気高いハインリッヒの使い方~How to use the noble Heinrich~

八家民人

第1話 プロローグ

なぜ土木工学を専攻したのか。

玄関の扉を開けて、大学へと歩き始めた袈裟丸浩平は、ふと頭に浮かんだ疑問を考え始めた。

毎朝、こうして大学へと歩いて向かい、研究室の扉を開けるまで考えを巡らせる。

研究テーマのことだったり、その日のスケジュールだったり。

その時々で頭に浮かんだことに、自由に思考を飛ばすことにしている。

頭のアイドリングのようなものだと袈裟丸は考えている。

今日はなぜか、そんな自分自身に関することが浮かんできた。

R大学の学生でしかも大学院まで進んでいる自分が、今更そんなことを考えようとしていることが不思議だった。

袈裟丸の父親はゼネコンで働いていた。

過去形なのは病気によって三年前に退職をしたからだ。

幼いころから袈裟丸は建設会社で働く父からその仕事の楽しさ、やりがいを聞いていた。

自分もそうした仕事に就いてみたい。

子供時代の自分の発言に、父が満面の笑みを浮かべている映像が記憶に残っていた。

その言葉は大学進学の時まで袈裟丸の中で生きていた。

結果として今の自分がある、といえる。

R大学の土木工学科に決まったことを父に告げると、職場で大声で喜び、同僚たちから祝われ、嬉しさを共有していたらしい。

しかし、精神を病んでしまった父は、以前とはまるで違う人間になってしまった、と当時の袈裟丸は思った。

力強く頼りがいのある父親の面影は、そこに微塵も感じ取れなかった。

そうなってしまったのは、ブラック企業だからということではない。

様々な条件が重なってしまったからだろうと思う。

それでも袈裟丸は、今の時代こうした病気が完治しないわけではないし、少し休養も必要だろうと思って深刻には考えていなかった。

だが、母親は違っていた。

親元を離れて下宿している袈裟丸とは違い、母はそんな父と毎日顔を合わせている。

収入源を心配してパートを初めたとはいえ、家に帰れば生きる希望が湧かなくなった、誤解を承知で言えば、生きる屍となった父がいるのである。

それでも母は根気強く寄り添っていた。

二年前までは。

全く完治しない病に母親のほうが折れてしまった。

家から刃物を隠したり、当時マンションの高層階に住んでいた袈裟丸の家のベランダに鳥よけのネットを張ったりして、父が自ら死を選択することを避けるなど、かなりの労力を注いだだろう。

父も闘病を頑張り、日常生活を取り戻しつつあったが、完治とまではいかなかった。

袈裟丸自身も調べたが、人によって完治には時間もかかる場合がある。

母もそれはわかっていたはずだが。

ある日、父と別居する、と連絡がきた。

袈裟丸は父の味方をしたかった、が、同時に母の苦労も理解していた。

その拮抗の結果、電話口で、分かった、とだけしか言えなかった。

父はそれから一年経過した後、職場を退職し、別の職場に就職した。

大手のゼネコンから、障がい者雇用で中堅の建設会社に入ったのだ。

今現在、母は父のもとに戻ってはいない。一人で別の場所で生活をしている。

思えばその時期から、袈裟丸の中で土木や建設に対しての考えが変わった。

人生をかけるようなものではない、無意味なものにしか思えなくなってしまったのだ。

社会的に意味のある仕事だということは理解していたが、結局人間が酷使されることはほかの企業と変わりない。

きつい、きたない、危険の3Kと呼ばれていたこともあるらしいが、それが改善されつつも、そのイメージは別のものに、少なくとも袈裟丸の中では、なっていた。

大学を辞めなかったのは、父と母それぞれから卒業しろ、と諭されたからだった。

また、同期の友人たちの支えも大きかったと思う。

研究室を選ぶ時も、あまり土木らしくない研究室を選んだ。

研究内容は面白かった。教授の勧めもあって大学院へと進学することにした。

同学部の大学院へと進学するため、費用はかなり安くなった。

両親は反対も賛成もしなかった。お前が行きたいのならば、ということらしい。

気が付くと研究室のドアの前だった。

学内で人の姿を見かけることがなかったのは、今日が土曜日だからだろう。

土日関係なし、というのが理系大学院生の常識のように世の中的には見られているのかもしれないが、袈裟丸は当てはまらないだろうと思う。暦通りに生きている。

「さて」

頭のスイッチを切り替えるようにつぶやくと、開錠して研究室に入る。

R大学五号館、その二階にある袈裟丸が所属する地球環境工学研究室がある。ここは学生部屋で大学院生から部屋の鍵を持たされる。本来指導教官が管理するものだが、それでは研究室の運営が滞る、といった暗黙の了解のようなもので合い鍵を持たされている。

