第四章

 健の事件から、二年余りの月日が流れた。大阪の整備工場での勤務も三年目に入り、二十歳になった秀人はすでに更生施設を出てアパートを借り、独り暮らしをしていた。整備士の資格も二級まで取得し、今は一級取得を目指している。

 そうした働く姿勢や技術の成長なども評価され、少しだが給与も上がった。慎ましい生活を心がけていたこともあり、今では貯金も増えて経済的にも安定し始めている。更には社長の勧めもあり、高校卒業資格を得る為に大検の勉強も始めていた。

 父と離れたいが為にわざと高校に進まなかったが、やはり学歴はこの社会で必要だ。それに秀人は元々成績が良く、勉強が嫌いなわけでは無かった。それどころか生活が落ち着き始めてから、もっと学んでおくべきだったとの後悔が生れた為でもある。

 それに将来の事を考え、大学への進学も視野に入れ始めた。これからも整備工場で働き続けるならば、必要ないのかもしれない。だがいずれ独立して自分で会社を経営しようと思えば、それなりの知識と学歴はあった方が良い。

 目標が大きすぎるかもしれないけれど、いつかは叔父達や母を雇い入れられるようになりたい、と考えるようになった。もしも父の会社が潰れた時の備えの意味もあったが、奴を超えたいという願望を持つようになったからでもある。

 それに家庭を持ちいずれ子供を養おうと考えた時、消せない愚かな過去を上塗りできるほどの自信と経歴が欲しかったのだ。

 しかし明るい未来を描く上で、何も障害がなかったわけではない。罪を犯したとはいえ、未成年であった秀人の名は公になっていないはずである。しかしネット上では未成年が殺人など重大事件を起こす度に、同じく過去の犯罪者として実名が晒される場合があった。 

 扱われ方や誹謗中傷の類は、世間でも大きく騒がれた犯人と比べれば些細なものだ。それでも詐欺事件で身内が痛い目に遭ったのか、それとも単なる自己の欲求不満解消の為なのかは不明だが、執拗に書き込む輩はなかなか減らなかった。

 自分の名をエゴサーチするからいけないのかもしれないが、工場に勤める同僚の中には、人の名を検索して話題を拾うもの好きもいたため、時折彼らから

「またお前の名前が載っていたぞ」

 と教えられるケースもあったのだ。それでもそうした事実を広められたり、からかわれたりされなかったことだけは有難かった。調べてはいないけれど、恐らくそういう彼もまた同じような境遇にいたからかもしれない。

 過去の犯した罪は、消して消えない。それは十分承知している。だからこそ前を向いて今できることを懸命に取り組むことこそが、自分のできる精一杯の贖罪(しょくざい)だと思っていた。

 しかしそれ以上に、まだ片付いていない懸念事項がある。秀人はあの事件を一日も忘れた事などない。一人暮らしを始めた当初は、部屋から出る前には必ずネット検索をし、健の身元が判明したかどうか、事件に進捗があったかを調べることが日課となっていた程だった。警察が動きだしている様子が無いと分かり安心してからでないと、外出することが出来なかった位だ。

 けれど最も心配していた茂田の髪の毛などが、屋上から発見されなかったことは幸いだった。もし見つかっていれば、とっくの昔に彼の元へ警察は辿り着いているだろう。そうなれば、少なくともそうした情報が施設経由で聞こえてきてもおかしくない。

 そして次は健と関係が深かった自分の所に、刑事が事情聴取の為にやってきたはずだ。未だにそのような動きがない為、彼に繋がるものは採取されなかったと考えていいだろう。 

 時間が経過するにつれ、身元不明のまま疑わしい人物が現れたとの報道がいつまでもされないことに秀人は安堵し慣れ始めた。その為やがて日課だった行為は三日に一回から週に一回と減り、最近では月に一回のペースとなっていた。

 ただ彼が亡くなった月命日に手を合わせる習慣だけは身に付いていた為、それ以上少なくなることは無かった。

 さらにこの二年余りの間で、秀人は社会に出た出所者達のドキュメンタリーや情報に、関心を持つようになった。幼い頃から身近に学べる環境ではあったけれど、実際に自分自身が同じ立場となったことで、共感度が増したからだろう。

 特に関心を持ったのは、受刑者などに特化した求人情報誌が発行されているという話題だった。全国の刑務所や拘置所、少年院、更生保護施設などに配布され、年四回のペースで発行しているらしい。受刑者本人が希望すれば、郵送もしているそうだ。求人しているのは建設業や飲食業、製造業やタクシー業といった会社で二十数社あるという。

 秀人が少年院から出た頃にはまだなかった、画期的なものだ。もし当時あれば自分も興味深く見ていただろうし、活用していたかもしれない。やはり出所者達の就職が難しいからこそ、こうした取り組みが行われているのだろう。

 しかも付属している履歴書が、また変わっていた。非行歴や犯行歴だけでなく再犯しないための決意や具体策を書く欄があるのだ。さらには少年院または刑務所などの施設内における自分の行い、入れ墨の有無、被害者との関わりなどを書く項目もあるという。

 掲載されている求人側の情報も斬新だった。仕事内容や給与の他に採用できない罪状と病状、出所まで一年を切った時点である事、といった応募可能なタイミングなども記載されていた。

 秀人の場合は更生施設を通じて紹介して貰い、幸いながらも今の職場に満足している。しかし自分の過去をさらけ出してはいない。そういう点では、このような求人情報に乗っている企業が羨ましく思えた。

 発行者は、大手情報通信系の企業に勤めていた女性だ。こうした取り組みをするきっかけは、引きこもり、重大なトラウマがある、前科前歴があるという項目に一つでも当てはまれば、即採用している解体業の社長に声をかけられたからだという。

 その社長は採用した人材を入社後に育成する学校を作ろうと計画していて、そこの講師にと依頼したらしい。女性は丁度人材育成の領域に興味を持っていて転職を考えていた時期だった為、勉強にもなるからいい機会だと思ったそうだ。

 そこで現状を知ろうと、出所者の支援団体や自立援助ホームでボランティア活動に参加する内、犯罪や非行歴のある人の社会復帰がいかに困難かという現実を知り、会社を立ち上げたという。

 秀人自身も実感しているが、更生するには居場所とお金、そして仕事の問題が大きい。女性自身も、かつて非行に走った過去があるらしい。相沢や和久など施設の責任者や職員達も、過去に補導歴や犯罪歴のある人が多かった。そうした人達の方が問題意識を強く持ちやすいから、このような取り組みを行えるのだろう。

 しかし募集するだけでは、根本的な問題解決にならない。入社が決まっても労働環境が劣悪だったり、受け入れ態勢が整っていなかったりすれば、長く働き続けられないからだ。

 そうした不安を取り除くためだろう。発行元では求人情報を掲載したいと依頼があれば、できるだけその企業の社長と面談を行っているらしい。そこで様々な基準を元に、問題ないと判断してから掲載を決めるという。

 どうして出所者を雇用したいと思ったかを確認し、単に人手不足だと感じたら断るそうだ。後は寮や社宅などの住居支援と、希望があった際に身元引受ができるかどうか、出所に当たり支度金の支給や給料の前貸しなどできるか、が最低条件らしい。

 出所者と向き合い支えて行こうとする会社の風土が重要で、問題があっても会社全体で解決しようという覚悟が社長だけでなく、社員全体に無いとなかなか上手くいかないと考えているからだという。

 さらには受け入れたい気持ちがあるけれど、何かあったら不安だと考える企業には掲載者側も責任を取れないので、辞めた方が良いと正直に伝えるそうだ。

 求人を掲載する企業は建設業界が多く、基本的には一生懸命働いてくれれば過去は関係ないと考える会社も少なくないらしい。しかし人には向き不向きがある。無理をして働いても続かない。出来れば色々な選択肢の中から合った仕事を選べるようにしたいと考え、今はあらゆる業種、職種の求人を掲載するように努めているとのことだった。

 その女性社長が持った危惧は、とても的を射ていると感じた。秀人が勤める自動車整備工場も体力は使うけれども、基本的に部品の修理など細かな作業が中心である。自分だったら建設業や解体業といった体力勝負の仕事には向いていないだろうし、机に向ってばかりの事務職も勤まるとは思えない。

