第五章

 健の身元が判明したとのニュースが流れてから一週間程経った頃、お昼前に秀人の勤務先へ愛知県警の刑事が訪ねて来た。

 覚悟していたとはいえ、さすがに緊張は隠せない。少し聞きたいことがあると言われたため、社長の許可を得て早めの昼休みを貰った。そして職場から少し離れた、ランチメニューを出す居酒屋の個室へと入った。他の社員の目を気にしたからだ。

 恐らくこうなると予想していたので、社長には警察が来るかもしれないと事前に伝えていた。昔悪さをしていたかつての悪友で、秀人が名古屋から大阪へと移り住んでくるきっかけとなったのが健だということ。最近彼の名がニュースで流れていたと伝え、恐らく親交があった自分の元に話を聞きに来るだろうと説明していたのだ。

 自分の所へ来る前に、警察は相沢の施設を訪ねるに違いない。そうなれば彼を通じて、大阪の施設代表者である和久へも話がいくだろう。そこから遅かれ早かれ、社長の耳には入る。それならば隠していても無駄だと思ったからだ。

 健がビルから落ちて死んだことを今まで黙っていたのだから、何もやましく無いとは言い難かった。しかし自分は殺していない。それなのに、事情聴取が長引いたり拘束されたりすれば、工場に迷惑をかける。だから社長達を安心させる為にも、事前に覚悟しておいてもらった方が良いと考えたのだ。

 どこまで話すか悩んだが、長期間拘束される可能性も考慮し、ある部分までは正直に話すことにした。大阪へ来る前日に彼から呼び出され、ビルの屋上で再び詐欺の仲間に加わるよう脅されたが断って逃げた事。その間に、何故か彼が落ちて死んでいたと説明した。

 自分が疑われることが怖くて警察に通報せずその場から逃げたが、自分は決して殺していない。ましてや彼の身元がばれないよう財布を盗んだり、顔を潰したりするような真似は決してやっていないと訴えたのだ。

 その時社長はしばらく黙って聞いていたが、一通り説明し終わった後に言われた。

「警察に通報しなかったのはまずかったな。だが少年院から出てきて間もない頃だったから、怖くなって逃げたというのも理解できる。警察が信用できなかったという気持ちも、分からなくはない。この二年半ほど必死に働き、真面目に過ごしてきたお前の態度を俺は見てきた。だから今聞いたことは、本当だと信じよう」

 ただ別の提案もされたのである。

「遅いかもしれないが、今からでも警察に出頭してはどうだ」

 しかし秀人は首を横に振った。

「下手をすれば、拘留が長くなるかもしれません。ですから実際に警察が来て話を聞きに来るまで、少しでも工場での仕事を頑張ってお役に立ちたいと思います」

 そう告げると社長は唸った。そこで多少二人の間で押し問答となったが、自分から出頭することはもう少し考えさせて欲しいと伝えた所、いざとなったら俺も証言してやると言ってくれたのである。だから警察に呼ばれた時、社長は直ぐに対応してくれたのだ。

 しかし秀人は茂田がいたことを伏せて話していた為、後にその点が明るみに出た際全てを説明していなかったと社長が知った時どう思うかと考えたら、心が痛んだ。

 二人の内、道安と名乗った刑事はベテランのように見えた。もう一人は少し若い刑事だ。三人で食べる物を注文した後、店員が去ってから若い方の刑事が口を開いた。

「君は古山田健という人物を知っているかな」

「知っています。昔の悪友の一人です」

「彼が二年半前に、亡くなっていた事はどうだ」

 一瞬躊躇したが、秀人は頷いた。

「ニュースで見ました」

「彼は二年半程前、君が以前いた名古屋の更生施設の近くにある、廃ビルから落ちて死んだ。その間、ずっと身元不明の人物だった」

「それもニュースで見ました」

「さっき昔の悪友と言ったけど、彼と君とはどういう関係かな」

「中学の同級生で、卒業してからも長くつるんでいた仲間の一人です。私が詐欺の受け子のバイトをして捕まってからは、関係を断つようにしていました。ですが向こうは何度もしつこく仲間に戻るよう誘ってきたので、少年院から出た後に入った更生施設の人と相談した所、大阪の施設へ移る手配をしてくれたのでこっちへ来ました」

「彼と最後に会ったのはいつかな」

 いよいよ核心に迫って来た。唾を飲み込み、秀人は大きく息を吐いて告げた。

「大阪へ来る前日の夜、彼に呼び出されて会いました。それが最後です」

「それはどこで」

「彼が遺体で発見された、施設の近くにある廃墟ビルの屋上です」

 するとそれまで腕を組んで静かに話を聞いていたもう一人の刑事が、ピクリと反応した。若い刑事は目を輝かせ、身を乗り出してさらに質問を畳みかけて来た。

「ほう。そこから落ちて彼が亡くなったことを、君はニュースで見たと言ったよね。本当はその前から知っていたのじゃないのか。彼と会った日の事を詳しく話して貰えるかな」

 ここで秀人は頭を深く下げ、詫びた。

「すみませんでした。彼があのビルから落ち、頭から血を流していたことは知っていました。屋上から覗いた時、手足があらぬ方向に曲がっていたので、死んでいるだろうと分かりました。しかし私は怖くなって、その場から逃げました。警察に通報せず、今まで黙っていて申し訳ありません。でも私は彼を突き落としたり、まして殺したりはしていません」

 予想外の展開に、相手は意表を突かれたのか一瞬沈黙があった後、尋ねられた。

「どういうことだ。君は古山田がビルから落ちた所を、見ていたのか」

「いいえ、見ていません。私が見たのは、落ちた後の彼の姿だけです」

 その前に誰かと揉めていた声とその後の叫び声を聞いた事など、秀人が以前働いていた工場の近くで呼び出されてから施設を抜け出し、廃ビルに行って口論となり逃げるまでの経緯を告げた。

 秀人の話を聞いていた若い刑事は、再び質問して来た。

「その時、君は一人だったのか」

 それまで茂田については省いて説明していた為、動揺した秀人は尋ね返した。

「どういう意味ですか」 

「他にも誰か、その場にいたのではないのか」

 じっと見つめる二人の目から逃れ、下を向いた秀人は悩んだ。しかし当初決めていた通りに答えた。

「いいえ。一人でした」

 二人の刑事は互いに顔を見合わせた後、若い方が溜息をついてからさらに話を続けようとしたため、秀人はそれを遮って説明した。

「でも次の日に大阪へ荷物を運び出す手続きをしてしばらく経った後、身元不明の死体が見つかったとニュースで聞いておかしいと思いました。誰かが健の死体を発見し警察に通報すれば、すぐにでも私の所に事情を聞きに来ると覚悟していましたから」

「ほう。覚悟していたけれど、通報しなかった。それは何故かな」

「怖かったからです。私はもう彼と関わりたくありませんでした。だから施設の人にお願いして、あの日の翌日には大阪の施設へ移ることが決まっていたのです。それなのに、警察へ通報してあらぬ疑いをかけられ、逮捕されては困ると思いました。申し訳ありません。でも私があの時ビルの屋上から下を見た時、彼はウォレットチェーンを身に着けていたので財布は持っていたはずです。それに彼は私にスマホで呼び出そうともしていましたから、間違いなく携帯は持っていたと思います。それにビニールシートなんてかかっていませんでした。だからニュースを聞いた時、後で誰かがお金目的かどうかは知りませんが、そういう細工をしたのだと思いました。だからもしかすると私が気付かなかっただけで、その場に誰かいたのかもしれません」

