がすぐさま他の警察官に指示を出す。

その様子を見ながら、袈裟丸と居石はダムから伸びた小豆色の袖をまとった腕をじっと見ていた。



捜査員たちの顔を見ると、ただただ険しく、緊張感に包まれながらもバタバタと動き回っていた。

袈裟丸と居石は土手に腰を掛けてダムを見下ろすようにそれを見ていた。

捜査の邪魔になってはいけないだろうという判断である。

巽ら捜査員が到着した後、彼らが直ちに状況を把握できたか、というとそうではなく、ダムの堤頂部に入るためには、入り口のゲートを開けなくてはならなかった。

ダムを挟んで反対側にもゲートはあり、捜査員がダム湖を回ってそちら側のゲートも調べたが、そちらも閉ざされたままだった。

そうなると、簡単に入ることはできない。その場にいた小林に問い詰めるようにして鍵の場所を尋ねる巽に、小林は事務所にある、と一言告げる。

捜査員を派遣して、鍵を入手した捜査員たちは、やっとゲートを開錠することができた。

それからも一悶着、というよりアクシデントがあった。

こちら側にある入り口脇の階段、ダムの下に降りる目的で取り付けてある階段が外れてしまったのだ。

階段はダム本体ではなく、岸壁にボルトで取り付けてあったが、そのボルトが古くなっていたようだった。

階段自体は外れ落ちたものの、捜査員含め、怪我をした者はいなかった。

恐らく、この階段は直されることはないだろう、と思う。

これからダムに沈むことになる古いダムに降りることなどないだろう。

とはいえ、やっと下まで降りることができた捜査員たち、特に巽が、何をどう手を付けてよいのか、としばし悩んでいたようだった。

結局、まずその体を出さなければならない。

重機なども下ろせず、また簡単にダムを破壊することもできないということで、人海戦術で、周囲を掘り出す方針に決めたようだった。

捜査員たちは各々スコップやつるはしを持ち、汗を拭きながら掘っている。

「あのダム作ったときもこんな光景だったんじゃねぇの?」

「かもな」

我ながら間の抜けた会話をしていると思う。

しかし、それほど現実的ではないことが起こっているのだ。

「あれってさ、アーバン建設…だっけ?そこの作業着だよな」

「小豆色だからそうだろうな」

捜査員たちは、岩石で構築された旧軍司ダムが崩れるのを避けるため、生えている腕の手前から、穴を掘り進め、体のそばまで穴を伸ばした後、その体を抜き取ろうという計画のようだった。

「あのおばちゃん、大丈夫だったかな」

「美里さんだろ。かなり動揺してたからな」

それは動揺するだろう。毎日見ているダムの下から腕が生えているのだ。

幸い、というには新軍司ダム建設関係者にとっては嫌な顔をするかもしれないが、警察が近くで捜査していたことを知っていたことで、すぐさま行動に移すことができたのは幸運だったのかもしれない。

「二人とも」

声をかけられて振り向く、小林が郡谷を連れ立って戻ってきた。

「美里さん、大丈夫でしたか?」

小林に預けたような形になってしまっていたのが気になっていた。

「うん、大丈夫。事務所の方で休んでもらってから、家の人…かな、その人に迎えに来てもらったよ」

「え?二人暮らしって言ってなかったすか?年老いたお母さんと一緒に住んでるって」

居石が横で尋ねる。そういえばそんなことを言っていたような気がする。

「うん…なんか頼まれてきたって言ってたけれど、美里さんも知っていたようだったからお願いしたんだ。そういえば君みたいな変な人だったよ」

居石が首を傾げる。こいつくらいに変な奴なんていないだろう、と袈裟丸は思う。

そんな変な人に任せても大丈夫なのだろうか。

いずれにしても、美里が無事でよかったと思う。

「なんてことをしてくれたんだ、全く。誰か知らんが、こっちの迷惑も考えてもらいたい」

郡谷が苦々しい表情で言う。かけている黒縁眼鏡が曇りそうなほどだった。

「小林さんはなんでここに?」

「今いるメンバーの中では郡谷さんが旧軍司ダムに詳しかったので連れてきたんだよ。警察からのお願いでね」

「大昔にウチが作ったんだ。全くけったいなことだ」

「向こうの町の人たちも良く知っているだろうけどね」

ダムの反対側にも町がある。小林は対岸を見て言った。

「ああ。だから人がいるんだ」

居石が言う。その視線の先はダムの反対側の岸に向けてある。

そこには何人か野次馬で、警察の作業を見に来ている。確かにこんなことは非日常である。目にしたい、という気持ちはわからなくはない。しかし、袈裟丸はそんなこと見たくもない。関わらないで済むのであればそうしておきたい。