 働かなければ食べていけない状況ならば我儘わがままも言っていられず、多少の我慢はできるだろう。しかしどこかで挫折する時が来るに違いなかった。社長は実際に掲載する仕事がどんな内容か理解した上で載せたいと考え、解体業者の現場作業を体験したことがあるという。そこで想像以上に過酷であると知り、出所者の立場で考えるようになったそうだ。

 人手不足の業界は過酷な分、出所者だったら耐えろとこき使われるかもしれないケースを恐れたのも当然だし、再犯防止上から逆効果になると考えたのも無理はない。

 しかも出所者は応募するにあたり、犯罪歴や事件を起こしたきっかけなど、腹を括らないと書けない項目を履歴書に記入するのだ。一週間悩んで書き上げた人や、それでも空欄が埋まらない場合もあるらしい。

 そういった本人の気持ちも含めて向き合う覚悟を持ち、受け入れてくれる会社で無ければ、働き続けたいと思えないと考えるのは当然だ。その社長曰く、なるべくそういった企業を探し、繋げようとしているという。

 それでも現実は厳しいようだ。法人としての収入は基本的に企業からの広告掲載料が主で、制作費や印刷費、配送料、スタッフの給料などが経費としてかかる。黒字化はしているが、社長自体は報酬を受け取っておらず、納棺のうかん師としての収入で生活しているそうだ。よって成功しているとは言い難い。

 ただそれも、理由があってだという。ある時出資を期待して声をかけたところ誰も振り向いてくれなかったが、その中で納棺師になれば収入にもなるし、出所者をその道のプロに育てていけるからとアドバイスを受けたそうだ。

 どうやら納棺師は度胸があり人の痛みが分かるから、非行歴がある人が向いているとその人は言ったらしい。それでその人に弟子入りしたというから、あくまで出所者支援の一環として行動している結果だと思われる。

 日本は今や、あらゆる業界で人手不足が続いていると聞く。前述の奇妙な採用方針を取っている解体業の社長の元には、うちの子の面倒を見て欲しいという親からの依頼が多いそうだ。中高年を含めた引きこもりは、全国で百万人を超えているというニュースが話題になった程だからだろう。

 その為犯罪歴の有無にかかわらず、引き籠りも含めてどんな人でも育てていける体制が、これからの企業にとって必要となる事は間違いない。そう考えると、その社長がしている行動は大いに意義がある。

 ただ今は多くのメディアに取り上げられて注目を集めているが、出所者へ向けられる世間からの視線は決してポジティブに変わってはいないと痛感しているそうだ。そこが変わらなければどうしようもないだろう。秀人もその点がネックだと思っていた。

 入社してもすぐ逃げるとか、問題を起こさないかというイメージがあるのはやむを得ない。だが一般企業の採用でも同じだろう。警察官や教師でさえ、頻繁に問題を起こしている時代なのだから。

 国が掲げている働き方改革とやらも、外国人や高齢者、女性の活用に加えて今は引き籠りの人材などへ目が向けられがちである。だが秀人からすれば、そこに出所者が含まれるようにならないといけないのではないか、と考えるようになった。

 その女性社長も再犯防止や国費の観点から、日本の為にはむしろそうした人材の教育や活用は、いずれ欠かせなくなる時代が来るかもしれないと述べている。だからこそ出所者だからといって、お願いしますと頭を下げるのは違うのではないかと主張していた。

 受け入れた企業の教育次第では、大きな戦力になって活躍してくれるかもしれない。雇って貰った事に恩義を感じて一生懸命働き、会社の要になる人も出てくるはずだからだ。 

 雇用してみないと分からないのは、一般求人と同じである。良い前例が多く出てくれば、他の出所者達に勇気を与え、事業が回る仕組みさえ構築できれば、助成金や賛助金に頼らなくても存続が可能となるだろう。だから求人誌を発行する会社は法人にした、とも言っていた。

 今の掲載企業は二〇一九年の九月時点で、延べ四十社以上で二百名余りが応募し、内定者が五十名弱、就業中が二十名近くいるそうだ。今はその就業中の人達と出来る限り連絡を取り合い、励まし愚痴を聞き、就業が続くようサポートしているらしい。

 求人情報誌なんて、通常はそこまでしないだろう。そこはやはり出所者達が孤独を感じないよう、見守り支える人がいると知って貰う点が重要だと考えているからに違いない。

 そうした中で、最も秀人の心に残った社長の言葉があった。それは過ちを犯したとしても、人は本気でやり直そうと思えばきっとできる、そう心から思わせることが大切だ。人は誰でも一歩間違えれば加害者になる可能性があり、どういったタイミングで闇に落ちるか分からない。

 それでもどん底の中で明るい未来を思い描けるか、それを実現する為に努力できるかが鍵になる。人生はイメージした通りになり、全ての人間は過去を価値に変えられるはずなのだ。間違いを犯したとしても、そこから人の役に立つことをして、最後に笑って死ねたらそれも喜劇、という言葉も引用していた。

 世間の目が善と悪は表裏一体であり、誰でも悪とされる側に落ちるかもしれないと思えば、差別や生き辛さのない社会になるのだろう。早くそういう時代が来ないだろうか、と秀人も思う。いや、いずれそうした取り組みをする側に、自分が立てないだろうか。そんな事を考えるようになっていたのである。

 しかし健が亡くなって二年と半年が過ぎ、東京では間もなくオリンピックが開催されると騒いでいたある日、恐れていたことが起きた。朝立ち上げたパソコンのネットニュースで彼の名前が流れていたのである。見た瞬間は心臓が飛び出るほど驚いた。

 今更何故という思いと、とうとう来たかという複雑な心情が交差する中、秀人はあらゆるサイトを開いて検索した。

 すると身元が判明したのは、意外な線からだと分かった。その記事によると、ある詐欺グループが検挙された際、健の名前が出たという。どうやら捕まった人間達の中で、かつて秀人をオレオレ詐欺に誘った先輩達が含まれていたようだ。

 彼らは逮捕された時、二年以上前に姿をくらました健が、詐欺グループについて告発したのではないかと疑ったらしい。そこで警察は彼の人相や年恰好を尋ねて捜査した所、身元不明になっている若者との特徴が酷似していると気付いたのである。

 そこから彼の実家へ捜索が入り指紋やDNAなどを採取した結果、二年半前に廃ビルで発見された死体と一致したようだ。長く捜査が行き詰っていた事件は、被害者の名前が古山田健と判明したことで急転直下の展開となり、警察はそれまで伏せていた情報の一部を公開した。

 長期間身元が判明しなかった理由の一つとして、健の親が行方不明の届けを出していなかった点が挙げられていた。この時初めて知ったが、健は秀人が逮捕された事件を機に実家を出ていたらしく、ある先輩の家で共同生活を送っていたようだ。

 彼が生れた時には既に母子家庭だった。、また秀人と同じく幼い頃より、母親から虐待を受けていたと聞いている。さらに水商売をしていた母親が、次から次へ男を家に呼び込んでいた事情もあり、時には連れ込んでいた男からもひどい扱いを受けていたらしい。

 そんな境遇だったからこそ秀人は彼と仲が良くなり、中学時代から悪さをしている先輩達の家を共に転々とするようになったのだ。

 彼は高校受験もせず、中学を卒業した時点で黙って家を抜け出してばかりいて、秀人や仲間達と一緒でなければ帰ることなど、ほとんど無くなっていた。

 彼の母親にとって、男と暮らす為には健が足手まといだったのだろう。彼がいない事が多くなったので、これ幸いとばかりにそれまで以上好き勝手な生活を送っていたらしい。当然行方不明の届けなど出すはずもなく、どこで何をしているかなど気にもしていなかったようだ。

 それなのに突然お宅の息子が二年以上も身元不明の死体として警察に保管されていたと聞かされ、さすがの母親も驚いたらしい。その時既に彼の姿を見なくなってから三年以上も経っていたという。しかも誰かに殺された可能性があるというのだから、心中穏やかでは無かったはずだ。

 被害者とはいえ、長い間息子の行方を捜すどころか放置していたと公表され、世間が騒ぎ出したからだろう。本音では嫌々だったに違いないが、遺体の引き取りは行ったらしい。

 しかし彼の母親を良く知っている秀人は、これほど大きな事件にならなければ引き取り拒否さえしかねなかっただろうと思っていた。それほど彼女は実の息子に対して無関心であり、邪魔者扱いをしていたのだ。

