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 顔を合わせる時間が増え、言葉を交わすことも増え、それでもサシュは頑なに、自らに関わることについては一切答えようとはしてくれなかった。だから僕も当たり障りのない話題を選んで口にしていた。当たり障りのない、とはいっても、サシュは広く深い知識を持ち合わせていて、だから当然視野も広く大いに刺激的な話し相手だった。たまにサシュがじいっと、言葉もなくただただ僕を見つめていることがあったけれど、その理由については触れないようにしていた。見た目が美しい分、勘違いしそうになる。

「お主は暇なのか?」

 書物をぺらぺらと繰る音の合間にサシュが尋ねてきた。書物から視線だけ上げた。正面に座るサシュの表情は退屈そうだ。

「暇ではないですよ。だからもうじき、大学に戻らないと」

 サシュが書物から顔を上げてまじまじと僕の顔を見ていた。僕も万年筆を置いてきちんとサシュを見た。

「本音を言うならずうっとここに籠っていたいけれど、論文を仕上げて提出しないとなりません」

 答えに興味をひかれたのかサシュの瞳がわずかに明るくなった。だから少し自分の話をした。ハイスクール時代に短期留学で訪れた先で魔女の伝承を聞いたこと。魔女に興味を持ったこと。大学に進んでずっと魔女の伝承について調べてきたこと。教授には今さら流行らない分野だと反対されたがそれを押しきったこと。来夏、修士課程を終える予定であること。

「お主、今年でいくつになる?」

「ハイスクールで少し寄り道をしたので二十六です」

 サシュはじいっと僕を見た。どういう意味だろう?

「まだまだひよっこよの」

 ほほ、と声を立てて笑った。瞳を細めて楽しそうに。笑った。サシュが。思わずがたりと音を立て椅子から立ち上がっていた。サシュは目を丸くして僕を見上げていた。

「……どうした?」

「あ。いや、その」

 おずおずと座り直す。

「それで、論文を提出して、大学で勉強を続けます」

「そうか」

 サシュが口を噤んだ。こっそり息をついてから、万年筆を取り上げて書物から読み取った内容をメモに書きつけ続けたけれど、サシュの視線が刺さるように痛い。手を動かしながらもサシュのことが気になって仕方がない。

「──────もう、」

 ささやか過ぎて聞き漏らしそうな呟きだった。え、と顔を上げるとサシュは、ものすごく傷ついた子どものような瞳で僕を見ていた。

「ここへは──────来ないのか」

 反射的にぶんぶんと頭を振っていた。

「まさか。そんな。まだまだ調べたいことも知りたいこともあるのに。また、来たいと──」

 その先は音にならなかった。同時にかあっと頬が熱くなった。まるでこれは──密かな恋心を打ち明けているようで。サシュは驚いたように目を見開いて、それから。

「そうか。また、来るか」

 嬉しそうに──とてもとても嬉しそうに目を細めた。サシュの表情から目が離せなかった。



 宣言した通り、そののちほどなく僕は大学に戻り、予定通り論文を提出し、修士課程を修了して博士課程に進み、たまにアルバイトをし、夏の長期休暇にはサシュの館を訪ねた。サシュは真っ黒な羽織に身を包み、左手に指揮棒のような細いちいさな棒を持ち、気が向いたら話しかけてきて、さらに気が向いた時にはささやかな魔法を披露した。

 三度目の夏の終わり、また来るか、と問われて、もちろん、と頷いた。

「そうか」

 いつもなら嬉しそうに笑うサシュが、その時はとても寂しそうだったのが気にかかった。だが、理由を聞いてもいいのかどうかどうにも判断ができなくて気がつかなかったことにして、新しい書物を探しに立った。階段を上りながらこっそりサシュを見ると、サシュは机に臥していた。そのちいさな背中が今にも消えてしまいそうでぎゅうと心臓が縮んだ。

 その時は、どうしてそんなふうに感じたのか気がつかなかった。

 それまでの夏と同様に、また来ます、と約束をしてサシュの館を離れた。サシュはその日初めて、門の脇に立って僕を見送ってくれた。集落から遠く離れた山中の館の周りはすっかり秋だった。冷たくてやや強い風がサシュの、癖の強い赤い髪を弄ぶ。その表情は哀しげで、瞳に宿る色は強く訴えかけてくるものがあった。もしかしたらなにか伝えたいことがあるのだろうか、いやいや、きっとサシュは僕との別れを惜しんでくれているのだ。しんみりと寂しい気持ちが湧く。手を上げるとサシュは柔らかく瞳を細めた。傾いた陽に照らされたその髪はいっそう赤く、その赤はしばらく瞼の裏に焼きついて消えなかった。

 翌年の春浅いころ、タドニアから書簡が届いた。初めてのことに驚きながら封を開けた。

 

『先生


 お元気にしていますか。

 何度かお電話をしたんですがどうにも捕まらないので、前に聞いていた大学宛てに手紙を送ることにしました。

 初雪が降ったころに、真っ黒な羽織に身を包んだ老人がうちを訪ねてきましてね、一通の分厚い封筒を預けて帰りました。なにか傷む物でも入っていたらことだから、中身はなにかと尋ねたんですが、先生に渡せば解るからとしか。

 また夏に来るから、と言っていたから、それまで預かっておくつもりではいるんですけど、どうにも気になっていましてね。

 先生、もしできるなら、予定を早めて来てくださいませんか。もちろん無理にとは言いませんけども。

 できれば、いつ頃お見えになるかだけ連絡をいただけるとありがたいです。豪華ではありませんが、いつも通りのこころづくしでお出迎えいたします』


 真っ黒な羽織──と言われたら連想するのはサシュの姿で、だがタドニアの書簡には「老人」とある。もしやサシュの他にもあの館には魔女がいたのだろうか。どういう状況だったのだろう。次の長期休暇まで待てなくて、教授には、研究の件でお世話になっている友人から急を告げる手紙が届いたので、と断りを入れて現地に急行した。途中タドニアには到着の予定を知らせる電話をした。

 宿で私を出迎えてくれたのはシーディだった。タドニアの娘で、一昨年の秋からタドニアの宿で手伝いを始めた。

「まあ先生、お早いお着きで」

 コートを引き取りながらシーディが奥に声をかけ、すぐにタドニアも顔を見せた。手には分厚い封筒を持っている。

「先生、お忙しかったでしょうに、申しわけない」

 言いながらもタドニアは、その分厚い封筒を私に差し出した。

「例の預かりものです。こんな立派な封緘、今でも使うおひとがいるんですね」

 まじまじと封緘を見た。大袈裟なほどにしっかりと施されている。

「絶対に先生以外の人間が開封することがないように預かってくれと。郵送することも考えたんですけど、途中で紛失でもしたらとんでもないことになりそうでねえ」

 タドニアは、預かっていた封筒を私に渡すことができて、心底ほっとしている様子だ。

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