今は、美里が体調を崩しているので、代わりに第二発見者として仕方なくこの場に残っている。

「なんで向こうの人たち睨んでるんすか?」

居石は小林に聞いたが、口を開いたのは郡谷だった。

「あっちの村は新軍司ダムに反対建設の人間がまだいるんだよ」

面倒くさい、は袈裟丸だけにしか聞こえなかった。

行きましょう、という小林に連れられて、郡谷は渋々と歩き出した。

黄色いテープが張られているゲートを潜って、ダム頭頂部を歩いていく。

すぐ手前にある階段が滑り落ちているので、村側の階段に向かっている。

二人が階段に差し掛かったところで村側の野次馬、ダム建設反対派と思われる、人たちが何やら叫びだした。

袈裟丸のいるところからは、何を叫んでいるのか、内容までは把握できなかったが、少なくともポジティブな内容ではない、ということはわかる。

二人が降り切ると、小さな砂利が敷き詰められている河床を現場まで歩いていく。

警察が二人を呼んだのは、凡そ見当が付く。

「どうやってあんなところに人間を埋められるか、ってところだろうな」

まあな、と居石が返す。

「そんなこと出来るか?」

居石は腕を組んで唸る。

「いや、無理だろ」

全く予想通りの返答だった。

「ダムを作るときに、そこに横たわらせて、その上から建設したっていうんなら簡単だな」

袈裟丸も思いついている案だった。最も簡単で、そして、最も非現実的なやり方である。

「あの二人に聞いたって同じこというだろ。それ以外思いつかねぇよ」

「例えば、埋められているライン、縦方向のラインだけ岩を取り除く、って方法だったら?」

「お前本気で言ってる?」

「いや。やけくそ」

「珍し」

居石は反論しなかったが、自分で無理だということはわかっていた。いずれの方法にしても岩は崩れてくるし、何より岩を動かすためには重機が必要だ。

何もできない時間が過ぎる。

しばらくすると制服の警官が二人に近寄ってきて、発見時のことについて説明を求められた。

第一発見者である美里には、後ほど聞きに行く、ということらしい。

二人はここまでの経緯を説明する。

その最中、新軍司ダムの方向から車が近づいてくるのが見えた。

袈裟丸たちがいる場所から離れたところで停車すると、降りてきた人物が眉間に皺を寄せて歩いてくる。静水館支配人、神戸聡だった。

ダム反対派のトップ。わざわざここまで来たことに袈裟丸は緊張した。

水無瀬の街から野次馬は来ていない。

明らかに反対派の誰かが連絡を取った、ということだろう。

警察官が、ちょっと、というのを無視して横を通り過ぎ、ダム堤頂部の通路を進む。

警察官が離れたことを確認して、居石はこっそりそのあとをつけていく。

「ちょ…要。何してんだよ」

袈裟丸の言葉を無視して居石は歩を進める。

仕方なく袈裟丸も後に続いた。

先行している神戸は、階段を降りることなく、村側の扉を開ける。

確か内側からであれば鍵がなくても開けることができたはずだ。

こっそりと居石の後ろから進む袈裟丸は、向かって右側、本来であれば水を貯える方を見る。

水は半分ほどの高さまで溜まっている状態である。

小林が水位を下げた、と言っていたことを思い出した。

ダム堤体の方は、左手の岩のゴツゴツとした質感とは異なり、滑らかなスロープと言っても良いほどだった。

恐らくコンクリートで被覆しているのだろうと推測する。

ロックフィルダムの堤体内に止水層が設けられている構造だが、透水を完全に抑えることは難しい。また、水圧によるダムの崩壊も防ぐ目的でこのような被覆を施すこともあると聞いた覚えがある。

勝手に何しているんですか、という警察官の声にそちらを向くと、神戸を制止させようとしている、その後ろを通り抜けて居石は階段を下りて行った。

袈裟丸も続く。

神戸は警察官を無視して、村側の住人を中に引き入れている様子だった。

多勢に無勢、警察官一人では、対応しきれない。

その様子を見て、河床に降りていた他の制服警察官が数名、走り出していた。

警察官が階段に辿り着く前に二人は河床に下りきっていた。

ドタドタと階段を上っている警察官を背に、二人は歩きにくい河床を現場まで進む。

袈裟丸でさえ歩きにくいのに、居石はひょいひょいと進んでいく。

相変わらずの身体能力、体幹である。

「おい、君らは…何をしている」

巽の、さらに低音になった、地に響く声が居石に向けられる。

しかし、居石にそんな声は一切届かない。

視線は地から伸びている腕に向けられている。

袈裟丸もその近くに立ち、周囲を観察した。

一つ一つは歪な形だが、奇跡的な組み合わせによって隙間がほとんどなくなっている、と言っても良い。

ざっと見ても、切り出した岩をそのまま持ってきただろうというものと、さらに手を加えているだろう形をした岩も確認できる。

切り出したままでは隙間なく組み合わせることができなかったのだろう。

どれほどの手間をかけて作られたのだろう。途方もない労力が使われている。

「いや、支配人を止めようとしたらさ、なんかごちゃごちゃしてきたからこっちに逃げてきたんすよ」

居石は飄々と答える。

巽は目を細めて睨みつけるが、実際に上では警察官と住民が揉めている。

「あれは何をしているんだ?」

苦々しくつぶやく巽は二人が下に降りてきたことについて、追及することはなくなった。

腕の主を取り出そうと警察官が動いているのを邪魔しないように袈裟丸は距離を取る。

必然とダム全体が視界に入る。

土手の上から見下ろすのと、また違う顔を見せる。

岩の表面に所々生えている苔がまるで絵画のようでもあり、ダムに表情を与えているようでもある。

長い年月、洪水から人々を守ってきた、その苦労が年老いた人間の皺のように刻まれているようだった。

その麓、今は警察官が必死に穴を掘っている、河床から斜めに掘り進んで腕の先があるだろうその場所の手前まで掘り進めるのだ。

「巽警部補、そろそろ出ます」

穴の中から警察官が叫ぶ。

「慎重に出せ」

巽の声にも緊張が感じられる。

恐らく、いや、間違いなく腕の主は亡くなっているだろう。

それに岩の下敷きになっているのだ。その状態が想像できない。

小林と郡谷も固唾を飲んで見守っている。

警察官が活気づいた。体が取り出されたのだ。

袈裟丸は思わず顔を背けた。凝視するものではない。

「おお…思ったより…やばいな」

全く顔を背けることなく居石はその作業を見ていたようだ。

見ると、小林も顔を背け、郡谷も上に顔を向けている。

「郡谷さん、あとは穴を埋めておけば良いですか?」

顔色一つ変えずに巽は尋ねる。見慣れているのだろう。

内心はどうかわからないが、少なくとも表情に出すことはない。

「ああ、そうですね。埋めといてください。まあどうせ新しいダムの下に沈むもんですからね」

郡谷はまだ上を向いていた。巽は掘っていた穴を埋めるように指示を出した。

取り出された腕の主、すでに死体となっている、は掘られた穴の脇でブルーシートに覆われたスペースに持ち込まれたようだった。

「お前よく見ていられるな」

「滅多に見られるもんじゃないだろ。何事も経験じゃん」

そんな経験はしたくない。

「誰だった?」

「うーん、顔が少し潰れてたからな。でも…多分…」

ブルーシートの中から警察官が飛び出してくる。

巽に何か手渡す。恐らく所持品だろう。

「これだけ?」

警察官は頷く。

巽の手を見るとスマートフォンと財布だけが握られていた。

スマートフォンは画面も割れており、電源もつかないようだった。

最早使えなくなったスマートフォンを早々に警察官に返却すると、巽は使い込んで傷んでいる財布のチャックを開ける。

財布を調べた巽は免許証を見つけたようだった。

「広井…武之助さん…ご存じですか?」

かろうじて頷いた小林と郡谷だったが、その表情は袈裟丸が見てもわかるほど強張っていた。



身元が判明したことで、警察側は捜査が一歩進み、活気づいている一方、小林と郡谷は困惑した表情だった。

建設分野にとって、ある意味財産となる人材を失った形になる。

しかも、その希少性は計り知れない。

噂として数人いるということだったが、それも噂である。

そうした力を持っている人間が広井のみである可能性は十分にある。

その存在は建設関係者にとっては安心材料となることは間違いないだろうと袈裟丸は考える。もちろん現場の安全面に関しては、すべての職員が十分に留意する、ということが前提である。

