第三章

 身元不明の死体を発見したとの通報があり、愛知県警刑事課の道安どうあん警部補と、同じく刑事課の新里にいざと巡査部長が現場に向かった。第一発見者は、廃ビルなど周辺の物件を管理している会社の社員だ。不定期ではあるものの、月に数回程度行う巡回をしている際に見つけたという。

 十日前に来た時は無かったとの証言や死体と現場の状況から、一週間程前に何者かと被害者がビルの屋上で揉め、転落死したと考えられた。屋上には被害者を含めた、数人の足跡が僅かに残っていたという。

「これはひどいな」

 遺体を見た道安が呟いた。五階建てのビルから落ちたのであれば、地面と衝突した衝撃で頭が割れて大量の血だまりができ、手足もあらぬ方向に曲がるのは止むを得ない。

 しかし問題は被害者の顔面が意図的に踏み潰されているだけでなく、顔と両手が真っ黒に焼かれている点だった。状況からして死後、誰かが意図的にやったものだ。さらには衣服が乱れ、携帯や財布など身元を特定できる物は何もなかった点から、犯人が持ち去ったと思われる。

 道安の後ろにいた新里も、頷きながら言った。

「鑑識によれば、屋上で争った形跡が見つかったようですね。転落自体が事故だったのか意図的だったのかは不明ですが、物取りの犯行にしては余りにも残忍で乱暴な手口です」

「そうだな。被害者の身元が分からないように顔を潰して燃やしただけじゃなく、あごや歯まで徹底的に潰している。歯形から特定できないようにしたのかもしれない。両手を焼いたのも、指紋などを消すためだろう」

「これも鑑識の報告ですが、ライターなどで使われるオイルを撒き、火を点けたようです。全身を焼かなかったのは、人気が無い場所とはいえさすがに目立つと考えたからでしょう」

「そうだろうな。オイルは犯人が持っていたか、あるいは被害者の持ち物の中にあったものかもしれない。確か近くにバイクのタイヤ痕が見つかったと聞いたが、この服装からすると被害者の持ち物だろう。しかしそれも、何者かに持ち去られているんだったな」

「はい。被害者は、ライダースジャケットを着ていますからね。恐らく年齢は、二十歳前後の若者だと思われます。屋上近くの階段で、比較的最近のものと思われる煙草の吸殻が数本見つかっていますから、被害者か犯人のどちらかがライターを持っていたのでしょう」

「犯人はこれだけ周到に、被害者の身元を消し去ろうとした人物だ。自分が吸った煙草を現場に残すとは思えない。恐らく被害者の物だろう。かなり頭が切れる冷徹な奴だな」

「そうだとしたら、骨が折れそうな事件ですね。捜査本部は立つと思いますが、殺人事件かどうか、今の時点だとはっきりしませんし」

「もちろん殺人を視野にいれなければならないが、転落自体は事故だった場合もあるからな。ただ少なくとも死体遺棄と損壊、窃盗罪には問えるだろう。それに屋上から落とした人物とは別の人間、例えば浮浪者などが金目の物だけを持ち去った可能性もある。現時点では、あらゆるケースを考慮した上で動くようにしろ。鑑識や遺体の解剖結果など、確かな状況証拠が揃うまで下手な先入観は持つな」

「分かりました」

 その後死体が発見された地域を所轄する署に捜査本部が立ち、道安と新里はそれぞれ所轄所属の刑事とペアを組み、捜査に当たった。まずは周辺の聞き込みを行い、目撃情報を収集したが全く何も得られなかった。また死亡推定日はほぼ特定されたが、発見まで時間が経っていたこともあり、詳細な時間までは分からず幅があったからだろう。

 防犯カメラなども現場近くにはほとんどなかった為、犯人と思われる不審人物やバイクなどが映っているものは特定できなかったらしい。現場から少し離れればカメラは設置されていたが、繁華街のある場所だったことも影響したようだ。

 恐らく被害者が現場に向かう途中に寄るであろうと目星を付けた地点では、莫大な数の人や車が通っていた。よって推定される年齢と分かっている身長だけで絞り込むことは困難だったらしい。

 さらに身元を特定する為行方不明者の届け出なども当たったが、候補者は何人かいたものの該当者は見つからなかった。その為事件の解明には、時間がかかると予想された。被害者の身元が特定できなければ、関係者を洗う捜査も出来ないからだ。

 他に重要となるのは、目撃情報等を含めた現場周辺の聞き込みである。そこで範囲を広げていく中、徒歩圏内に刑務所や少年院から出て来た人物を更生させる、NPO法人運営の施設が見つかった。そこに、地域を割り当てられた新里と所轄の刑事が訪ねた。

 偏見と言われればその通りだが、前科者達が集う場所である為、問題を起こしそうな奴らも少なからずいるはずだ。そうした施設に出入りする元犯罪者なら、希薄な人間関係から行方不明となっても積極的に探されない場合が少なくないと思われた。

 行方不明者が年間八万人を超えるとも言われている中で、身元不明遺体は二万人を超える。情報を呼び掛けると年間で千件以上あるようだが、ほとんどは自殺だ。

 今回の場合その可能性は薄いと思われるが、財布や携帯などを持っていない人が大半で身元が判明するのはごく僅かという現実から考えると、僅かな手掛かりでも得ておきたい。捜査本部でも同様だったらしく、その施設での聞き込みに関して、期待を寄せられていた。

 施設の代表者は相沢という、四十代半ばの男性だった。最初に新里が被害者の年恰好を告げて質問した。

「ここ数日の内に、施設から居なくなった者はいませんか」

 彼は首を傾げながら答えた。

「その位の年齢ならここにも数人いますが、最近姿をくらました人は今の所いませんね」

「いまのところ、とおしゃいますと過去にはいたということですか」

 新里が追及すると、彼は苦笑いした。

「ここは主に罪を犯し執行猶予がついている保護監察中の人や、刑期を終えて出てきた人などが集まる場所です。中には馴染めず、黙って出ていく人もいるのは確かです。でも半分以上は職を見つけ、自立できる体制を整えここから旅立った人ばかりですよ」

「では念の為、ここを出て行った人で今は二十歳前後になっている人や、現在確認が取れている人物を教えて頂けませんか。被害者である可能性だけでなく、事件について何か知っている人がいるかもしれませんので、ご協力をお願します」

 新里の要求に当初渋っていた相沢だったが、しばらく待たされた後にリストを渡された。そこにはここ五年ほどの間施設にいて、今なら二十歳前後に該当する人物の名と、現在施設で把握している住所や連絡先が書かれていた。

 ざっと目を通した中で、新里は気になる人物の名を見つけ尋ねた。

「この照島秀人と言う十七歳の子は、大阪の施設にいるのですね。そこへ最近移られたと書かれていますが、どういう事情ですか」

「少年院を出た後でもかつての悪友達が付きまとっていたので、関係を断ち切るために別の施設へ移りました。彼の後にも、同じ理由で埼玉へ引っ越した方もいます。このリストには載っていない、七十を過ぎた高齢者ですけどね」

「別の施設へ、ですか ここではそうしたことをよくやられているのですか」

 相沢は頷きながら答えた。

「刑事さん達ならご理解いただけると思いますが、過去に関わった犯罪者達との繋がりを断つ行為は、再犯を防ぐ為の有効な手の一つです。私達の施設は現在今言った埼玉や大阪の他に神戸や広島と福岡のNPO法人と連携し、そうした事情を抱えた入居者の相互受け入れを行っています。他にも北海道や宮城、石川や長野、高知や鹿児島等の施設とも話し合いをしていますし、いずれは全国の施設に連携の輪を広げようとしているところです」

 新里は刑事課へ配属される以前、生活安全課にいた。その為少年犯罪についてはそれなりの関心があり、知識も持っている。彼の言ったような話が、ここ最近ニュース番組の特集などで取り上げられているのを偶然見た覚えがあり、それを思い出して納得した。

「なるほど。確かにそれは効果的な取り組みですね。全国的にも凶悪犯罪件数は減少傾向にありますが、再犯率は年々増加しています。残念ながら一度犯罪に手を染めると、抜け出せなくなる前科者が多い」

「その通りです。それに再犯は、様々な要因によって起きます。本人の自覚もそうですが、それだけではありません。世間の目が厳しいこと等から就職を斡旋しても長く働けなかったり、かつての仲間に誘われて再び悪の道に踏み込んでしまったりするケースが後を絶たないのです」

「ちなみにこの照島という若者が大阪に移ったのは、急に決まったことですか」

「いいえ。一カ月近く前から相談を受け、各施設との調整を経てこの日に決まりました。受け入れ側の事情もありますから、数日の内に決まるケースはまずありません。本当はもっと早く手続きをしてあげたかったのですが、先方の事情もありますのでなかなか思う通りにいきません。そこがこのシステムの難しいところです」

「どういうところが問題なんですか」

「提携先は多ければ多いほどいいのですが、その分交渉にも手間がかかります。ネットなどを利用してもう少し効率良くできないか模索中ですが、それはそれでお金や人手が必要なので困っているのが現状です。我々NPO法人の財政は、国の補助金に加えて多くの方々からの寄付で成り立っていますが、どこの施設も厳しいですから」

「それは理解できます。大変ですね。ところで彼は間違いなく今、大阪にいるのですか」

 相沢は苦笑いして答えた。

「いますよ。昨日も向こうの施設長と、彼の仕事場について話したばかりです。こちらにいた時から自動車整備工場で働いていました。なので大阪でも同様の働き場所があるかを確認してから、移って貰ったのです。仕事が無ければ自立もできませんし、更生も難しくなりますから。四日前が新しい職場での仕事始めだったので、その後どうなのか様子が気になり電話しました。問題なくやっているようです。少なくとも死んではいませんよ」

「そうですか。ところで、事件があった廃ビルの存在はご存知でしたか」

「知っています。ああいう場所は、良からぬ事を企む奴らのたまり場に利用される場合があります。ですからそういった所へ施設にいる人間が出入りしていないか、私やここにいる職員で何度か見回っています。本当は立ち入り禁止になっていますからいけないのでしょうが、屋上に昇ったこともありましたね。昨年だったか施設で問題を起こした若い子が飛び出しまして、探しに行った時でした。結局は別の所で見つかり、事なきを得ましたけど。まあこういう所だと、色んな人がいますからね」