「古山田の顔が潰されていたことは、いつ知ったのかな」

「それも後に流れたニュースで、初めて知りました。しかしこんなにも長く、身元が分からないままになるとは想像していませんでした。多少時間がかかっても、いずれ警察は、健と関わり合いが深い自分の所にやってくると思っていましたから。その時は正直に全て話そうと覚悟していましたが、なかなか来なかったのでおかしいとは感じていました」

 そこで一旦話は中断し、三人が注文した食事を食べ終わった時点で刑事は言った。

「とにかく近くの署に来て、もう少し詳しく話を聞かせてくれないか」

 予想通りの展開だったため秀人は頷き、その後社長と連絡を取り了承を貰った上で刑事達の車に乗せられたのである。

 最寄にある大阪の所轄署の一室へと連れられた秀人は、居酒屋で尋ねられたことを再度聞かれた。同じような質問を繰り返される度に、秀人は同じ答えを何度も言った。そこへ別の刑事がやってきて道安と名乗った刑事に耳打ちし、外へと出て行った。

 どうやら工場の社長にも、話を聞いたらしい。先程警察に話したことと同じ内容を最近告白されたばかりであり、出頭するようにと助言したが考えさせて欲しい、また拘留が長くなる可能性もあるので少しでも会社の仕事をこなし、役に立ちたいと言ったので無理強いしなかった、と社長が言った話を秀人は改めて聞かされた。

 さらにこの二年半の間、真面目に働いてきた秀人を見て来た自分の目からみて、告白した内容は真実だと思った。そう社長が言ってくれていることも告げられたのである。

 それを聞いて秀人は涙した。社長に告白しておいたことは間違いなかったようだ。しかし刑事は冷たい目をして言ったのだ。

「これ以上社長さんを傷つけない為にも、嘘をつくのはやめたほうがいい。全てを正直に話してみろ。他にも誰かがあの場にいたはずだ。証拠だってある」

 そう問い詰められ、秀人は言葉を失った。予定では黙っているつもりだったが、刑事の口振りからするとそうはいかないようだ。

 やはり屋上には、茂田の足跡も残っていたのだろう。もしかするとあの日の夜、施設を抜け出し戻る姿を誰かに見られていたか、どこかの防犯カメラに写っていたのかもしれない。そこで観念した。

「実は茂田昭雄という、名古屋の施設で将棋を指している間に親しくなった人がいました。彼は心配してくれていたらしく、あの日施設を抜け出した私の跡をこっそりつけていたそうです。彼は普段からとても気にかけてくれ、健に付きまとわれていると相談した際にも、別の施設に移るよう助言してくれました」

「それでその茂田という人物と君は、あの日の夜どうしていたんだ」

 そこで秀人は、茂田が突き落したかもしれないと疑われるような言い方はなるべく避け、あの日の状況を改めて説明した。すると刑事が質問してきた。

「二人で屋上から落ちたであろう古山田の姿を発見し、二人で施設へ戻ったんだな。つまり先程は、一人でいたと嘘をついたことになる。そこで改めて聞くが、死体を発見しながら警察に通報しなかったのは何故だ。怖かったからだと言う証言は、もう信用できないぞ。本当は茂田に何か言われたのだろう」

 さすがに刑事の目はごまかせないようだ。そこで観念して伝えた。

「あの日の夜は寒かったこともあり、健も私達も手袋をしていました。だから指紋が付いている心配はないから逃げよう、と言われました。警察へ通報しても、前科者の話なんて信用してはくれないし、下手に疑われるだけだから、と。証拠となるのは、下足痕と手袋の跡くらいだろう。健の死体はビルの間に挟まっていましたし、隣の建物も廃墟で人通りも少ないから直ぐに見つかることは無い、とも言われました。あと、茂田さんも私と同じように付きまとってくる昔の仲間がいたようで、私とほぼ同じタイミングで名古屋を離れ、埼玉に移る予定になっていました。だから途中で手袋と靴を処分すれば、まずばれることは無いし、死体が見つかったとしても警察がすぐ来るとは思えないからと説明されました」

「それで君も逃げることに賛同したのか」

「はい。警察が調べれば健と私との繋がりなんて分かるだろうから、すぐに刑事が来ると言いました。でも一度は疑われたとしても、突き落としていなければ証拠がないから警察も手は出せないし、逮捕される心配もないから安心しろと言われ納得したのです」

「君は突き落していないのだろう。だから警察が来ても逮捕される心配がないというのなら、最初から通報していた方が疑われないとは考えなかったのか」

「すみません。後になってそうすれば良かったとは思いましたが、あの時はとにかくあいつとの繋がりを切りたかったのです。だから茂田さんの言葉に従ってしまいました」

「どうして茂田がいたことを黙っていたんだ。それ以外の話は工場の社長にも話していたようだが、その部分は隠して説明していたようだな。それは何故だ」

「あの人を今回の件に、巻き込みたくなかったからです。茂田さんは私を心配してついてきてくれただけで、健がビルから落ちて死んだこととは関係ありませんから」

「君が突き落としていないのなら、茂田がやった可能性はないか。だから逃げようと言った。そうは思わないか。だから黙っていたんじゃないのか」

 予想通りの質問をされたため、秀人は激しく首を振った。

「いいえ、それは違います。あの人が健を殺す動機なんてありません。それに彼は七十過ぎの老人ですよ。健と揉みあったとしても、体格からして、突き落せるはずがありません。あの場から逃げようと言いだしたのは確かですが、最終的に従ったのは私です。あのまま警察に通報すれば、前科者の自分達が罪に問われると思ったから怖くなっただけです」

「動機は君を守る為だった。それに揉めたはずみで相手がバランスを崩したところを、上手く突き落としたのかもしれない。君はその場を見ていなかった。だったら違うという根拠にはならないな」

 刑事の冷静な言葉に対し、秀人は焦った。このままでは茂田が犯人にされてしまう。そこで必死に反論した。

「根拠はあります。二人ともビルから降りた後、健には近づいていません。下手をすると証拠が残ったりするので、余計な誤解を受けやすいからと茂田さんが言いました。調べて下さい。健はビルから落ちた後で何者かに身元が分かる物を奪われ、顔を潰され手と一緒に焼かれたはずですよね。もし私や茂田さんがそういう小細工をしたのなら、何らかの証拠が周辺で見つかっているはずです。私のDNAを採取して、鑑定をしていただいても構いません。茂田さんは以前窃盗で逮捕された際、DNAの採取をされたと聞いています。だったら警察のデータ―ベースに残っているはずでしょう。それに二人が逃げた時には、健の乗ってきたバイクが現場にありました。でもニュースによると、そういったものが見つかったとは報道されていません。私達は間違いなくあの場から徒歩で、施設へと帰りました。バイクを隠す時間なんてありませんよ。第一、鍵がありません。バイクを動かそうとすれば、健の持っていたバイクの鍵が必要です。彼に近づいていない私達にできるはずがないでしょう。しかも次の日に私は大阪へ、茂田さんもその翌日には埼玉へ引っ越しました。調べてくれれば分かります。私も茂田さんも、健をビルから突き落していませんし、身元を隠すような真似もやっていません。信じてください」

 しかし刑事は顔色一つ変えず、さらに続けた。

「DNAの採取はさせてもらうよ。だが現場から見つからなかったからといって、近づいていない証明にはならない。それは茂田も同様だ。ところで廃ビルには、二人別々で辿り着いたと言うことだが、帰りはどうだ。一緒に帰ったのか」