広井の存在は、確度の高い保険であったわけだ。小林らの心情は十分に理解できる。

居石のことを忘れていたので探すと、ダムに近寄って観察していた。興味を持っていることが珍しいと思った。凄惨な現場で浮いている行動だった。

居石は両手で積み上げられている岩石を触りながら、まるで犬を撫でるかのように手を動かす。それだけ見れば、愛おしさを注ぎ込んでいるようにも見える。

広井が下敷きになっていた岩から離れたところで触っていた居石は顔を岩に近づけ、ペロリと岩を舐めた。

恐らく何も知らない人間がこれを見たら、冷めた表情で何をしているのか問いただしたことだろう。

奇特な力を持っているのは広井だけではない。

居石も近いものを持っている。広井のことが気になったのも、もしかしたらそうした気持ちを理解できたからなのかもしれない。

居石は土壌成分を味覚として判断できるのだ。

つまり、石や土などを口に含むことでその組成を把握できるのである。

こんな無茶苦茶な人間が研究室で重宝されているのも理解できる。

それなりにルールはあるようで、もちろん口に含めるような安全な物質、石や土だって安全とは言えない気もするが、であること、判断できるのは土壌成分のみであること、人工物、プラスティックや金属は判断できないということ、らしい。

本人が言っているので定かではないが、少なくとも的中率は百パーセントらしい。

本人は小さいころからの癖の賜物だというが、どういう幼少期を送っていたのかは聞いていない。

そんなことを考えていると、階段の方から怒号が聞こえる。

抑えている警察官を振り切って、二人ほど階段を下りてきた。

憤然とした表情の一人と神戸である。

「どういうことか説明してくれないか」

巽のもとに詰め寄ると、憤然とした表情の男性が言う。

「上月さん、落ち着いてください」

神戸が諭すと、上月と呼ばれた男性の前に進み出る。

「あなた方は何ですか?現場を荒らさないでいただきたい」

巽の意見には耳が痛い。無理やり入っている袈裟丸たちも同じことだ。

「失礼しました。私たちは軍司ダム保存会の会員です」

神戸が丁寧に説明する。

巽は、まだ合点がいっていない様子だった。

「突然で申し訳ありません。ですが、警察の方々がいらっしゃっている、ということで我々が大切にしているダムで何かあったのかと、どうしても気になったもので…」

それにしては極めて積極的で、過激なやり方だと思う。

あんな強引なやり方でここまで降りてくる、というのは普通ではない。

「まあ、わかりました。ですが、ここにいらっしゃっても邪魔になるだけですから、さっさと戻ってください」

苛立って声で巽が諭す。警察官が二人を確保しようとする。

「離せ、俺たちは何もしてないだろ」

上月は警察官を振り切るようにする。禿頭で白くわずかに残っている髪が乱れている。見た目は老人と言ってもおかしくない年齢だが、足腰がしっかりしている。

「ここを離れていただければいいだけです」

巽は最早うんざりとしている。

「ダムを見せろ。それだけだ。普段は見れないんだ」

上月は少し落ち着いたのか、ちゃんと要望を伝えた。

ダムを見せろ、とはただの我儘でしかない。しかもこんな時に言う事ではない。

「ではここからにしてください。これ以上現場へと近づかないで」

巽は仕方ない、といった表情でそれを許容する。それくらいなら、と考えたのだろう。

「おい」

再び怒号で上月が叫ぶ。

「あいつはいいのかよ」

巽が振り向くと居石が広井が下敷きになっていた岩を触っていた。

「いい加減にしろ。お前ら出ていけ。おい、こいつらを外に出せ」

巽は完全に吹っ切れてしまったようだった。

反対派もろとも、袈裟丸たちもつまみ出される。警察官に強制的に連れ出される形になった。上月以外は素直に従ったが、上月だけ離せ、と喚き散らしていた。

堤頂部まで上がらせられると、村側の方のゲートから外に出され、警察官の手で勢いよくゲートが閉ざされた。

「あ、あの、僕らは向こう側の…」

ゲートの柵を掴みながら袈裟丸は抗議したが、聞き入れられる間もなく、警察官たちはぐったりとした様子で河床へと下って行った。

「行っちまったなぁ」

居石もその様子を横で見ている。

「ああ、面倒くさいな。ダム湖回って帰るしかないか」

袈裟丸は旧軍司ダムの後ろに広がるダム湖を眺めて言った。

良かったら、と神戸が言ったので振り返る。

「お話しできませんか?我々が集会している場所があるんですよ」

にこやかに話しかける神戸は服の裾を直している。

「あっちに見える村っすか?」

居石は集まっている人々の奥に見える集落を見て言った。

村と言ったのは水無瀬市の街並みから見れば、ということだろう。

「ええ、まあ同じ水無瀬市なんですがね。やはり人が来やすい方が発展しやすいですからね。そういう表現になるのは仕方がないです。でもお店もあるし、道の駅だってあるんですよ」