 流石に被害者だとは思わなかったが、説明に頷きながら肩を落とした。照島という人物が大阪へ移った日は身元不明者の死亡推定日の翌日で、年齢も十七歳と書かれていた。その為もしかすると関係があるかと思ったが、どうやら偶然らしい。

 そこでここ数年に絞り再犯で捕まったと判明している人物を除き、今どうしているか不明な者を数名ほどリストからピックアップした上で、それぞれの所在を確認して貰うよう依頼した。

 その結果実家に戻っていたり、東北を中心とした会社へ労働者として登録していたり、中には暴力団の下部組織に属している輩もいたが、姿を消している者は残念ながらいなかったのである。

 携帯なども無く身元が判明しなければ、通話履歴を辿って交友関係も調べられない。もちろん、最後に連絡を取った相手など分からないままだ。また鑑識による追加報告によると、屋上では被害者以外に比較的新しい四つの足跡が、かろうじて発見されたという。

 しかし廃ビルだった為か、他に複数の人間が出入りしていた形跡も見つかったようだ。その為事件当時、犯人が一人だったのか複数いたのか、被害者は一人だったのかそれとも仲間と一緒にいたのかも定かではないらしい。

 ちなみに屋上で髪の毛など被害者以外の人物がいたと特定できる微物は、残念ながら発見できなかったようだ。事件が発生してから死体が発見されるまでの間、雨が降ったり風が強い日もあったりした為だと思われる。

 よって発見された足跡も鮮明なものでは無く、今後被疑者が現れても特定が困難である可能性が高いという結果だった。その為捜査はここで行き詰ってしまったのである。



 秀人が大阪の施設に移ってから七日経った時、名古屋の廃墟ビルの隙間から男の死体が見つかったとのニュースが流れた。とうとう恐れていた日が来たのである。 

 しかし不思議だったのは、男の死体にビニールシートがかけられ、財布やスマホなど身元が特定できるものは全て持ち去られていたという点だ。さらに顔が潰された上で焼かれており、手も燃やされ指紋がとれないこと等から身元が分からないと報道されていた。

 健がビルから落ちた後に秀人達が覗いた時は、間違いなく彼のウォレットチェーンが見えた為、少なくとも財布は持っていたと思われる。しかも彼は秀人をスマホで呼び出そうとしていたから、所持していなかったはずがない。もちろん彼の死体を屋上から覗いた時には、ビニールシートなどかかっていなかった。

 もしかするとあの周辺に放置されていたものが風に吹かれたまたま彼の体に覆いかぶさり、そのせいで発見されるまで時間がかかったのだろうか。それとも浮浪者か誰かが財布などを持ち逃げし、その際シートをかけたのかもしれない。

 だが普通の神経の持ち主なら、そんな真似ができるとは思えなかった。下手をすれば、自分が殺したと疑われかねない。しかも死体の顔が潰され両手と共に燃やされていたのだから、その線はまずないと思い直した。おそらく彼の身元が分からないよう、細工した人間の仕業と考えるのが妥当だろう。

 しかし一体誰が、そんな隠蔽工作をしたのか。再度あの時の状況を振り返った。健は秀人の秘密をばらすと言って、仲間に戻るよう執拗しつように迫ってきた。それを振り切った際に、彼は開き直られた場合を考えて来た、と口にした言葉を思い出す。

 それが何か気にはなっていたしその場を離れた時に叫んでいたようだが、よく聞き取れなかった。その後しばらくして誰かと争う声が聞こえ、彼はビルの下へと落ちたのだ。

 その後茂田が現れた為、秀人は彼が健を突き落とした、または揉めたはずみで健が落ちてしまったのだと思った。そして秀人が近づく音が聞こえたので一旦身を隠した茂田は、さも後から追いかけて来たというていで、顔を出したに違いないと考えていたのである。

 なぜなら彼は警察に通報せずにあのビルから逃げようと提案し、さらには証拠を隠すよう指示したからだ。その上ビルから立ち去る時、施設へは同時に帰るより時間をずらした方が良いと言って、秀人を先に帰した。

 あの時彼は、秀人より三十分ほど遅く戻ってきたはずだ。その間に彼は現場へと引き返し、健の死体が発見されても直ぐには身元が分からないよう顔を潰し、指紋まで焼いて財布やスマホを盗んだのではないだろうか。そう疑うこともできる。

 日本の警察は有能だから、いずれ身元は明らかになるだろう。健はまだ警察に捕まった経験がないから、指紋のデータベースは無いはずだ。それでも歯形や指紋などから、身元が分かるという話を聞いたことがある。それを恐れた茂田が、少しでも身元の判明を遅らせるよう、細工をしたのではないだろうか。

 しかし健と繋がりがあるのは秀人だ。身元が分かれば、遅かれ早かれ警察が来るだろう。自分の犯行を隠す意味合いもあっただろうが、秀人を守る為に彼は危険を伴ってまで、あのような行為をしたとも考えられる。

 いずれにしても茂田は恩人だ。といって警察は侮れない。ニュースではバイクの件を全く触れていなかったが、メットが発見されればいずれ秀人に辿り着くだろう。それとも茂田はバイクさえも処分したのだろうか。その点についての報道は、全くされていなかった。

 どちらにしても身元が分かれば、警察は茂田より先に秀人を訪ねてくる。万が一そうなった時、自分はどう対応すべきかと再び頭を悩ませた。今更あの日の出来事を警察で正直に話したとしても、信じて貰えないだろう。

 茂田が怪しいと告げたって、彼は百戦錬磨の犯罪者だ。証拠を残しているとは思えない。健を殺す動機があるのは、明らかに秀人だ。疑われるとしたら、間違いなく自分だろう。

 もし警察に健を突き落したのは自分ではなく、身元を隠そうと細工をしたのも茂田だと証言した場合、彼はどう答えるだろうか。彼はこれまで数々の盗みを働いてきたけれど、人を傷つけた経験は一度もないと聞いている。

 そんな彼が、突き落したのは秀人で庇う為に死体の身元を隠そうとしたと証言したら、警察は信じるかもしれない。そうなれば、自分は殺人犯になってしまう。これまでとは比べようもない重罪だ。

 そうならない為にも、茂田については警察に黙っておいた方が良いのかもしれない。健と会っていたのは確かだ。しかし突き落してはいない。だから黙っていれば、証拠などが見つからない可能性はある。それに健の身元を隠そうと死体を損壊する真似もしていないから、秀人に繋がる物証が発見される確率も低いはずだ。

 もしバイクと一緒にメットも処分されていたとすれば、健と会っていた証拠も消されているかもしれない。それならば、あくまでしらを切り通す方が安全だろう。だが自分にそれができるかどうか、自信はなかった。

 秀人は嘘をつくのが苦手だ。それに工場を出た後、彼のバイクの後ろに乗っていた姿が誰かに見られているかもしれないし、どこかの防犯カメラに映っていた可能性もある。

 しかし廃ビル周辺に、防犯カメラは無かったはずだ。その為あの日の夜遅く健と会っていたことは、茂田以外知らないと考えていい。よって茂田が言っていた通り、工場を出た後に健のバイクに乗った件だけは、正直に話してもいいだろう。

 そこで再度しつこく仲間に誘われたが、次の日に大阪へ引っ越すと決まっていた事情もあり、しっかり断ってその後は会っていないと話せばいいのではないか。

 全て嘘をつくより、一部事実を取り混ぜて答えた方がばれにくいと聞いた覚えがある。廃ビルには手袋をして入ったし、身に着けていたものはあの時履いていた靴だけでなく全て処分したから、証拠は残っていないはずだ。

 それに健を殺した犯人が茂田だったとしても、あくまで事故または秀人の為にしたことだろう。なぜなら彼には健を殺す積極的な動機が全くない。そんな危険を犯す必要などあるはずが無いのだ。

 よって彼について警察に話す事態だけは避けなければならないし、裏切る真似はしたくなかった。そう心に誓った秀人だったが、胸の鼓動はいつまでも止まず、落ち着かない日々が続いたのである。

 しかし秀人の心配をよそに、一週間、十日経っても警察が尋ねてくる様子は何もなかった。毎日のようにネットやテレビなどのニュースを気にして見ていたけれど、死体の身元が判明したとの続報はいつまで経っても入ってこなかった。

 だが損壊された顔でも、ある程度の復元は可能らしい。あくまで参考という但し書きは付け加えられていたが、警察は死体の身元について情報を集める為、似顔絵の公開を行っていた。

 彼を良く知る秀人から見れば、それなりの特徴は捉えているようにも思えたが、決して似ているとは言えない出来だ。その為余程仲の良い友人であっても、似顔絵を見たことで健かもしれない、と連想できる人はいないのではないかと思った。

 いるとすれば、秀人を連れて来るよう命令していた先輩達ぐらいだ。健と連絡がつかなくなり、探している可能性は高かった。よって秀人がいる施設の近くで身元不明の死体が発見され、その似顔絵が健に似ていると気付くかもしれない。秀人が名古屋から離れていると知れば、揉めて殺されたと考えていてもおかしくなかった。

 しかし彼らは犯罪者だ。表立って警察に協力するとは思えない。といって独自に秀人の行方を捜し、強請ゆすろうとするだろうか。

 彼らが欲しているのは、使える仲間だ。それに秀人は金を持っている訳でもない。また人を殺したかもしれない奴を、詐欺の一員として使うのは余りに危険すぎるだろう。

 下手をすれば、彼らだって健殺しの疑いをかけられるリスクを背負う可能性だってある。そう考えれば、大変な労力を使ってまで追いかけたりはしないと思われた。

 それでも怯えは止まらなかった。既に施設の紹介により面接を受けた自動車整備工場で、秀人は働きだしていた。新しい仕事場は名古屋と同じでとても環境が良く、先輩や同僚も気遣ってくれ、今のところは大変良くしてくれている。