 この事件は被害者の生い立ちも特殊だった為、テレビのワイドショーなどでも連日のように大きく取り上げられた。そうなると必ず現れるのが、健を知るというかつての同級生達である。

 彼、彼女達による証言から、親に見放された可哀そうな人物像が語られたかと思えば、悪さばかりをする不良少年だった一面も明らかにされていた。

 そうした情報を元に訳知り顔をしたコメンテーターなどは、健がかつて詐欺グループの一員であったため、相当な恨みを買っていたはずだと決めつけていた。

 よって執拗なほど潰され焼かれた顔の状態や手の指紋まで消された残虐な行為は、健の身元を隠すだけではなく、復讐された可能性もあると異口同音に主張していたのである。

 また仲間割れ説を唱える元刑事だったというジャーナリスト達も登場し、好き勝手な推測を語っては不遇な少年時代を送った彼をあわれんだ。社会の闇を指摘し、政府や自治体の無策を非難する者までいた。

 秀人からすればそうだと納得できる意見はほんの一握りで、ほとんどが的外れな指摘ばかりだった。テレビに出ているような奴らに、自分達が味わってきた屈辱など理解できるはずがない。馬鹿馬鹿しい話が余りにも多すぎてうんざりしたが、それでも警察がどう動くか気になった為、地上波に加えてネットによる情報収集は欠かせなくなった。

 これまで茂田が突き落とした、またははずみで揉めて健が落ちたのかもしれないと考えていたけれど、顔を潰すなど身元を隠す徹底ぶりにひっかかりを覚えていた。あの時は二人共、名古屋を去るタイミングだった。だから少しでも時間稼ぎをする為身元を隠そうとしたのではと想像していたが、そこまでやるだろうかと改めて疑問が湧いた。

 彼は六十年近く窃盗を繰り返しながらも、傷害事件を起こしていない。彼が付いた師匠の教えでそれだけは駄目だと教えられたらしく、守り通してきたと聞いた記憶がある。そんな彼が、例え既に亡くなっていただろうとはいえ、健の顔を執拗に潰すような残忍過ぎる行為をするとはどうしても考え難い。

 そこであれから連絡を取っていなかった茂田に、話を聞いてみたくなった。だが今動けば、警察に怪しまれるかもしれないと思い止まった。健の身元が明らかになったなら、近い内に秀人の名が出るだろう。

 そうすればまずは少年院から出た後に入った、あの名古屋の施設に刑事達が行くはずだ。相沢もさすがに嘘はつけないだろうから、秀人が大阪へ移ったと伝えるに違いない。

 死亡推定日は死体発見より七、八日前だと報道されていたが、詳細な時刻まで特定されているかどうかは不明だった。もし詳しく分かっているとすれば、健が死んだ日の翌日に名古屋を離れた秀人は、間違いなく疑われるだろう。

 つまり警察は今日、明日にでもここへやってくるかもしれない。そんな時に茂田と連絡を取ったと分かれば、彼にも疑いがかかる恐れがあった。それだけは、絶対に避けなければならない。

 覚悟はしていたが、近い内に刑事から事情聴取を受けることは間違いないだろう。だがこの二年余りという長い間に、その時が訪れた際はどう答えるかを何度も考えてきた。日本の警察は優秀だ。下手に嘘をついても、健が秀人につきまとっていた事や脅されて困っていた事情を知った上で、取り調べをするだろう。

 大阪に移った理由も、健が原因であると相沢は知っている。もしかすると施設で働いていた他の人達も、詳しく聞いているかもしれない。殺人事件となれば、彼らも秀人を庇うような真似などしないだろう。そうなると、できるだけ正直に話すしかない。

 あの日健に呼び出された所を、どこかで誰かが見ていた可能性もある。それに茂田の物は発見されていないようだが、屋上やその周辺から秀人の髪の毛など見つかっているかもしれない。そうなれば、言い逃れできなくなる。だからそれも、話さざるを得ないだろう。

 しかし自分は、決して彼を殺してはいない。それでも動機があると言われれば否定できない為、嘘をつけばつくほど疑われるはずだ。よって話しても良いことは、素直に喋ろうと決めていた。

 あの日呼び出され仲間に入るよう誘いを受けたが、秀人はそれを断り逃げた。だがその後彼の悲鳴が聞こえ屋上に戻った所、彼が居なくなっていたのでビルの下を覗いたら落ちていた。そこで怖くなって、その場から立ち去り施設へ戻った。次の日に大阪へ移る予定だったから、何とか逃げ通せると思っていたと言えばいい。

 靴や当時来ていた服も捨てたと話そう。もうずいぶん時間も経っているから証明は出来ないが、真実を話せば話す程何か隠しているとは思われ難いはずだ。秀人が隠さなければいけないのはただ一点、茂田についてだけである。

 彼については、知らないと言えば通るはずだ。例えあの日、彼も施設を抜け出していたと相沢や他の施設の人間が話していたとしたって、一緒に出たわけではないし戻った訳でもない。だから自分が黙ってさえいれば、関わっているとは思われないだろう。

 警察も秀人が名古屋の施設にいる際、茂田と仲が良かった様子を把握していたとしても、彼と健とは直接関わっていない。さすがに秀人を守る為に健を殺したなんて考えないはずだ。秀人がビルから転落した後の健を見たと話せば、自分だけが疑われるに違いない。

 問題はその後だ。見ただけで突き落としていないと、必ず信じて貰わなければならない。持ち物だって何も持ち去っていないし、まして顔を潰す勇気などないと証言するつもりだ。

 実際していないから、ビルの屋上などに残っていただろう足跡や何らかの物証が、彼が落ちた地上の近辺にあるはずもない。彼に近づくなんて怖かったからできなかったし、周辺を歩いて下手に証拠を残さない方が良いと、茂田から受けた忠告を素直に聞いたのは正解だった。

 もちろんビルから落ちた彼を上から見た時はビニールシートなど被っていなかったし、財布もウォレトチェーンが上からうっすらと見えたので持っていたはずだ。翌日大阪へ移り、しばらくしてニュースが流れ身元不明の男性がいると秀人は知った。

 それを聞いて自分以外の誰かが突き落とし、身元が分からないように工作したのだと思った。そう言えばいい。そこで関わり合いたくない為に、悪いと思ったが今まで黙っていた事にしよう。

 早く更生し社会人として自立したかったからだと主張すれば、今の自分の評判から考えると信じて貰えるのではないか。そう秀人は、淡い希望を持っていた。しかしもう一方で秀人は嘘をついていると警察が言い張り、最悪の場合は状況証拠だけで逮捕され、刑務所に入れられてしまう可能性もあると恐れた。

 世間や警察は前科者に対して厳しい。冤罪だっていつまで経っても無くならないのが現状だ。万が一最悪な事態を招いた場合は、そういう運命だったと諦めるしかないのだろうか。それでも無実だと言い続けることだけは、諦めないでおこう。真犯人を知らない秀人が出来ることはそれだけだ。

 もし茂田が本当の犯人なら、名乗り出てくれるかもしれない。またはあの時自分も現場にいたが、秀人ではないと間違いなく証言してくれるだろう。ただ現れなかったとしても、自分からは彼を巻き込まないと心に決めていた。

 そうして色々悩み考えていた時、秀人の職場に見知らぬ人が現れた。先輩の一人が応対してくれ、呼び出されたのだ。

「秀人、お前にお客さんだ。昔の友人のお爺さんらしい。詳しい事情は分からないが、聞きたいことがあるようだ。少し休みを取っていいから、話をしてきていいぞ」

 言われるがまま外に出て尋ねて来た人物を見たが、全く見覚えのない老人だった。しかしかつての友人の身内と言われた時点で、若干警戒はしていた。

 もしかすると健に関わりがある人物か、昔の悪友関係かもしれない。そう考え工場の人達に話を聞かれないよう、少し離れた所にある公園まで移動するよう促した。

 すると向こうもその方が都合良かったらしく、素直についてきた。そこで周囲に誰もいないと確認した彼は、思わぬ名を告げたのである。

「俺は君と名古屋の施設で一緒だった、茂田昭雄の昔の後輩で瀬良と言う。兄さんの頼みで、君に伝言する為ここへ来た。手紙などに書けば後々残ると厄介だし、電話も通話記録から警察に辿られる可能性があるからだ。よって口頭でしか言わない。だから良く聞け」  