ねえ御良さん、と河床で作業している警察官を静かに見下ろしていた男性に声をかける。

見た目は四十代、まだ黒々とした髪が風でわずかに揺れている。

「あ、まあそうですね。私は道の駅を営んでますが…まあそれなりにお客もいますから」

水無瀬市を通り抜けると避暑地があると聞いたことがある。

その通り道に水無瀬市があるため、そうした需要もあるのだろう。

「耕平、せっかくだから行ってみようぜ。事件のことは後で小林さんに聞けばいいだろ?」

別に事件に首を突っ込みたいわけではない。

「まあ、そうだけど…」

「それにさ、新しいダムのことだけしか俺ら知らねぇし。こっちの人たちの話も聞いておくのって必要じゃねぇか?」

居石の良く通る声だけが響いた。

それまで周囲は文句が飛び交うだけだったが、今は居石の声に全員が耳を傾けている。

「兄ちゃんいいこと言うな。よし話してやるから来いよ」

上月が打って変わって笑顔で、居石の肩を叩く。

「その前に君たちは何者なんだい?」

眼鏡をかけた長身の男性が二人に尋ねる。

理知的な雰囲気が漂っているグレーの髪をオールバックにしている。

神戸が袈裟丸たちのことを説明する。

逆に袈裟丸たちには町で医師をやっている鎌上藤吉郎と紹介される。

「ほう、土木を学んでいる学生さんですか。それにしては…」

視線は居石に向けられた。まあ仕方がない。

「彼の場合、主義主張があるのでしょう。誰にだってそういった主張はあるものです」

神戸がゆっくりと言った。

では、行きましょうと、神戸が先導して村へと向かう道を進む。

木立に囲まれた林道の先にあるようだ。

最後尾を歩く袈裟丸と居石はその雰囲気を楽しみながら歩く。

「そういえばさ、お前なんで勝手にダムの方に入っていったんだよ」

それがなければ、こんなことになっていなかった。あの時、旧軍司ダムの堤頂部を進んだ居石の行動は、袈裟丸が見ても不自然な行動だった。

普段の居石であれば、帰ろうぜ、と言っていてもおかしくはない。

「ん?ああ…」

居石はとぼけたように森林浴を楽しんでいるようだった。

あまり追求しない方が良いのかもしれない、と思っていると居石が口を開く。

「これ」

ハーフパンツのポケットから煙草の箱とライターを取り出す。

確か広井から貰ったものだと言っていた。

「貰っちまったからなぁ。お返し、しねぇとさ」

そういえば、そういうやつだったな、と袈裟丸は静かに頷いた。



林道を抜けて見えた景色は、市街地と比べれば、確かに寂れていた。

しかし、町並みを歩けばスーパーマーケットで買い物をしている主婦がいたり、子供たちが公園や空き地を走り回ったりしている。

活気づいてはいるようだった。

神戸と反対派は和やかに話をしながら、町の中心地にある公民館に入っていく。

公民館に一階にある集会場、というより小さめの宴会場のような場所に入っていく。

畳敷きのその部屋はもちろん土足厳禁で、入り口で靴を脱ぎ捨てるようにして上がっていった。

鼻にツンと突く畳の独特な匂いが、唯一この町で田舎っぽい雰囲気を袈裟丸に想起させた。

「こちらにどうぞ」

袈裟丸たちに丁寧に接する神戸に促されて中央付近の長テーブルを囲むようにして座る。

神戸たち反対派は上座に座るだろうと考え、全く考えもなく上座の方に向かおうとする居石を引っ張って下座に座る。

部屋の壁、その天井付近には白黒の写真が、一部は日に焼けているのか淡い茶色の変色したものも、飾られており、被写体を見れば、旧軍司ダムの建設時と思われる工事現場の写真だった。

「福田のやつはどうしたよ」

上月が神戸に尋ねる。

「福田さんは家に資料を取りに戻ってもらっています」

そうかい、と上月は自分の頭をポンポンと叩く。

福田はこの地域の小学校の教師をしているということだった。

歴史的資料が学校に保管されていることと、自身でもそうした資料を保管していることもあり、それらを持ってくる、ということだった。

「福田さんの到着はまだですが、少し話しましょうか」

神戸の声が部屋に響く。

不思議と旅館で対応していた時よりも声に冷徹さが乗っかっているように感じていた。

「僕以外はこの町の出身なんです。皆さん昔からの知り合いだったり、家族ぐるみでも付き合いがあります」

特に、こうした地方では、珍しいことではない。そ

ういうこともあるだろう、と袈裟丸は思う。

だからこそ、と神戸は続ける。

「軍司ダムの大切さは、誰よりも知っています」

彼ら反対派は、当たり前かもしれないが、旧軍司ダムという言い方をしない。

彼らにとっては旧軍司ダムこそが、軍司ダム、という事なのだ。

「治水、という意味ではもちろん町の発展に大きく貢献しましたし、歴史的な意味でも重要な構造物、ですよね」

柔和な笑顔で上月に確認する。

当たり前よ、とまるで江戸っ子のような言い方で上月が言うと、周囲からどっと笑いが湧く。

「まあ、古そうっすよね」

軽い言い方で居石が言う。

「我々はそれ以上に、技術者としての金村長策氏を尊敬しています」

神戸はゆっくりと、二人の目を交互に見ながら語り掛ける。

「金村さんというと、きゅ…軍司ダムの工事に携わったと…」

「そうです。ですが、それ以上に、氏は設計段階から関わっています。というより、建設のほぼすべて。現場にも出て作業員に加わって資材を運ぶなど、積極的を通り越して過剰に働いていらっしゃった」

神戸の旅館の入り口脇の写真を思い出した。現場作業員に交じって笑顔で映っている金村を囲む作業員たち、苦しい現場だったろうが、和やかな雰囲気だったのは、そうした金村の人間性、それもあったのかもしれない。

