第2話 築かれた水瓶
G県水無瀬市は都市と自然が両立している街だった。駅前は都会と比べれば落ち着いているものの、けして閑散としているというわけではなく、地方都市の典型的な街だった。
秋口だが日差しは強く、体に優しい気温の中、袈裟丸は駅前のロータリーの隅にあるベンチに腰かけていた。時刻は正午を回ったところだった。
おそらく年配の方々がバスや迎えを待っている時に使うであろうそのベンチは、ロータリーから伸びる道路と切り取った街の風景を観察するのに適した場所だった。
ここに座っているのは、迎えを待っているためである。
試作機の試運転に協力してもらう建設会社、鳥飼建設に所属しているR大学のOBが車で迎えに来てくれることになっている。
「あのな、パスタがあるだろ?」
袈裟丸の隣で足を組んでガラ悪く座っている居石が先ほどから言い訳をしている。
アロハとハーフパンツと共に常に履いているビーチサンダル、それを浮いている方の足の踵にパーカッションのように打ち付けている。
パスタがどうのこうのと尋ねられたが、袈裟丸は冷めた表情で視線を前方に向けて聞いていた。
この時の袈裟丸は憤っている状態である。
「普通よ、どうやって食うと思う?そう、フォークだよな。だがしかしだ。世の中は今多様性の時代ってやつじゃねぇか。なあ?それに日本人は古来より麺類は箸で食べるっていう国民性だろ?だからパスタも箸で食うっていうのも間違いじゃねぇと俺は思うんだよ」
「言いたいことが全く分からない。それと安全靴を持ってこなかった理由に何の関係性があるんだ?」
安全靴とは、つま先が固くなっている靴のことである。落下物や衝撃から足を守ってくれる、特に現場で働く作業員が履いている。
主に鉄だったり安いものだとプラスチックが入っている場合もある。
今回、快く現場を提供してくれた鳥飼建設から、現場に来る条件の一つとして提示されたものだった。
学生たちが現場見学に訪れる場合でも、安全靴とまではいかないが、スニーカ等つま先が隠れる履物を要求される。
つまり、居石の今の足元は、どうぞ怪我してくださいと言っているようなものである。
「散々、昨日言ったよな?お前はただ俺の手伝いで来るんだから、何を忘れても良いけど、向こうの迷惑になることはするなって」
「はい…すんません」
居石は足を下ろして座りなおす。ガラの悪さは消えてないので元からのものだろう。
普段、居石はこういうことをしないので、袈裟丸は意外なこの行動に驚いてもいた。
こんな格好をしているにも関わらず、むしろその所為か、人に迷惑をかけること、特に仲間に迷惑をかけるようなことは絶対にしない。
「正直、昨日は飲みすぎて…」
まあ、そんなところだろうと袈裟丸は想像していた。
「仕方ないから買ってくれば?」
「どこでだよ?」
「調べろよ」
居石は素直にスマホを取り出して調べ始めた。
「ホームセンタ無ぇな…」
悲しげな表情で袈裟丸を見る。
「んー、じゃあ小林さんに聞いてみるか」
途端に居石は笑顔になる。
こういう人間の方が、結果として人に好かれるのだから世の中おかしいと袈裟丸は思う。車が通っていなければ、赤信号でも道を渡るような人間が成功者になるのだと思う。
「要、お前は小林さんに会ったことないんだよな?」
「ん?ねぇよ。研究室の先輩に聞いたけど、OB会とかにはよく来てるみたいだな」
「なんでお前は行ってないんだよ」
「OB会だろ?OBが参加すんじゃねぇのかよ」
題目上そうなのかもしれないが、意義としてはOBと在校生との交流の場であることは言うまでもない。
これは居石の責任だけじゃないだろう。
研究室の仲間たちもそれを教えなかった責任がある。
「大学院卒業して…確か三年くらいだったんじゃねぇかな」
事前のやりとりで本人から聞いていたが居石には伝えずに、そうなんだ、と返した。
「にしても、大荷物だな」
足元に置いてあるトランクケースに目を向けて居石は言った。
「忘れてるかもしれないけど、試作機が入ってるんだよ。九個プラス予備で二つ。そりゃ大きくなるよ」
そりゃそうか、と居石は笑う。
ロータリーに停車していたバスがエンジン音を響かせて出発する。入れ替わるようにして一台のライトバンがロータリーに入ってきた。
二人が座るベンチから最も近い場所に停車する。
「あ、R大の?」
運転席から降りてきた紺色の作業着の男性が訝しげに二人の元へと近づく。
その理由は居石に恰好によるものだということは明白だった。
「はい。初めまして。R大の袈裟丸耕平です」
居石が遅れて立ち上がる。
「居石要っす。お疲れ様っす」
「鳥飼建設の小林です。よろしく。にしても…手伝いを連れてくるって聞いてたが…すげぇ格好だな…」
居石のことを初見だという人間の感想としてオーソドックスなものだった。
「説明不足で申し訳ありません」
申し訳なくなり頭を下げる。
そのことに関して、居石は文句を言わない。
それを理解した上でそうした格好をしてるのだ。
「いやいや、まあ…現場に入るときは…ちょっと考えるわ」
すんません、と居石はヘラヘラと笑う。
「確か君が…居石君が直属の後輩ってことになるんだよね?」
「あ、そうっす。先輩」
「会ったこと…あるっけ?」
「ないっす」
「自信満々に言うなって」
袈裟丸は強めに言った。
「R大は人材の宝庫だな」
大人な対応に袈裟丸は感謝した。
やっぱりこんな人間の方が注目されるのだ。
小林の車に二人は搭乗し、現場へと向かう。
「居石君は荷物トランクに入れなくて良いの?」
「あ、自分荷物こんだけなんで」
居石は狭い車内でボストンバックを掲げる。確かに小さめのボストンバックだった。
「袈裟丸君、試作機はどんな感じ?」
「あ、とりあえず完成はしました、ラボレベルで動作確認はしましたけど…現場だとやっぱりわからないっすね」
「社内でも興味を持っている人もいたから、いい結果が出ることを期待しているよ」
はい、と袈裟丸は神妙な面持ちで座りなおす。
「とはいっても、まあほどほどの期待をしておくよ。研究だしね」
小林は気さくな人柄だった。年齢も二人に近いので精神的な距離が近い。
背丈は二人より低いが、それよりも大らかな人間性のためか、不思議と体格に差があるとは思えなかった。
「居石君、先生は元気?」
それから居石と小林で研究室の話題で盛り上がり始めた。
袈裟丸は時折居石の発言にコメントを加えながら、風景を眺めていた。
ロータリーから出た車は市内を進む。
十分ほど走ると周囲に緑が増えてくる。
国道に出て、右手に進む。
広い間隔でコンビニエンスストアやチェーン店のファミリーレストランが現れて、地方に来たなという気持ちにさせる。
さらに十分ほど走る。
建物よりも自然を目にする割合が八割を超えるころ、遠くの街並みが視線より下にあることに気が付いた。
山肌に沿ってゆっくりと登っていき、山を越えたところで再び小さな街が見えた。
さらに視線を遠くに向けると目的地のダムが微かに見える。
小林が言うにはあの街も水無瀬市だそうである。
今回、袈裟丸たちが試作機を設置する構造物はダムである。
現在、鳥飼建設らが建設している新軍司ダム、その堤体に試作機をセットできることになったのである。
車は街へと降りていく。
「あのカップラーメンまだあるんだ」
「そうなんすよ。消火器で…」
「あ、この街に君ら、宿取ってるんだよね」
居石は、うっす、と返事を返した。
袈裟丸は、その前に二人がしていた会話が、気になっていた。
「一泊だったよね?」
「あ、そうですね。一応試作機の動作を確認して、遠隔でデータ取れるかっていうのも宿で確かめられればいいなって思ってます」
小林は頷くと、工事事務所の方へ向かうと告げた。
「袈裟丸君とはやりとりしていたけれど、居石君も詳細を知ってるってことで良いのかな?」
「いや知らないっす」
即答だった。
全く告げてなかったのは袈裟丸としても落ち度だった。
「申し訳ないです。全く説明してませんでした」
小林は、いやいや、と笑顔で返す。
「じゃあ、簡単に説明しておくかな。まず、今日行くのはダム。我々が今施工している新軍司ダムというところに向かう」
「なるほど」
「元々のダム、まあ旧軍司ダムって呼んでるけれど、貯水量が足りなくなってきてね。ほら、近年の気候変動で雨が多くなってきたし。それによってダムの越流も何度が観測できた」
「じゃあ、新しいやつは貯水量が多いってことっすか?」
「もちろん」
「確か、古い…旧軍司ダムはロックフィルダムなんですよね?」
ロックフィルダムとは、中心部を粘土、その両脇を砂や砂利・外郭部を岩石で覆う構造のダムのことを指す。
中心部の粘土が遮水効果を持っており、水を堰き止める働きをする。
「そう。新しく作っているダムはアーチ式、その中でもマルチプルアーチダムを採用しているんだ」
「ふーん…」
そういった後、居石は黙って袈裟丸の顔を凝視した。