 秀人が黙って頷くと、彼は話し出した。

「例の件で身元が判明した今、君が警察から事情を聞かれることを避ける手は無い。恐らく時間の問題だろう。だからその時にはどう話せばよいか、アドバイスする。いいか。自分が無実なら、事実だけを述べれば良い。ただし茂田については話すな。もし警察に関係を聞かれても、将棋を指したなど差し障りのないこと以外は黙っておけ。いいな」

 瀬良と名乗った老人の目は、真剣で恐ろしかった。茂田の後輩というのだから、かつて窃盗をしていた犯罪者なのだろう。その迫力には、首を縦に振るしかなかった。彼の伝言の内容は既に秀人が考えていた事とほぼ同じだった為、断る必要が無かったからでもある。 

 しかし茂田本人から、自分については黙っていろと指示している点に違和感を覚えた。やはり健を突き落とした犯人は、彼なのだろうか。

 事件から二年以上経った時点でも、彼の所に警察は訪れていない。つまり現場に彼がいた痕跡は、見つからなかったのだろう。だから秀人さえ黙っていれば、捕まる恐れが無いと考えたのかもしれない。

 いや、その場合は秀人が無実なら、とは言わないはずだ。それとも意図的にそう言わせ、あざむいているのだろうか。

 だがその後瀬良が続けて告げたその理由には、やや予想外の話が含まれていた。

「君が犯人で無かったならば警察は恐らくあの場所で、少なくとも四人の足跡を発見しているはずだ。それは被害者と君と茂田、そして真犯人のものだろう。警察は君の所へ訪ねて来た場合、一緒にいた人間がいるはずだと必ず聞いてくるに違いない。最初は知らないと言い通せ。いたかもしれないが気づかなかったと言えばいい。もし君が無実であるにも関わらず、証拠不十分な状態で逮捕されても心配するな。警察が自白を強要し起訴まで持ちこもうとしたなら、その時は茂田が、自分から出頭して現場にいたと証言する。だから安心しろと言っていた」

 つまり茂田は、自分だけ逃げるつもりはないらしい。さらに彼は続けた。

「君には捨てろと指示したが、茂田はあの時に履いていた靴を今でも持っている。それがあれば警察は必ず信じるはずだし、信用せざるを得ない。そこで現場にいた人間が真犯人は別にいると言えば、君が無実の罪に陥れられる可能性は低くなる。そして彼によれば、怪しい人物が三人いるそうだ。その人物を調べて欲しいと証言すれば、警察は真実を明らかにしてくれるだろう。だから君が無実ならば、心配することはない」 

 そう言って立ち去ろうとしたため、秀人は呼び止めて聞いた。

「その三人というのは。一体誰ですか」

 だが彼は首を横に振った。

「俺は今話したことしか聞いていないし、何の件について言っているかも詳細は一切知らされていない。茂田から君への伝言は以上だ。俺は彼に託された通りの言葉を口にしただけで、答えられることは何もない」

 そう言い残し、瀬良が再び去ろうとしたので秀人は慌てて引き止めた。

「ちょっと待って下さい。伝言は確かに聞きましたから、その件について質問はしません。ただ茂田さんの事を、教えてください。あの人は今どうされていますか。埼玉で仕事を続けているのですか。それともまだ彼に付き纏っている人がいて、別の所に移られましたか。以前大病されたと聞いていますが、大丈夫でしょうか。お元気でいらっしゃいますか」

 すると彼はゆっくりと振り向き、再び誰もいないと確認するかのように辺りを見回してから口を開いた。

「あの人は埼玉の施設を出てから、そこで紹介された仕事場に近いアパートで暮らしているよ。付き纏っている奴の件は、もう気にしなくてよくなったから大丈夫だ。体の方はなんとか大丈夫そうだよ。もちろんもう七十五を過ぎ、持病もあるからピンピンしているとは言えないが、それも君が心配する程ではない。だがそう言っていたと伝えておくよ。あの人も喜ぶだろう」

 それまでは単なる使者として固い表情をしていた老人も、茂田の個人的な話題になった途端、柔らかい顔つきに変わった。年齢とその口振りから、彼をとても慕っている人だということが伝わってくる。

 だが彼の体調に関して言及した時、若干目が泳いだように見えた。もしかすると本当は具合が悪いのかもしれない。といって目の前の老人が、素直に口を割るとも思えなかった。

 そうした考えが顔に出たのか、質問が飛んできた。

「君の方こそ体調を崩したりはしていないか。仕事は順調なのか。施設を出て暮らししているとは思うが、生活に困ってはいないのか」

「僕は元気です。仕事もいい先輩達のおかげで、なんとか続けられています。ここ最近は貯金もできて、生活が少し楽になりました。かつての悪友達との繋がりも、今は完全に無くなっています」

 秀人の言葉に彼は相好を崩し、心から喜んでくれているようだった。まるで茂田のような、優しい眼差しを向けてくれたのである。そして言った。

「そうか。それは良かった。あの人も心配事が減って、少しは気が楽になるだろう。彼女はできたかい。若いんだ。好きな人の一人や二人はいるだろう」

 これには首を大きく横に振った。

「そんな人はいません。ようやく独り立ちできたばかりですから、そんな余裕もありませんし、僕なんかに彼女なんてできませんよ」

「そんなことはない。あの人から少し聞いて知っているが、君は過去に過ちを犯したかもしれない。でもちゃんと罪を償っているし、ある意味被害者でもあると言っていいだろう。だから必要以上に、自分を卑下ひげすることはない。まだ若いんだ。今のようにしっかりとした生活を続けていればやり直せるし、理解してくれる女性も必ず現れる。今後結婚して子供を産み、家庭をつくることだってできるだろう。諦めるんじゃない。俺達のように、長く犯罪を続けてきた人間とは違う。あの人だって、きっと君が幸せになる事を願っている。それが老い先短い俺達爺さんにとって、数少ない希望だ。それだけは忘れないで欲しい」

 そう言い残し、今度こそ彼はその場から去って行った。

 秀人は考えた。手紙を書いたとしても、すぐに燃やすなどして処分すればいいはずだ。それでも書かなかったのは、秀人を信じていないからかもしれない。警察が来て茂田の存在が分かれば困ると思ったのではないか、と一瞬疑念を持った。

 それにしても彼は真犯人の目星が三人いるといったが、それは本当なのだろうか。しかも秀人が無実である場合、と念を押している点が気にかかる。彼は秀人が犯人かもしれない、と疑ってもいるらしい。それを知り、寂しい思いがした。

 といってあの時の状況から考えれば、それも止むを得ないのも事実だ。ビルを後にして施設に戻る際、帰る時間をずらそうと二人は途中で別れた。あの後秀人がビルに引き返し、健の身元が分からないよう細工した、と彼が考えたっておかしくない。

 そういう秀人も、茂田がやったのかもしれないと勘ぐっていたのだからお互い様だ。しかしそう断定する証拠もないし、第一そこまでするとは信じられなかった為、彼を巻き込まないと決めていただけである。

 けれども彼の言う通り警察があの屋上で四人分の足跡を発見していたならば、秀人の知らない人物がもう一人、つまり茂田以外の真犯人がいたことになる。しかも疑わしい人物を、三人まで絞っているというのだ。

 ということは、彼が犯人ではないのだろう。いやそれも自分が逃げたいから、嘘をついている可能性もゼロではない。

 秀人の頭の中は混乱した。一体何が真実なのか。茂田を信じて良いものなのかどうか。再び悩み苦しむ日々が続いた。



 廃ビルで発見された死体の身元が不明のまま捜査は難航し、時間の経過とともに本部も縮小された為、道安と新里も通常業務に戻っていた。

 しかし事件から二年余りが過ぎた頃、ある詐欺グループが一斉検挙により捕まったことで、再び事件は動き出したのである。詐欺集団の捜査の中で押収した資料などを元に、受け子など犯罪に関わった人物で漏れはないかを確認していたところ、気になる証言をした者がいたからだ。

「以前受け子をしていた奴が姿を消し、連絡が付かない。そいつは昔、同じ仲間の受け子を逮捕させる為に、情報をリークした前歴がある。今回もそいつが俺達を売ったんだろう」と刑事に迫ったのである。

 行方不明になった人物の名は、古山田健という。そこで彼の所在を他の仲間達にも確認した所、二年以上前からいなくなっていると皆が口を揃えた。そこで母親が住む家を尋ね状況を聞くと、彼は二年どころかもう三年以上家に寄りついていないと言われたのだ。