お待たせ、と後方で声がする。

振り返ると、白いシャツにスラックス、小学校の先生と言えば、と聞いたときに大半の人間が思い浮かべるような雰囲気の男性だった。

「福田さん、待っていたよ。持ってきた?」

鎌上が笑顔で対応する。

「ああ、申し訳ない。ちょっと家がごちゃごちゃしていまして…。男一人っていうのは、いやはや、取っ散らかるもんですな」

はは、と口を開いて笑う。

「んなもん、どこも一緒だろうよ」

「上月さん、一緒にしないでくださいよ」

上月に釘を刺すかのように黒縁の眼鏡をかけた男性が声をかける。

「お前んとこの母ちゃんだって、まあ怖いだろうよ。今だって子供の世話しながら店回していんだろう?」

聞いていると、上月に言い返されている男性、仲間英人は町でスーパーマーケットを営業している店長なのだそうだ。

このような場に自由に出てくることができる、という点でそれなりの立場にいるのだろうと袈裟丸は思う。

仲間は両手に持った紙袋二つに資料をパンパンに入れていた。それらを机の上に並べる。

「すげぇ数の文献っすね」

居石もその量には目を丸くさせた。この資料の数からも保存会の本気が感じ取れた。

「これは、軍司ダム竣工後の記録はもちろんのこと、金村長策氏による軍司ダムの建設記録まで存在しています」

心なしか、神戸の声に自信が感じられた。

それだけ、こうした資料を持っていることに優位性を感じているのだ。それだけではただ、文献を正しく保管しているのだろう、という程度にしか袈裟丸には感じない。

それから、神戸や上月をはじめ、保存会が代わる代わる説明を始めた。

一通り説明がし終わるころには、居石は目を細めて、呆けているような表情になっていた。

「こうした資料をしっかり保存していることは我々の誇りでもあります」

神戸が締めたところで、袈裟丸は切り出す。

「あの…ご説明して頂いたことは…楽しかったのですが…なぜ僕たちがここに連れてこられたのでしょうか?」

横で居石が背伸びする。

「そうですね。やはり、ダムの歴史を聞いてもらいたかった、ということが一番です。土木を学んでいる、ということなので、それだけでも価値があることだと思います」

土木工学という学問は、どの時代でも人間の生活と切っても切れない関係にある。

土木工事だけで見れば、はるか昔のローマ帝国から続いている。

神戸たちはそんな土木の歴史、あるいは技術者の存在を、袈裟丸たちに知ってほしいのだと思った。

しかし。

「その気持ちはありがたいっすけど…なんか、自分たちの話を聞いてもらいたいから、理由づけてるって感じがするんすよね」

それには八割ほど袈裟丸も賛同する。

保存会の中に緊張が走るが、神戸は落ち着いたままだった。

「まあそう思われても仕方ないですね。得てして年齢を重ねると若輩に自慢や話を聞いてもらいたがるものですから」

神戸の落ち着いた声に、場の緊張が徐々に緩んでいった。

そんな中でも、居石は長机の上の広げられた資料に目を走らせていた。

「すんません、それ、見てもいいっすか?」

鎌上の前に置かれたものを指さす。それは学校の先生が持っている名簿のような、とじ込み表紙の書類だった。鎌上は、どうぞ、と手渡した。

「あざっす」

居石はそれを受け取ると、少し考えて、机の上に置いて、慎重に開いた。

少なくとも貴重な資料である、ということは理解しているようだった。

「おお…すげぇ」

「それは軍司ダムの設計図、だな」

上月が身を乗り出して言う。

おお、と言うと、一枚一枚目を通し始める。

周囲が黙ってそんな居石を見ていたが、当の居石は一向に口を開かず、食い入るようにして中身を読んでいる。

何の時間かわからなくなってきた袈裟丸は、聞きたかったことを聞いてみることにした。

「あの、ちょっと聞きたいんですけれど…さっききゅ…軍司ダムに乗り込んだ形になったと思うんですけれど…なんであんなことを?」

袈裟丸は神戸と上月を交互に見る。

「偶々私たちだけだった、というだけですが…」

神戸は上月に視線を送る。

「軍司ダムに手をかけ始めたからな。ワシらに筋を通せっちゅう話だよなぁ」

上月も神戸に同意を求める。

なんとも身勝手な理由ではないだろうか。

警察の捜査のためなのに、それすら保存会に話を通さなければならないのだろうか。

そもそも、ダムの管理は国や公共団体だ。

警察はそちらにすでに筋を通していただろう。この会にそんな権限はない。

「あのダムを…管理されているんですか?」

「管理は役所だろう。そういう仕組みだ。知らんのか?」

知ってたのか。彼らはどういった立場なのだろうか。

上月はだからと言って、と続ける。

「役所が毎日見に来て管理しているわけじゃないだろうよ。あのダムは、こればっかりは仕方がないが、ワシらと同じく年寄りだからな。しっかり見といてやらんと」

「定期的な観測もしていると思うんですけれど…」

「私たちがどれだけあのダムを大事にしているか、ということです」

そう言われてしまえば、何も言い返せない。彼らがあのダムを見ていると言っても、何かあったときには何もできないことに変わりはない。

「今回、あんな事件があったんですけれど、皆さんとしてはどう思っているんですか?」

しばらく返答はなかった。

「やはり亡くなった方がいるのは、残念なことです。ですが…」

神戸が口を開く。言い淀んでいるのは、遺体のありえない状況についてだろう。

「亡くなった広井さんをご存じの方はいらっしゃいますか?」

全員が首を振る。

「ダム建設の作業員、というのはなんとなく把握しています」

鎌上が答える。今度は全員が首肯した。作業服を着ているから、それくらいの予測はできるだろう。

「まるで軍司ダムが殺したようにも思えますが…」

福田が口を開く。

「何言ってんだ、福田。そんなことあるわけねぇだろうよ」

憤慨する上月を鎌上が宥める。

「上月さん、落ち着いて、彼も本気でそう思っているわけではないですよ」

だが、福田がそう言いたいのも理解できる。

それくらいあの状況は起こるはずがない状況だった。

微かに緊張感に包まれた空気に辟易としてきた。居石はまだ図面とにらめっこしている。見ているページは数値が並んでおり、構造計算のような数式も羅列されている。

溜息をついて、質問を再開する。

「新しい軍司ダムが今建設されているんですが、それについてはどう思っているんですか?」

この質問によって自分に矛先が向くと理解している。

だが、自分が犠牲になってこの場が収まるのであれば、それで良かった。

もうこの人たちには会うことはないのだ。別にどう思われても構わない。

「どう思っているのか、とはどういう事でしょうか?」

神戸が尋ねる。

「えっと…つまり、もう完成間近、っていう状況でこの会が存続する意味があるのかってことです」

我ながら肝が据わっているなと感じる。

その表情に得体のしれないものを感じたのか、今まで苛立っていた上月が穏やかな声で言った。

「そんなことは頭では理解しているわ。だがな、ワシらとしてはこれまで軍司ダムに費やした時間を無駄にしたくはない、っていう気持ちがある」

今さら引けん、と言い捨てる。

結局、そういうことである。

合理的ではないと頭でわかっていてもやめることができない、

そうした人間の心理がこうした行動をとらせる。

「もしかして君は、あの作業員を殺したのが我々の誰かだと言いたいのか?」

黙って聞いていた御良が口を開く。

右手に嵌めた腕時計を回すように弄りながら、袈裟丸の回答を待っている。

そんなことを考えたこともなかったが、確かに保存会のメンバーであれば殺害する動機はある。

「確かに我々には動機がありますね。ダム建設反対が通らなかったことの腹いせに、と言ったところでしょうか。建設に際しては、かなり強引に反対運動を行いましたからね。もしかしたら、警察も我々のところに来る可能性もあります」

静かに神戸が言う。思ったより場が紛糾するようなことはなかった。

意外と客観視できているのだな、と袈裟丸は感心した。

「えっと…ごめんなさい、そんなこと考えもしませんでした。でも神戸さんが言う通り、そこだけ切り取ってみればそうなのかも…しれません」

殺されたのが広井、という点も袈裟丸には引っかかる部分だった。建設現場における守り神、あらゆる事故を防ぐことができる、稀有な能力を持つ人間、そんな人物がありえない状況で殺害されている。