 躊躇したが、これも正直に答えた。

「一緒にいるところを見られるとまずいから、別々に帰りました。私が先に戻り、その後茂田さんが戻ってきたはずです」

「それはどれくらい後の事だ」

「さ、三十分ほど経ってからだったと思います」

「だったらその間に彼が現場に戻り古山田の財布やバイクの鍵などを抜き取った後、顔を潰しバイクを移動させてどこかへ捨てるくらいの時間はあったかもしれないな」

「そ、そんなことをあの人がする訳がありません! いくら私を心配してくれていたからといって、そこまでする義理はありませんよ。ほんの短期間、施設で一緒になり将棋を指して話をするようになった程度の関係です。しかも茂田さんは長い間空き巣専門の窃盗を続けていたけれど、人を傷つけたことは一度もなかったと聞いています。それが信条だったと、本人も言っていました。そんな人が死体を損壊するなんて、恐ろしいことができるはずないでしょう」

「彼が古山田を突き落したのなら、自分の罪を隠す為にしたとも考えられる。そうだろ」

「そ、そんな」

 否定をしたかったが、かつて自分でもそう疑ったことがある為、それ以上言葉が出てこなかった。そんな秀人の様子を見て、刑事は嫌らしい笑みを浮かべて言った。

「君と口裏を合わせられないよう、丁度今頃茂田にも事情聴取をしている。彼が突き落したと認めれば話は終わるが、あくまで否定するなら事情聴取はもっと長くなる。もしかすると彼は君が突き落した、と証言しているかもしれない」

 これにはカチンときた。挑発しているのだろうと分かっていたが、それでも許せなかったため、大きな声で言い返した。

「あの人がそんな嘘を、ついたりはしません! 茂田さんは私の事を、とても気にかけてくれていました。警察に突き出すつもりなら、とっくの昔にしていますよ!」

「ほう。そんなに信頼しているのか。彼とは名古屋の施設で初めて知り合い、ほんの短い付き合いだったんじゃなかったのか。それなのに信用はできるのか。彼は六十年以上も窃盗を繰り返してきた犯罪者だぞ。上の人間に騙され、詐欺の手伝いをさせられた君のような前科者とは訳が違う。奴は根っからの悪党だ。人を傷つけていないと言っていたが、それは単にばれていないだけかもしれないだろ。現に彼は若い頃に二回捕まって以来、何十年もの間、一度も捕まらず盗みを働いてきた。三回目の逮捕は、体調を崩していてたまたまヘマをしたからだ。それまでの余罪もいくつか認めていたが、多くは被害届の出ていないものや時効の過ぎた案件だったせいで、全て解明されないまま実刑を受けている。そんな人間が口にした言葉を、君は信じるのか」

 そんなことは言われなくてもこの二年半もの間、何度も繰り返し思い巡らしてきた。途中で何度か、信じられなくなったこともある。

 しかし考え抜いた揚句、秀人は茂田を信頼できる人物だと結論付けていた。少なくとも誤って健を突き落してしまったかもしれないが、それ以上の事はしていないと信じていた。 

 それに彼がかつての仲間に託した伝言からすれば、あの場にいた第四の人物が何らかの理由で健の身元が判らないようにしたのだと思っていた。

 だがその想いを打ち砕くように、刑事は言った。

「茂田は伝説にもなった、空き巣の常習犯だ。鍵というものは年々進化し、複雑な構造を備えてきた。それでも六十年以上も空き巣を続けてこられたのは、相当高いピッキング能力を持っているからだろう。その腕をすれば、鍵が無くともバイクを動かす程度の事は出来たかもしれない。君は工場で待ち伏せていた古山田のバイクに乗ったと言ったな。彼が持っていたヘルメットも被ったというじゃないか。現場に指紋など残っていないことを確認し、その場を去ろうとしたとも言った。しかもその時履いていた靴や服も捨てるよう、茂田が指示したそうだな。そこまで徹底しながら、何故ヘルメットを処分しようとしなかった。彼の腕なら、シートの鍵を開けることくらい容易かったとは思わないか。それをしなかったのは万が一警察が事情を聞きに来た時、君が現場にいたと証明するものを残し、罪を被せるつもりだったのかもしれないぞ」

 秀人はこれまで考えたことのない可能性を聞かされ、頭の中に電気が走ったかのような衝撃を受けた。思い出せば確かにあの時、ヘルメットは処分した方が良いと言っていた。しかしバイクの鍵が無いから諦めようと、彼が言い出したのだ。

 そうした記憶が蘇り、動揺した。刑事の言うように、彼の腕ならヘルメットだけを取り出せたのかもしれない。それをしなかったのは、秀人を犯人に仕立て上げるつもりだったからだろうか。

 疑心暗鬼になりながらも、どうにか答えた。

「何故茂田さんが、ピッキングしなかったのかは分かりません。あの時は私を心配してついてきただけなので、そうした道具を身に着けていなかったから出来なかったのかもしれないでしょう。どちらにしてもバイクは現場に無く、誰かに持ち去られていたんですよね。それがもし茂田さんの仕業だったとしたら、刑事さんの言った話とは矛盾します。私に繋がる証拠を残すつもりだったなら、バイクはそのままにしておいたはずです」

 刑事は反論できず黙った。単に茂田との信頼関係を崩す為、揺さぶりをかけていたのかもしれない。それが失敗した為、次なる質問を考える時間を稼ぐつもりなのかは不明だったが、刑事はDNAを採取するキットを差し出してきた。

 秀人は指示されるがまま封を切って綿棒のようなものを取り出し、口の中の粘膜をこすり落とす。その間に別の事を考えていた。刑事にはああ言ったものの、もしかすると茂田はあの時現場に戻り、ヘルメットを持ち出そうとしたのかもしれない。

 だからといって、健の顔を潰すような真似をしたとは思えなかった。あの時彼が言ったように、突き落としていないのならそこまでする必要はない。ただあの場にいた証拠さえ警察の手に渡らなければ良いというのが、彼の考え方だった。

 それなら後で、ヘルメットを処分しに戻った可能性はある。それでもさすがにバイクまで処分する時間など、彼には無かったはずだ。しかし現場に戻っていたとしたら、健の死体に細工をした犯人、つまり彼を突き落とした真犯人の姿は見なかったのだろうか。それとも入れ違いになったのだろうか。そう考えた時、初めて別の可能性を思いついた。

 真犯人は、茂田が知っている人物なのかもしれない。あの時通報せず逃げ出すよう言ったのは、その人物を助けようとしたとも考えられる。

 彼が後に残した伝言では、怪しいと思われる人物が三人いるという。それは誰なのかあれから秀人も考えていたが、強いて言えば相沢ぐらいしか思いつかなかった。もし茂田同様秀人を心配して更に跡をつけて来ていたのなら、犯行は可能だったかもしれない。

 茂田がもしそれに気付いていたとしたら、彼を守ろうとした可能性はある。なぜなら相沢にも、健を殺す動機などないはずだ。あるとすれば茂田同様、秀人を守ろうと思う気持ちだけだろう。

 健は秀人に会う為何度か施設を訪れていたが、その度に彼や職員達が追い返してくれていた。そこで秀人を守ろうと余りにもしつこく付きまとってくる健と揉め、誤って突き落としてしまったとは考えられないだろうか。

 その事に気づいた茂田は彼を守るために、秀人を早くあの場から離れさせたのかもしれない。そして相沢は健の身元が分からないよう細工し、秀人が被っていたヘルメットの入っているバイクそのものを、現場から持ち去ってどこかへ廃棄した可能性もある。

 あの日相沢が施設を抜け出していたとすれば、いつ戻ったかなど誰も知らないだろう。だったらある程度遠くまで移動出来たはずだ。山中かどこかの湖や深い池、または海へ投げ捨て、始発の地下鉄に乗り施設へ戻ってきたのかもしれない。