その意図を汲み取って袈裟丸は説明した。
「それくらい想像つかないか?アーチ状になってるコンクリート製のダムのことだよ」
「まるちぷる…」
「それは複数のアーチがあるってこと」
「新軍司ダムは二連のアーチになってるね」
「ほう…眼鏡橋を倒した感じっすね?」
「解りやすい例えだな。というか、眼鏡橋は知ってんだな」
褒められて満足そうにしている居石だが褒めてはいない。
「日本ではほとんどないですよね?」
「まあね。両岸の岩盤が強固なんだけど、河川幅が広いところでね。一つだけのアーチだとちょっと建設できない。致し方なしってところだね」
デメリットとしては、アーチが一つの場合より地震に弱く安定性が劣る点である。
それと小林も認識しているが日本での建設実績が少ない、というところだろう。
「じゃあ、古いほうは取り壊して?」
居石の質問に小林は、そうね、とだけ返事をした。バックミラーに映し出される小林の柔和な表情が一瞬緊張したことに袈裟丸は気が付いた。
「まあ、ちょっと社内でも協議したんだけれどね。旧軍司ダムはそのまま、取り壊すことなく埋め殺しにする形になったんだ」
「ダムに沈む町、じゃなくてダムに沈むダムって面白いっすね」
その面白さを袈裟丸は共有できなかったが、感性は否定しない。
ダムに近いこの街は、駅近辺に比べれば歩いている人は少ない。
自然環境と街並みが上手に混在している。
歩いてみたら楽しいかもしれないと袈裟丸は思った。
車はその街を通り抜ける。その突き当り、街の外れにある護岸に沿って進む。
右折して、その道に入るとすぐに目的の新軍司ダムが見えてきた。
「おーやっぱり実際に目にすると違げぇなぁ。でっけー」
居石は子供のように声を上げ、袈裟丸の方に身体を乗り出した。
「邪魔だよ」
ダムが近づくにつれて、足場や人の動きが目に入る。
「堤体の高さは百メートルかな。アーチ式ダムとしては低いほうに入るね」
「十分でけぇけどなぁ」
護岸が切れてからしばらく進むと河川側に降りる道が見えてきた。
ここを降りれば現場へと到着するのだろう。
「せっかくだから旧軍司ダムを見てみようか?もう見る機会もないだろうし」
「あ、是非お願いします」
ダムの下へと降りる側道を通り過ぎてさらに奥へと進む。
護岸もなくなり、ただの土手と化した道を進んでいると、旧軍司ダムが姿を現す。
新軍司ダムの大きさから比べれば小ささが目立つ。
河川の上流方向に向かっているために相対的に小さく見えるだけなのかもしれない。
「当たり前だけれど、旧ってことは、こちらが元祖軍司ダムってことになるね。竣工は確か千九百…五十九年だから…もうすぐ六十二年になるかな」
「そんなに長く使えるものなんすか?」
「コンクリートや鉄だとそう簡単ではないかもしれないね。ロックフィルだから基本材料が石とか土だし。壊れたとしても修復が簡単でしょう」
居石は黙って何度も頷いた。
「でもこのダムを設計施工した技術者の力っていうのもあると思う」
「確かに、実際に見ると本当に岩って感じっすけど、ただ積み上げたわけじゃないってことっすよね」
確かに、構造や特徴を知っていたり写真を見たことがあっても、実物から得られる情報が多いことがある。
「新しいほう、作ってるときって、水はどうなってんすか?ダムって洪水防ぐためにあるんすよね?」
ダムの基本的な役割は大雨の時に一時的に水を貯めて、雨が止んだら少しずつ流して普段の水量に戻すというものである。
「もちろんそれまでは旧軍司ダムには働いてもらわないといけないからね。新しいほうを作っている間は工事区間を迂回するようにして新しく河川を作った」
そう言って指さした先には旧軍司ダムから新軍司ダムの間に回り込むようにして掘り込まれている場所があった。それが迂回路ということなのだろう。
しかし、現在はほとんど水がないように見える。
「今、旧軍司ダムに貯水している水は少なくなっていてね。着工時に少しだけ水を抜いたんだよ」
「おお、そんなことするんすね」
「普段はあまりしないかな。念のためってことで」
居石は納得したようなしてないような表情だった。
ダムに近づくにつれて、一種異様な存在感を覚えた。
ダム自身が自分の最期を悟っているかのように袈裟丸には思えた。
旧軍司ダムの近くに来ると路肩に車を停めて三人で降りる。
草の匂いとも、水の溜まっている匂いとも言えない生臭い匂いが鼻に纏わりつく。
自然が生き物だと改めて認識した。
ダムを中心に周囲を見渡すと、ダムの手前の土手に一人の女性が立っているのが見えた。
「やっぱ土木構造物はいいなぁ」
「お前ダムの種類も知らなかっただろう」
「それは知識だろ。俺は知識だけじゃなく感覚で味わってんだよ」
言っていることはわらかなくはない。
そんな生産性のない会話をしている中でも、ダムを見ている女性のことが気になっていた。
シックで落ち着いた服装だった。ブラウスに長い丈のスカート、靴の形まではわからないが、これも落ち着いた色のパンプスだった。
黒髪が日の光でわずかに白く光っていたので、もしかしたら白髪が混じっているのかもしれない。
表情ははっきり確認できないが、たっぷり歳を重ねているようには見えなかった。
ただ、その佇まいに悲しげな陰が感じられた。
「あの人はね、さっき少し話したこのダムを造った技術者、金村長策さんの娘さんで美里さんだよ」
声を落として耳元で伝えられたことに違和感があった。
「そうなんすか。え?なんであんなところに立ってんすか?」
指を向けて言う居石に対して、ゆっくりとその指を下ろすようにしながら小林は言った。
「時折、ダムを見に来ているんだよ。散歩や買い物の途中に来るらしいけれどね。お父さんの…長策さんはこのダムが完成した直後に失踪してしまったらしくてね。どういう状況で失踪したのかっていうこともわからないらしいんだ。結果として警察も探せなかったらしい」
十分詳しいとは思うが、それほどこの地域では有名な光景、ということなのだろう。
「そりゃあ…しんどいなぁ。失踪ってことは生きてるか死んでるかもわからないってことっすよね?」
「確かに。そうか、まだどこかで生きている可能性もあるのか…あるのか?」
「失踪した当時、長策さんは四十歳、生きていないとは…言い切れない年齢だね」
「生きてて欲しいっすね。なんで消えたのかは知らないっすけど。あ、あの人のお母さんは?」
「ご存命だよ。十歳年下だったはずだから、今九十二歳かな。親子二人暮らしって聞いてる。さっき通ってきた水無瀬市に住んでる」
住んでいるところまで知れ渡っているくらい有名人なのだろう。
そう話していると、美里はダムに背を向けて土手を降りて行った。
「あのダムに父親を重ねているのかもしれないっすね」
珍しく居石が殊勝なことを言った。
「…あるいは憎しみ、かな」
そう呟いた小林の言葉は居石には届いていないようだった。
ダムが父親を奪った、そう考えて恨みをぶつけているように思える。
その気持ちは理解できなくはない。
美里にとってみれば、気持ちをぶつける相手がダムしかなかったのかもしれない。
「なんかダムの上って道になってるんすか?ガードレールが取りつけてあるんすけど」
のほほんとした居石の声で現実に戻る。
視線を移すと腰くらいの高さのガードレールが設置されている。
あまり意味のない高さだと思う。
「ああ、一応通れるようにはなってるからね。なんなら下にも降りられる。点検の目的でね。ほら、両脇に階段があるだろう?」
小林の示す方を見ると確かに階段があった。
ダム堤頂部の道から下に降りられるようになっている構造だった。
「今降りられるんすか?」
「いや、あの道は施錠されてるんだよ。勝手に人が入ったら危ないからね」
確かにこちら岸と反対側の岸に門がある。
「さて、そろそろ事務所に行こうか。寄り道は終わりだ」
三人は車へと戻った。
来た道を引き返しながら、袈裟丸は旧軍司ダムを振り返る。
このダムは役割を全うしたのだろうか。まだ働けるのではないか、と思う。
だが、使えるかどうかは関係ないのだろう。
現実問題としてこのダムでは地域住民の生活は守れない、
非情な判断なのかもしれないがそれが現実だということなのだろう。
先ほどの美里がどういった表情であのダムを見ていたのだろか、と袈裟丸は気になった。
車は新軍司ダムを通り抜け、土手から河川側に降りる道へと入る。
長く勾配が付いた道を降り切ると河床、本来河川が流れているはずの位置、に新軍司ダムの現場が設置されていた。
川幅が広く、大規模な空間に資材や銃器が置かれている。入り口近くには車が数台停車されていて、車種もミニバンにトラック、セダン型の乗用車もある。
仕事用の車両以外にも通勤に使っているであろう車も置かれているのだろうと想像する。
「ここは現場の事務所なんだけれどね。街の方に本部があるんだ」