なぜ、彼は殺されなければならなかったのだろうか。

「なぁるほどねぇ」

横から大声がする。そして静かに表紙を閉じると、居石が頭を上げた。

「あざっした。勉強になったっす」

保存会のメンバーに頭を下げる。

「随分真剣に眺めていたね」

鎌上が図面を開きながら言った。

「いや、正直あんな岩を積んだだけのダムに設計図があるっていうのが、信じらんなかったんすよ。だからどんなもんか見てやろうって思ったんすよね」

笑いながら言う居石に、鎌上は引きつった笑顔で、そう、とだけ言った。

「耕平、そろそろ帰ろうぜ。ダム湖回れば帰れるんだろ?」

袈裟丸の回答を待たずに、居石は立ち上がる。

自分が決めたら、すぐさま行動に移すのは羨ましいが空気を読まない。

「だったら、ダムに沿って進んだ方がいいよ」

福田が言う。

「そうだな。あのな、ダムに沿って川を下っていけ。二つ、ダムを通り過ぎればその先に龍清橋があるから、それ渡っていけ。そうすっと市内だ」

「あ、そうなんすか。あざっす」

友達に感謝するように片手を挙げる。

「じゃあ…僕らは失礼します。貴重なお話ありがとうございました」

こちらくらいは礼儀正しくしておかないとバランスが取れない。

「ん?支配人はどうすんの?」

「私はもう少しここに残ります。旅館の方に連絡を入れておきますから、そちらの心配はされなくて大丈夫です」

「そうっすか…あ、でも車で迎えに来てもらった方が楽っすね」

「ご存じの通り、こじんまりとした旅館なので、車が一台しかありません」

その車は水無瀬市の方に停車されており、そのまま警察に締め出された結果、車に戻るのにも時間がかかる、という事らしい。

居石は、しかたないっすね、と言った。



公民館の前に保存会のメンバー勢ぞろいで見送られ、人通りがないにも関わらず恥ずかしくなっていた。

「じゃあ、失礼します」

先に歩き出した居石に追いつくように袈裟丸は駆け出す。

「おい、傍若無人すぎるぞ」

「何が?」

「ごちゃごちゃ言ったかと思ったら、勝手に面倒くさいことやるし、かと思えば黙ったまま集中して、こっちが場を埋めなけりゃなんないし」

「え?あーじゃあ、お前もそうすればいいじゃん」

ちょっとそこの醬油取って、くらい軽く言う。

「もういいよ…。で、どうすんだ?」

「そうだなぁ。とりあえず街に戻って」

「うん」

「飯だな」

「だろうな」

「それから旅館に戻って寝るか」

要するに気の利いたアイディアなんて無い、ということである。

「あ、延長した宿泊費ってどうするん?研究費からでるん?」

確かに言う通りだった。すっかり忘れていた。

この状況もまだ大学に説明していない。連絡を入れておこうとスマートフォンを取り出すと、タイミングよくスマートフォンが着信を受ける。

「ん?知らない番号…」

居石も袈裟丸の見ている画面を覗き込む。

「巽さんじゃね?」

なるほど。確かにその確率が高い。袈裟丸は少し考えて、通話を押すとスピーカーに切り替える。

「はい」

巽です、とガラガラした声が聞こえた。間違いなく巽だろう。

『君らは今どこに?』

「えっと、ダム建設反対派の方々のところにいました」

「あんたらに締め出されたんだよ」

居石が少し強く言うと、すまない、と巽が謝罪する。

『そちらにもこれから向かうが…。いました、ということはもういないんだな?』

「はい。旅館に戻ろうとしています」

『わかった。とりあえず変わりはないな?』

「はい」

『小林さんが気にしていたので、連絡させてもらった』

「そうですか…。今小林さんは?」

『職員で話し合っているようだ』

確かに、緊急事態だろう。話し合うことは多々ある。

『もう一人、アロハのやつは大丈夫か?』

「はーい、アロハでーす。なんかアロハって呼び方、刑事ドラマのあだ名みたいっすね」

そんなあだ名は緊張感がないだろう。

『…元気そうだな』

「刑事さんは今どこなんすか?」

『署の方に戻っているが?』

「広井さんの死因、ってわかったんすか?」

しばし沈黙があった。

『撲殺だ。顔が、というより頭が変形していたから現場でははっきりわからなかったが、司法解剖で結果が出た。死亡推定時刻は午後九時から十二時の間、後頭部が陥没していたから殴打されたと考えたが、結果は墜落死だ。恐らくダム堤頂部から突き落とされたのだろうと思う。実際にダム堤体部にその痕跡があった。その後あの状況になった、ということだ』

まだ、あの状況になった方法はまだわかっていないようだった。

さらに、その死亡推定時刻であれば、荒巻より先に広井が殺害された、ということになる。

「広井さんの方が先に殺害された、という事なんですね」

『そうなるな』

「同じ人物…が犯人ってことは…」

『まだそこまではわかっていない。可能性は十分にあるな。そうなると連続殺人ということになる』

これだけ短時間に起こった事件なのだから、視野には入れている、という事なのだろう。

「あざっす」

居石は礼を言うと、うーん、と唸った。

『なんだ?』

「刑事さん、鍵の問題は解決したんすか?」

『え?』

そういうと巽は黙ってしまった。

袈裟丸も、居石が何を聞いているのか、わからなかった。

『どうしてそれを?』

「いやいやいや、あん時言ってたじゃないっすか。所持品は財布と携帯だけだって」

そこまで言われて、やっと袈裟丸は気が付いた。

広井の遺体から発見された所持品は、スマートフォンと財布だけ、だった。

そのことに居石は違和感を受け取っていたのだ。

『君はあの時、ダムをいじくっていただろう?聞いていたのか?』

「そりゃ、耳を自由に閉じれないっすからね」

耳に入らないわけはないが、ダムに集中しているわけではなかったのだ。

『君の言う通り、広井は鍵を所持していなかった』

旧軍司ダムの河床に、というより堤頂部に入るための入り口は、水無瀬市の両側に二つあるゲートしかない。

そのゲートは内側からであれば鍵がなくても開くが、外からは鍵がなければ入ることはできない。

「あの、二つ入り口あるじゃないっすか?鍵は一つっすか?それとも二つ?」

『鍵自体は二つある』

それは小林が説明していた気がする。

問題は、と巽が続ける。

『二つの鍵に広井の指紋が付いていた、ということだ』

どういうことだと袈裟丸は考える。

「では広井さんが鍵を二つとも持っていたということですか?」

『まだわからない。ただ二つの鍵に広井の指紋が付いていた、というだけだ』

「ん?鍵ってどこにあったんすか?」

確かにそうだ。広井の遺体がそれを所持していなかった、ということは別のところにあった。

いや。

「警察の皆さんがゲートを開くために、小林さんが鍵を取りに戻りましたよね?ということは工事事務所にあった、という事ですよね?」

『その通りだ。もちろん鍵には小林さんの指紋もついていたがね』

「そりゃあ大変だ」

大変で済む問題ではない。

「巽さん、そもそもなんですけれど、殺人事件だと考えているのですよね?だとしたら、広井さんを殺害しようとする動機を持っている方はいらっしゃるんですか?」

電話口の巽は、唸るような声を出す。

『それが見つからない。少なくとも工事関係者には広井に恨みを持っている人間はいなし、そもそも広井自体が人と関わらない性格だったようだ。飲み会にもいかなかったそうだよ。何を気晴らしにしているんだろうな』