 そう考えれば、茂田が取った行動も納得できる。秀人を守りながらも相沢が警察に捕まらないよう、口を噤んできたのだろう。もしそうだったとしても、全ては秀人を守るために行われた行為だといえる。その想いを想像しただけで、胸が熱くなった。そして必ず彼らを守ろうと、改めて強く心に誓った。

 といっても自分は健を殺していないため、今更犯人だと名乗ることは出来ない。もしそんな嘘をつけば、余計に彼らを悲しませる。出来るのは、疑いの目が彼らへ向かない様にすることだけだ。

 秀人は自分で採取したDNAを提出し、今度はこちらから質問した。この場は任意の事情聴取の場であり、帰りたいと言えばすぐにでも立ち去れるはずだ。ただ警察は秀人から、もっと情報を聞き出したいだろう。その為には、多少の事なら教えてくれると踏んだのだ。

「先程から健を殺したのは、私かまたは茂田さんのどちらかだと決めつけるような口ぶりですが、あの屋上からは三人の足跡しか残っていなかったのですか。他の足跡は無かったのですか。そうでないと、辻褄が合いません。私達以外の足跡が無ければ、刑事さんも私の証言は明らかに嘘だとはっきり言うはずです。しかしそう断言しないのは、誰かがいたと、あなた達は知っている。それが誰かを聞き出そうとしているのではないですか」

 そこで若い刑事は、顔を引き吊らせながら言った。

「ほう。面白いことを言うな。じゃあ逆に聞くが、他に誰かいたと言う根拠はなんだ」

「それは私も茂田さんも、健を突き落としたりしていないからです。私達が彼と離れている間に、誰かが彼と揉めて誤って突き落とした、または意図的に彼を突き落としたとしか考えられないからです。警察だって、それは分かっているのではないですか」

「お前達二人しかいなかったというのが嘘で、他に仲間がいた可能性だってある」

 それを聞いて秀人は笑った。すると刑事が怒り出した。

「何がおかしい」

「だって今、他に誰かがいたと認めたじゃないですか。やはり警察は、四人目の足跡を見つけていたのですね」

 しかし刑事は惚けた。

「四人目とは限らない。五人目や六人目がいたとも考えられる。それがお前らの仲間か、違うなら古山田が連れて来た仲間かもしれないだろう。あの場所は廃ビルだったにも拘らず人が出入りできる状況だった為、複数の人間の足跡が見つかっていることは確かだ。それでも死体が発見された後、最も新しい下足痕は確認している。だから君の証言通り、少なくとも被害者のものを含めて三人分あったのは事実だ。それ以上見つかったかそれとも無かったのかは、捜査上の秘密なので教えられない。しかし被害者以外であの現場に二人がいたことは、君の証言で証明された」

「本当にそうでしょうか。私や茂田さんが、あの場にいた証言自体が嘘かもしれませんよ。私のDNAは今お渡ししましたから、現場に残留物があれば一致するでしょう。それでもあの現場に行った事は証明されても、健がビルから落ちて死んだ時、あの場にいたとは限りませんよね。別の日に私があのビルの屋上に行った、といえばそれを否定できる証拠はないでしょう」

「今更強がりを言うな。古山田が亡くなったと思われる日の夜、施設から抜け出して歩いているお前と茂田の姿は、防犯カメラで確認している。言い逃れは出来ない」

 秀人は心の中で頷いた。やはり証拠を掴んでいたようだ。茂田について正直に答えた方が良いと判断したことは、間違っていなかったらしい。そこでさらに揺さぶりをかけた。

「私達があの夜出かけていたからと言って、あのビルに行ったとは限りませんよね。廃ビルの周辺に、防犯カメラは無かったはずです。あったらとっくの昔に、警察が私達のところへ事情を聞きに来ていたでしょう。それにその防犯カメラでは、施設にいる他の方達は誰も写っていませんでしたか。あの施設には罪を犯した人達が、多く集まっています。私達以外にも、健と繋がっている人間がいてもおかしくないでしょう」

「心当たりがあるのか」

「ありません。でも知らないところで別の人物が彼の仲間として潜り込み、私を見張っていたかもしれないでしょう。その人物と仲間割れか何かして揉め、健はビルから落ちたとは考えられませんか」

「そんな奴はいないよ。あの死体の身元が古山田健だと分かった時点で彼の周辺を洗ったら、君の名前が出て来た。そこで調べた所、あの施設から事件当日の夜遅くに出かける姿が防犯カメラに写っていた。しかも君を気にかけ、別の施設へ移るようアドバイスをした親切な老人の姿も捉えている。今になって関係無いとは言わせないよ」

 刑事の言葉を聞いて、秀人はほくそ笑むと共に胸を撫で下ろした。どうやら相沢の姿は無かったと考えて良さそうだ。つまり茂田が庇っている人物は、彼でない可能性が高い。どうやら思い過ごしだったらしい。心配事が一つ減り、秀人はほっと息を吐いた。 

 その様子が気に食わなかったのか、刑事が食いついてきた。

「何だ、その態度は。君はかつて友人だった人物が死んでいる姿を見ておきながら、警察に通報しなかった。それがどういうことか分かっているのか」

「分かっています。だから最初にすみませんでしたと、頭を下げたじゃないですか。それに通報しなかった理由も、正直に説明したはずです。警察がその場にいた私や茂田さんが健を殺した犯人だと疑うのも、理解できます。しかしこれまで何度も言っているように、私は健を突き落としていません。これは任意の取り調べですよね。それとも通報しなかったことが、罪に問われるのですか。健を殺した真犯人を見つける為の協力ならいくらでもしますが、私や茂田さんに罪を着せようとする質問ばかり続けるのなら、帰らせていただきます。弁護士を呼んでもらって良いですか。私が働いている工場の社長からは、執拗な取り調べが続くようなら手配すると言って、私を送り出してくれました。その事はそちらでも把握されていますよね」

 社長から、既に事情を聞いていたのだろう。刑事達は顔を顰めた。軽犯罪法では死体等、要保護者等を通報しない罪というものがある。しかしそれは例えば自分の自宅などのように、通常は占有権がある場所に限られることは事前に調べていた。

 廃ビルの谷間に落ちて明らかに死んでいると分かっている人を発見したとしても、必ず通報しなければいけないとは言えないのだ。刑事達は弁護士を呼ばれれば面倒だと考えたらしい。そこから質問の方向性を変えて来た。今度はそれまで黙っていた、道安という刑事が尋ねてきた。

「分かった。ではまず君の話が、本当だと信じて話を進めよう。先程言ったように、今埼玉で別の刑事達が茂田に話を聞いている。その内容と君が話した事と一致するかどうか、食い違っている点があるかは、しばらくすれば報告があるのではっきりするだろう。そこで当時の現場に他の人間がいたと仮定した場合、君に心当たりがあるなら聞かせて欲しい」

 相手の態度が軟化した為、秀人は少し考えてから答えた。

「私もこの二年以上の間、誰が彼をビルから突き落とし、身元を隠すような真似までしたのかを考えていました。そこで可能性があるとすれば、健が連れて来た人物ではないかということです」

「何故そう思う」

「私に関係していて健と接触している人物と言えば、茂田さんの他には先ほど名前が出た相沢さんを含めた施設の職員さん達しか思いつきません。でも先ほどの話によると、事件があった日の夜に相沢さんや他の人が施設を出ている姿は、防犯カメラに写っていなかったようですね。だとしたら、残るは健の仲間しかいないでしょう。ただ具体的に誰と言われても、思い当たる人はいません。前回逮捕された際には話しませんでしたが、アルバイトをしないかと持ち掛けてきたのは健の先輩で、私が顔と名前を知っているのは三名だけです。もしかしたらその内の一人がいたのかもしれませんし、私の知らない人だったかもしれません。どちらにしても茂田さんの話だと、複数人では無かったようです。私は全く気付きませんでしたが、気配を感じたのは一人だと言っていましたから」