車を停めると小林は言った。
「あ、じゃあ、実働部隊がいるってことっすね」
「まあそうだね」
車を降りると、二人の目前に新軍司ダムがじっと佇んでいた。
居石も、もちろん袈裟丸もその迫力に圧倒されていた。
まだ、足場が残っており、工事中であることが伺えるが、ほぼ躯体は完成している。
「なんか襲い掛かってきているように見えてくんな…」
少し声を震わせて居石が言った。
「縦方向にもアーチがかかっているからね」
二人の後ろで小林が言う。
つまり、横断方向には、居石が例えに出したように眼鏡橋を倒したようなアーチ構造になっており、縦断方向にもアーチがかかっているのだ。
襲い掛かってくるように感じたのはそのためなのだろう。
縦方向と横方向、二つのアーチが、その前に立つ人間を包み込むかのようにそびえたっている。
堤体に張り付くように備え付けられている足場で作業をしている人間が小さく見えることが、相対的にダムの迫力を増しているように思えた。
冷静にダムを観察すると、正面向かって左側のアーチ、その上部に凹んでいる部分があった。そこだけ欠けているように、その後ろの空が見える。
右のアーチと比べることでその理由が分かった。左側で凹んでいる部分にゲートが取り付けられている。
「まだ左の堤体には排水口がまだつけられてないんだ。途中なんだけれど君の装置を取り付けるくらいなら大丈夫だろうと判断した」
「はい…ありがとうございます」
袈裟丸は圧倒されたままだった。横の居石を見ると、肩幅に足を広げ、腕を組みじっとダムを見つめていた。
「おい…要?」
その眼差しは鋭く、鬼気迫るものを感じられた。
「居石君?どうした?」
小林も不安そうに見ている。
「尊い…なんて素晴らしいんだろうか…。すげぇなぁ」
袈裟丸は呆れ、小林は笑いをかみ殺していた。
「その気持ちは結構なことだけどな。こっちを不安にさせるのだけはやめてくれよ」
「構造物もそうだけどよ、働いている人たちもカッケぇよな」
「みんなにも伝えておくよ。喜ぶと思う」
「あ、小林さん、重ねて申し訳ないんですけれど、あいつの靴…」
事務所に向かう小林の背中に袈裟丸は伝える。
「ああ、そうだね。来客用の安全靴があったと思うから、探しておくよ。靴下持ってるかな?」
それは自分が貸します、と袈裟丸は言う。
小林の後についていこうとすると、まだ居石は動かないでダムを見ているのでアロハを引っ張って連れていく。
「もういいだろうよ。まだ尊がっているのか?」
「いや…なんか見たことあるなぁって」
「黒部ダムとか同じ構造だからそれだろ。有名だからお前も知ってるだろうし。行くぞ」
新軍司ダムの工事事務所、どちらかと言えば詰め所に近い建物は二階建てのプレハブだった。見晴らしの良い窓が並んでよく室内が見える。
屋根からは三つの旗が掲げられており、一つが鳥飼建設のものであることから、残り二つも建設会社のものであるとわかった。
新軍司ダム建設工事は三つの企業のジョイントベンチャー、共同企業体として進行している。
複数の建設企業が一つの建設工事を受注、施工することを目的とする事業組織のことである。
メリットは様々あるが、得意な技術分野を持つ企業が共同で一つの構造物を建設できる点で、工事の確実性を図れる。
新軍司ダムは鳥飼建設、秋地建設工業、アーバン建設の三つの建設会社のジョイントベンチャーである。
プレハブの一階はざっくりと半分で分かれており、片方にはPCが置かれた机が並び、数人の小豆色の作業着を着た人たちが座って作業をしていた。
もう片方には待合所なのか応接スペースなのか判断できない空間になっていた。
それなりの広さがあって奥にホワイトボードが置かれているので、会議スペースなのだろうと袈裟丸は考える。
三人は一階には立ち寄らず、プレハブの脇にある階段に向かった。
小林は階段のそばに置かれた下駄箱から革靴を取り出す。
「居石君、これ安全靴に使って。靴下は袈裟丸君が持っているらしいから、それで」
すんません、と居石は言った。
下駄箱の上の壁に木製の箱が取り付けられており、いくつもの鍵がかけられていた。さらに脇にはネームプレートがずらりとかけられている。白と赤に分けられているのは、今プレハブにいる人間の所在を示しているのだろうと推測した。
階段で二階にあがると、目前の扉を横にスライドさせる。
「お疲れ様です」
小林が入室するのと共に二人も入室する。
部屋の中は大きく二つの机の島で分かれていた。
奥の机の島には、小林と同じ紺色の作業着の人々、手前にはベージュの作業着の人々が座っていた。ポイントで黒が入っているところが凝っているところだろう。
そのもれなく全員が二人を二度見した。
アロハは作業着の中ではあまりにも目立つ。
部屋の脇を通って奥の机に三人は向かった。
男性の比率は多いものの、女性の技術者も多い。袈裟丸たちには普通の光景だが、自分の父、それぐらいの年代はどう考えているのだろうか。体格差以外に不安材料が見当たらないと思う。
「遅かったな」
がっしりとした体格の男性が話しかけてきた。
壁に掛けられていた時計は午後二時になろうとしていた。
寄り道しすぎたのかもしれない。
「万願寺さん、すみません、旧軍司の方をさらっと見てきました」
小林が万願寺と呼んだ男性は、浅黒い肌から想像できないくらいに白い歯を見せて笑った。
「そうか。学生さんだよな?万願寺です。よろしく」
袈裟丸と居石の方を見て言った。
「R大の袈裟丸です」
「居石っす。よろしくお願いします」
居石の声に、万願寺は満足そうな表情をした。
短く刈り込んだ髪は、ヘルメット着用時に邪魔にならないためだろうか。
筋肉質ではあるが、顔の皺などから古参の技術者、といった印象を受ける。
「いいねぇ。土木っぽい奴がきたな。なあ?」
万願寺は後ろを振り向いて言った。
「万願寺さん。いつも土木っぽいって言いますけど、どんなところ見てるんですか?」
万願寺の視線の先にいた髪を束ねた女性が甘ったるい声で答えた。
「鴻上、お前みたいなやつはまず違うな」
鴻上と呼ばれた女性は首を傾げて苦笑する。
「万願寺さん、所長は?」
「本店の方に行ってるな」
「今日は…行く予定ありましたっけ?」
一瞬万願寺が目を吊り上げ、口をへの字にした。すぐにうんざりといった表情で小林を見返す。
「ああ、またですか…。意味ないのにな」
小林も同じ表情になる。
「出直したほうがいいっすか?」
良く通る声で居石が言う。
「ああ、いやいや」
万願寺が力なく手を振る。
「万願寺さん、面白い子だね」
四人が声のする方を向く。
入り口側の机の島から一人のベージュの作業着の男性がにこやかに歩いてきた。
「東平さんところでどう?」
東平と呼ばれた男性は白髪交じりの髪を七三に分けていた。万願寺とは違い、線が細い。
「ぜひ欲しいね。秋地建設工業の東平です」
律儀に二人に頭を下げながら名刺入れから名刺を取り出して二人に手渡す。
そこには東平実朝と書いてあり、頭に技術部長と書いてあった。
二人も挨拶を済ませる。
「今日二人は?」
東平は小林に視線を送る。
「彼、袈裟丸君が開発した試作機の実地試験です」
「ああ、なんか報告があったね。うん。いい結果がでるといいですね」
じゃあ、と言って自分の机に戻っていった。
常にトーンが一定だが、不思議と違和感がない。
「所長は帰ってきてからでいいんじゃないか?なあ?」
最後の、なあ、は語尾が上がっていた。
「まあそうですね。連絡くれますか?」
わかった、と万願寺は言う。
「これから作業か?」
「そうですね。このまま始めようかなと」
「まず、お前はだめだな」
居石を指して言う。
「え?」
居石が声を上げる。
「当たり前だろうよ。その格好だし」
「作業着貸し出そうと思っていたんですけれど…」
「今ブルゾンしかないだろ」
え、と言いながら小林が言った。
「どうするかな…」
「あ、自分一人で…」
袈裟丸は申し訳なくなり、そう提案した。作業の内容としては試作機を取り付けるだけなのでそこまで人手はいらない。人数が多ければ早く終わるというだけである。現場を貸し出してくれるので、作業時間は早いほうが良いと考えたからだった。
「いやいや、じゃあ…俺が手伝うよ。もともと君らの作業管理する予定だったからね」
「そう…ですか。じゃあお願いします。すみません」
「すんません」
袈裟丸も居石も頭を下げた。流石に居石も申し訳なくなったようだった。
ヘルメットつけておけよ、という万願寺の指示通り、小林は脇のキャビネットからヘルメットを三つ取り出した。二つはデザインがシンプルな青のヘルメットだったが、一つは白い鳥飼建設のロゴが入ったヘルメットだった。
そのヘルメットにはミニライトが取り付けられており、サイドに小林の名前とA型という血液型が書かれてシールが貼られている。
事故があった際の最低限の情報が書かれたシールだった。