 しかも母親は息子がどこで何をしているか本当に知らないだけでなく、捜索願も出していなかったのである。よって念の為にと彼のDNAが分かるものを取り寄せ調べた所、驚いたことに廃ビルから転落死した身元不明の若者のDNAと一致したのだ。

 その事実を詐欺で捕まった奴らに告げると、皆一様に驚きの声を上げた。彼らは古山田が逃げたとばかり思っていたらしく、まさか死んでいるとは想像もしていなかったようだ。

 身元が判明した為、捜査本部は一気に拡大された。道安と新里も再召集を受け、古山田健の交友関係や姿を消す前の足取りなどを調べ始めた。

 すると彼がかつて、罠に嵌めた人物の名が浮上した。その名は照島秀人という。さらにはその男が少年院から出た後、古山田は何故か彼をしつこく仲間に引き入れようとしていた、との情報を得たのである。

「ちょっと待ってください。照島秀人と言う名前を、どこかで聞いた覚えがあります。確か以前地取り捜査をしていた際、出ていませんでしたか」

 新里の発言を確かめる為、道安は過去の捜査資料を遡って読み直した。すると死体が発見された廃ビル近くにある更生施設を訪れた時、提出して貰ったリストの中に彼の名が見つかった。事件の翌日に大阪の施設へ移っていたので、新里の記憶に残っていたようだ。 

 しかし彼の所在は確認され、しかも施設の移動は一カ月前から決まっていたとの説明を受け、身元不明者とは一致しないと分かった。その為にそれ以上の捜査はしていない。だが死亡した古山田と接点があったとなれば、事件に関わっている可能性も出てくる。

「捜査資料にもありますが、施設の人間から聞いた当時の話によると、照島秀人は少年院を出た後かつての悪友が付き纏ってきたので、関係を断ち切るために別の施設へ移ったと書かれています。確かに私の記憶にも残っています。再犯を防ぐ取り組みの一環として、複数の施設間で相互受け入れしていると聞きました。当時ではかなり画期的な活動だとマスコミも取り上げていましたから、よく覚えています」

「照島に付き纏っていたかつての悪友というのが古山田なら、しつこく言い寄ってくる彼が邪魔になり、殺した可能性も出てくるな」

「そうですね。ただ逮捕された詐欺集団達から古山田について聴取した際に確認しましたが、罠に嵌めた照島という人物は逮捕されても誰一人仲間の名前を口にしなかったようです。しかしそれで助かったという話は出ていましたが、再度仲間に入れようとしたとは聞いていません。それなのに、何故古山田は照島に付きまとっていたのでしょうか」

「その点はもう一度、かつての仲間達から確認する必要があるな」

「仲間に入りたくない照島と再度引きずり込もうとした古山田との間に、何らかのトラブルがあったことは間違いないでしょう。もしかするとビルの屋上で揉め、誤って突き落としたのかもしれません。その後身元が分かれ自分にすぐ繋がると恐れ、財布や携帯を奪って顔を潰し、手の指紋と顔を焼いたと考えれば辻褄も合います。次の日に大阪へ立つと決まっていたから、何とか逃げられると思ったとしてもおかしくありません」

「実際身元の判明に時間がかかり、死体発見から二年以上も経った。彼の目論見は成功したと言えるな。それに大阪へ立つ前日だったからこそ、邪魔な奴を殺したとも考えられる」

「まずは二人の交流関係を洗い直し、大阪へ移った後の照島の所在を確認しましょう」

 そこでまず道安達は照島が以前いた施設の代表を訪ね、詳しく事情を聞くことにした。かつて新里が話を聞いた相沢という代表者はまだ施設にいた為、話は早かった。

「フルネームは覚えていませんが、秀人君に付きまとっていた悪友の名前は確かにケンと言っていたと思います。刑事さんに聞かれて、今思い出しました。近くの廃ビルで起こった事件の被害者の身元が判明したことは、私も新聞やニュースを観ましたから知っています。しかし秀人君の件とは結び付きませんでした。もう二年以上も前のことですからね」

「では照島秀人が古山田健というかつての悪友にしつこく誘われていたことが、施設を移るきっかけだったのは事実ですね」

「そうです。丁度その頃、同じような事情で大阪の施設からこちらへ移って来た茂田という七十過ぎの人がいましてね。この施設で秀人君は、その人と将棋仲間でした。そこで相談を受けた茂田さんと一緒に、別の施設へ移らせてもらえないかと頼まれました」

「その茂田という人物も、施設を移ったということですか」

「はい。彼も以前から付き纏われていた仲間がまた現れたので、今度はもっと遠くへ行きたいと言っていました。ですから茂田さんは、埼玉の施設へ移りました。丁度秀人君が大阪に引っ越しをした、次の日だったと思いますよ」

 そこで新里は以前、似た話を聞いたことを思い出して頷いた。

「そういえば、前回私がこちらに伺った際にも同じような話をされていましたね」

「したかもしれませんね。秀人君とは施設で知り合って間もなかったはずですが、茂田さんは彼をまるで孫のように可愛がっていました。それで彼は二人とも別の施設へ移れるよう、私達に頭を下げたのです。施設間の異動は受け入れ先との調整に時間がかかりますが、自分より先に手続きをしてくれと言っていたくらいですから」

「そういえば相談を受けたのは引っ越しをする一カ月ほど前だったと伺いましたが、間違いないですか」

「はい。少なくともそれ位の時間はかかりますから」

「その茂田という人物が大阪から名古屋へ来て、次に埼玉へ移ったというのは理解できますが、照島の移った施設が大阪だったのは何か理由があったのですか」

「茂田さん程、遠く離れる必要はないだろうというのが一点ですけれど、一番の理由は紹介できそうな仕事の選択肢が多かったからですね」

「どういう意味ですか」

「秀人君は少年院に入っている間、手に職を付ける為に自動車整備士の資格取得を目指していたのです。こちらの施設にいた時も、私共の取り組みに理解を示してくれている整備工場で、彼は真面目に働いていました。評判も良かったはずですよ。ですから次に移る施設でも、そうした仕事場を紹介しやすいところを選びました。大阪は名古屋ほどではありませんが走っている車の台数も多く、その分整備工場もたくさんありますから。場所を移ってかつての悪友との関係を断つだけでは、再犯防止になりません。施設にずっといられる訳ではありませんからね。基本的には最長でも一年ほどです。大抵は数カ月で出て行く人がほとんどですが、それまでに一人暮らしができるくらいの収入を稼げる仕事に就いていなければなりません。それができなければ、再び悪の道に逆戻りしてしまいます」

「生活の基盤がしっかりしていないと、再犯の恐れが高まるということですね」

「その通りです。今も昔も前科者にとって、現実社会は決して住みやすくありません。だからこそ自立できる環境作りが、一番大切なのです。それには仕事場の選定が、最も重要となります。仕事が長続きできなければ、社会復帰など望めません。また前科者だといつまでも冷たい目に晒され続ければ、一般社会での関係は築けない。そうなると社会に不満を持つ同じような犯罪者達と、再び繋がる危険性がでてきます。近年は凶悪犯罪が年々減少傾向にありながらも、再犯率が依然高いままなのは刑事さんならご存知でしょう。それは罪を償って社会に出た人々に対する問題への取り組みが、未だに不十分だからです。私達はその不足している点を補おうと日々、苦心しています。ただ残念ながらその努力も実らず施設の生活に馴染めないで姿を消し、再犯を繰り返してしまう人達は後を絶ちません」

 新里は頷き同意しながら、さらに尋ねた。

「更生施設の方々が、大変苦労されている事情は良く分かります。そんな中で、照島の様子はどうでしたか」

「秀人君はそう言った人達がいる中で、なんとか独り立ちして社会復帰したいという気持ちが人一倍強かったように思います。生い立ちも影響していたからかもしれませんが、彼は頭も良くとても真面目でした。刑事さん達はケンという人物を殺したのは秀人君だと疑っているのかもしれませんが、私は信じられません。もし間違ってビルから突き落としてしまい死なせたとしても、彼なら自分で警察に出頭するはずです。ましてや自ら犯した罪を隠そうと、財布などを盗むような人間ではありません。少なくとも顔を潰し焼くなんて、残虐な行為が出来る子ではないと私は確信しています」