 秀人に前科があることは一部の上司しか知らないが、聞くところによると秀人の他にも同じような境遇の人材を受け入れているようだ。もちろん誰がそうなのか自分から話題を振ったり、相手のプライベートを詮索したりは出来ない。

 だが秀人が気付かない程、周囲もそんな人達がいるなんて全く気にしていない雰囲気がとても気に入っていた。しかもこの会社で日々働いている内に、早く一人前になり社会人として自立したいとの目標が、少しずつ現実味を帯びてきたと感じていたのだ。

 しかしそう思えば思うほど、あの時茂田の言葉に従って逃げたことは良かったのだろうか、と度々思い悩んだ。もし素直に警察へ通報していれば、疑われずに事情聴取だけで済んだかもしれない。そうすれば今頃何も懸念することなく、人生の再スタートを切れていたと思わずにはいられなかった。

 しかも健が居なくなった為、忌々しい過去について脅される恐れもない。少年院に入った過去は消せないが、そのおかげで父親との縁は向こうから切られた。全てを忘れ独り立ちできる機会を与えられた今の環境は、考えてみれば不幸中の幸いだと思っている。

 秀人は物心ついた頃から、父親に殴られてばかりいた。それを止めようとした母親も暴力を振るわれ、よく泣いていたことを覚えている。

 そうしていると、父が経営する会社に勤める母方の叔父夫婦が、二人をこっそり避難させてくれたのだ。母の弟、久森の武志たけし叔父さんと奥さんの和子かずこさんとの間には子供がいなかったこともあり、秀人に対しては実の子のように優しく接してくれた。

 その為父だけでなく自分を庇いきれない母も嫌っていた秀人は、叔父夫婦が自分の本当の親だったら良かったのに、と何度か思ったことがある。実際そう口にしたこともあった。

 だが叔父達には本気で叱られた。父の会社があるからこそ自分達も生活できている。秀人の父が雇ってくれているおかげなのだと何度も繰り返し、彼を怒らせて首になればそれこそ困るから、そんなことは絶対に言わないでくれ。そう強く言い聞かされた。

 母についても庇っていた。

「早百合姉さんだって、辛いんだよ。お前を何とか助けてあげたいと、いつも気にかけているんだ。決して見捨てている訳じゃないんだぞ。それでも優さんのあの激しい性格は、そう簡単に治るものじゃない。優秀だからこそ、これだけ大きな会社を一代で築き上げられたのだろうし、それを支えてきたのも姉さんなんだよ。経済的には何不自由なく暮らしていけるということは、とても大変なんだぞ。お前が社会に出れば、必ず分かると思う。それまでは辛抱しろ」

 後に母の実家である久森家は貧しい家庭だったらしく、教育も満足に受けられず叔父と共にとても苦労したと知った。その原因は、母や叔父がまだ幼い頃に祖父が酒を飲んで酔っ払った上に、傷害事件を起こし逮捕されたからだという。

 秀人にとってはとても優しい祖父としか見えなかった彼に、そんな過去があったと知った時は驚いたものだ。それでも祖父を嫌ったりはしなかった。今思うと茂田を慕うことが出来たのは、祖父のまとっていたオーラに近いものを感じていたからかもしれない。

 初犯で相手と示談もできたからか祖父に執行猶予はついたが、それでも前科者である。当然のように勤めていた会社を首になり、再就職先もなかなか見つからなかったそうだ。その為日雇い労働で、なんとか生活をしていたという。

 しかし安い賃金だった為、かつかつの暮らしをしていたと聞かされていた。その上母や叔父も周囲からは犯罪者の子と虐められ、働き口を見つけることが困難だったらしい。親の犯罪歴を隠して入社しても、どこからか噂が流れる度に何かと理由をつけられて首になるという理不尽な扱いを、繰り返し味わったとも聞いていた。

 けれど父が母を見初め結婚してからは、当時会社を立ち上げたばかりだったにも関わらず順調に業績が上がっていた為、生活は楽になったという。さらに低賃金で働いていた祖父と叔父を父が雇い入れてくれたおかげで彼らの生活水準は上がり、幼馴染の和子さんと結婚もできたそうだ。

 ただ彼女は子供を産めない体質だったらしい。それでも貧しいより、経済的に余裕のある方が幸せに決まっていると彼らは言った。子供がいないことは寂しいが、夫婦二人だけでも楽しく暮らせる。それに秀人がいるだけで十分だと言ってくれたのだ。

 そんな叔父夫婦にも、会社を追い出されかける危機があったという。それは秀人がまだ幼い頃、照島家に泥棒が入り、家にある現金や貴金属が多数盗まれたことがあった。その犯人として、叔父達が疑われた為らしい。

 父は家から離れた現場に出ていて母は買い物、秀人は少し離れたところにある祖父母の家に預けられていた時で、叔父達は家に隣接していた工場で仕事をしていたそうだ。勝手口の扉が開いており、犯人はそこから侵入したらしい。

 だがほんの短い間だったようで作業場を抜け出せば、彼らでも可能だったと周囲の社員が証言したためだという。そこで母が間に入り、叔父達の家の家探しもさせて無実だと訴え、なんとか追い出される事態は避けられたそうだ。

 犯人は未だ捕まっていない。しかも金だけでなく、会社関係の書類なども盗まれたらしい。どうやらその中身は、母や叔父達と同じく訳有りの従業員達の情報も含まれていたそうだ。よって万が一外に流出すれば、最悪の場合は今いる場所で仕事ができなくなると父は危惧し、ずいぶん長い間機嫌が悪く激怒していたのである。

 その結果、その頃住んでいた地域の景気が下降気味だった影響もあり、父は進出したばかりの名古屋支店に本社移転すると決意した。だが運が良かったのか、この判断は後に大きな成功を生んだ。

 バブルの崩壊で日本全体の経済状態が悪い中、厳しいながらもなんとか持ちこたえていた名古屋に移ったタイミングが功を奏し、それまでに築いてきたノウハウを活用した結果、会社の業績が一気に拡大したのである。

 もちろん秀人達は、転居しなければならなくなった。幸いだったのは祖父母や叔父夫婦も一緒に移り住んだことだろう。それでも自分達が犯人でないと証明できたが、実質家や工場の留守を預かる立場にあった叔父達は、肩身の狭い思いをしたらしい。

 泥棒に入られたせいで、本社や住居の引っ越しという大事になったため責任を感じたようだ。事件以降は、これまで以上に父を怒らせられなくなったという。そうした経緯もあり、母や秀人が暴力を受けていると知っても、口外できなかったのだろう。

 それでもごめんね、力に慣れなくて、と泣きながら抱きしめてくれた手や体のぬくもりは、今でも忘れられない。よって秀人も表立って父には逆らえず、叔父夫婦に迷惑が掛からないよう心掛けなければと、段々考えるようになった。

 やがて叔父夫婦への想いは中学に入って少しずつ体が大きくなり、知恵もついてからさらに大きくなった。自分が父親を告発すれば逮捕させられると分かっていたが、それをすると母親はともかく、叔父達が困るからできなかったのである。 

 父親は教育にも厳しく、小中学生時代の学校内におけるカースト制度で生き残る為、勉強と運動だけはしっかりやれと言い続けていた。その教え通り塾にも通わされていたからか、秀人の成績は良かった。サッカー少年団にも入り中学でもサッカー部だった為、足は速く運動も得意だった。

 そうして体を鍛えていたこともあり、中学を卒業する頃には、父親を殺そうと思えば出来ると考えたことがある。だがそれは出来なかった。今と変わらず気が弱かったし、大きくなってからもずっと暴力を振るわれていたからだろう。父の前に出ると、どうしても体が委縮してしまうのだ。

 サッカー部だった為、体に痣があってもおかしくない。頭より下なら父に殴られても、他人に疑われる心配もなかった。だから秀人は腹部や足を中心に、よく殴られ蹴られた。その頃には反抗すれば、辞めさせることぐらいできたと思う。

 それをしなかったのは、幼い頃から刷り込まれた経験が邪魔をしたからだ。常に父から罵倒し殴られ否定され続けて来た為、強い人には逆らえない性格となり、自分に自信が持てなくなっていた。だからなのか、成績はよく体力があるにも拘らず、周りに流される気質が身に付いていた。

 しかし我慢にも限界があった。祖父母が亡くなったことも大きく影響したのは間違いない。暴力に耐え切れなくなった秀人は、中学三年でサッカー部を卒業した頃から生活態度が変わったのである。

 サッカー部のOBで悪さをしていた人と仲良くなってよからぬ遊びを覚え、自分と似た境遇の健と出会ったのがきっかけだった。部活が無いのに夜遅くまで家へ帰らなくなり、やがて先輩や友達の家を転々とする生活をし始めたのだ。そうやって父の暴力から逃げることを覚えたのである。

 さらには高校受験の時、わざと問題を間違えて不合格になり、父を激怒させ家を出て行けと言わせるよう仕向けた。計画通り家を出た秀人は、悪友達との共同生活を始めたのだ。

 当初は体裁が悪いからと家に連れ戻そうと試みていた父だったが、人前では暴力を振るう真似も出来ず、無理やり力で連れ戻すことはできない。よってある時から諦め、完全に見捨てようと決めたらしい。

 それからようやく秀人は、父から解放され自由になったと勘違いし始めた。まず生きていくには、お金が必要だ。その為友人宅で生活しながらバイトをして稼ぐようになった。

 そんなある日、先輩や健から効率の良いバイトがあると誘われ、言われるがままやったのが、オレオレ詐欺の受け子の仕事だった。これが犯罪だと分かった時には既に手遅れで、抜け出そうとすればどうなるかと脅され、止む無く二度手伝わされた。

 それでも一回のバイト料は多く、他にも日雇いのバイトもやっていた為秀人は何とか暮らしていけると勘違いしていた。しかしそんな生活など長く続くはずがない。二度目の受け子のバイトをやった時、後から知ったのだが健の裏切りによって、秀人は警察に捕まり少年院へと送られたのだ。

 そこで正式に、父親から縁を切ると宣言された。それでも叔父夫婦は何かあればいつでも来なさい、と言ってくれた。陰で父を説得してNPO法人へ話を通し、退所後に施設へ入る段取りを取ってくれたのも、彼らだったという。