部屋の入り口に向かって三人は戻る。秋地建設工業の職員が座る机の横を通ろうとしたとき、袈裟丸は職員の一人がこちらに視線を向けているのが目に入った。
目線を合わさないように通り過ぎる。
東平ではなく、眼鏡をかけた少しぽっちゃりとした男性だった。
作業着のブルゾンの前を開けて、チェックのシャツが見えている。
通り過ぎる三人を睨みつけるような表情だった。
事務所から階段を降りる。
これだけ人がいれば外部の人間が来ることを快くは思わない人間もいるだろう、と袈裟丸は思う。こちらもいい気はしないが、それは自分でどうにかできる問題ではない。
袈裟丸は小林の車の中からトランクを取り出して、中から試作機を取り出した。
「数が多いね。これに乗せて運ぼう」
小林は青いボックスを乗せた台車を持ってきた。
袈裟丸は居石と共に九つ分の試作機のタッパをボックスの中に入れた。
設置作業を手伝えない分、居石はできるだけの作業を行った。
「俺どうしたらいいっすかね?」
居石がヘルメット越しに頭を掻きながら言った。
「そうだな…まあ離れて見ててくれ、としか言えないね」
まあそうっすよね、と居石は言った。
その横を小豆色の作業着を着た人々が通り過ぎる。ダムの方を見ると、ほぼ人がいない。
消去法で、小豆色の作業着が残りの一社、アーバン建設の作業着ということになる。
袈裟丸たちの作業に合わせて引き揚げてくれたのかもしれない。
「確かにここで事故起こしちゃったらまずいからなぁ」
「ここの現場では事故は起こらないよ」
小林は当たり前かのように、さらっと言った。
「え?事故は起こらないって言いました?どういう事っすか?」
袈裟丸も言い回しが気になった。
「事故は…無いほうがいいのはわかりますけど…気をつけても起こってしまうことはあるんじゃないですか?不謹慎かもしれないですけど、大事故にならなくても、小さい事故なら確率は高くなると思うんですけれど…」
「うん、ハリンリッヒの法則って知っているかな?袈裟丸君は知ってそうだね」
「全く聞いたことないっす。耳が初めて聞く響きっすね」
袈裟丸はその法則に聞き覚えがあった。講義などでは単語のみ出てきたものだったので、まともに聞いていない居石は知る由もない。
小林は居石に対して、ハインリッヒの法則を簡単に説明し始めた。
「いわゆる労働災害に対する経験則ってやつだね。一つの重大な事故の背後に二十九のちょっとした事故があって、さらにその下に三百の事故にならない異常、ヒヤリハットっていうやつね、それが存在するっていうやつ」
居石は真剣に聞いていた。
保険会社に勤めていたハインリッヒが、それまでの数多くのデータを分析した結果導き出した法則である。経験則、という小林の説明通り、定量化できるものではない。
「その法則はわかったんすけど、それが何なんすか?」
「この業界に伝わる都市伝説のようなものなんだけれどね、その法則を感じ取れる、見ることができる、の方が正しいのかな…まあそんなとんでもない技術者がいるっていう話があるんだよ」
法則を感じ取れる、というおかしな表現には袈裟丸も首を傾げたが、なんとなく言いたいことはわかってきた。
「つまり…大事故につながるような異常、ヒヤリハットがわかるってことなんですか?」
「そうそう。そういうこと」
小林はヘルメットを少し上げる。
「そんな…でたらめな人間がいたら…すげーな」
居石の語彙力では感想が伝えられないのだろう。
それは袈裟丸も同じことだった。
「でも現実にはあり得ない…とは言い切れないですね」
「そうなんだよ。俺らだって結果として、あぶなかったなぁ、って思うことは過去に経験したことがある。あの時こうしてなかったら、今ごろやばかったなってね」
小林は腕を組んだ。
「でもその人が突出しているのは、百パーセントってことなんだよ。彼が強く指摘することは些細なことであっても大事故につながる。さらに普通じゃないのは、自分が作業している範囲だけ、ってわけじゃないんだ。その現場全体の大事故につながる異常を指摘する」
そこまで行くと超能力者だと感じる。
「漫画みたいな人っすね」
それには同意する。
「で、その人がこの現場にいるんすね。どの男の人っすか?」
「要、なんで男の人だってわかるんだよ。鴻上さんみたいに女性の技術者だっていただろう?」
「は?小林さん、彼、って言ってただろ?」
確かにそうだった。時折鋭い指摘をする。
「まあ、あの人なんだけれどね。ただあまり公にしてないんだ」
小林は、引き揚げてきた小豆色の作業着の人々の一人、資材置き場の隣にある休憩スペースで喫煙している胡麻塩頭の男の方を見た。
「なんでっすか?そんな力、格好良いじゃないっすか?」
小林は静かにうなずく。
「確かにね。でも誰もがその人に頼ってしまうし、当人たちがそれを望んでいないということもある。静かにしていたいんだ。もちろん仕事の範疇でその能力を発揮することはしてくれるけれどね」
きっとそんな出鱈目な力を持った人間がいることを信じていない人間もいるだろうし、そもそも現場で働いているのならば、そうした事故を起こさないように作業するのが当たり前である。
そうした意味でも、頼ってくれるな、と考えているのかもしれない。
「当人たち、って言ってた気がするんすけど、何人もいるんすか?」
居石は詰めるように小林に言う。
「これもまた都市伝説の範疇だけどね。複数人いると言われている。あの万願寺さんは別の一人に過去あったことがあるらしい。まあそんな力の方が信憑性としては低いのに現実にいるからな。他にいてもおかしくない」
そんなもんすか、と居石は言って、煙を吐き出している能力者に視線を送る。
「よし、じゃあやっちゃおうか」
小林と袈裟丸はダムの方へと向かった。その背中に、達者でな、と居石は手を振った。
小林と袈裟丸を見送った居石は、その背中が小さくなるのを確認すると、ゆっくりと
休憩スペースへと向かう。
「ちはっす」
何食わぬ顔で胡麻塩頭の男性の横のパイプ椅子に腰を下ろした。
休憩スペース、といっても喫煙所だが、にはパイプ椅子が四脚ほど灰皿を取り囲むように置かれている。
胡麻塩頭の男性は軽く会釈をする。
眉間に皺を寄せてゆっくりと居石の下から上まで見た。
「一本貰っていいっすか?」
にこやかに、そして図々しく居石は頼み込む。
男性は作業着のポケットから煙草を取り出すと、一本差し出した。
あざっす、といって居石は一本引き出す。
自然な動作でライターを灰皿にポンと置く。
「あ、火、つけてくれないんすね」
「男につけられても嬉しくないやろ。それにそんな人間だと思われるから、お前も今後やめときや」
居石は頷くと、ライターで火をつけ、一吸いする。
自己紹介をした居石に胡麻塩頭は、広井や、とだけ言った。
「随分けったいな恰好やな」
「あ、すんません。青春を謳歌させてもらってますんで。その結果、今日の仕事できなくなったんすよ」
へへ、と笑う居石を広井は一瞥する。
「そんなん、あかんがな。仕事はしっかりせんと」
「そうっすよね」
灰皿に灰を落とすと、居石は切り出した。
「広井さんって…とんでもない能力持ってるんすよね?」
広井は噴き出して笑った。くしゃっとした顔に皺が刻まれる。
見た目は四十代だが、笑うともっと年齢が上に見える。
「お前度胸あんな。誰もそんなこと聞いてこんぞ」
灰を落としながら広井は言った。
「なんとなくは知っとるんやろ?」
居石が頷くのを確認すると、煙草をもみ消して座りなおす。
「ならワシが話すことはないわ」
「俺が聞きたいことがあるんすよ」
じろっと睨むように居石を見ると、煙草をもう一本取りだして火をつける。
居石は肯定の意思と理解する。
「それ、いつから身につけたんすか?」
「知らん。気が付いたらそうやった」
「仕事し始めてってこと?」
「まあ、そうやな」
「それってどういう…感じなんすか?見えるんすか?」
うーん、と灰を落とす。
「なんか危ないなぁって感覚でわかるんよね。それはいくら言われても説明できん。わかってしまうんやからな」
例えばな、と広井は続ける。
「昔やけど、床板のコンクリを敷くっていう作業があったときな、もうミキサ車も到着しとって、ポンプで三十メートルくらいかな、その高さまでコンクリ送って作業を開始しようとした直前に、型枠の中調べなあかん、って感じたんよ」
ほう、と居石が漏らす。
「まあ、暗黙の了解でワシの言う事は一応受け入れるような感じやったからな。くまなく調べ取ったら、何が出てきたと思う?」
「さあ?」
「ちったぁ考えてもいいやろ。まあええわ。アイスの棒や。それが鉄筋の隙間から見つかった」
居石は、ふーん、という表情だった。
「お前、土木の学生やろ。コンクリートは糖分が入っとると固まらんのよ」
「へー」
広井は呆れた表情だったが、すぐに元に戻る。