 新里達は照島秀人が辿った過去を相沢から聞かされ、思わず眉をひそめた。当初持っていた古山田を殺した残忍な犯人像とは全く異なる説明に、戸惑いを隠せなかった。

 それでも本人に会い、詳しく話を聞かなければならない。その為相沢に依頼し、詳細を告げないよう注意して現在の照島の様子を知っているか、大阪の施設へ問い合わせをしてもらったのだ。

 すると大阪の施設が紹介した整備工場で、現在も働いていることが判明した。施設を出て、今は工場に近いアパートで一人暮らしをしているという。大阪の施設の代表者は、時折工場の社長と話す機会があるらしい。

 聞くところによると彼は勤め始めてから勤務態度も良く、真面目に働いているそうだ。技術も上達して、自動車整備の資格も三級を取った後に二級も一発合格したという。現在は一級を目指して日々勉強しているらしい。また施設にも時折顔を出しており、最近会った時も元気そうだったとの証言を得た。もちろん現住所もすぐに分かった。

 そこで念のため、照島と親しくしていたという茂田の所在確認も行った所、彼もまた埼玉の施設へ移った際に紹介した仕事を続け、後に施設を出て独り暮らしを始めていたことを突き止めたのである。彼もまた照島同様、勤務態度に全く問題はないそうだ。

 道安達は一旦捜査本部に戻り、聞き取りしてきた内容を上司に報告をした。そこでいくつかの推測が持ち上がった。

「古山田から廃ビルに呼び出された照島秀人は屋上で彼と揉め、誤って突き落としてしまった可能性もあるな。そこで警察に自首することも考えたが、次の日には大阪へ引っ越しが決まっていた為、決心がつかずそのまま逃げたのかもしれない」

「だったら死体の身元が分からない様に損壊し、持ち物などを持ち去った人物が照島以外にいるということですか」

「ビルの屋上には、複数の下足痕があった。照島と同じ施設に、茂田という人物がいただろう。彼は照島を孫のように可愛がり、世話を焼いていたようじゃないか。その人物が照島を庇おうと、手助けしたのかもしれない。なにせ照島は事件が起こったと思われる日の翌日に施設を移っているが、茂田もその次の日に埼玉の施設へ引っ越している。身元が判明すれば名古屋を離れる前に警察から事情を聞かれると考え、自分達が関わっていることを隠そうとした可能性もある」

「しかしその二人はその後、移動先の施設に紹介された職場で働き続けていました。施設は出ましたが、近場にアパートを借りてずっと住んでいたとも聞いています。もし彼らが事件に関係していたとすれば、普通なら全く別の場所へ移り住んで姿をくらまそうと考えてもおかしくありません。しかも身元が判明するまで二年半も経っています。すぐに住所を変われば疑われるでしょうが、それほどの時間があったなら、その間に何らかの行動を取っていてもおかしくありません。それなのに二人共が変わらず真面目に現場で働き続けていて、評判も良いというのは奇妙ですね」

「最初から、身元不明になると踏んでいたのかもしれない。実際二年以上もかかっている。しかも別件から偶然判明したんだ。計算外だったと考えれば、そうおかしくはないだろう。それに平然と暮らしていた方が、怪しまれなくて済む。と言って今の時点では、事件に関係しているかどうか不明だ。いずれにしても、照島と古山田に接点があったことは間違いない。それに照島と親しかった茂田という人物からも、事情を聞く必要があるだろう」

 捜査本部を指揮する監理官の指示の元、照島秀人と茂田昭雄の周辺を同時に洗う捜査班がつくられた。道安と新里は、そこに加わるよう指示を受けたのである。

 もちろん別の班ではその二人を除いた、詐欺集団を中心とする古山田健の交友関係を掘り下げ、また古山田の母親の周辺を探るチームも構成された。照島達が真犯人とは限らない為、あらゆる角度から事件を調べ直す必要があったからだ。

 道安達は事件発生当時にかき集めた現場周辺の防犯カメラの映像の中から、事件当日における更生施設近辺のものを再度チエックした。すると施設からビルまでの間にある防犯カメラに、秀人と茂田の姿が二度確認できたのである。

 しかも時間帯は事件当日の夜十一時過ぎと一時過ぎで、古山田の死亡推定時刻の範囲内だと分かった。そこで茂田も事件に関わっている可能性が一気に高まった。その為両者が口裏を合わせることがないよう、同じタイミングで事情聴取をして任意同行を求めるとの方針が決まったのである。

 しかし両者の現在における状況を調べていく内に、新たな情報が入った。なんと茂田は現在病院に入院中であり、しかも余命少ない病状らしいというのだ。そこで警察としては、彼の身柄の拘束は難しいと考え、事情聴取をどう進めるか再考せざるを得なくなった。

 道安の班では念の為、茂田に付き纏っていた山岸という人物も調べた。かつての窃盗仲間の一人だったらしく、前科七犯で人生の半分は刑務所暮らしをしている奴だという。

 すると一年前に関西で起こした恐喝未遂事件で逮捕され、現在は服役中だと分かった。七十七歳になる彼が最初に逮捕されたのは二十二歳で、その時は執行猶予付きだったらしい。だがその後も社会に適合できず、再犯を繰り返していたのだろう。

 そういった周辺情報を固めた上で、ようやく照島と茂田に対する事情聴取を決行する日取りが決まった。それまでは逃亡されないよう、大阪府警と埼玉県警に協力依頼して二人を監視して貰っていた。しかし報告によれば、二人とも全く変わった様子はないという。

 道安と新里はそれぞれ二人を取り調べる為に出張の準備をしてから、その前日の夜に本部近くの居酒屋の個室で軽く飲みながら食事をし、簡単な最終確認も兼ねながら会話を交わした。

 まず新里が口を開いた。

「道安さんは正直どう思いますか。照島という若者が犯人でしょうか」

「それは本人に聞いてみないと分からない。現時点で彼がやったという証拠はないからな」「だからですよ。もちろん先入観を持ってはいけませんが、調べれば調べる程、照島という人物が犯人だとは思えません。だからといって別の線がない以上、彼に当たることは避けられませんが」

「今の時代凶悪犯罪は減少傾向なのに、再犯者の割合が変わらず高い事はお前も知っているだろう。確率論になるけれど、重要参考人が前科者であることは見逃せない」

「はい。確かに日本の人口自体が減少傾向にある今、初犯者も減少し続けています。その結果、近年の再犯者率は上昇し続けているのが現状です」  

 近年、特に問題となっているのは高齢者だ。人口に占める割合が高く、詐欺やサイバー犯罪の的になりやすい為、被害者になる人達も多い。だが罪を犯す人も増えている。実際七十歳以上の初犯者の検挙数は、毎年一万五〇〇〇人を超えていた。しかも七十歳以上に限定すると、最近の再犯者率は五〇%を超えている。

 それを踏まえて新里が続けた。

「茂田は現在七十六歳で前科三犯だが、六十年以上も空き巣を繰り返してきた常習犯と聞いています。まさしく彼こそ、再犯の恐れが高い人物ではないでしょうか」

 茂田が犯人である確率が高いと考えている新里に対し、道安はそれを諫めた。

「確かに近年の高齢者の再犯者率は、非高齢者よりも高い。しかしその数字と今回の件を当て嵌めるのは無理がある。調べによれば、茂田は半世紀以上も空き巣を繰り返してきた伝説の侵入犯だが、これまで人を傷つけたことはないそうだ。しかも被害者の体格と比べれば、かなり小さく非力だろう。そう考えると茂田犯人説も怪しい事になる」

「揉めた勢いで被害者の方が誤って落ちたと考えれば、有り得なくないでしょう」

「しかし照島のような動機がない。孫のように可愛がっていたというが、知り合って間もない若者の為に人を殺すかと言えば疑問が残る。それに高齢者の再犯率が高い件だって、いろいろ事情があっての事だ。茂田のようなタイプとは全く次元が違う」

「そうでしょうか」

 まだ納得しきれていない新里に、道安はさらに説明を加えた。

「法務省や政府も再犯防止を犯罪対策の大きな柱に据え、刑務所を出所し二年以内に再び罪を犯して入所する再入率を、二〇二一年までに十六%以下にする目標を掲げた。その原因の一つとして挙げているのが、出所しても仕事はなく頼れる家族もいない為窃盗などを繰り返し、何度も刑務所に戻ってしまう者が増えている点だ。出所後の立ち直りを支えるには、仕事の確保などが欠かせない。だが現実は厳しい。それが高齢者ともなればハードルはもっと高くなり、認知症などの問題もある。再犯防止で高齢者に特化し、生きづらさを除いていく為の対策拡充が求められているのは、そういった背景があるからだ。しかし何度も言うが、茂田の場合はそれに当てはまらない」