 そうした経緯もあったからこそ、秀人はこれから叔父夫婦の為にも更生し、早く社会人として自立できるようにならなければ、と心を入れ替えたのである。

 そんな所に健が再び現れたのだ。当然彼らも知っていただろうが、秀人は警察に捕まった際、健や先輩達の名は口にしなかったと告げた。ところがその態度を気に入ったらしい上の人間が、秀人を再度仲間に引き込むよう健に言い渡したという。

 それだけでなく、彼はもし来なければ秀人が父親に暴力を受けていた件を世間に広めると脅してきた。そうなれば父は警察に捕まるかもしれない。

 だが秀人はそれでも構わないと思っていた。ただ恐れていたのは、父の逮捕により会社がもし潰れるような事態に陥れば、叔父夫婦に迷惑がかかるという一点だけだったのだ。

 その為先輩の指図で、何度もやってくる健の誘いをのらりくらりとかわしてきた。それでも諦めない健に嫌気が差し、名古屋を離れる決意をしたのである。そうすればいずれ上も諦めるだろうし、健も今更父の家庭内暴力を公にする真似はしないと考えたからだ。

 それにもし父が逮捕されても、会社が潰れると決まった訳ではない。父がいたから業績を保てている一面はあるだろうが、創業当初とは違って会社も大きくなった。父がいなくても、残った従業員達だけでなんとか持ちこたえられるのではとの願望を持っていたのだ。

 実際、秀人が逮捕された際も迷惑はかけたようだが、倒産の危険があるほど追い込まれてはいなかった。それならばワンマンで、会社のがんにもなりかねない父のような人間は去った方がかえって良いかもしれない。母は困るだろうが、自業自得だとも思う。秀人が本当に助けたかったのは、叔父夫婦だけだ。

 彼らは会社が立ち上がって少し経った後に入社した、いわゆる古株である。しかも人当たりは良く、人望も多少はあるだろう。会社の組織がどうなっているか良く分らないけれど、父以外の古参社員がしっかりしていれば、追い出される可能性は低いのではないか。

 別の施設に移ると決めた際、そう結論付けていたからこそ秀人は健と最後に会うことを了承したのだ。彼の放った別れ際の言葉が気になったものの、振り切ってその場を離れられたのは、既に決心がついていたからである。そして大阪へ来たことは正解だった。

 今はとても充実した毎日を過ごせている。もう少し経てばやがて施設を出て部屋を借り、一人暮らしを始められるだろう。そうすれば両親から縁を切られた秀人にとって今後悩みの種になるのはただ一つ、あの事件だけだった。

 死体が健だと判明すれば、彼が秀人の近辺をうろついていたと相沢達は知っている。警察が調べれば、秀人がまず疑われるに違いない。最悪の事態は、やってもいない殺人犯の汚名を着せられることだ。

 しかも今度逮捕されれば、少年院では済まない。確実に刑務所行きだ。そうなれば両親に前回とは桁外れな迷惑をかけ、会社が傾くほどの影響与えるかもしれない。それだけは絶対に避けたかった。

 あの日呼び出されて施設を抜け出したのは、茂田以外にばれていないはずだ。それでも死亡推定時刻が特定されれば、その時間のアリバイの証明は難しい。健と会っていたことや、彼が落ちた後警察に連絡せず逃げたのも事実だ。茂田に言われたからだが、受け入れたのは自分だ。彼だけに責任を擦り付ける訳にもいかない。

 あの日抜け出した秀人を心配してくれた事情を考えれば、警察に突き出す気持ちにはなれなかった。警察も秀人が茂田について話さなければ、何の関係もない彼に疑いの目が向く可能性は低いだろう。

 施設で親しくしていたし、秀人が出た次の日に施設を出ているとの事実から疑われるかもしれないが、移動日は前から決まっていた。健を計画的に殺そうと思っていない限り、あのタイミングで実行するのは不可能だ。それほど強い動機など彼にはないし、警察もそこまで考えないだろう。

 しかし健の死体に、彼が触れた形跡が残っていれば別だ。どこまで警察が証拠を掴んでいるかで、彼が逮捕されるかどうかは決まる。それらがはっきりするまで、例え尋問されても秀人は口を閉ざすつもりでいた。

 それに彼があの時、あの場所にいた事は確かだが、突き落とした瞬間を見たわけではない。例え後から警察に黙っていたとばれても、言い訳はできるだろう。といって茂田を庇った為に、自分が疑われても困る。

 秀人は苦しんだ。やっていないと証明することは難しい。一体自分はどうすればいいのか。健という厄介な存在が消えた為に頭を悩ます案件が一つ解消された代わりに、別の問題が発生してしまった。

 胸の鼓動を抑えながら、秀人はいつ健の身元が明らかになり、警察がやってくるか毎日を怯えて暮らすことになったのである。



 埼玉の施設に移ってしばらく経ってから、茂田は名古屋の廃墟ビルで死体が発見されたニュースを観た。しかも身元が分かるものを何も身に着けておらず、さらに顔は潰され手も指紋を消すように焼かれていたと報道されていた。

 こういう事件が起こった場合、警察がマスコミに対して発表する項目は限定されている。なぜなら犯人しか知り得ない情報を隠すことで、容疑者が出て事情聴取した際の供述に矛盾点があるかをあぶり出せるからだ。

 その証拠にバイクの存在や屋上から複数人の足跡が出ている、または髪の毛などが見つかったとの報道はされていない。もしかすると死体の発見までに時間が経過していた為、はっきりとした痕跡が発見できなかったとも考えられる。

 だが最近の警察の科学捜査は侮れない。油断は禁物だ。警察の鑑識は、屋上から茂田がいたと特定できる微物を発見しただろうか。もし見つかっていれば、真っ先に自分の所へやってくるはずだ。来ていないということは、証拠が見つからなかったのかもしれない。それとも分析に時間がかかっているのだろうか。

 山岸から逃れる為に埼玉までやってきたが、しばらくこの件で頭を悩まされるのかと思うと、今までの行いによるツケが回ってきたのだと改めて悔いた。いずれにしても今後についての身の振り方を考えなくてはならない。

 埼玉の更生施設の代表は、柿沼かきぬまと言った。スリムだが日頃から鍛えているらしい筋肉質な相沢とは対照的に、彼はどっぷりと太っていた。だが一目で信頼できる相手だと感じた。

 相沢もそうだったが、こういう施設の代表をしているだけあって、しっかりとした考えと信念を持っているのだろう。そうでなければこんな犯罪者ばかりの集団を集め、世話をするという奇特な活動などやっていけないはずだ。

 そんな彼は、相沢からの引き継ぎがあったからだろう。手先が器用でこれまでの前歴を考慮してか、大阪や名古屋でも紹介され働かせてもらっていた合鍵を作るチェーン店での仕事を、埼玉でも斡旋してくれた。

 そうした仕事場ならそれほど動き回る必要はなく、しかも人前に出ず働くことが出来た。他人の目に触れる機会が多いと、前科者がいるとの風評被害を受ける確率が高くなる。余計な噂が広がれば商売上マイナスだ。よって今の仕事は、茂田だけでなく雇う側にとっても好都合な職種だった。

 それだけではない。高齢でかつ持病もあるので、病院も紹介してくれた。有難いことだ。半世紀以上も他人の金を盗んで暮らしてきた自分に、これだけのことをしてくれる。今更だが、残りの人生はこれまでのような義賊ぎぞく真似事まねごとではない、本当の意味で少しでも社会の役に立ちたい、と茂田は心から思っていた。

 その一歩としては、まず大阪にいる秀人を見守ることだと考えた。その為にも、かつての仕事仲間と連絡を取る必要があった。自分の隠し持つ財産を処理するには、まず山岸の動きを封じ込めなければならない。

 悪用すれば金になるだろうが、盗人以上にたちの悪い犯罪になる。そうした使い方だけは決してしたくないし、されたくない。活かし方次第では世の為になるものだからこそ、上手く取り扱わなければならない。ものによっては、託す人間を見極めて引き継がなければならなかった。それがこの世における、最後の使命なのだと自分に言い聞かせた。

 そこで早速瀬良に連絡をしてみると、埼玉周辺にも茂田が見知っているかつての仲間が数人いると分かった。師匠の滝野が亡くなってから、自分に甲斐性かいしょうが無かった為バラバラになってしまったけれど、瀬良はあれで良かったのだと言ってくれた一人だ。

 解散して三十年以上が経つ。バブル時代の前にそれぞれが浮かれ始めていた頃だ。あのまま集団でいれば大きな儲けも期待できただろうが、ヘマをして全員が捕まる可能性もあった。だから組織を解体するという、当時の選択は間違っていなかったと今でも思う。

 呼びかけに応じてくれた瀬良とそんな昔話に花を咲かせていると、山岸のような奴もいたからだという話題になった。そこで彼について相談し、さらには大阪周辺に信頼できる仲間がいないかと相談した。すると彼は言った。

「居ると思いますが、山岸兄貴の件もありますから、少し時間を下さい。ちょっと待っていて貰えませんか」

 そうして連絡を切った。彼はとっくに盗みから足を洗っており、今やどこにでもいる好々爺こうこうやとなっていた。茂田同様結婚をしておらず、今は運送業者の倉庫で簡単な仕分け作業の仕事をしながら、細々と生活しているという。

 瀬良を含めかつての仲間の多くは、年金など無い。その為生きていくには働かなければ、これまでの盗みで貯めた金を取り崩すしかない。

 それでも大した稼ぎではないけれど、今のような堅気の仕事をしていれば、何とか生活保護を受けずに済む生活が出来た。それで十分、心穏やかに暮らしていけると笑っていた。

 時折仕事仲間や、老人福祉施設で知り合った人達と一緒に酒を飲んだり、将棋を指したりしているそうだ。そんな人間に今更面倒な頼み事をするのは、正直心苦しかった。それでも彼は、昔受けた恩義があるからと二つ返事で請け負ってくれたのである。自分一人ではできない仕事だったので、茂田はその言葉に甘えることにした。