「昼休憩後やったからな。誰かがそこで食べたんやろ。結構昔やし、今はそんなことないと思うけどな。まあそんな感じや」
「なるほど…よくわかったっす」
「わかってへんやろ。俺でもよくわからんのに」
「逆にその力でわからないことってあるんすか?」
「何が逆かわからんけれど…そうやな。今までの経験やと、わざと失敗させようとしたことはわからんな」
「つまり…わざと失敗させようとしたことは察知できない、と」
「おんなじこと言ってどうするよ」
「っつーか、そんなことする奴いるんすか?」
「まあ…世の中いろいろあるんよ。常日頃あるわけやない」
居石は腕を組んで唸った。
「あとは…そうやな…人を殺そうとして事故を起こした場合もわからんかったな。まあおんなじことかもしれんがな」
物騒なセリフが出てきたことで、居石の姿勢がよくなる。
「そんなことも…過去に?」
広井は答えず、煙草の煙を吐き出した。
その佇まいに居石も妙な緊張感を覚えていた。
「あの…さっき力持ってる人たちって、あまり目立ちたくないみたいなこと聞いたんすけど…なんで俺には話してくれたんすか?」
広井に話しかけた時とは違う、何か畏怖めいた感情が居石の頭にあった。
「さあ…なんでかな。口が滑ったんと違うか?」
「そんな…」
広井は煙草をもみ消して立ち上がる。
パイプ椅子に掛けられていたヘルメットをヒョイと持ち上げる。
「こんな現場にそんな恰好で来る奴にまともな奴おらん。俺もまともじゃない。まあ親近感やないか?」
広井は胸ポケットから煙草の入った箱とライターを居石に投げる。
「え?これ…」
かろうじて、受け取った居石が尋ねるが、広井は黙って工事事務所の一階、アーバン建設の事務所に入っていった。
「袈裟丸君のメールに送った通り、こんな感じで鉄板を張り付けておいたよ」
小林が言う通り、新軍司ダムの左ウィング、その下部の一角に鉄板が張り付けられてあった。鉄板は等間隔で袈裟丸の目線の高さに、ウィングの端から端まで九つ並んでいる。
「ありがとうございます」
袈裟丸は青いボックスから試作機を取り出しながら例を言う。
鉄板は三十センチ四方で、試作機の入ったタッパより二回りほど大きく切断されている。薄い鉄板なのでダムの壁に隙間なく張り付けられていた。
この鉄板に試作機を張り付ける形になる。
本来であれば直接ダムに取り付けられれば良い。小林にもその方法を提案されたが、試作機であること、完成したばかりのダムに傷をつけることが申し訳なく、この手法にしてもらった。性能的にも問題ない。
足場が立て付けてあったが作業には問題なかった。
タッパを開けて装置のスイッチを入れ、鉄板にシリコン系の接着剤で張り付けていく。
小林は時折手伝ってくれたが、基本的には袈裟丸が作業を行った。
「居石も言ってましたけれど…近づくと余計に圧がすごいですね」
上を見上げて言った。居石が感じたことも、よくわかる。
縦方向のアーチが、より一層ダムに襲われているような感覚にさせる。
「迫力はあるよね」
小林の表情は嬉しそうだった。
「そういえば所長さんにご挨拶できてないですね。忙しいんですかね。何時ごろに戻られるのでしょうか?」
振り向いて小林に尋ねる。にこやかな表情が一瞬で曇る。
「そう…だね。まだかかりそうかな」
袈裟丸は事務所でのやりとりを思いだす。
「なんか…事務所で、またかって言ってたと思うんですけど」
そこまで聞いてよいものかとも思ったが、万願寺と小林の表情が気になっていた。
小林は一瞬迷ったような表情をした。
「あまり部外者に話すことではないっていうこともってあるんだけれど…」
そういうと小林は苦笑する。
「このダムに建設反対派っていうのがいるんだよ」
「反対派?でも…ほぼ完成してますよね?」
「まあ、そうなんだけれどね」
反対派ということは、地域住民ということだろうと思う。
「計画段階から、かなり反対されたんだよ。旧軍司ダムの向こうに住んでいる人たちなんだけれどね。愛着があるんだってさ」
つまり、河川を挟んで反対側、ということだろう。
「でも結局…」
「そう。強行して着工に踏み切った…と言ったら強引だけれど、大半の住民が納得していたからね。その人たちに説得される形で…特にさっきの美里さんとお母さんの力が強かった」
あの女性に反対派を抑え込むくらいの説得力があるのだろうか、と袈裟丸は思った。
旧軍司ダムの建設関係者、というだけである。
反対派の主張としては、小林は説明をしなかったが、旧軍司ダムが水没されることに反対している、ということなのだろう。
「まあ、そんなこんなで未だに反対派から呼び出しがあるんだよ」
「え?なんの意味があるんですか?」
小林は真顔で力ない表情だった。
「ただのやっかみだろうな。嫌がらせって言っても過言じゃない」
袈裟丸までうんざりする気持ちになる。
「じゃあ、所長はその対応に?」
そういうこと、と小林は腕を組む。
そんな話をしながらも作業は進み、最後の試作機を取り付ける。
「よし、これで最後だね」
「はい。ちょっと待ってください…」
袈裟丸はボックスのそばに置いてあった鞄からノートPCを取り出す。一緒に取り出したポケットWiFiも起動させて同期させる。
画面にはプログラミングした管理ソフトの映像が映し出されている。
「これは自分で?」
「あ、はい。簡単にですけど。上手くいったらもっと凝ったものにしますけど」
「…いや、十分凝ってる気がするけど…」
袈裟丸は四分割された画面の左上を確認する。
ダムを上から見たような概略図に等間隔に赤の点が映し出されている。
それを確認した袈裟丸は右の数値にも目を通す。
いくつか確認した後、試作機をリセットした。これで現時点の数値が反映される。
「はい。大丈夫です。ちゃんと起動してます」
「とりあえず第一段階、ってところかな?」
「そうですね」
「本来なら、もっと上の方でやってあげたかったんだけれどね」
「変位としては上の方が大きいですからね」
「見ての通り、排水口がまだ施工途中だし、何より設置が危ないからね」
小林の言う事ももっともだった。
「おお、やってるね」
袈裟丸が振り向くとヘルメットに紺の作業着の男性が手を挙げながらこちらに向かってきた。耳元から見える白髪が年齢の感じさせる。
「所長、お疲れ様です」
所長という言葉で袈裟丸もわずかに緊張した。
「本当に疲れたよ。だが、まあ俺が付き合ってやって溜飲が下がるのであればいくらでも時間取ってやるさ」
柔和な口とは裏腹に、小林を見る視線は鋭い。
「袈裟丸君、で良かったかな?現場で責任者をやらせてもらっている鳥飼建設の本田です」
突然話しかけられて、袈裟丸は変な声を上げてしまった。
「は、はい、そうです。今回はありがとうございます」
「いやいや、R大には、小林のような出来の良い学生を送ってもらっているからね。そちらの研究活動の手伝いくらいお安いものだよ。ま、協力できる範囲でってことだがね」
「はい、大変感謝しています」
本田は袈裟丸の横に並ぶと、試作機を眺める。
「これは…ほう。どう言う仕組みだい?」
袈裟丸は簡単に説明する。
「なるほどね、GPSを使って…バッテリはどれくらい持つの?」
「一応信号を送ったときにだけ起動するような設計ですが…それも今回の実験でデータが取れればって考えています」
「良いですね。もし実用化に至ったら、うちでも使わせてもらうよ。その時は安くしてね」
おどけるように本田は言うと、乾いた声で笑う。
「もう一人、手伝いに学生さん来ているんじゃないのか?君の後輩が」
「ええ。ですがちょっと服装が作業に適してなかったので…作業は私が手伝いました」
「服装?まあ確かにそうだが…多少は」
配慮しても良いだろうと、本田は言った。
「でも…あれですよ?」
小林が示す方向に、喫煙所で広井と会話している居石がいた。
「ああ…あれはダメだな」
「ここに来るときにすれ違いませんでしたか?」
駐車場からダムの間に喫煙所がある。
そこで目にしていないのか、という小林の疑問だった。
「そういわれてみれば…奇抜すぎて目に入ってなかったのかもしれんな」
ただ真面目に本田は答えた。
あの格好の居石を見て気が付かなかった、というのは初めての反応だった。
「それはそうと、ダムの方はみてもらったのか?」
本田は詰めるように小林に尋ねる。
「それはまだです」
「せっかくだから見てもらおう。もう中には入れるだろう?」
「そうですね…では」
小林が居石の方を呼ぼうとすると、それを遮るように本田が制する。
「彼はやめておこう。怪我でもしてもらったらこっちが迷惑だ」
辛辣な言い方だが間違いではない。貸してもらっている側としてもそれは避けたい。
「安全帯だけつけてもらってくれ。じゃあ」
そういうと本田は事務所へと戻っていった。
「なんか緊張感のある方ですね」
十分離れたことを確認してから袈裟丸は言う。