「それを言うなら、照島も同じです。再犯者率はここ二十年以上一貫して上昇し続け、三年前ではおよそ五割でした。だからといって照島が怪しいかといえば、そうではありません。高齢者同様、再び罪を犯す若者には社会的背景が大きな要因となっています。非行に走った少年が立ち直るには、成人とは違った数々のハードルがありますからね。でも彼は出所して二年以上経つ間も自立に向けて努力していたと聞きますし、十分更生の道を歩んでいます。同じ未成年の前科者が再犯をするケースとは異なります」

「そういえばお前、刑事課へ来る前は生安にいたから、近年の少年犯罪には詳しかったな」

「はい。それに今でも昔の癖からか、その手の話題がテレビなどで特集されていると、つい録画してしまいます。少し前には某所で再出発を果たした少年と、それを支えるNPO団体の活動を追う番組を観ました。そこで出所者に対して必要とされる、一つの支援の形を知りました」

「どういう内容だ」

「某市から遠く離れた県の出身だった十九歳の少年Aは、かつてお金が無ければコンビニで万引きなどをしていたようです。しかし今ではそういうことをしようと思わなくなったと言っていました。少年院から出院して仕事に就き始めた当初は週二、三回くらい仮病を使ってサボっていたけれど、現在はちゃんと仕事に行けるようになり、二年間でAは大きく成長したという過程を紹介するドキュメンタリーでした。彼は親のネグレクトもあって中学の頃から何度も補導を経験し、十五歳で逮捕されて少年院に入っていたそうです。しかし三年前からかつて住んでいた出身地を離れ某市に移り住み、新たな生活を始めてとび職の仕事で今は生計を立てているとの説明がされていました」

「境遇は照島や被害者の古山田と良く似ているな。しかも別の場所に移り住んで自立しようとしたところは、照島と同じじゃないか」

「はい。AはNPO団体のSという大人のおかげで、犯罪することなく生活できたと言っていました。それは周囲にいた先輩達や友人達との関係が切れ、関わりを持たなくなったことが一番大きい要因だからだそうです。照島の場合だと、名古屋から大阪の施設へ移らせた相沢や、大阪の施設職員がそれに当たるでしょう」

 番組内でSは今も週に数回食べ物をもってAの部屋を訪れ、様子を見守っていたという。Aは当初仕事が続かず、大人との関わりもなく居場所もない状態だった。そこでSが時間をかけ関わっていく内に仕事も続くようになり、相当変わったらしい。

「今は色んな大人とも接するようになり、会話も出来るようになったそうです。この点は照島と違いますね。彼は出所当初から自立に向けて積極的で、茂田のような年の離れた老人と早くから意気投合して可愛がられていますから」

 新里の説明に、道安は頷いた。

「そうだな。詐欺の手伝いをして捕まったのも、巻き込まれたといっていい。それにおかしな家庭環境から離れる為に、努力していたと聞いている。だから相沢も協力を惜しまなかったようだし、茂田に気に入られていたのも、そういった姿勢が認められたからだろう」

「はい。その番組では、名古屋の施設と同じような取り組みをしていたようです。もしかすると具体的な名前は伏せられていたので、同じ系列の施設だったのかもしれません。Sは某市のマンションの一室にある再非行防止の為にサポートするNPO法人に所属し、Aのように逮捕された若者達が、少年院から出た後の立ち直りを支援していました」

 その団体では少年達の名前が書かれているケースを、毎日スタッフが朝ご飯としてパンや飲み物などを届け、アレルギーの子にはその物を出さないようにして気を遣い、住む場所も無償提供していたらしい。

 ただそうしたサポートの中で最も多いのが、逮捕された少年少女の保護者から電話がかかってきて“息子・娘のサポートをお願いしたい”と言われる事というのだから驚く。

 少年院でも色んなプログラムなどが揃っているけれど、実際の社会生活とは全然環境が違い過ぎるようだ。再犯率の高さは、刑務所にも原因があると語っていたという。元受刑者にとって社会復帰は非常に難しく、今の刑務所は犯罪者の養成所だとまで過激な発言をする者までいたらしい。社会の常識が、刑務所では非常識だとその理由として挙げていた。

 具体的には、刑務所の工場の担当者が受刑者全員に“おはよう”といえば、“おはようございます”とただそれだけしか言わない。刑務所では全部支持されて動く為、全ての事に対して指示待ちになり、自分では何も考えなくてもよくなるという。

 その影響により、出所して最初の一か月は混乱するらしい。自分で考え行動する行為が許されない環境での生活に慣れると、いざ出所しても社会に上手く馴染めない苦悩があるのだろう。

 さらに刑務所が厚生施設として機能しない理由の一つは、受刑者の一番の目標が早く外に出ることだからとも言われる。仮釈放される為には上の者に逆らわず、言われたことに従うしかない。そこには反省や、本当に必要な人と繋がり社会で働いていく等の視点が欠落していた。

 また刑務所は罰を与える場所の機能はあっても、自分の気持ちを押し殺し、人と繋がりにくく、人の顔色を見する習慣が身についてしまう。それが外の社会で人との係わりあい生きていく側面を奪い、更生する場になっていないのが実態だとも述べられていたようだ。

「現状の刑務所のシステムでは受刑者に罪の反省を促し、人間性を育むことは難しいのかもしれないな。普通に考えて罰を与えられれば、人は自動的に反省してより良い人間性を獲得できるかというと、、はなはだ疑問が残ることは確かだ。受刑者に厳しい罰を与えるだけではむしろ人間性を奪ってしまい、成長が見込めないというのも理解できなくはない。更生させる目的が、蔑ろにされてはいないかという指摘は頷ける。正直いうと、俺だってそんな疑問を持ったことはある」

「道安さんは、どういう点でそう思われましたか」

「俺もお前ほどではないが、再犯者の更生には興味を持っているからその手の特集を見たことがある。気になったのはお金だ。刑務所内では日中、工場で作業をすれば出所後の準備金として“作業報奨金”を貯えられることはお前も知っているだろう」

 新里は頷いた。在籍期間が長くなれば時給は上がるものの、外と比べれば雲泥の差で出所時に手にする生活資金は、微々たるものだ。実際法務省訓令の中に定められた“作業報奨金”は、二〇一九年二月だと最高位の一等工の時給は九十円五十二銭、最下級の十等級では三十円七銭となっている。

 これに加算金が加わることもあるが、特集内での元受刑者が出所時に受け取ったのは、五年四か月の期間で十万円ほどだった。そんなわずかな額を手に社会へ出たって、マンションやアパートを借りるとなると、五、六十万くらいのお金は必要になる為全く足りない。

 そんな高額の金を、出所した段階で持っている人間はほとんどいないのが現状だ。実際番組内での出所者は、生活保護を受給しながら生活していた。

「仕事には、就けなかったのですか」

 新里の問いに道安が答えた。

「そうだ。特にその出所者は、高齢者だったからだろう。出所者の中でも、高齢者を取り巻く環境は想像以上に厳しいからな」

 最近は再犯防止に向けて、国は出所者を雇用する“協力雇用主”の確保に力を入れていた。よって二〇一四年のおよそ一万二千社から、二〇一七年には二万社以上に増えたらしい。だが雇用された出所者数は、二〇〇人程度伸びたに過ぎないとの数字が出ている。

 また数年前の内閣府による世論調査では、出所者の立ち直りへの協力について“したいと思う”と“どちらかと言えばしたいと思う”との回答は併せて約五十三%で、それより前に行った調査時の五十九%を下回ったという結果も出ていた。

 それだけ出所者に対する社会の目は、まだまだ冷たいという現実がある。よって所持金が少なければ家を借りられず、家を借りられないから仕事にも就けないという悪循環を産んでいた。だから自立ができず、生活保護を受給せざるを得なくなるのだ。

 犯罪者のくせに生活保護を貰うのはおかしい、という意見もある。しかし社会性を奪われ、著しく経済力が低い状態から自立した生活を整えることは、個人の努力だけでは難しくしているのが今の社会だった。