 彼と話しをしている内に、師匠と共に瀬良達と過ごした頃を懐かしく思い出す。そして十数年前に行ったある時の仕事について思いを馳せた。

 あれはある会社を経営している社長宅だった。いつも通り家に侵入してから十分も経たない内に金目の物を入手した茂田は、すぐ逃げ出せるよう退路を確保した。その上で書斎に置かれたパソコン画面を開き、事前に入手していた家主や家族全員の生年月日などの情報を元に、パスワードを打ち込んだ。

 茂田が裏情報を盗み出すようになった頃には、パソコンなどがまだ普及していなかった。よってノートなど、紙媒体で残されたものばかりを手にしていたものだ。

 しかし一九八七年には普及率が十%だったものが一九九九年には三十%、二〇〇一年には五十%を超えるなど急速に広がっていた。しかもこうした先進的で高価なものを、茂田が狙う金持ち達は早くから使いだしていたのだ。

 その為四十五歳頃から、パソコンの勉強も始めざるを得なくなった。しかしそのおかげでこの手の情報機器には詳しくなり、ちょっとした専門業者並みの知識を持つようになったのである。

 さらには八十年代後半からホームセキュリティーも普及し始め、個人宅でも防犯カメラを設置するところが増えた。その為空き巣専門の窃盗犯としては、これまでの技術や能力だけでは、益々ますます生き残れなくなってきた時代でもあった。

 それほど裕福な家庭でなかったり田舎に行ったりすれば、防犯意識がまだ薄い標的はいくらでも存在した。だが茂田が狙うような小悪党達ほど、我先にとそうしたものを取り入れている家が多かったのだ。

 よって下調べの段階で、諦めざるを得ない家も少なくなかった。それでも最新技術にうとい家主や、使いこなせていないターゲットが稀にいる。そのような家を中心に狙い定めた茂田は、着実に成果を収めていった。

 この時侵入した家も、事前調査から脱税や不正な裏取引をしているとの情報は掴んでいた。そこで家庭に置かれたパソコンを調べ、そうした証拠が残されていないかを探っていたのだ。

 ロックは二回目で開いた為、素早くファイルを検索した。そこで裏帳簿らしきものを発見すると、USBを挿入してコピーした。その間にメール履歴も確認してみたところ、おかしなやりとりを見つけてしまったのだ。

 その為削除されたものの復元を試みた。すると公にされては困る様々な情報が、大量に発見されたのである。よってそれも同じくデータ保存しておいた。

 こうした裏情報を探っていると、動画のファイルなどを発見する場合があった。違法なサイトからダウンロードした物もあれば、女性に乱暴をしている映像や画像等が保存されているケースもある。中には自分の子供を、虐待しているものさえあった。

 お金だけでなくこうした情報を手にした茂田はいくつかに分けて隠しておき、いざとなった際にはその家主を脅すのだ。といってもそれをネタにして、金を強請るような真似は絶対にしない。あくまでこれ以上罪を犯さないよう、警告する為に使っただけである。

 特に虐待などに関しては、過去の過ちを繰り返さないよう厳しく対処していた。場合によっては匿名で警察に情報を流し、逮捕させたりしたこともあった。実際そのような映像を入手した事がある。

 世の中には、悪趣味な奴がいるものだ。自ら犯罪の証拠を残しているだけでも、理解に苦しむ。連れ子だったりして実の子供でないのなら、どうしても愛情を注げられない場合があるのかもしれない。だからといって、虐待していいものではない。それが血の繋がった我が子なら尚更だろう。

 それなのに、子供を殴ったり蹴ったりしているシーンを自ら撮影し残しているのは、娯楽の為だとしか思えなかった。どうしてそれほど残虐な行為が出来るのか。弱い者に対して暴力を振るうことで、己の強さを誇示したいだけなのかもしれない。単に虐待自体が快感となっているからこそ、何度か見返す為に映像を残しているとも考えられる。

 当初はその神経を疑ったが、余りにも多く見てきた茂田は異常者の趣味を理解する事自体無駄なのだと後に悟った。常習窃盗犯に言われたくないだろうが、決して人間とは呼べないそのようなけもの以下の奴らなど、外の社会には必要のない悪党だ。

 茂田はそう思い、虐待の証拠やその疑いがあると分かった場合は、必ず罰せられるように仕向けてきた。映像があればここ十年程はネットやSNSの普及により、そうした映像を拡散して公にする手法が使えるようになったことも、大きな要因だった。

 だが全てのケースで、しっかりした証拠が手に入るとは限らない。ネットがまだ普及していなかった時代や、下調べしている際に虐待している場面を目撃しただけの時には、警察や児童相談所に通報した所で、直ぐには動いて貰えなかった。そうして止む無く、見逃してしまった標的もいくつかある。その度に茂田は自責の念に駆られたのだ。

 虐待ではない脱税や不正の証拠だけしか手に入らなかった場合など、それを警察に通報して捜査させる手が無かったわけではない。だがそうしたケースでは警察が民事不介入という壁を越えられず、虐待を見逃す可能性があった。さらには通報された家主が空き巣に入られデータを盗まれたと証言することで、茂田自身に危険が及ぶ場合もあり得る。

 昔は指紋や足跡さえ残さなければ、まず捕まらない自信があったものだ。しかし今では、警察による科学捜査を馬鹿に出来なくなった。特に近年は侵入した際に落とした髪の毛や汗などから、DNAを採取できるようになったと聞く。

 茂田が逮捕された二回は一九六〇年前後の頃だった為、前科者リストのデータとして残る指紋の採取はされたが、DNAまで取られなかった。だから調べられても捕まることはないとは思ったものの、下手に藪を突くことはしたくない。その為虐待そのものの証拠以外は、何かあった場合に備えて隠し持つだけに止めていたのだ。

 茂田は三回目に逮捕された七十歳の時、初めてDNAを採取された。その後約三年刑務所にいる際、勉強して始めて知ったが警察は二〇一〇年頃からDNAデータの集積を拡大し始め、今や膨大になっているらしい。

 しかも表向きは警察に提出していなくても、データとして持っている可能性があるという。例えば入所している中で入所者が使用する生活品から、採取することもできるのだ。その上DNAのデータベース化については法律の規定がなく、国家公安委員会の内部規則のみあるだけで止まっている。

 データ削除は「死亡」か「必要がなくなったとき」しか認められず、しかも「必要がなくなったとき」とは、データの重複などの場合を指すらしく、捜査が終了しても削除されずに保管、集積される仕組みのようだ。

 さらには各警察署で「DNA採取月間」なるデータ採取を推進している期間があるそうで、その期間以外でも基本的に取調室に入った者からは、全てDNAを取る方針で臨んでいる現場も存在するという。

 ある事件の尋問で、警察官は原則としてどんな事件であっても基本的には顔写真、指紋、DNAデータは収拾することになっており、拒む人はほとんどいないと明確に法廷で証言した監察官も実際にいると知った時は、茂田も驚いたものだ。

 自分の時もそうだったが、「任意」を装いながら実際に採取を拒めない実態があることは間違いない。これらの情報はもともと事件の捜査のためではなく、将来の捜査のために入手されているという。

 つまり「その後起こった事件」で顔写真、指紋、DNAデータを照合し、犯人ではないかとその都度探索されることを意味する。そうした事情を知っていた為、茂田は秀人にDNAを採取されたかどうかを念のために聞いたのだ。

 しかし採取されなかったことと、データが蓄積されていないこととは必ずしもイコールでない。だからあの時、彼の唾液などがついているだろうヘルメットだけでも回収したいと考えたのである。

 そこで亡くなった師匠の年を超えた茂田は、分散していたものを回収し処分しなければならなかったことを思い出す。万が一誰かの手に渡り、良からぬ使い方をされてはたまらない。そうさせない為にも人目に付かないよう、長年隠し続けてきたのだ。

 その為にはあの邪魔な山岸を、どうにか排除したかった。付きまとい続ける彼がいる限り、下手な動きはできない。といって、そのまま放置することもできなかった。よって茂田は考えた末に、彼を罠にかけることにしたのだ。そして瀬良に連絡を取ったのである。

 彼は周囲の目を盗むようにして、こっそりやって来た。だが驚くことを耳打ちされた。

「山岸の兄貴はかつての仲間に、茂田兄さんのことを聞きまわってます。今の居場所は知っているか。かつて盗みに入っていた場所で、知っている所はどこか。やたら出入りしていた場所や、こっそり隠し持った家や土地などがあるか、と探っているようです。私の所にも来ましたが、もちろん何も知らないと言って突っぱねました。しかし兄さんと親しかった事はばれているので、今も相当しつこくつきまとわれています」

「それは申し訳なかったな。しかし何故早く、それを知らせてくれなかったんだ」

「わざわざ言うほどの事でもないと思ったんです。兄さんがこれまで盗みに入った儲けを奪い取ろうとしているようですが、あの兄貴なんぞに探し当てられる訳がないじゃないですか。兄さんがそんなヘマをするはずないと信じていましたから、どうってことは無いと高を括っていたのです。いけませんでしたか」

「いや、そうじゃない。でもあいつがまだしつこく俺に付きまとってることが、これではっきりしたよ」

「ええ。多分金目の物以外にデータなども盗んでいる話を、誰かから聞いたようです。兄さんがパソコンなどにやたら詳しい事は、評判だったじゃないですか。私も含めた何人かは、プライベートで操作の仕方を教わっていましたからね」

「ああ。データの盗み方は教えなかったが、バックアップや保存の仕方を知れば、何となく何の為にそこまで勉強しているのか、想像はつくだろうからな」

「私は惚けましたが、その話を聞いて脅迫や詐欺などをしない兄さんなら、ネタを隠し持っているに違いないとあの兄貴は確信したのでしょう。それを手にすれば、食うに困らないと踏んだのかもしれません」

「そうだろう。だが俺も年だ。そう長くは生きられない。だから自分が死ぬまでには、それらを処分するなりしなくちゃいけないと思っていたんだが、あの人が探っている限り下手に動けないんだ。そこで手伝って欲しい」