酒以外だろう。飲酒だけが気晴らしではない。

『反対派の方はまだ聞いてないから、そっちの人間は動機があるかもしれんがな』

その聞き込み次第だが、あまり期待はできないかもしれない。

動機の候補を考えてみるが、工事を中止させたい、という意志が一番しっくりとくる。

だが、すでに工事は終わりに近い。

この時期に事件を起こすにあたって、その動機は現実的ではない。

『ああ、しゃべり過ぎた。切るぞ。無事に戻ってきなさい。旅館に戻ったら大人しくしているように』

釘を刺すように言うと、巽は通話を終えた。

「鍵ねぇ…」

居石はつぶやく、歩きながら会話していたので、気が付けば木立を抜けてダムが見渡せる河川脇の道に出ていた。左に進めば、ダム湖を回ることにる。上月が言うには川に沿って下れば、新軍司ダムの先に橋があり、旅館に戻るならばそちらの方が近いらしい。

二人はそちらに進む。

左手に河川、右は風に揺れる木々。程よく頬に当たる風が心地よい。天気も良く、事件の渦中にあるのに、そんな感情になるのだから、人間は不思議だ。

「鍵に足生えて元の家に戻った、っていうんなら簡単なのになぁ」

「随分とファンタジー寄りな意見だな」

「俺の生活自体がファンタジーっしょ?」

「知らないよ。というか、ファンタジーと真逆のところにいるぞ」

「失礼な奴だな」

それが失礼に当たると思っていることは、ある意味ファンタジーなのかもしれない。

視界の先に旧軍司ダムが見えてきた。

二つあるゲートは警察が配置されることなく、河床を覗き込むと、数人警察関係者の姿が見えるがもう落ち着いているのだろう。ゲートに見張りなどをつけておかないのだろうかと思ったが、外から開けることはできないので必要ないのかもしれない。

ゲートの横を通り抜け、先を進む。

その時、居石がダムの方を向いて手を合わせて祈った。居石の中で広井の存在は、短い時間だったとはいえ、決して小さいものではなかったのだろう。

袈裟丸は何も言わず、居石が満足するまで待っていた。

悪りぃ、と言って歩き出した居石に、袈裟丸は、おう、とだけ返す。

旧軍司ダムを通り過ぎると、視線の先には新軍司ダムがすでに見えている。

改めて見れば、その大きさはやはり目を見張るものがある。

徐々に近づく新軍司ダムは、もはや壁である。アーチ式ダムは旧軍司ダムなどのロックフィルダムも含めて、重力式ダムのように容積が大きくなく、構造的な条件で水圧に耐える仕組みになっている。

それでも、規模が大きくなれば、存在感は増す。

新軍司ダムが近づくと袈裟丸たちが歩いている道の脇、ダム側に白い仮囲いパネルが並び始める。しばらく新軍司ダムを眺めることはできなくなった。

「そういえば、荒巻さんの方の捜査ってどうなっているんだろう」

「ああ、そういやそうだな。広井さんの方がわけわかんない状況だったから忘れてたわ」

とはいっても情報はない。

「さっき、保存会のところで熱心に図面見てたけど、面白かったのか?そういうのに興味あるとは思えないんだけど」

一言も話さずに、食い入るように見ていた姿が印象に残っていた。

「耕平、一応俺も微かに土木を学んでるんだぜ」

「大学院まで進んでおいて、微かにとか言うなよ」

「でも、金村長策っていう人はすげーな。あの図面と計算見ていてわかったよ。緻密に計算してんだけど、遊び、っていうんかな。現場で生じる誤差みたいなもんも想定してんだ」

「そんなことできるのか?」

知らねぇ、と居石は言う。

「普通無理じゃねぇか。まあ経験なのかな。知らんけど。あと、この周辺の岩石の成分の情報も調べてさ、俺が感じた組成とおんなじだった。数十年越しに答え合わせできたっつー不思議な感覚だったな」