「強い言葉を使っているわけじゃないんだけれどね。得体のしれない圧みたいなものがあるんだよ」
「疲れているのかもしれませんね」
袈裟丸は好意的に受け取ることにした。
小林は袈裟丸を連れて右側のウィングに向かう。左右のウィングが交わる部分は、両岸とウィングが交わる部分よりわずかに前にせり出してある。M字の中央が下方向に少し伸びているイメージだった。
右ウィング側の側面に、仮設の階段があり、上部へと上がることができる。階段はそのまま上部へと通じているが、ウィングの方へ伸びる足場へもつながっていた。
左ウィング側にも階段はあるのだが、そちら側の排水口の施工のため、ダム背面に設置されているそうで右側ウィングから上がるしかない、ということだった。
百メートルあるダムへ階段で上がることは容易ではない。
まさか、と思っていると階段の奥にエレベータが併設されていた。
極めて簡素なものである。
「これで上がろう。あ、安全帯持ってくるからちょっと待ってて」
小林はそういうと事務所へと引き返して言った。
五分ほど待機する。小走りで小林が戻ってきた。
「これ、着てくれるかな。あ、居石君はリラックスした姿勢で煙草吸ってたよ」
真顔の報告に申し訳なくなる。
「煙草…あいつ持ってたかな…」
「着方わかる?」
小林に手伝ってもらいながら安全帯を着用する。
安全帯にも種類はあるが、袈裟丸のものはベルト状になっており、腰の部分にカラビナの親分みたいなフックが付いているものである。
普段は縮んでいるが、フックを持って引っ張れば伸びるようになっている。
小林のものはフルハーネスと呼ばれるタイプで腰と上半身がベルトでつながっているような構成になっている。
小林は一人でそれを取り付けると、袈裟丸の安全帯を確認してくれた。
命がかかっているものなので、入念に確認された。
「よし、じゃあ行こう」
二人はエレベータに乗り込み上昇する。
決して心地よいとは言えないが上昇するという目的だけに特化しているとも言える。
ビルやマンションにあるようなエレベータとは違い、ゴンドラに乗っているのと変わらない。
三分ほどでダムの頭頂部まで上がる。エレベータから降りると風が強く感じる。
「とはいっても、自由にはさすがに動き回れないから、安全帯のフックの範囲までね」
小林の言葉に頷く。袈裟丸は高いところが苦手ではなかったが、この高さではさすがに足が竦む。
小林に促されて脇のアンカに安全帯のフックをかける。
アンカはダム堤体のコンクリートに埋め込まれているので抜けることはない。
作業員は通路脇の鉄製のパイプにアンカを取り付けてそれを付け替えながら作業することになるのだろう。流石にそこまで見学することはない。
だが、これが命綱となるのは、安全帯の目的を考えればありえないことだが、いささか不安である。
「大丈夫?」
小林が自分のフックをアンカに取り付けてながら言った。小林の安全帯にはフックが二つあり、左右の腰に位置している。その片方だけを取り付けていた。
袈裟丸に合わせているのかもしれない。
「はい、少し足が竦みますね」
なぜだか強がって笑う。
居石なら地上と変わらないだろうと想像する。逆に危ないともいえるが。
「左は資材とか道幅が狭いから右を見よう」
小林が左ウィングの方を見る。
袈裟丸も確認すると、堤体頭頂部の通路に単管パイプや段ボール、蛇のとぐろのように何重にも巻かれたワイヤロープが散乱していた。
確かに見学するには危ないだろう。
右側ウィングは奥の方に少し資材が置かれているものの、通路は広く、見学するには申し分ない。
袈裟丸に合わせてゆっくりと小林は歩を進める。
突然、眩い光が袈裟丸の顔を照らす。
「うわっ」
情けない声を上げてしまった。見ると旧軍司ダムの方の欄干にライトが取り付けられており、煌々と輝いている。
「ああ、すまない。説明してなかったね。これ人感センサでライトが点灯するようになっているんだ」
「夜間用、ってことですか?」
「そうそう。後で消しておくから、とりあえず見学しようか」
二メートルも進むと安全帯のワイヤが伸びきった状態になる。
そこから欄干に手をかけて目前に広がる風景を眺める。
「絶景ですね」
「まあ醍醐味、とも言えるね。実際に作業しているときは楽しむ余裕はないけどね」
それはそうだろうなと袈裟丸は思う。
「この通路は観光客とかが通るんですか?」
黒部ダムなどは堤体の上を歩くことができて観光スポットにもなっている。
「いや、黒四みたいないいもんじゃないよ。ここは点検のための通路さ」
「保守点検専門、ってことですね」
視線を風景に向ける。
そのほとんどは森である。
視界の左端には微かに街並みが見える。途中に通ってきた水無瀬の街だろう。
今日はあの街の旅館に宿泊予定である。
ダムの後方に視線を向ける。
普段は見ることができない河床は苔の生えた石がところどころ並び、その間から土がのぞいている。
その先に旧軍司ダムが見えた。規模としても新軍司ダムより小さいので、この上から見るその姿はかなり小さく見える。
「ほら、あそこに居石君がいるよ」
小林に言われて前方に視線を戻す。視線のほぼ真下に居石の姿が見えた。
「あの格好は目立ちますね」
緑や土、石がメインの色合いの中に、極彩色の居石がいる。
熱帯地方の鳥のように見えた。
「叫んだらわかるかな…」
「風が強いし無理だろうね。それに聞こえるくらい大声出したらそれだけで大問題だよ」
確かに不測の事態が起きたのかもしれない、と事務所から大勢の人間が出てくるだろう。
「声かけないで良かったです」
「じっと見ていたら気が付くかもな」
そう言われて三十秒ほど居石の姿を見続ける。
その時居石がふとこちらに顔を向けた。
下から大声で叫ぶかと思ったが、大きく手を振るだけだった。
口元に煙草があることから叫んだりはしていないとわかる。
「よく気が付いたな…野生の勘?」
「あいつなら身に付けてそうですね。とりあえず叫ばなくて良かったですよ。分別がな奴なんで」
「随分な言い方するんだね」
「それくらい過去に色々あったんです」
袈裟丸のうんざりとした表情から、小林は色々察してくれたようだった。
「気になるけれどまた今度聞くわ。さて降りようか」
はい、と言って袈裟丸は恐る恐るエレベータの方へと向かった。
「いいなぁ、お前だけダムに行けてさぁ」
事務所に戻ってくるなり、居石は愚痴る。
小林が宿まで送ってくれる、という事なので、ありがたく甘えることになった。
というより、送ってもらわなければ帰れない。
時刻は午後四時を回っている。
空がゆっくりと青から橙へと変わり、そのコントラストが綺麗に映し出される。
少し事務所で済ませることがある、と言って小林は事務所へと戻っていった。
そのため、居石と喫煙所で待つことになった。
袈裟丸は喫煙しないが、居石といるときはこうした場面になることが極めて稀にある。室内の喫煙所はさすがに遠慮するが、こうした現場は解放されているので、まだいることができる。
居石自身は最近、ほとんど煙草を吸わない。
かつてはヘビースモーカだったらしいが、飽きた、という理由である日突然辞めた。
「煙草また始めたの?」
「いや、違う。貰ったんだよ」
誰にか聞こうとすると、事務所から二人出てきた。
一階からなのでアーバン建設の社員ということになる。
一人は細身で眼鏡をかけており、艶やかな髪は自然な分け目でまとめられている。
鼻が大きいことが特徴的だった。
片方は細身の男性より一回り大きく、それだけでは威圧感があるが、目がくりっとして顔が幼かった。髪は全体的に短く、田舎の少年、というのが袈裟丸の印象だった。
「さっきからいたよな?鳥飼に来るって言ってた学生?」
細身の方が居石にぶっきらぼうに尋ねる。居石の答えを聞く前に煙草を口に咥える。
居石は座ってたパイプ椅子を立って頭を下げる。
「あ、そうっす。R大の居石です」
居石に続いて、袈裟丸も自己紹介をする。
細身の男は、ふーん、とだけ言った。
「あ、学生さんなんだ。今日はなんで来たの?」
大柄な男がにこやかに尋ねる。胸にネームプレートがあり、それを見ると伊達、とあった。細身の男の方は岡部、と書いてある。
「研究活動の一環で…」
「へー、共同研究ってやつ?」
岡部が灰を落としながらパイプ椅子に座る。居石ぐらい態度悪く座った。
「まあ、そうですね。現場を提供して頂いたっていう形で…」
「で、お前は?」
火のついた煙草で居石を指す。
意表をついてしまったのか居石は、え、とだけ言った。
「こいつのツレだろ?さっきからここで煙草吸ってるとこだけしか見てねぇんだけど?」
確かにそれは間違いじゃない。
「そうっすね。手伝いで来たんすけど、格好がダメってことで…」
「そりゃそうだろ。そんなのわかんねぇの?学部は?」
「…土木っすね…」
居石が苛立っているのは誰が見ても理解できるだろう。