「兄貴の目からすり抜ける方法ですか。それは難しいですね。一番手っ取り早いのは、また堀の中に入って貰うことじゃないですか。人望が無いから、親しい仲間はいないはずです。あの人一人を罠に嵌めて排除すれば、問題は解決するでしょう」

 さすがは瀬良だ。茂田の計画と同じ事を考えていた。

「何かいい手はあるか」

「他ならぬ兄さんの頼みです。それにあの兄貴は、娑婆(しゃば)に出て生きていける人じゃない。三十年は刑務所暮らしをしていましたからね。外にいたら、碌な事はしないでしょう。そういう人はもう一度中に入って貰うのが一番です」

「それはそうだが、どうすればいいと思う」

「いい手があります」

 瀬良の話を聞いて、茂田は彼の立てた作戦に同意した。



「何だ、お前か。良く俺がここにいると分かったな」

 山岸のアパートは、名古屋市から少し外れた郊外にあった。近年は新興住宅地として大型ショッピングモールなどが相次いで進出し、自治体による手厚い補助があるおかけで子供のいる若い世代が多く住む街だ。交通の便も良く、名古屋の繁華街まで最寄りの駅から四十分あれば着くので、人口も増えているという。

 しかし彼は駅から遠く、築年数も古い一階の部屋に住んでいた。恐らく家賃も相当安いはずだ。といって昔から空き巣稼業をしている他の仲間も、豪邸に住んでいる者は誰もいない。相当稼いだはずの茂田でさえ五十年振りに逮捕されるまでは、目立たない様にひっそりとした住宅地の、古い賃貸マンションで生活していた。

 そう考えれば、三十年以上刑務所で暮らしていた七十六歳になる彼の住まいにしては、まだましな方だ。以前は大阪の外れに住んでいたはずだが、茂田の後を追うようにしてこちらへ移って来たらしい。

 隠し財産を奪う為だけでなく、空き巣をするにはこの土地がうってつけだったからだろう。かつては自分や茂田もこの地方に足を運んで盗みを働いたことがあった。

 その証拠に愛知県は、空き巣等の侵入盗発生率が全国でも十数年連続ワースト一の記録を持っている。関東だと東京、千葉、埼玉、茨城、神奈川などが挙げられるが、関西では大阪や兵庫、九州では福岡が多い。

 そんな中で愛知がトップまたは常に上位なのは、他の条件に合わせて県民性もある。まず高速道路や幹線道路などの交通網が発達していると犯行後に逃げやすく、住宅や店舗が集中し、県の平均所得が比較的高い中間所得層が多い場所は好都合なのだ。

 それに加えて愛知県では、自分の家には大したものがないから大丈夫だろうと、警戒心の薄い人が多い傾向もあった。またオートロックなどがあるマンション等より、一戸建てのほうが空き巣にとっては狙いやすい。愛知は地元志向が高く、戸建て志向が強い地域という点も原因の一つだろう。

 さらに大都市の割に昔ながらの近所付き合い等がある地区と、他地域から来た若い世代が多く住む地区とが入り交っており、防犯意識の薄い高齢者宅が多いことも要因だ。

 他にもリニア新幹線が通ると決まった名古屋駅周辺は、オリンピックに湧く東京に次いで開発が進んでいる。それに伴い名古屋の経済は順調な分、金持ち達も多い。つまり山岸が狙うターゲットが豊富にいるのだ。

 茂田の隠し財産の在処を探しながら、一方で本業の盗みや恐喝などをして生活するにはもってこいの場所と言える。茂田が既に名古屋の施設を出たと知りながらも、ここに拠点を置いたまま情報収集をしているのはその為だろう。

 そうした事情を踏まえた上で、瀬良は彼にすり寄った。

「兄貴は、茂田兄さんの秘密を探っていたじゃないですか。最初聞いた時、全く知らないと答えましたが、あれから私も興味を持ちました。そして思い出したことがあったので知らせた方が良いかと、兄貴の居場所を探したんです」

「どういうことだ。お前がわざわざここまで来たってことは、何か情報を掴んだのか」

「確信があるわけではありませんが、昔の記憶を辿って確かめてみました」

「何だ。言ってみろ」

「三十年位前ですけど、私が目を付けた家の下調べをしている時、茂田兄さんを偶然見かけたことがありました。滝野師匠がお亡くなりになって、兄さんがその後を託されたけれどまとめきれなくなって解散した後の事です。山岸の兄貴が七年の実刑をくらって、ムショに入っていた頃じゃなかったかな」

「ああ、丁度バブルの時代に突入していた時か。それでどうした。どこで会ったんだ」

 話題に食いついてきた彼の様子を見て、話を進めた。

「慌てないで聞いて下さいよ。私も会ったのは何年ぶりかだったので声を掛けようと思っていたところ、様子がおかしかったのです。下調べにしては周りを気にしながら、どこかへ向かっているようでした。気になったので、少し離れた場所から跡を付けたんです」

「ほう。それで奴はどこに行こうとしていた」

「その町の小さな山の上にある、神社へ向かっていました。参拝にしてはそれらしい雰囲気ではなかったので、こんな場所へ盗みに入るつもりなのかと思ったぐらいです。ああいう宗教法人の中には税金が安い事を利用して、金をたんまり貯めている所もあると言いますからね。あの人なら狙ってもおかしくないかと思ったんです」

 ここで山岸は鼻で笑った。

「あいつは鼠小僧気取りの偽善者だからな。大金を持っている悪党達からしか盗まないようなことを吹聴していたが、あれは嘘っぱちだ。貧しい人間達に盗んだ金を、配り歩いている訳でもないだろう」

 瀬良も追随して頷いた。

「さすがにそんな話は聞いていません。実際の鼠小僧だってあれは後から付けた伝説で、本当は博打や女や飲み代で消えたといいますからね。相当な額を盗んだのに捕まってから役人が家探ししてもほとんど金が出てこなかったのは、使い切っていたからでしょう。茂田兄さんの場合も、皆が知らない所で遊んでいたのかもしれません」

 同調されたことがよほど嬉しかったのか、彼の口は滑らかになった。

「そうだろ。金持ちばかり狙っていたのも、一回の収穫が大きく効率的だからだ。悪さをして稼いだ家を狙ったという話も後付けじゃないか。金を持っていようがなかろうが、人間なら後ろめたい事の一つや二つはある。それなのにいくつか盗みに入った先の一部で、悪事をしていたと公になった奴らがいただけだ。それを鼻にかけ義賊気取りしていやがるから、師匠に頼まれた集団の面倒も見られなくなってバラバラにしちまいやがった」

「茂田兄さんを嫌っていた人は、少なからずいましたからね」

 すると彼は思い出したかのように、警戒心を持った目で瀬良を見ながら言った。

「お前は慕っていただろう。茂田からも信頼されて、よく仕事の手伝いをしていたよな」

 その言い分に対し、顔をしかめながら答えた。

「それは何と言っても、一番の稼ぎ頭でしたからね。だから師匠も後継者に指名したのでしょう。稼げなくて困っていたり、捕まってムショに入っている仲間の家族を支援したりできる甲斐性があったのは、当時あの人だけでした。私が茂田兄さんに取り入ったのは、手間賃が高かったからです。私が一度捕まった時に親の面倒を看て貰った恩義があったのは確かですけど、次に困った時も親しくなっておけば助けてくれる、と計算しただけです」

「なんだよ、打算で付き合っていたと言うのか。そうは見えなかったが、本当ならお前も相当食えない奴だな」

「所詮、私も盗人ですから。それで話を戻しますが後をつけて神社に入った所、兄さんは建物がある場所とは違う奥の方へ、どんどん入って行きました」

「ほう。盗みの下見にしてはおかしな話だな」

「はい。だから何かあるのだろうと思っていましたが、奥に行けばいくほど人気は無くなり、身を隠す場所も限られます。そこで私の気配に気づいたらしく、途中で見失いました」

「まかれたのか」

「そのようですね。だから私も諦めて引き返しました。でもあれは何だったのかと疑問に感じてはいましたが、時間が経つにつれてすっかり忘れていたのです。でもこの間、茂田兄さんが盗んだ獲物の一部をどこかへ隠し持っている話を知っているかと、兄貴が私に何度も聞いてこられたじゃないですか。それで思い出しました。もしかすると、あれがそうだったのかもしれないって。確信は無いですよ。隠している所を見た訳でもないですから。でも久しぶりにあの場所に行ったら、可能性はあるかもしれないと思いました」

 当初は懐疑的かいぎてきな態度で聞いていた彼だったが、身を乗り出し尋ねて来た。

「そこはどこだ。教えろ」

「教えるのは構いませんが、かなり広い場所ですよ。この間私が行った時も少しばかり探して見ましたが、全く見当もつきませんでした。そんな所を兄貴一人で探せますか」

「なんだ。手伝ってくれると言うのか」

「あるかどうかも分かりませんし、場所も私が案内しなければ行けないと思います。それにもし隠し財産が見つかったら、少しは分け前を頂かないと」

「ちっ。しっかりしていやがるな。これまであいつに上手く取り入っていたお前らしいよ。分かった。だが茂田の隠し財産は、発見できたとしてもそのままでは役に立たない。だから物だけを分配したとしても、お前が金に換えることなんてできないだろう」

「どういうことですか」

「俺が調べたところあいつの隠し財産は、盗みに入った家が隠しておきたい秘密の情報らしい。だからそれを使って、恐喝するなりしないと金にはならない。そんなものをお前が持っていても、手に負えないはずだ。そうだろ」

「そうでしたか。いやそれなら確かに無理です。兄貴と違って、私は長年空き巣しかやった事がありませんし、人から金を脅し取るなんて真似はできません」

「そうだろ。だから見つけただけでは、分けようがない。相手からせしめることができてようやく金になる。話はそれからだ」

「分かりました。それなら兄貴の方が逮捕される危険もあるでしょうし、取り分は当然多めで構いません。金になった分の三割、いえ二割で結構です。どうせ黙っていても金にならない情報ですし、これまでの実績を考えると兄貴しか活用できる人はいません。茂田兄さんが持っていても、宝の持ち腐れです」