 そこで秀人は前回の詐欺事件に関わっていた中で、自分が知る三人の名を上げた。健の身元が判明したきっかけとなった別件の詐欺事件で彼らが既に逮捕されていることは、新聞などで確認している。ニュースでは過去の詐欺についても追及していると報道されていたので、いずれ警察が明らかにするだろう。だから今更秀人が隠しだてする必要など無いと判断し、正直に伝えた。

「ほう。既に逮捕されている連中ばかりだな。その中の一人が犯人だというのか」

「いえ、そういう訳ではありません。もしあの場にいたのが先輩達の一人だとしても、健を突き落とす動機があったかどうかは分かりません。私が前回の逮捕時に警察で名前を出さなかったことを、彼らは評価していると健から聞きました。だから何度もしつこく誘うよう言われていたようです。でもそれができなかったからと言って、健を殺すほど揉めたり誤って突き落としたりはしないでしょう。全く別件で何かあったのなら話は別ですが」

「なるほど。念のため君を仲間に引き入れようと一緒に連れて来ていた仲間がいて、別件でトラブルが起こり古山田は突き落とされた、ということか」

「あくまで可能性です。でもそうだとしたら、何故最初から姿を現さずに隠れていたのか、その理由が不明です。連れてきていたのなら、一緒に説得した方が逃げられずに済むと普通は思うでしょう。でもそれをしなかった。ということは、もしかすると詐欺仲間とは全く関係がないのかもしれません」

「確かにそうだな。わざわざ隠れている必要は無いだろう。他に心当たりはあるか」

「ありません。警察の調査では、何か見つかっていないのですか。健がビルから突き落としたか揉めたかした人物が、健の財布などを盗んで顔を潰し身元を隠そうとしたのでしょう。それだけのことをしたのなら、健の遺体周辺で何らかの痕跡が残っているはずではないですか。例えば足跡とか、それこそ髪の毛や皮膚片などはなかったのですか。あれば私のDNAと照合したら、少なくとも健の死体に細工した人物が私でないと分かるはずです。それこそ茂田さんは、前に逮捕された時DNAの採取をされていると聞きました。警察のデータベースに残っているのなら、照合くらい既にしているでしょう。一致していれば、とっくにあの人は逮捕されているはずです。その辺りの捜査はどうなっているのですか」

 だが刑事達は捜査上の秘密だからと、遺体の周辺から何が見つかったのかは全く答えてくれなかった。

 向こうがその気なら、こちらもこれ以上話す必要はない。あの日に起こった事や自分が見たものについては、全て答えたつもりだ。その為疑わしいと思われる茂田の行動など、これ以上個人的に考えたことは伝えたくなかった。

 秀人は苛立ち、刑事に告げた。

「もう私から話すことはありません。そろそろ帰してくれませんか」

 しかし刑事は、首を縦に振らなかった。

「待ってくれ。君の説明に矛盾が無いかどうか、茂田から聞いた話との突き合わせが必要だ。まだ埼玉から連絡が無い。だからもう少しいて貰わないと困る」

「それはいつ頃になりますか。それに今後、私の身柄をどうするつもりですか。死体を見つけたのに通報しなかったことは確かですが、その他に罪は犯していません。先程DNAも提出しましたから健を突き落としたり、揉めたりして接触していたとしたら、なんらかの証拠が残っていないわけがない。何度も言いますが、あの時少なくとも私は彼と口論になって胸倉を掴まれただけです。もちろん、落ちた後の彼には近づいていません。それは茂田さんも同じです。DNAの照合には、それなりに時間がかかるでしょう。その結果が出たら、またこうして呼べばいいじゃないですか。警察はもう私の住所や勤務先だって把握しているでしょうし、ここまで来て今更逃げも隠れもしません。あれから二年以上も経った今頃になって、証拠隠滅の疑いもないでしょう。だから早く帰してください」

 だが刑事はもう少し居ろとの一点張りで、帰す意思など全く見られなかった。その為このままでは勾留されかねないと、秀人は危惧した。はっきりとした証拠もない今の状況で、逮捕状など出るはずがない。

 けれど健が死亡した現場にいたことは確かで、秀人も認めている。それを切り口に何らかの理屈をつけ、被疑者として逮捕する可能性もあった。そうなれば、最低でも四十八時間は警察に拘束されてしまう。それだけは避けたかった。

 これまで真面目にやってきて、更生の道を順調に歩き出したところだ。ここであらぬ疑いをかけられ逮捕されたとなれば多くの人の期待を裏切ることになり、多大な迷惑をかけてしまう。お世話になっている、整備工場の社長や先輩方だけではない。更生のために尽力してくれた、名古屋や大阪の施設の人達を裏切ることにもなる。

 しかも再犯したというだけでなくその容疑が殺人ともなれば、今後の社会復帰などそう簡単にできなくなってしまうだろう。それどころか、父の会社にも大きな影響をもたらすことは避けられない。母や叔父達にも、前回以上の苦しみと悲しみを味あわせてしまうのだ。そんな事態だけは、絶対に回避しなければならなかった。

 事情を聞かれ初めてから、既に三時間以上は経過しているだろう。逮捕状が無くとも聴取の場合、数時間から半日かかるケースがあると聞く。恐らく秀人は、重要参考人または被疑者として扱われている可能性が高い。少なくとも調書は取られるはずだ。

 そうなると、半日以上は確実に解放して貰えない。その証拠に刑事は再び質問を始めたが、これまでと全く同じ内容を繰り返すばかりで、新たなことは何も言わなくなった。こうした手法を取ってくることは、以前逮捕された際に嫌と言うほど経験している。

 またかとうんざりし始めた秀人は、そうです、違います、または頷いたり首を横に振ったりと必要最小限の受け答えに徹した。できるだけ口を開かず感情を殺すことでストレスを軽減させ、疲れが溜まらないように心がけた。

 刑事の有象無象の挑発に乗って反応すれば、相手の思う壺だ。神経を消耗すれば、一見事件とは関係のない話から、知らぬ間に犯人だと認める回答へと誘導されかねない。

 虚偽の自白をして冤罪に追い込まれるのは、こう言った話法に取り込まれてしまうからだと、前回の逮捕で身をもって味わった。よって最初は正直に力説したことでも、先程話した通りですと無難な答えに止めていた。

 しかし相手は百戦錬磨の刑事だ。そうした態度を取る被疑者など、何百人と対峙してきた経験があるのだろう。なんとか秀人の感情を揺さぶろうと時には穏やかに、そして突然挑発するような質問をぶつけるなど、強弱をつけたやりとりを何度となく繰り返した。

 さすがにこれ以上続くと、精神的におかしくなってしまう。そんな危機意識を持ち始めた時、部屋に他の刑事が入ってきて再び何やら耳打ちをした。するとこれまで余裕をもった態度で、秀人をなぶるように対峙していた若い刑事が動揺しはじめた。

 どうやら以前いた大阪の更生施設の代表である和久を通じ、整備工場の社長から依頼を受けた弁護士が警察に来たらしい。任意の事情聴取であるなら、身柄を渡すよう抗議しているようだ。そして次のように主張してくれたという。