そんな体験は居石しかできないだろう。稀有な経験ということは間違いない。

仮囲いが切れると、すぐに橋が見えてきた。

車も通れるくらいのしっかりとした三径間の吊り橋だった。

片側一車線で歩行者専用通路もある。

あまり交通量が多いとは言えないだろう。

「すげー景色だな」

居石は橋から望める、水無瀬市の自然を見渡していた。

この橋の上から周囲を見渡せば、木々や岩場、そして今は迂回して流れている川の流れが一辺に視界に入る。

あの川の先は、関東地方を流れる一級河川に繋がり、やがて海に辿り着く。

その海水が蒸発し、雲となり、本土に流れついて、山間部で再び雨となって降り注ぐ。その雨がこれから新軍司ダムに流れこむこととなるのだ。

空を見上げれば、雲一つない晴天、太陽がいつも通り輝いている。

今袈裟丸たちが置かれている状況でなければ、これ以上ない行楽日和ということになる。

珍しく居石も、その景色を堪能しつつ、橋を渡りきる。

今度は新軍司ダムに戻るような形で歩き始める。

「結構くたびれるな」

「珍しいワード使うんだな」

疲れている様子もない居石は珍しそうに尋ねる。

決して珍しいワードではない。確かに頻繁に使うものではないが。

アスファルト舗装された道をしばらく歩くと、右手に道が現れた。

このまま直進すれば新軍司ダムの現場である。

袈裟丸たちは右手の道に入る。

時刻は午後十三時になろうとしている。確かに腹が空いてきた。水無瀬の街で何か食べられるだろうか。

下り道の先に、制服の警察官が二人立っていた。歩行者を制限しているのだろう。

その横の車道でも赤い棒を持った警官が入室制限をしていた。

日曜日の市内はそれなりに人手がある。

きっとダムを見渡せるこの道も、本来であれば散歩を楽しむ住民もいただろう。

制限の内側から来た袈裟丸たちは、どうやら話が通っていたようで、すんなり外に出れた。土手に入れなかったご婦人二人が訝しげにこちらを見ていた。

制限の内側から来たのだから、その表情になるだろう。

くたくたの足を踏ん張りながら、市内を進む。

「おお、お前ら」

声をかけられて振り向くと、万願寺が手を振っていた。

二人は頭を下げる。

「散歩か?」

穏やかな笑みを浮かべて万願寺は近づく。ポロシャツにスラックスというラフな格好だった。体格が良いのがシルエットではっきりとわかる。

袈裟丸が一連の流れを説明する。

「そりゃ大変だったな。報告は貰ってたが…お前らも災難だな」

「大変なんてもんじゃないっすよ」

居石は情けない顔で言った。

「万願寺さんは何を?」

「おう、とりあえず一時解散になったからな。また話し合いはあるんだが、少し気晴らしにな」

ウォーキングをしているのだという。

「皆さん、どんな感じですか?」

「不安と緊張、あと困惑って感じだろうなぁ」

そうだろうと思う。同じ現場で働いていた人間が二人亡くなったのだ。

「みんな気晴らしでもしてんじゃねぇかな?」

「万願寺さんはよくウォーキングされてるんずか?」

「いや、俺はゲームが趣味なんだがな。少し運動しようと思ってな」

「どんなゲームやられてるんですか?」

袈裟丸の質問に、いくつかのタイトルを挙げる。それは袈裟丸が幼少期に遊んでいたタイトルだった。その懐かしさから話が盛り上がる。

「懐かしいですね」

「世代を超えてもこうやって話が合うからな」

万願寺も笑顔になる。

「皆さんも気晴らし、していて欲しいですね」

「そうだな。東平さんとか、自然が好きだからな」

「じゃあ、散策とか?」

「まあそれもあるけど、バードウォッチングが趣味だな。双眼鏡持って出かける姿を見かけたことがあるんだよ」

穏やかな表情の東平にぴったりだと思う。

「本田さんは釣りで、郡谷さんは料理だったかな」

「お、俺と合いそう。でも想像つかねぇな」

「仕事の時はあの人イライラしてるからな。人間が嫌いなんだよ」

働くにあたって致命的ではないだろうか、と思うが、これも多様性だろうか。

他の人の趣味も聞きたかったが、万願寺も知らないのだという。

「保存会のやつらに拉致されたんだろ?大丈夫だったか?」

「拉致は言い過ぎっすね。全然大丈夫っすよ。俺らダムに関係ないし」

「そりゃそうか」

万願寺は笑う。

「ま、お前らもいい散歩ができたようだから、俺も歩いてくることにするよ。じゃあな」

快活に手を振って、万願寺は去っていった。

「元気だなぁ」

「気持ちが落ち込まないようにだよ。万願寺さんだけじゃないと思うけどね」

そっか、と居石も納得する。

再び宿に戻っていると途中でコンビニがあった。

弁当を買っていこうと提案するが、居石の地元のものが食べたいという強い拘りに負け、飲み物だけ買うことにする。

袈裟丸はペットボトルの日本茶、居石は缶コーヒーを買い、行儀は悪いが店先に座って飲み始める。体に水分が染み渡る。全く給水していなかったことを思い出し。さらに長距離の散歩でくたくたになった体は水分を欲していた。

先に飲み終わった居石が、良し行くか、と立ち上がる。

「早いよ。少し休もう。歩き疲れた」

「え?あの距離でか?耕平、もう少し運動した方がいいぞ。パソコンの前に座って指だけ動かしてるだけじゃあな。まあそれは今後役に立つかもしれねぇけど」

最早ツッコミを入れる元気がない。そういう時は無視するに限る。

「あ」

コンビニの店先を美里が歩いているのが見えた。両手にスーパーマーケットの袋をかけて足取り重く歩いている。もう体調は大丈夫なのだろうか。

袈裟丸の視線を追った居石が、飲み終わった缶をゴミ箱に上手に投げ入れると、美里に近寄る。

袈裟丸も残りのお茶を、飲み干すには量が多かったが、空にしてゴミ箱に入れると立ち上がる。

「あの、すんません」

美里は、声のかけた居石を見上げると、体が強張る。

それはそうだろう。突然、大柄で季節外れのアロハが近づいてくれば誰でも強張る。

ただ、美里はすぐにアロハが誰か認識したようだった。

「ああ、あなた。さっきはありがとうございました」

袋が重いだろうに律儀に頭を下げる様子から、人となりが垣間見える。

「いやいや、そんなことないっすよ。あ、それ持ちます」

美里の答えを待たずに両手に握られていた服をひょいと持ち上げた。

戸惑う間もなく袋を取り上げられた美里は、ありがとう、とだけ言った。

「家まで運びますから、一緒に行きませんか?」

袈裟丸の提案に、居石も笑顔で大きく頷く。

「ええ…そんな…申し訳ないわ」

「気にしないでください。力しか能がないのでなんでも使ってください」

「それは俺が言うセリフじゃねぇか?」

美里は口元に手を当てて笑う。

「じゃあ、お願いできますか?なんか申し訳ないわ。ご迷惑おかけしたのに」

「一度迷惑かけたら、二回も三回もおんなじっすよ。気にしない気にしない」

居石らしいセリフだ。人となりを表現する上でこれ以上ないセリフだろう。

居石は美里が進もうとする方向に勝手に歩き始める。

「おい、要、家知っているのか?」

「知らねぇよ」

やりとりが軽妙だったのか、美里は笑顔になった。

旧軍司ダムを見ている物憂げな表情しか見ていなかった袈裟丸には新鮮に思えた。

美里に先導してもらって、市街地を歩く。

旅館とは反対方向に向かって歩き、住宅街を歩く。

地方都市の住宅街は、同じように見えても、地域によって表情が異なる。その違いが袈裟丸にとっては興味深く、学会などで出張するときは楽しみにしている一つである。

この中にダム建設関係者の寮があるのだろう。

街の観察を楽しんでいると、和風の塀が現れた。大規模ではないものの、落ち着いた和風の開き戸があり、美里は迷うことなくその開き戸に鍵を差し込む。

「ここっすか?すげー」

「ええ。でも築年数は結構経っているから、実は古いの」

扉をスライドさせると、やはり和風の平屋がひっそりと横たわっており、その前に広がる庭はしっかりと手入れがされている。

庭の飛び石を歩いていくと、入り口近くの大きな木に梯子が立てかけられており、その上で鋏の音が聞こえた。

「おかえりなさい。大丈夫でしたか?」

「ええ、ありがとう。途中で彼らに出会って…手伝ってくれたの。ダムで倒れた私を介抱してくれた子よ」

袈裟丸たちが鋏の方に視線を向ける。剪定梯子の上に、真っ黒な人間が立っていた。

頭を黒いタオルで覆い、上下黒の作務衣、膝から下は素肌が露出しているので夏用である。足元は雪駄である。

「ん?おお。偶然だねぇ」

「…何してんの?」

袈裟丸は何も言えなかった。二人ともその真っ黒な人物には、見覚えがあった。

「塗師さんとお知り合いなの?」

美里は驚いているようだった。

「ああ、僕はね。彼らの雇用主」

口角を挙げて、満面の笑みを浮かべる。

「勝手に就職させんな。ただのバイトだろうよ」

そうだっけ、と笑う塗師明宏に袈裟丸の顔は引きつっていた。

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