「そうだろ。俺もだがあいつも年だ。それに奴は、重い病気を抱えているらしいじゃないか。いつ死ぬか分からない奴が、金のなる木をいつまでも隠し持って誰が得をする。死んじまったら、何の役にも立たない。生きている内に使ってこそ、価値が出るってものだ」「おっしゃる通りです。私もまだ細々と稼いでいますが、いつまで仕事を続けられるか分かりません。これまで稼いできた金を取り崩しながら、何とか生活しているのが現状です。体が動かなくなった後の事を考えると、金はいくらあっても困りませんからね」

「だったら案内してくれ。もし発見できて金になったら、お前にも分け前をやる」

「はい。でも相当昔のことですし、もしかすると場所を変えているかもしれませんから、見つからなくても怒らないで下さいね」

「分かっている。あいつの隠し財産については、相当長く探ってきた。それでも場所に関しては今まで全く情報が無かったから、初めて手掛かりらしきものを得たことになる。試す価値はあるだろう。お前の話が本当だったとしたら、だがな」

「本当ですよ。嘘はついていません。ただ何度も言いますが、お宝を隠した場所かどうかは定かじゃありませんよ」

「ああ。でも探してみないことには始まらない。すぐにでも連れて行ってくれ」

「少し遠出になります。ここから半日はかかるでしょう。できたら現場へ行くのは、明後日以降にしませんか。明日は頼まれ仕事があり、私の都合も悪いので」

「いいぞ。探し当てるまで、時間がかかるだろう。泊まる宿の確保も必要になる。交通手段をどうするかも打ち合わせしなきゃならない。早速やろう」

 その日から二日後、瀬良の先導により山岸と二人で茂田の隠し財産を探し始めた。

 しかし目的の神社と茂田の姿を見失った場所まではすんなりと行けたが、肝心の物はなかなか見つからない。昼過ぎから始めて二人がかりで夕方近くになっても、一向にそれらしきものの手がかりすら発見できなかった。

「すみません。ここではないのかもしれません。または場所を変えた可能性もあります」

 だが弱気になっている瀬良を励ますつもりだったのか、山岸は言った。

「いや。ここに着くまで半信半疑だったが、何らかの目的がなければ普通こんな所へは来ない。しかも山奥で人は滅多に入らない場所だ。俺の勘だが絶対この辺りにある。諦めるのは早い。それに奴なら、そうやすやすと見つかるような隠し方はしないだろう。時間がかかることも想定済みだ。宿も予約してある。そう焦るな」

「そう言っていただければ、助かります」

「お前は明日までしか都合がつかない、と言っていたな」

「すみません。この間もそうでしたが、明後日も目を付けている家の下見に行かないとまずいので。日を変えて貰えないか交渉しましたが、断られてしまいました」

「分かっているよ。昔の仲間の伝手から声をかけられ、複数で手分けして動いているらしいな。どうだ。上手くいきそうか」

「何とも言えませんね。始めたばかりですし、少しずつターゲットの行動パターンが読めて来た程度です。ただ金は確実に貯め込んでいるようですが」

「小金を持っているのに警備会社と契約していない家なんて、よく見つけたな。最近はセキュリティー対策をしている家が多くなったから、空き巣はやりにくくなっただろう」

「そうですね。昔と違って鍵なんかも丈夫になっていますから、簡単には開けられません。ただ戸建ての住宅地でも近所付き合いが少なくなった地域が多いので、人の目は昔より気にしなくて済むようになりました。だから下見は楽になったと思います」

「三人で狙っていると言っていたな。成功した場合、一人当たりの儲けはどれくらいだ」

「私は声をかけられたのが最後でしたし、役割分担もあって取り分は少ないです。百万もあればいい方じゃないですかね。家に侵入できても、肝心の金庫が開くかどうか分からないそうですから」

「金庫破りなら、お前もできるだろ」

「とんでもない。私の技術じゃ最近の物には全く歯が立ちません。老いぼれの私にできるのは、下見でその街の雰囲気を読み取ったり、家の間取りや家族構成から気配を感じ取ったりすること位です。万が一、何か起こった場合の回避方法だけは熟知していますから」

「そうした経験を買われて、声がかかったんだろ」

「若手より優れている点はそれ位ですから。それでも有難いことだと思います。でもこれだけでは食べられない時代になりましたよ。あの茂田兄さんだって足を洗いましたから」

「俺もあいつも、昔ほど身軽に動けなくなったのだからしょうがない。それに奴は最近捕まった刑務所暮らしもあって、体を壊したからだろう」

「そうらしいですね」

「だからあいつはこれから金に困れば、隠し財産を使うかもしれない。しかしその前にくたばる確率の方が高い。だったらその前に俺がそれを使って、金に換えた方が有意義だろう。それにあいつは恐喝のような犯罪なんてできない。元々宝の持ち腐れなんだよ」

「確かにそうでしょうね。だから私も兄貴に情報を渡して、手伝いをすれば金になると思ったからお声をかけたのです」

 二人でそんな話をしながら探し続けたが、一日目は発見出来なかった。それでも人が入ったらしい獣道けものみちはいくつか見つけた。だが暗くなってきたため諦めたのだ。 

 人気が無いとはいえ、真っ暗闇の中で灯りを点けて探し回ればさすがに目立つ。山の麓の民家からも丸見えだ。何事かと警察に通報されでもしたら面倒なことになる。

「今日はこれくらいにするか。明日も早くから、この先を重点的に探そう」

 山岸の言葉に従い二人は予約している民宿へと移動し、翌朝早く再び人目に付かないよう神社の奥へと入り、捜索を開始した。かつて瀬良が茂田を見失った所から、そう遠くないと山岸は考えていたようだ。

 後をつけていた瀬良だって、長年空き巣家業を続けてきたベテランだ。狙った家の下見をする際には目立たぬようにしたり、侵入先で人がいた場合でも感知されないよう動いたりすることは、自然と身についている。

 普通なら簡単に気づかれない。こんな山奥にまで辿りつけたのも、そうした技術があったからこそ出来たのだ。それでも感づいた茂田はさすがだが、隠し場所に近づいていたからこそ辺りの気配を再確認した所で、誰かつけていると察したのだろうと山岸は言った。

 だからこそこの周辺にあるはず、と彼は見当をつけていたようだ。しかも神社の奥は草木が生い茂っている為、物を隠すにしても何かしらの目印が必要になる。それが無ければ次に来た時、どこにあるかが分からなくなる確率が高い。

 その為彼はとにかく傷が入った樹、または何か特徴のある物を探せと瀬良に命じた。そして二日目の昼過ぎになって、ようやくそれらしきものを発見出来たのだ。

「ここか」

 周辺には無い二股に分かれた樹の根元を掘ってみたが、何かを埋めた形跡は見つからない。そこでその樹を起点に周りを探ったところ、人の手が入ったとみられる場所に遭遇したのだ。

「ここだ、間違いない!」

 用意していた携帯スコップを使って二人で丹念に土を掘り起こすと、プラスチックの容器が出て来た。密閉できるタイプで、明らかに何か大事なものを隠すために使われていたとしか考えられない。

 苦労した末に入手できたものだからだろう。山岸は土を払って丁寧に蓋を開けた。すると中にはさらにビニールで包まれた物が出て来たため、それをゆっくり取り出した。そして現れたのが、大量のUSBメモリと折りたたまれた書類だった。

「当たりだ! やはり存在したんだな」

 山岸の呟きに瀬良は尋ねた。

「これが茂田兄さんの、隠し財産ですか」

「ああ。奴はいつからかパソコン教室に通って、その手の機械にやたら詳しくなっていた。趣味にしては熱心過ぎたし、空き巣専門の奴に必要な技術だとも思えなかったが、盗みに入った家の秘密情報を手に入れる為だという俺の目に狂いはなかった」

「これを使って金を強請るつもりだった、ということですか」

「最初はそう思ったが、これだけの量だ。あいつが最近捕まるまでに、そうした動きをしていたという話は聞いたことがない。もしかすると他に別の目的があったのだろう」

「別の目的って何ですか」

「知らねえ。そんなことはどうでもいい。これさえあれば、後は金に換えるだけだ。使わないでただ土の中に埋めておくだけなら、俺の手で有効利用した方が何百倍もマシだろう」

「どんな情報が入っているのでしょうかね」

「USBの方は中を見てみないと分からないが、ここにある書類を見る限りだと裏帳簿かもしれない。あいつは小悪党の家を専門に狙っていたからな。そいつらの悪さの証拠を集めていたようだ」

「兄貴はそんな小難しいものを手に入れて、どうするつもりですか。見方が分からないと、脅しようがないでしょう」

「これが金になるかどうかは、相手が判断してくれる。コピーを提示していくらで買ってくれるか聞いた時の反応を見れば、大体分かるものだ」

「なるほど。さすが兄貴だ。そっちの経験も豊富ですからね」

「まあ、何度かしくじって捕まってはいるけどな。しかし今度は今までと違う。これは俺が盗んだものじゃない。茂田の盗んだものが、俺の手元にあるだけだ。窃盗罪で捕まる心配はない。金を引き出すのも、やり方次第だ。無理やりなら罪に問われるが、相手からいくらで買いたいと言わせれば、単なる取引に過ぎないからな」

「その辺りの駆け引きは、全てお任せします。この間お伝えしたように、明日は私の都合が悪く手伝えませんので」

「いいよ。これから先は俺がやる。どこの家から盗んだかも調べないといけないから、手を借りたい時は声をかけるよ。それさえ分かれば、俺だけで十分だ。上手く金に換えられれば、一割の分け前をやろう」

「え? この前は二割って言ったじゃないですか」

「考えが変わった。この場所を教えてくれたのはお前だが、発見したのもこれから金に換えるのも俺じゃないか。一割でも多いくらいだ。文句があるなら一円も渡さんぞ」

「わ、分かりました。でも下調べが必要だったりするようなら、もう少し増やしてくださいよ。私もこれから稼ぐのは、かなり難しくなっています。だから生活に困らないように、金が必要ですから。もし独り占めするようなことがあれば、茂田兄さんにばらしますよ」