「まあまあ、いいじゃないの。ごめんよ。こいつこういう奴だからさ」
伊達が穏やかな声で割って入る。
「ジョーシキだろうが。ったく…」
煙草の煙に目を細めながら岡部は言う。
怒りより呆れた、という感情が大部分を占めているように感じた。
階段の音がしてそちらに視線を向ける。
小林であってほしかったが、降りてきたのは年配の男性だった。
袈裟丸の視線に気が付き、岡部がそちらを横目で見る。
「狸親父か、また重箱の隅つつきに行ったか」
ぼそぼそとした声で言っているが、しっかり袈裟丸には聞き取れた。
「狸親父?」
逆に大声で居石が反芻する。
反射的に岡部が足で居石の脛を蹴る。
軽く蹴っているのだろうが、もれなく安全靴である。
居石は悶絶している。
狸親父と称された男性がこちらを振り向く。その表情は呆れている。それが狸親父という呼称にばっちりだったので袈裟丸は表情に困った。
「荒巻さん、お疲れ様です。いつも申し訳ないです」
伊達が声をかける。荒巻はそれに答えずに再び歩き出す。
「荒巻さん、毎日ちゃんと点検していてありがたいねぇ」
伊達は顔に皺を作って笑った。
「ああ?当てつけだろ。お前らがしっかり点検できてねぇぞって言ってんだよ。面と向かって言えよなぁ?」
言えよなぁ、は袈裟丸に向かって言った。袈裟丸は、はあ、としか言えない。
「でも…岡ちゃんだって…」
「お前それ以上口開くな」
伊達の発言を途中で遮った岡部は苦々しい表情をした。
袈裟丸にはその理由はわからなかった。
「お待たせ」
小林が戻ってくる。
その姿を確認すると、岡部は煙草を揉み消し、伊達は黙って喫煙所を立ち去った。
「お疲れ様です。では失礼しますね」
伊達は丁寧に小林に挨拶すると、岡部の後を追う。
「嫌な奴」
居石は岡部の背中を睨みつつ言った。
岡部と伊達が事務所に入っていっても睨んだままだった。
「おい、やめておけって」
居石の気持ちもわからないではないが、成人した大人としてはあからさまな態度はよろしくない。
「何?揉めたの?」
心配そうな表情を浮かべて、居石と袈裟丸を交互に見る。
「いや…なんといか…」
「あのデカ鼻が突っかかってきたんすよ」
相変わらず通る声が、語気が強いせいで迫力が違う。
「デカ…ああ岡部さんか…」
合点がいった、という表情で小林は頷く。
とりあえず、と言って小林は車へと促す。
「岡部さんは、性格が荒いんだよな」
シートベルトを締めた小林は漏らすように言った。
「荒いなんてもんじゃないでしょ」
居石は依然として口調が荒い。
二十二にもなって成人にはまだほど遠いようである。
「悪い人ではないからさ」
小林はそういうと車を発進させる。
「なんの話を?」
「俺の格好にごちゃごちゃ文句言われて…なんか狸親父へ嫌味を」
「ああ、荒巻さんか」
「点検してるのが当てつけとか言ってたっすね」
「荒巻さんはね。神経質が過ぎる、というか…。まあ心配性なんだね。一日の作業が終わったら毎日点検してるんだよ」
岡部と違って、穏やかな言い方だが、内容は変わりなかった。
「毎日してるんすか?」
「そう。夜勤とかあるときは別だけどね。全員帰るまで残って、最後に現場を点検して帰るよ」
そこまでいけば立派なものではないだろうか。
居石は脛をさすりながら、いってぇ、と呟く。岡部に蹴られたところだ。
「どうしたの?」
居石は一部始終を伝える。
「なんなんすか?あの人」
「うーん、アーバン建設さんはね、どちらかと言えば実行部隊でね。実際の作業を担っているんだよね」
一つの建設会社が担当するのはなかなか稀なケースだろう。
「その中でも岡部さんは作業員の方々をまとめるリーダでね。それなりに苦労が多いんだよ」
だからと言ってあんな態度が許されるわけではない。
それにどちらかと言えば、そういう性格だと言われた方が納得できる。
「一緒にいた、伊達さんは、岡部さんより年上でね。でも穏やかな性格で岡部さんのバックアップに徹しているんだ。良いコンビだよ」
確かに岡部と比較すれば、穏やかな性格である。
「本人曰く、だけど腕っぷしは伊達さんが強いらしいよ」
岡部を制御している、と言う形なのだろうか。
「なんか放置してるみたいに思ったんすけどね」
そう思えなくもない。
「じゃあ、広井のおっちゃんも岡部の下ってことっすか?」
「そうなるね。でも…」
小林はハンドルを切る。
「岡部さんは広井さんにはあまり関わりたくないみたいだね」
「なんでっすか?」
それはわからないな、と小林は言った。
「そういや、電気工作の方はうまく設置できたのかよ」
「夏休みの工作みたいに言うなよ」
「それに毛の生えたようなもんだろうよ」
強く否定できる理由もない。
「うまくいったよ。全く、お前がそんな恰好でくるから…」
「それ自分に言ってるようなもんだからな」
強く否定できる理由がない。自分がちゃんと確認すれば、居石を手伝わせることは可能だったのだ。しかし、それを直球で言われると何も言い返せない。
「二人とも泊まるところはどこなの?いくつかホテルがあるんだけど…」
袈裟丸はスマートフォンを取り出して予約した旅館の情報を出す。
「えっと…静水館ってところなんですが」
そこまで宿泊施設が多い街ではないが、その中で一番安い旅館だった。使える研究費は決められている。その金額の中でいかに安く済ませるか、というのは必須事項である。
「ああ…そこなのか…まあ安いからね」
歯切れの悪い返答をする。
「え?なんかあるんすか?幽霊がでる旅館とか?」
「ああ、いやいやそうじゃないよ」
小林はヘッドライトのスイッチを入れる。暗くなってきた道が明るく照らされる。
「さっき言った、ダム建設反対派、その代表者が支配人の旅館なんだよ」
小林が運転する車が加速する。その音だけが車内に響く。
小林の車は静水館の手前で停車した。
袈裟丸たち二人の荷物を下ろすと、また明日、駅まで送ると告げて走り去っていった。
「冷えてきたな。早くチェックインしようぜ」
一年中アロハの同期は、いくら寒くてもこのファッションを崩さない。かといってやせ我慢しているわけではないので、本当に寒くないのだろうと袈裟丸は思う。
小学生の時、冬でも半袖半ズボンで過ごす同級生を思い出した。
「まさか、反対派の人が経営してる旅館だったとは思わなかった」
「そりゃそうだろ。そんなの予約の時点でわかんねぇだろうよ。うちはダム建設反対派ですよ、なんて予約サイトに書くか?源泉かけ流しの温泉に山の幸の夕食、そしてダム建設反対なんです、なんて。知らねぇよの一言で済む」
「そりゃそうだけどさ…小林さんに気遣わせてしまったなって…」
居石はボストンバックを肩にかけなおす。
「そんなのこっちが知ったこっちゃねぇだろ?」
確かにその通りだ。ダムに建設反対とか賛成とか、自分たちには少なくとも関係がない。
「まあそうかな…とりあえず入るか」
トランクを力なくコロコロと動かして正面玄関を抜ける。
小さいながらも手入れの行き届いた庭が目に入る。夕闇にライトアップされた庭は、こじんまりとしながらも落ち着いた雰囲気と静謐な空気を演出していた。
「いいじゃん。ダム建設反対派とは思えないな」
「今それ、関係ないだろう?」
居石は庭や旅館を見渡し、満足そうに頷いた。
玄関を開けると、前面にカウンターがある。
そこに立つ男性が、おかえりなさいませ、と丁寧にお辞儀した。
「今日宿泊予定の袈裟丸耕平です」
内装を観察している居石を置いて、袈裟丸はチェックインする。
「はい。袈裟丸様ですね。少しお待ちください」
男性はカウンターの中のPCを操作する。
「確認取れました。当館をご利用くださいましてありがとうございます。ごゆっくりとお過ごしください。あとお手数ですが、こちらにご記入をお願いいたします」
葉書サイズの宿泊名簿を手渡される。
それに記入していると居石が近寄ってきた。
「耕平、すげーよ。ダムの写真や模型があんだよ。全部旧軍司ダムだぜ」
そうか、と興味なさげに顔を上げると、正面の男性の表情が一瞬、真顔になるところが見えた。
「あ、ご記入くださいましたか?ありがとうございます」
名簿を手渡す。
「今日はご旅行か何かで?」
「えっと…」
「あ、研究目的っす。フィールトワーク?違うな。実地試験って感じ?」
途中から袈裟丸に向けて言われた発言だった。
「研究…でございますか?」
「そう。あそこの新軍司ダムで」
男性の背筋が伸びる。微笑み切れない表情だった。
「なるほど…よくわかりました」
「あ、お兄さん、あのダムの写真の中に集合写真があったんすけど、それって旧軍司ダムを造った人たちっすか?」
居石は入り口の脇に飾られてある写真を指して言った。
そこには壁に旧軍司ダムの写真や周辺の地図が飾られており、その下には地図を参照にしたと思われる模型が仰々しく置かれていた。