「現在事情聴取を受けている照島秀人が、古山田健の死体を損壊したり財布や携帯を盗んだり、または突き落としたという明確な証拠があるのですか。彼がビルから落ちたと思われる死体を発見し、通報しなかったことは軽犯罪法違反に当たらない。例え違反と認められたとしても時効は一年です。よって逮捕は出来ないはずだ。しかも彼の住所や勤務先は事件から二年以上経った今も変わらず、逃亡や証拠隠滅の恐れもない。勾留する根拠が乏しく任意の事情聴取であるにも拘らず、必要以上に長期間拘束することは不当です」

 社長から事前に告げられてはいたけれど、実際に動いてくれたことに心を揺さぶられた。本当に秀人を信じ、心を砕いてくれていたのだと痛感した。

 しかし警察は少なくとも現場にいた事は間違いない上、照島秀人が古山田健を突き落していない、または身元が分からないよう死体を損壊していないことは証明されていないと言い張り、拘束を続けようとしたようだ。

 それでも弁護士との接見拒否はできなかったらしく、一旦事情聴取を打ち切り別室で秀人と話をすることが許された。そこで三宅みやけと名乗った弁護士にこれまでの事情聴取で話した事や刑事の言動について説明すると、秀人は彼からアドバイスを受けながら励まされた。

「明らかに容疑不十分だから、少なくとも今の段階で勾留される心配はない。もう少しすれば、必ず解放されるはずだ。でもまた呼び出しは受けるだろう。今後の受け答えはあなたの言う通り必要最小限にして、話したくないことは黙っていても問題ないから」

 心強い味方が付いたことで安心した。そこで気になっていた点を尋ねた。

「茂田さんの方はどうなっていますか。埼玉でも今、同じように事情聴取していると刑事さん達は言っていましたが、向こうに弁護士さんはついていないのですか」

 すると彼は、複雑な表情をして答えた。

「確かに埼玉でも、同じように事情聴取を受けているようです。私と同じく、弁護士が間に入っていると聞いています。おそらく向こうでも証拠不十分で、逮捕されないよう対処しているでしょう。状況はこちらとほぼ同じだと思います。それに彼は体調に問題があるので、警察も無理な真似は出来ない。ただその分話を聞くにも、時間がかかっているようです」

 聞き捨てならない言葉にどういうことだと尋ねると、彼は何故か言葉を濁し詳しく教えてくれなかった。以前から茂田に、持病があるとは聞いていた。それが悪化したのかと質問したが、高齢なので体調面に不安があるとしか答えてくれなかったのだ。

 秀人は心配になったが、今自分に出来ることは限られている。少しでも早く釈放されるまで、待つしかない。だがもし外へ出られたら、直ぐにでも茂田の所に行って話がしたい。彼の体も心配だ。そう考えていた。



 茂田の元にも刑事がやって来たが、思った以上に早かった。秀人の職場に刑事が現れ連れて行かれたと、彼の周辺を見張っていた仲間から連絡が入った途端だったからである。

 秀人が事情聴取を受けた際、自分の名を出してからここへやってくるだろうと想定していたが、甘かったようだ。警察は健と秀人に関わり合いがあると判明した時点で、茂田についても調べていたに違いない。恐らく事件当日に、二人の姿がどこかで目撃されたか防犯カメラに写っていたのだろう。

 健を突き落としていなければ真実を話すよう瀬良を通じて忠告し、ただし自分の存在は喋らないようにと伝えさせたのは、信じてはいたけれど万が一秀人が犯人だった場合の事態を考えていたからだ。

 もし彼が健を突き落としていたとしても、茂田について隠すかもしれないし、素直に話すことだってありえる。茂田が落としたという、嘘の証言をする可能性だってあった。どちらにしても警察がここへやって来た時、彼はどう茂田について話すかで、対処の仕方を決める基準を設けておいたのだ。

 ただ彼が突き落としていない場合でも、茂田の存在を話したとすれば警察の捜査が予想以上に進んでいるとの判断材料になる。そうした試金石として伏線を張って置いたのだが、相手の動きが予想を超えた為、あの日起こった出来事をありのまま答えようと腹を括った。

 だが自分の寿命が尽きようとしている間際で、あの事件について聞かれるとは驚いた。神様はそう簡単に許してくれないようだ。これまで数々の悪行を重ねた茂田に対し、最後の試練を与えようとしているらしい。

 そんなことを考えながら、ベッドに横たわっていた茂田は、そのままの状態で刑事達からの事情聴取を受けることとなった。

 茂田は末期の大腸がんで、余命半年と言われている。実は刑務所にいた時に癌が発見され、余命二年だと宣告を受けていた。

 その為出所した後は更生保護施設の世話になりながら、定期的に病院へ通院して治療を続けていたのである。それから予定以上の時間は経ったものの、半年前にとうとう体が動かなくなり入院生活を送っていたのだ。

 病状を担当医から説明を受けたらしい二人の刑事は、茂田の体調を気にしながら話を進めることにしたようだ。二人の内、新里と名乗った若い刑事が口火を切った。

「古山田健という人はご存知ですか」

 下手に誤魔化せば、秀人に迷惑がかかる。そう判断した茂田は正直に答えた。

「はい。直接話したことはありませんが、顔と名前は知っています。先日、新聞でも彼の名を見ましたよ」

「彼について知った経緯を教えてください」 

「前にいた名古屋の施設で知り合い、将棋を指す内に意気投合した照島秀人という若者がいましてね。彼が古山田という、かつての悪友から誘われて困っていると相談されました。俺も同じ経験をしていて大阪から名古屋へと移ったので、同じようにすればいいとアドバイスしました。丁度その頃俺は、山岸というかつての空き巣仲間に付きまとわれていて困っており、二人で施設の代表者の相沢さんに施設を移りたいとお願いしたのです。それで彼は大阪に、俺は埼玉へ移ってきました」

「あなたは古山田と話したことが無い。そうおっしゃいましたね。本当ですか。会ったことはあるのですね」

「彼を初めて見たのは、秀人に会う為施設を尋ねて来た時です。その時は事前に話を聞いていた相沢さんを始めとする、施設の人達が追い返していました。その時ちらっとみてあれが例の男か、ずいぶん背の高い奴だと思った覚えがあります。二度目は秀人が大阪へ移る前日に、廃ビルへ呼び出された時です。あの日俺はこっそり施設を抜け出そうとしている彼を見つけ、心配して跡をつけました。彼は外階段を使って、上に昇っていたようです。俺はその階段の存在に気付かなかった為、ビルの中にある階段で三階辺りまで行きました」

 そこでの状況を刑事に説明し、秀人が誰かと言い争う声が聞こえたと伝えた。声の調子から、恐らく以前施設に来た古山田という奴だろうと推測したことも説明した。

「それでどうしましたか」

「しばらく言い争っていましたが途中で秀人が、勝手にしろ! もう健とはこれでお別れだ! と怒鳴ってその場を立ち去る声が聞こえました。その後古山田が後を追いかけようとして何か叫んでいましたが、その後また揉め始めました。最初は秀人が捕まったと思っていたのです。しかし喋っている様子がその前の時と違っていたので、変だと感じながら階段を昇り屋上の扉近くまで辿り着いた時、急に悲鳴が聞こえてドサッと大きな何かがビルから落ちたような音がしたのです。その後屋上から扉に近づいてくる人の気配がしました。私は慌てて階段を下り、見つからないよう三階のフロアに隠れました。そこで誰かが慌てて降りてきたようでしたが、とても暗かったこともあり良く分かりませんでした。そしてしばらくじっとしていたら、また屋上から人の歩く音がしたのです。一体上はどうなっているのかと奇妙に思い、そこで初めて屋上へ出ました。そうしたら秀人が何かを探しているようだったので少しの間、後ろから様子を見ていたのです。すると彼が手摺に捕まりビルの下に何かを見つけ固まっていたので、声をかけました。そして何事かと思い俺も下を覗いた所、ビルとビルの間に人が倒れているのが見えました。それが古山田健だと、彼から聞きました。俺が奴の姿を見たのは、あれが二回目で最後です」