 二度と犯罪に向かわせない為に必要なのは、まっとうな生活を送るための支援である。もちろん現状でも支援策はあった。元受刑者の出所後の自立サポートを目的とした施設として、相沢達がいるような更生保護施設や自立準備ホームがあり、食事を無料で支給し就労支援なども行ってくれている。。ただ出所者が、全員入所できるわけではない。

 道安の話に、新里が付け加えた。

「少し前の数字ですけど、満期釈放で出所した人の帰住先が“更生保護施設等”だったのは、たった四%余りだったと聞いた事があります。最多は”その他“の四九%で、その内訳の詳細は書かれていませんでしたが。、”不明“や”暴力団関係者“などが多いそうです」

「そうらしいな。その更生保護施設でさえも、万全ではない。某拘置所を訪れた施設の代表が、未成年の頃から支援している二十一歳の男性と面会し、交わされる会話にもあった」 

 男性は執行猶予中に少年院で知り合った共犯の男と住宅に侵入し、現金を盗んだなどとして逮捕・起訴された人物だ。そこではどうして再び不良仲間と連絡を取り、犯罪に手を染めてしまうのかと判決前の心境を番組内で聞いていた。

 犯罪を止めたい気持ちはあったかという問いに、彼はあったと答えている。それでも何故繰り返してしまったかを尋ねると、悪い事をする仲間と付き合っていたことで流されたと言っていた。

 縁を切ろうとは思わなかったかという質問に、そうはいっても良い所もあるのでまだ仲間だと思っていると答えていた。仲間と連絡を取ると流されてしまう。再出発を望んだものの、男性には懲役一年八カ月の実刑判決が言い渡されたのだ。

 そうした例を考えると、照島もそうなる可能性があった。しかし彼はそうならず、更生が成功した少年と似た道を歩んだと言える。

 検挙される少年の人数自体は年々減少傾向にあるものの、再び非行に走る人の割合は高い。そうした少年・少女らの再犯を食い止める為には、どうすべきなのか。そうした問題を解決する一つの方法が、かつての仲間と手を切る事なのだろう。今回照島や茂田がいた施設がかつて取った行為は、まさしくその流れを汲んでいる。

 高齢者だけじゃなく、少年の再犯についても根本は似ていた。それは出所後の金銭問題と社会的環境問題だ。出所しても出所前と状況が大きく変わらなければ、再び犯罪に手を染めてしまう。それでは何の解決にもならず、結果的に犯罪被害者が増えてしまうだけだ。

 再犯について犯罪者は根っからの犯罪者だとか、全く反省できていないなどと安易に一蹴しては、問題から目を背けていることになる。一般市民が安心して社会生活を送れるようにする為にも、元受刑者の出所後の環境整備は重要であり、彼らの居場所を作ることが最も大切なのだろう。

 そういった点で、何か起こらないと動けない刑事という立場にいる道安達にとっては、時々歯痒く思うのだ。

 高齢者に対しては、具体的に全国四十八か所に設置されている“地域生活定着支援センター”を活用して、様々な取り組みをしているらしい。

 出所者の社会復帰を福祉の面からサポートすることを目的とした施設で、刑事施設から出所した高齢者を孤立させないようにし、再犯防止につなげる為の社会的な受け皿になることが期待されている。

 若者と同じように、再犯防止の為には出所後における早期の対応が重要だ。刑事司法機関が高齢犯罪者対策を進めた結果、高齢者出所受刑者の二年以内再入率は過去十年間低下傾向にあるという結果が出つつあるとも聞いていた。

 しかしこの数字は何も対策を打たなければ、今後もっと広がるに違いない。現実の社会では従来の刑事手続きによる再犯防止が、必ずしも十分に機能していないと認め警鐘を鳴らしている。

 就労機会の拡大も重要だ。出所者を積極的に受け入れる更生保護施設の数的、質的な充実も急務だろう。起訴猶予処分や警察による微罪処分になった場合、釈放後に支援や働きかけが途切れてしまうと耳にしたことがある。

 よって地域社会で見守る仕組みを、今こそ整えなければならないのだ。これは出所者の話だけではなく超高齢者社会となった今、一般の人達にとっても同じことが言えるのではないだろうか。

 道安は新里に言った。

「特に再入者は初入者と比べ、今後犯罪をしないとの自信を持てない者が多いという。実際犯罪を繰り返した事実があるだけに、今後は犯罪をしない自信が持ちにくいから当然かもしれない。しかしそうした意識の乏しさは、うまくいかないかもしれない、どうせ頑張っても無駄だといった諦めの気持ちや、生活全般に対する意欲の低下に繋がりかねない。だから入所者に対する指導に当たっては、また犯罪をするかもしれないという不安をむやみに助長するのではなく、もう二度と犯罪をしたくないという気持ちがあることをしっかりと受け止め、それを手掛かりにその後の生活再建に対する前向きな意欲や態度を向上し維持させることが不可欠なのだろう」

「私が観た番組でも、若者の再犯を防ぐために必要な事とは何だろうかという問いに、団体の代表者は“住むところを変えた場所でも、その人が孤独にならないようにすることが一つ。そして上手くいかないことがあっても、心の部分を支えられるようなものがあれば、犯罪性のある人との付き合いも防ぐことが出来るかもしれない。その人が犯罪と関わりそうになったとしても、色々な人との関係があることが心のブレーキになると信じている”と言っていました」

 そうした居場所を作る為の支援をする企業も、実際あるらしい。某建設企業では、創業以来、五百人超の元受刑者を雇用してきたという。

 仮出所者には更生保護、満期出所者には更生緊急保護施設という、照島や茂田がいたような宿泊場所等を一定期間提供することによって社会復帰を助ける為の制度はある。だが後者は全員が利用できるわけではなく、決して十分でないのが現状だ。

 そんなお金も住むところもない状態では早々と生活に行き詰り、再び犯罪に手を染めやすくなる。三度の食事と雨風をしのげる場所を求め、あえて微罪を犯し刑務所へ戻ろうとするケースも多い。

 再犯は構造的な問題とも言える。そこでもし仕事があればどうなるか。稼ぎがあれば生活の基盤が出来て、住む場所も持てる。元受刑者に仕事の機会を与えることは、再犯防止策としてはかなり重要なのだ。

 しかし現実の社会では、多くの受刑者が仕事を得られていない。最近の出所者数は約二万三千人で、その内官民の就労支援を受けた人は一~二%に止まっているという。その最大の理由は、多くの会社が元受刑者の受け入れを拒んでいるからだ。

 本当に真面目に仕事ができるか、お客様や社員に対してまた悪さをするのではないかと懸念する結果、出所して三カ月間ハローワークに通っても二件しか求人が無かった、または半年間職を探したけれど面接すらしてもらえなかったケースがよくあるという。 

 犯罪者を刑務所に収容すると、一人当たり年間三〇〇万円以上の公費が必要と言われている為、財政面からも再犯防止は重要だ。国や自治体も様々な取り組みを行っている民間団体に対し、補助金なども含めて大きな視点で包括的な支援をすることが必要だろう。

 照島や茂田が世話になった施設や、出所者を雇う企業等の行っている取り組みは、今後も継続し続けていれば再犯防止の為にもっと有効な働きをすると思われる。

「そうなれば、警察の出番も少なくなりますよね。つまり社会にとって良いことです。実際警察だと手が出しにくい案件や、限界を感じる事件は決して少なくありません。ケースにもよりますが、再犯を繰り返すような犯罪者を何度も相手にすること程空しいものはないですからね。そうした忸怩じくじたる思いをするくらいなら、事前の取り組みによって防止できるものならそうして欲しいです」

「その通りだ。今回の事件の犯人が、もし照島や茂田だとすれば再犯となる。茂田はともかく照島はまだ若い。しかも今は社会復帰に向けて順調だというのなら、このまま一社会人として生きてくれた方が皆にとって幸せだ。しかし彼が古山田を殺した、または死体を損壊した人物であるならば、決して許されない。証拠を掴み、罪を犯した動機を明らかにした上で、今度は刑務所に入れてしっかりと罪を償わせることが俺達刑事の仕事だ。その為には、間違いのない捜査をしなければならない」

 二人はそう話し合いながら肝に命じ、彼らの事情聴取に向け遅くまで再度打ち合わせをしたのだった。

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