無人の研究室は、秋口ということもあってひんやりと寒いが我慢できないほどではない。自分が使用する机に向かうと鞄だけおいて、椅子に座らずにPCを起動させる。ログインして画面を表示させると、後方のラックから工具箱を持ち出して、部屋の中央にある共有のテーブルに向かう。

本来ならばミーティングや来客時の対応などに使うものだが、今日はその両方ともないし、そもそも人が来ることがない。連休中なので本当に人が来ない。

袈裟丸がわざわざ来たのは、やるべきことがあったからである。

共有テーブルの上に工具箱を置くと、テーブルの向こうのラックからノートPCと小ぶりの弁当箱程度のタッパを手に取る。これが目的だった。

テーブルに持ってくると、手際よくその両者を接続する。タッパの中には基盤が組み込んである。超小型PCと呼ばれるものである。

PCの画面に映された文字列と一時間ほど格闘していると勢いよく扉が開いた。

「よう、耕平、生きてっか?」

「お前さ、扉の前に人がいないかとか考えないの?」

「扉の前にいるのがおかしいだろうよ。動くもんのそばにいるほうが悪い」

妙に納得するようなことを言いながら、袈裟丸の正面に腰掛ける。

「土曜日だっていうのに辛気臭いことしてんなぁ。若いんだから遊べよ」

「同い年だろうが。お前だって土曜日に来てるだろう?」

「いや耕平、それは正しくねぇ。俺は昨日からいる」

何が違うのかわからないが、これが居石要という人間である。

袈裟丸と同期で、地盤工学研究室の修士一年だ。

一年中タンクトップにアロハを着用し、ハーフパンツにビーチサンダルという格好で季節感がない。

同期の中で仲の良い数人の中でも一際浮いているが、特に袈裟丸と馬が合う。

袈裟丸が両親のことで悩んでいた時も、居石を筆頭に友人達は程よい距離感で支えてくれた。

「泊まり込みってことね。じゃあ俺と本質的には変わらないな」

「まあ、放っておいた俺が悪いんだけどな。ああ…これか?例のやつ」

人差し指を真下に向けて、居石はタッパをつつく。

「そう。あと二週間だからな」

「ふーん。これってさ、結局何なん?」

「は?飲み会の時に説明したろ?」

「飲み会の時に説明するなよ。覚えてるわけねぇだろ。なんか締め切りに追われてる感じだったなってことしか覚えてねぇよ」

ごもっともな意見だった。

しかし、こっちが追われていることを覚えていただけでも素晴らしいと思う。

「これは簡単に言えば、GPSを使って構造物の変位を測定する装置だよ。今までにもそういう装置はあったけど、これは安価にしてるんだ。それの試作品」

「ほう」

「二週間後に現場にお邪魔して実際の構造物で試験することになってるんだ。それまでに九個同じものを作らなきゃならない。まあ基本はプログラムだからそれが完成すればそんなに時間はかからないけどね」

居石は何度も無言でうなずく。

「それで…なんで俺まで現場に行くことになってんだ?」

「仕方ないだろ。お前の研究室のOBがいるんだから。要がいたほうが場は和むだろ。お前の先生にも許可は貰ってるし。大賛成で連れてってくれって言ってたぞ」

複雑な表情で居石はそれを聞いていた。

「だってダムだろ?地盤関係ねぇじゃん」

「それは俺に言われても困る。こっちがお願いして、そこで段取りしてもらってたから」

あーあ、と言う居石が机に突っ伏しながら、置いてあったプログラムの本をパラパラとめくっている。もちろん内容を理解しているわけではない。

「なあ、腹減ったから飯食いに行かね?」

「まだ早いだろ」

「朝飯食ってないんだよ」

それは袈裟丸も同じだった。

なぁなぁ、とせがむ居石に、袈裟丸は仕方ないな、と席を立つ。

袈裟丸は跳ねるように扉へ向かう居石の背中に、こいつはこういうやつだったな、と思った。

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