 瀬良が必死に懇願しながら脅し文句を匂わせると、彼は渋々頷いた。

「分かったよ。ばらされたぐらいで別に困りはしないが、なるべく面倒は避けたい。奴にはまだ昔の仲間が色々いるだろうから、敵に回すと厄介だ。分け前は一割五分にしよう。下調べなどで手伝いを頼む場合は、別途支払うことにする。それでいいな」

「ありがとうございます。これで二日潰した甲斐がありました。助かります」

「ご苦労さん。この中身を分析して、ターゲットを確認できたらまた連絡するよ」

 茂田はそういって瀬良と別れたが、それっきりになった。



 分け前を渡すつもりなど、最初からなかった。山岸は一人で書類やUSBメモリの中身を確認し、持ち主を特定すると早速行動に出た。コピーを取って強請る相手先に乗り込み、いくらで買ってくれるかと交渉に入ったのだ。

 驚いたのは先方である。数年前に、空き巣被害に遭った件は覚えていた。現金など二千万以上ごっそりやられたが、裏金だった為警察に届け出られず苦い思いをしたという。 

 しかしそこから、裏データまで奪われていたとは気づかなかったようだ。しかも盗みに入った人物とは違う奴の手に渡ったと聞いて、彼らは目を丸くしていた。

「ちょっと待ってくれ。これがうちの物かどうか、確かめてみないと答えようがない」

「それはもちろんです。私には何の価値もありませんが、お宅は違うでしょう。いらないというのなら、警察に落し物として届けるだけですから」

 応接間に通されソファに深く座っていた山岸は、足を組み直した。二人いた内の一人が書類を手に取り、慌てて奥に引っ込む。もう一人は見張りのつもりなのか残っていたが、心なしか顔が引き攣っている。

 一方の山岸は、どっしりと構えていた。もしもう一人が複数人引き攣れて暴力で何とかしようとするなら、すぐ警察に連絡するだけだ。その用意はしているし、今の会話も念のため録音をしている。こういう場合の備えは万全だ。後は平然としていれば、心理的にも優位に立てる。

 しばらくして席をはずした相手が戻ってきた。しかし予想に反し、連れてきたのは一人だけだった。そして山岸の前に座っていた一人を入り口まで呼びつけた後、三人共外に出て何やら相談をし始めたのである。

 これからの対処の段取りでも打ち合わせしているのかもしれない。それでも三人という数は微妙だ。特に体格が良い輩がいる訳でもなかった。

 こちらは老人だから、力付くでもその人数で十分だと舐めているのか。それとも穏便に済まそうとしているのか、どちらとも取れる。懐に隠したスマホと録音機の場所を手で確かめ、どういう状況になっても対応できるよう準備した。

 しばらくして、三人とも部屋の中へと戻ってきた。そして最も優男(やさおとこ)に見える一人が入り口近くに立ち、残り二人が山岸の正面に座り直した。先程まで残っていた一人の顔の緊張が解けている様子に不安を覚える。それでも素知らぬ振りをして尋ねた。

「どうするか、決められましたか」

 しかし最初に慌てて出て行った男が、笑みを浮かべて言った。

「どうするとはどういう意味でしょうか。山岸さんと言いましたね。あなたこそ突然弊社に乗り込んできて、何を期待しているのですか」

「ほう。だったら私がどこかで拾ってわざわざ届けに来たあの紙は、御社にとって必要なものでないと言うことですか。それでしたら警察に落し物を拾ったと届けるだけです」

 そう言って腰を上げかけると、意外な答えが返ってきた。

「それは構いません。ちなみにあなたはうちの物を拾ったとおっしゃいましたが、何故か現物ではなく、データのコピーを取ってここへ来られたのですよね。なぜそのものをお持ちでないのですか。要するに、最初からお金が目的なのでしょう。違いますか」

 喧嘩腰の口調が気に障った山岸は、座り直して言い返した。

「私が拝見した所、そちらにとって大切な資料だと分かりました。けれどもし持ち主が違っているといけませんので、念の為にコピーを取ってお渡ししただけですよ。あくまで御社の物で無いというのなら、先程渡したものを返してください」

「あなたはこちらの質問に、まだ全て答えていない。結局お金が目的なのでしょう。おいくら欲しいと思っておられるのですか」

 なるほど、そう来たか。金額を抑える為に敢えて動揺を隠しているのだと考えた山岸は、交渉の余地があると踏んで返答した。

「ああいうものは、外部に漏れるとまずい書類でしょう。確か個人情報も載っていたはずです。個人情報保護法では不適切な管理によって情報漏えいした場合、事件や事故の公表をしなければなりません。そうなると、会社は重大なダメージを受けてしまいます。それにしかるべき場所へ報告する義務もある。さらには漏えいによる被害の拡大を防止すると共に、その対策も取らなければならない。もし放置し違反すれば、刑事罰も課される」

「良くご存じだ。この手の書類を使い、金を脅し取ることに慣れていらっしゃいますね」

 年下の男による明らかな挑発の言葉が癪に障った為、思わず言葉が乱暴になった。

「馬鹿にするんじゃねえぞ。口の利き方に気をつけろ。情報漏えいしてしまった場合の手間暇を考えれば、分かるだろう。少しばかりの謝礼を期待するのが普通じゃねえか」

「ではおいくら欲しいのです。三万、それとも五万ですか」

「ほう。さっき渡した書類は御社にとって必要がなく、警察に届けても構わなかったのではないのかな。何故そのような物に金を出す。しかもそれが五万円だと。そんなガキの駄賃で済ませたら、お宅に関係ないものを売ったことになる。そんなことをしたら、その後本当に公表されて困る人が、それ以上の金で買い戻さなければならない。そんな悪質な会社は潰れた方が良いから、警察に渡して処理して貰うよ」

「やはりあなたはあの書類が公表されれば弊社が困るだろうと、売り付けに来たんじゃないですか。だったらいくらだと納得するつもりですか」

「それは俺が決めるものじゃない。どの程度の価値かは、持ち主なら分かるはずだ」

「では十万円と言ったらどうします」

「話にならないな。帰らせてもらう。さっさと書類を返せ」

「百万円、と言ったら」

「お宅にとって、その程度の書類かね」

「もっと必要だと。そうでないと弊社が困るというのですか」

「中には個人情報の他に、いろんな数字が書かれていた。もしかすると裏帳簿っていうものじゃないのか。そんなものが世に出回っちまったら、とんでもないことになるよな。会社が潰れるかもしれないし、関係する取引先の企業にも警察の手が回るだろう。それを百万。へぇ。その程度の価値しかないのかい。この会社は」

 その時だ。先程までドアの前に立っていた男が、突然喋り出した。

「今の発言は、刑法二百四十九条の規定による恐喝罪に当たります。暴力や相手の公表できない弱みを握るなどして脅迫することで相手を畏怖いふさせ、金銭その他の財物を脅し取ろうとする犯罪は、十年以下の懲役刑ですね」

 そう言いながら、ポケットから取り出したものを襟元に付け始めた。良く見ると弁護士バッヂのようだ。腕っぷしの強い輩でないとは思っていたが、まさか会社の顧問弁護士だとは思わなかった。

 続けて目の前にいる男の一人が発言した。

「今まで話した内容は、全て録音しております。警察に通報しますが、宜しいですか」

 まんまと罠に嵌ったことに気付いた山岸だが、まだ慌てる必要はない。ソファに深く座り直し、背もたれに体を預けながら言い返した。

「いいのかな。警察を呼ばれて困るのはそっちだろう。さっき渡した書類は、お宅の裏帳簿じゃないか。だから最初に見せた時、驚いていたんだろう。俺は恐喝の疑いで捕まるかもしれないが、この会社だってただでは済まないぞ」

 しかし相手の表情は変わらなかった。

「先程から何度もおっしゃられていますが、勘違いされているようですね。弊社に裏帳簿なんてありませんよ。一見した時は、当社の帳簿に酷似していましたからどこで流出したのかと少し慌てましたが、正規の物と照らし合わせたところ全く別物だと判明しました。どこで手に入れたのか知りませんが、当社の帳簿に似せて加工された全くの偽物です。あなたはそうとも知らず、これは脅迫に使えると思ったのかもしれませんが残念でしたね」

「な、なんだと。偽物だって。そんなはずはない。ハッタリをかますのもいい加減にしろ」

 茂田が隠していたデータには、相当古いものから比較的新しい情報まで含まれていた。その為時効が切れていない最近の物の中から、どこの会社の帳簿か判別できるものを抽出し、さらには金を持っていそうなところを選んだはずだ。

 しかし中身自体は本物だと確信していた。なぜならあの茂田が、わざわざ人目のつかない場所に隠したものである。偽物であるはずがない。

 そう信じ込んでいたが、相手は動じるどころか呆れた顔をして言った。

「そこまでおっしゃるなら、警察を呼びましょう。ハッタリかどうかそれで分かります。何を根拠に、こんな書類を本物だと言い張るのですか。あなたが当社に忍び込んで手に入れたとでも? それなら尚の事、これが偽物だと分かるはずです。なぜなら当社と取引のない企業名等も羅列しているこのような書類は、どこにも存在しませんからね。どういう経路で手に入れたのかは知りませんが、詳しくは警察に話して貰えば分かることです」

 その言葉を合図にドアの前で立っていた弁護士は、スマホを取り出して電話をし始めた。どうやら本当に警察へ連絡しているらしい。ただの弁護士風情があれ程の演技ができるとは思えなかった。

 山岸は混乱していた。どういうことだ。自分自身もこれまで盗みに入った先で裏帳簿を手に入れ、それを元に恐喝して金をせしめた事が何度もある。その経験から、あのデータの中身は全て本物だと確信していたが、違うと言うのか。

 訪問先を間違えたはずはない。事実先方も最初に見た時は、会社の帳簿だと思い慌てていたではないか。しかし中身が違うとはどういうことだ。

 答えが出ぬまま呆然としていると、気付いた時には警察が駆け込んできていた。もう逃げられない。もしこのまま逮捕されれば、これまでの前科から数年は出て来られないだろう。自分の年齢から考えると、生きて娑婆には戻れないかもしれない。

 そんなことを考えながら、警官に両脇を抱えられ部屋の外へと連れ出されたのだった。

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