「ビルの下にいる古山田を見て、あなたはどうしましたか」

「あれは古山田で間違いないか、秀人に尋ねました。そしてなぜこんな状況になっているのかこれまでの経緯を確認し、彼とのやり取りの一部始終を聞きました。その上で俺は警察に通報せず、ビルから出ようと提案したのです」

 そう判断した理由も付け加えながら、刑事に全て告げた。

「警察に通報しないように言ったのは、あの状況だと疑われると思ったからですが、後で冷静に考えると遅かれ早かれ秀人の所に警察が来るだろうとは覚悟していましたよ。でもその時になったら、全て話せばいいと思っていたのです。それなのに後日彼の顔が潰されたり、身元が分かるようなものが持ち去られたりと予想外の事態が起こっていると知りました。驚きましたよ。しかしあの時秀人と古山田の他に、誰かがいた事は間違いありません。だからそいつが突き落とした犯人で、身元を隠すためにやったんだろうと思いました。だったら警察がいずれ捕まえてくれるだろう。身元が明らかになったら警察が話を聞きに来るはずだと思っていたら、想像以上に時間が経ってしまった。だから余計に言い出しづらくなって、今に至った訳です。決して二人とも、悪気があった訳ではありません」

 だが刑事は疑わしそうな眼をして、質問を続けた。

「第三、いや照島と古山田とあなた以外ですから、第四の人物がいるというのですね。それは一人ですか」

「そのはずです。私は長く空き巣稼業をしていたので、二人以上の気配かどうかはだいたい分かります。ただ残念ながら、顔は見ていません」

「知っている人か、全く見知らぬ人なのかは声から判断できませんか」

「扉が閉まっていて、少し距離もあったからでしょう。くぐもって聞こえたので、聞き覚えのある声だったかまでは覚えていません。昔の私なら気配だけで判別できたでしょうが、刑務所に入り病気にもかかっていたからでしょう。能力が衰えていたのだと思います」

「あなたが突き落とした、のではないのですか」

 突然核心を突く質問をされたが、動揺することなく首を横に振った。

「違う。俺は古山田に触りもしていない。もし死体を損壊したなら、それなりの痕跡が残っているでしょう。前科者だし、データは警察にあるはずです。まあ身元が分からなかったとはいえ、彼の遺体の周辺に私の痕跡があればとっくに捕まっているでしょうが」

 皮肉を込めて答えるとむっとしたらしく、刑事は声を少し荒げて言った。

「それは古山田の身元を隠す際に、あなたが消し去ったのではないのですか」

 茂田は笑って尋ね返した。

「どうやって。下手に近づけば、それこそ足跡や髪の毛など色んな痕跡が、どこに残るか分からない。それをあの暗闇の中で消し去るなんて不可能だ。寒い夜だったから、俺と秀人は手袋をしていた。だから二人が屋上にいた証拠となる指紋などは、残っていないはずです。しかし足跡を消すような、無駄な真似などしていない。実際発見が遅れたといっても、少しくらい残っていたでしょう。秀人には、靴や着ていた服はすぐ捨てろと指示したからもうないはずだ。しかし俺の靴や服は残してある。そこに置いてあるやつだ。持って行って照合すれば分かる。だが古山田と争った形跡は出ないはずだ。俺が屋上に着いたのは、彼がビルから落ちた後だからな。優秀な警察の科学捜査だったら、そこまで明らかに出来るだろう。あの屋上には、俺達以外の不特定多数の足跡があったかもしれない。それでも古山田と秀人以外で、争った人間の下足痕がもうひとつ残っていたはずだ。そいつが真犯人に違いない。俺が見かけた人影もそいつだと思う。身元が分からないように顔を潰し、所持品を盗んだのもそいつだろう」

 秀人には捨てるよう指示しながら自分が残して置いたのは、無実を証明できるからだと警察にアピールする為だ。しかし実際は既に処分してあり、病室に用意していたのは別の靴で、しかも跡が付きにくいものをわざわざ買ってあった。

 秀人の場合、古山田と会った経緯や動機があることから考えれば、やっていないと証明することは難しいだろう。だが茂田の場合、証拠さえ残っていなければ捕まる可能性は低い。警察もあくまで参考人程度にしか、考えていないはずだ。

 そこで提出した下足痕が一致しなければ、現場に茂田がいたという物証は何もない。証拠になるのは、秀人や自分の証言だけである。そうなれば茂田が本来残した足跡は一体誰のものなのかが不明となり、無理やり犯人に仕立て上げることも難しくなると考えたのだ。

 また提出した靴の跡が残っていなければ、警察は混乱するだろう。もちろん後で真犯人が現れ捕まったなら、間違って別の靴を提出したと言えば多少お叱りを受けたとしても、罪に問われる心配はない。さらに茂田は付け加えた。

「俺には心当たりが三人いた。その内の誰かだろうと睨んでいたが、未だに捕まっていないところをみると、その内の二人には前科があるので違うのかもしれない。そうすれば残りは一人だ。そいつを調べてくれれば分かる」

 すると刑事は、身を乗り出して聞いてきた。

「それは誰ですか」

「違うと言った二人の内、一人は俺に絡んでいた山岸って男だ。あの日だって俺の跡を付け、ビルに来ていたかもしれない。あいつが秀人と古山田が揉めている話を聞いていたとしたら、間違いなく金になると考えただろう。盗みだけでなく、脅しのネタになるものを探しては金にするような下衆げす野郎だったからな。あの時奴が話を聞いていて古山田にその内容を確認していたとすれば、揉めたはずみかカッとなったからかは分からないが、突き落としてしまった可能性があった。だがあいつは、元々古山田とは繋がりがない。だから奴の身元を隠す為に顔まで潰す必要はないから、違うかもしれないとも思っていた」

「なるほど。それなら、違うと言ったもう一人は誰ですか」

「名古屋の施設長の相沢さんだ。彼も昔は悪かったらしく、警察のお世話になった経験があると聞いた。だったら何らかの形跡が残っていたら捕まっているだろうと思ったけれど、違うようだな。それとも捕まった当時にDNAを採取されていないのかもしれないが」

「相沢さんには、古山田を殺す動機があったのですか」

「いや俺と同じで、彼も秀人を心配していたというだけだ。俺達が抜け出すのを見て、跡を付けていたのかもしれない。それで二人が揉めていると知り、秀人が離れた時を狙ってもう誘わないよう、古山田を説得した可能性はある。そこで言い争いになり、突き落としてしまったのかもしれないと思っただけだ。しかし彼が犯人だった場合、わざと突き落としたりはしないだろうから、山岸の場合と同じように古山田の身元が分からない様、顔を潰す必要もない。誤って突き落としてしまったと、素直に警察へ通報すればそれで済む。彼だったらそうするはずだ。もし古山田の死体周辺から全く物証が残っていなかったとしても、彼が犯人だとは考え難い。でも物証は見つかったんだろ」

 情報を引き出そうとしたが、流石に相手は引っかからなかった。

「それは捜査上、お話しできません。しかしあなたの推理は、説得力がありますね。ところでその二人が違うなら、あと一人は誰ですか」

 咳を一つしてから、もったいぶった口調で話し出した。

「秀人と古山田の会話がどういうものだったかは、先ほどお話ししましたよね。警察が私の所に事情を聞きに来たのなら、二人の近辺調査は既に行っているはずです。そこで動機がありそうな人物が一人、出てきませんでしたか」