「ええ。そうでございます。あの写真の中央で笑顔で腕を組んでおられる方が、金村長策技師です。軍司ダムを築いてこの地域一帯を水害から守った、志の高いお方なんですよ」
「へえー詳しいっすね」
居石が言う。
「ええ。軍司ダムが大好きなものですから」
「そうなんすね。あ、でも…あのダム、夜にライトアップとかされてたら綺麗そうっすよね。写真はなかったっすけど…」
「ああ、軍司ダム保存会が観光スポットになればということで設置したライトがありますので、もしよければ明日にでもお見せしましょう」
笑顔で言う男性のネームプレートに、神戸聡、とあり、その上には支配人と書かれていた。
温泉は最高だった。観光シーズンから外れていたからなのか、袈裟丸たち以外の宿泊客はいなかった。
雰囲気の良い露天風呂にテンションが上がった居石は、子供のように飛び込もうとするので、袈裟丸は必死に止めに入った。
全裸の男が取っ組み合う姿は、もし第三者がいれば目も当てられなかっただろう。
大人しくなった居石と、やっとゆっくり風呂に浸かる。
身体から不純なものがお湯に溶け、温泉の良い成分が体に入ってくるかのように感じる。
視線を上げれば満天の星空。
普段はシャワーだけ、という生活をしている。
湯船につかるということがこんなに気持ち良いものかと再認識した。
湯上りに部屋で用意された夕食は、また格別だった。
山の幸のみならず川魚も出され、決して豪華ではないが、満足いく食事だった。
居石にいたってはとても感動したらしく、一品一品じっくり眺めて味わい、その度に唸っていた。
こう見えて居石は自炊をしている。
袈裟丸をはじめとして、コンビニや外食がメインの他の同期からすれば意外だという反応が多い。
本人は小さいころから自分で作っていたらしく、コンビニなどの味より自分が作った方が美味しい、ということだった。
その発言は嘘ではなく、手料理にはファンが多い。
こんなものだったらいつでも作る、という言葉に甘んじて居石の家に夕食を目当てに集まる学生が多い。
といっても袈裟丸と居石の仲間だが。
大体、家飲みとなれば居石の家に大量の食材を持ち込んで手料理に舌鼓を打つ。
店で出せるくらいのレベルであるだし巻き卵は最高傑作だと思う。
「今後の参考になる料理がありそうじゃないか?」
居石は、おう、とだけ言って味わうことに集中していた。
食事も終わり、もう一度風呂に向かい、こんな豪勢な風呂に普段入れないからという子供のような理由で、何度も入っては涼む、を繰り返した結果、時刻は午後十二時を過ぎたころだった。
各々の研究室で近々に起こった出来事を肴に酒ではなくお茶を啜る。
ひとしきり語り合った後、まったりとした時間が流れた。
居石は、広井に貰ったという煙草とライターを肘をつきながら弄んでいた。
その向かいで袈裟丸はノートPCを立ち上げて、計測ソフトを起動させる。
そろそろ確認しておいた方が良いだろう。
ポケットWiFiを起動させて試作機とリンクさせる。
「ん?ああ…」
「どうしたよ?」
珍しく動揺した表情の袈裟丸に居石が身を乗り出す。
「一台起動してない…なんでだろう」
「あの電気工作のことか?」
まだ電気工作呼ばわりしていたが、注意する余裕がない。
居石も回り込んで画面を覗く。
「あ、本当だ。一個点がないじゃん」
居石が見ているのは新軍司ダムの横断面図に、試作機を取り付けた位置を赤い点で記してあるフレームである。
その中の一つ、左ウィングの最右端、ダム中央部に近い一つの点が消えていた。
計測値も確認するが、値を返していない。
「なんでだろう…現場で確認したときは大丈夫だったんだけれどな」
「作りが甘かったんじゃねぇの?」
「そんな難しい工作じゃないよ。まあ仕方ないか。明日小林さんに頼んで予備のやつ、つけておいてもらおう」
「そっち方ももう一回動作確認しておいた方がいいんじゃねぇの?」
ごもっともな意見である。
もちろん、と言って二つある予備の試作機と工具を取り出していじくり始める。
「んー、酒飲みてぇなぁ。でないと寝れねぇよ」
「末期症状じゃないか」
「世の中のサラリーマン、全員的に回しやがったな」
「もれなく全員そうじゃないだろう」
そうか、と素直に納得した。居石なりの気遣いなのかもしれない。
「そういえば、あの…変な力持つ人と話したんだろう?」
作業している間、居石が持て余してしまっては申し訳ないと、袈裟丸は話を振った。
「おお、広井さんな」
広井、という名前をだったのだと知る。
「ぶっきらぼうだけど、いい人だったな。あのデカ鼻よりいい人なのは間違いねぇよ」
それはそうだろうと思う。
居石は、広井との会話の内容を説明する。袈裟丸は手を動かしながら、時折相槌を挟み、ダムに行っている間の居石の行動を把握する。
「ふーん、防げない例があるんだな」
「意図した事故だけは防げねぇってことだろうな」
「意図した事故ってないだろう?」
「それもそうか」
「意図された事故が防げないってことは…人を殺そうと思って事故を起こした場合は防ぐことはできないってことだな」
何気なく言ったことだったが、何か不思議な感覚になった。
「広井さんを殺害しようとした場合は…広井さんが察知することはできない、ってことか」
「そうなるんじゃねぇかな。自分の身を守るためには使えないってことじゃね?」
不測の事故を防げるという意味では、自分の身を守っている、と言えなくもない。
だが、直接殺意を持ってこられた場合は、その殺意を察知できない。
「まあ普通…だよな」
「そう…か。そうだよなぁ。あ、そっか事故を防げるって言われたから、イコール人が死ぬのを防げるって思っちゃってるんだな」
そうかそうか、と居石は納得している。
「結果として、命を救ってるだけだってことなんだよ」
居石はうんうん、と頷く。
袈裟丸は予備の試作機の電源を入れて、ノートPCとリンクさせる。
全く問題はなかった。
「終わった?」
「うん、大丈夫だと思う」
「頼りねぇなぁ。また動かなくなったらどうするんだよ」
「もうないって」
じゃあ、と言って居石は立ち上がる。
「酒、調達しに行かね?」
「どこに?」
「あの兄ちゃんに言えば何とかしてくれんじゃない?」
「まあ飲みたかったら聞いてくればいいと思うけれどさ、俺はあまり行きたくないな」
「なんで?反対派だからか?」
心を読むまでもなく、図星だった。
「何度も言うけどな、関係ないじゃん。いいから行こうぜ」
なぜ付き合わされるのかはわからないが、仕方なく付き合うことにする。
廊下を進み、突き当りを左に行けば、朝食の会場である。
明日の朝は広い空間に二人だけという贅沢な時間を過ごすことになるだろう。
右に向かって折れて進む。
さらに突き当ると、そこはお土産が売っているスペースで、ここをさらに右に行けば大浴場だ。左手に曲がれば二人の目的地である。
「すんませーん」
受付から居石が大声で叫ぶと、直ちに神戸支配人が出てきた。
「はい、なんでしょうか?」
冷徹な、冷めきった周波数が袈裟丸の耳に届いた、気がした。
「あのぉ、お酒飲みたいなって思って…どこかで売ってないっすかね?コンビニとかでもいいんすけど…」
恐る恐る告げたのは、袈裟丸と同じ理由ではないだろう。
「アルコール、でございますか…近場のコンビニもありますが…どうでしょう。この旅館で扱っております、地酒がございます。よろしければお部屋までお運びいたしますが…」
二人を交互に見ながら神戸は説明する。
「え?マジっすか?地酒?いいっすねぇ」
居石は喜びを隠せていない。
「あ、あの、結構お値段するんですか?」
思い切って袈裟丸は尋ねた。
そこまでお金に余裕はない。
「これは私からのサービスです」
驚いたのは居石だった。
「え?本当ですか?ちょっと…都合が良すぎないっすか?」
「いえ、私が所有しているものなので、お代は頂きません。後ほど、お持ちいたします」
どんな表情をしていたか、自分でも把握できていなかった。
翌日、袈裟丸が起床したのは、枕元に置いてあるスマートフォンのアラームではなかった。
軽快なメロディーが、いつものアラームとは異なっていたので、微睡ながらもすぐに手に取れた。
表示を見るが、知らない番号だった。
隣の居石は布団も浴衣もはだけて、いびきをかいて寝ている。
時刻は午前八時。
昨日、神戸が持ってきた地酒を深夜まで、文字通り浴びるほど飲み、何とか布団に潜り込んだ。
まだ居石が起きないのも仕方がない。
通話ボタンを押して電話にでる。
「はい…おはようございます」
その声は小林のものだった。緊迫した声だった。
小林が告げた内容は、十分な衝撃があった。
袈裟丸の頭はその内容で一気に覚醒する。
新軍司ダムの工事現場で、荒巻の死体が見つかったという報告だった。
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