「なるほど。その人物がそこにいたというのですか」

 刑事が頷いたのを見て、やはり調べが進んでいるのだと確信した。

「考えられるでしょう。古山田は秀人だけでなく、そいつを脅していたのかもしれない。あの場に呼び出されていた可能性もあるでしょう。二年以上前の話ですから防犯カメラなどで、その人物があの場所の近くにいたと証明するのは難しいかもしれません。でも死体の傍に髪の毛が落ちていたり、揉めた際などに着いた皮膚片などが残っていたりすれば、照合はできるでしょう」

 茂田の供述に興味を持ったのか、刑事は身を乗り出すように喋り出した。

「防犯カメラの映像は死体が発見された際、あの周辺のモノは徹底的に探しました。データも残っています。身元が分からなかった頃は、あのビルに近づいたと思われる人物を徹底的に洗いましたが、あなたや照島秀人は施設からいなくなっていた為、捜査対象から漏れていました。しかし身元が判明し繋がりがあると分かった時点で改めて見直した所、施設の近くにあるカメラにあなたと照島秀人の姿が写っていることを確認できたのです。おそらくあなたが言った人物が周辺の防犯カメラに映っているかどうかも再度見直せば、発見できるかもしれません」

「是非調べてください。ところでもし私や秀人が途中で引き返し、古山田の身元が分からないよう細工をしていたとしたら、どこかに写っていてもおかしくないでしょう。そのことを言わないのは、映像に残っていなかったということですか」

 相手の口調が軽くなったため、情報を引き出すつもりでそう質問したが、さすがに通用しなかった。刑事は再び表情を引き締めて答えた。

「それも今は教えられません。しかしあなたが話した人物に対しては、これまでノーマークだったことは確かです。再度映像を見てその人物の姿や所持する車、当然二年以上前に所持していたものを調べなければいけませんが、確認しましょう。それが発見できれば、任意同行を求め事情聴取することができます」

「お願いします。もし私の勘が外れていたなら、今まで話した以上の心当りはありません。全く別件で古山田が仲間等から恨みを買っており、あの場面を利用して殺されたのだとしたら、私や秀人には分かりようがない。そこからは、優秀な愛知県警さんのお仕事です。お願いしますよ」

 茂田の体調を考慮した医師の要請があり、逃走の恐れも無いと判断した刑事はその日の聴取をそこまでで終了させた。

 ただ近い内にまた来ると告げられた為、完全に疑いが晴れた訳ではないようだ。その証拠に病室の窓から見える場所で、刑事が張り込みで使う車が停まっている様子が見えた。

 彼らが帰った後、茂田はこの病院に入る前の事を思い出していた。警察が来る前に手を打ってよかったと胸を撫でる。

 警察に捕まった山岸が騙されたと気付いた場合に備え、念の為に住所を変えた瀬良がしばらく経った後で茂田の元にやって来た。幸いなことに、彼は瀬良や茂田を巻き込むような事は喋らなかったらしい。例え供述したとしても、信じて貰えないと悟ったのだろう。

 そうした動きを確認した上で、報告しに訪ねてくれたようだ。

「上手く行きましたね。これで山岸の兄貴はしばらく外へ出て来られません」

「瀬良のおかげだ。助かったよ。お前があいつの所に行って四日間稼いでくれたおかげで、他の場所からも全て回収できた。万が一すぐに出て来たって、もう心配はいらない。あいつには絶対手が届かない所へ、預けられたからな」

「釈放されることは無いでしょう。未遂に終わったからといって、これまでの前科がありますし、余罪も追及されるはずです。窃盗だけでなく、恐喝の常習犯ですからね。前回は十三年入っていましたし、そう簡単に出て来られませんよ」

「だったら安心だ。これで心置きなく次の行動に移ることが出来る。ありがとう」

「何を水臭い。私は兄さんが計画した作戦通りに動いただけです」

「いや、お前があいつを信じさせる演技をしてくれたおかげだよ」

 そう、これは瀬良が山岸を騙すことができなければ成立しなかった。彼は二〇〇三年に逮捕される前から、茂田の隠し財産の噂を聞きつけ探っていた。

 その為万が一彼が早く出所してきた時の事を考え、時間をかけ作成した偽データをダミーの隠し場所へ埋めて置いたのだが、今回それが役に立った。その一年後に茂田は逮捕され、懲役三年の実刑を受けたのだから、ギリギリのタイミングだったと言える。

 山岸は出所後、予想していた通り茂田の隠し財産を探し始めた。幸いと言っていいのか、その頃茂田は塀の中にいたため彼も情報を集めるばかりしかできず、悶々としていたに違いない。だからこそ茂田が出所した途端に、纏わりついてきたのだ。

 彼は出所すれば、すぐ隠し場所へ足を運ぶと思っていたのだろう。そこが誤算だったようだ。しかし茂田は外で生活する為の財産は、普通に複数の都市銀行やネット銀行と契約し預貯金をしていた。 

 それも普通に入れていたら三回目に逮捕された際、盗んだ金だろうと警察から追及されていたかもしれない。それを避けるため、茂田はかつて盗みに入った先で宝くじの高額当選券を入手した際、それまで稼いできて貯めた現金と交換していたのだ。

 大事に保管されていた為、恐らく当たりクジだろうと予想はしていた。だが初めて調べた時には、その金額に驚愕した。といってこれだけでは簡単に入手できない。銀行の窓口に行き、身分証明などを提示して色々な手続きをしなければいけないからだ。

 そこで茂田は考え、所有者に連絡を取ってくじを購入した日や場所、どういうきっかけだったかなどの詳細を聞き、それまで分散し隠し持っていた現金との交換を提案した。そうすれば当たりくじを使って、堂々と預貯金口座を作ることが出来る。その後は貯金を取り崩しながら生活していれば良く、お金の出所を警察に疑われる心配も無いからだ。

 これは交換する相手にもメリットがあった。銀行に行けば一旦口座に預けなければならない。その手間を省き、現金が手に入るのだ。そうすれば誰にも知られることなく、大金を自由に使える。

 しかも相手は脱税などをしている小悪党で、盗みに入られたことを警察に届けられない。さらには裏金を喉から出る程欲していた。よって交渉成立したのである。そうした方法を、茂田は何度か繰り返していた。

 しかし盗んだ金の処理はそれで良かったが、その他の隠し財産はそう簡単にいかない。それに元々それらを使って金を手に入れるつもりなど、当初からなかった。とはいっても、そのまま放置はできない。いずれ何らかの形で処分しなければと思っていた。

 けれども山岸がうろついていた為、これまで下手に動けなかったのである。それでもしばらくは良かったが、今や状況が変わり早く回収する必要が出て来た。そこで瀬良に相談し、作戦を立てたのだ。

 用意していたダミーの場所に瀬良が誘導している間、茂田は各地に拡散しておいた隠し財産を全て掘り起こし、他の財産と共に銀行の貸金庫へ預け入れ、それらを弁護士に委託したのである。自分にもしもの事があれば、適正な処分がされるよう指示書を事前にしたためる時間も稼ぐことができた。

 山岸が本物のデータを基に作成された偽のデータを見れば、それを使って恐喝行為に出るだろうと予想していた。しかしこれほど早く動くとは、想像以上だった。余程お金に困っていたのだろう。おかげで大きな懸案事項が一つ、解決できた。

 後は秀人の件をなんとかしなければならない。命が尽きるまでに、これだけは絶対解決しておかなければならなかった。それができなければこれまで空き巣を繰り返す度、家主の弱みを握る行為を繰り返してきたことが無駄になってしまう。茂田は改めてそう心に誓ったのだ。

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