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その館は、急に目の前に立ち現れたかのようだった。
こんな山奥にどうやって建てたのだろう、こんな立派な館を。しばらく門前からぼうっと見上げてから、思い直すように首を振って門を潜ろうとした時だった。
がらんがらんと、派手に鐘の音が鳴り響いた。その出所を求めて辺りをぐるりと見渡したけれど見当もつかない。
『注意書きは読んだかね?』
どこからか声が聞こえた。声の出所は先ほどの鐘の音同様に突き止めることはできなかった。
『注意書き』
言われてみれば確かに、門の脇に嵌め込まれた石板に『入館時の注意』が刻まれているようだった。
『 入館時の注意
一、 いかなる飲食物も持ち込みを禁ず
二、 火気厳禁
三、 靴を消毒すべし
四、 館内のものにみだりに手を触れてはならない
五、 髪の毛一本、落とすべからず』
まじまじと注意書きを見つめる。
『読んだかね? まず飲食物。どこぞで処分してまいれ。頭を覆う頭巾と手袋も忘れずにな』
わけが解らなかった。けれどどうやら、それに従わなければ入館できないらしいことは解った。門にどれほど身体を押しつけてみても門扉はびくともしなかった。
『入りたいのであろう? ルールを守るように』
呆然として、それでも出直すことにした。こんなことで諦めることはできなかった。やっと見つけたんだから。髪を落とさないように頭巾を用意、と言われて、脳裏に浮かんだのは研究室で細菌の培養をする悪友トルファンの姿で「自分のフケひとつでも落とそうものなら、台無しになるからな」と笑ったことを思い出す。重要な書物を保管している場所なら、髪が紛れることで細菌が繁殖したり虫が涌いたりすると困るに違いない。飲食物を持ち込むな、ということも、そういう理由なら頷ける気がした。
翌日。
気を取り直してあの門の前に立った。鐘の音は鳴らなかった。門を潜ってすぐのところに、やっぱりどこぞの研究室みたいに靴の消毒曹があった。丁寧に靴を消毒してさらに進む。玄関の扉はあっさりと開いた。扉をくぐり一歩足を踏み入れた瞬間、ふかっと柔らかな感触がした。まるで、毛並みがふかふかの絨毯を踏んだときのような。思わず足許を見たが特に変わった絨毯やマットが敷かれている様子もない。不思議に思いつつも足を進める。エントランスの奥には無人のクロークがあった。
『荷物はここへ。ペンとノートは持ち込み可、他一切の私物の持ち込みを禁ず。頭巾と手袋を身に着けるように』
クロークに置かれたプレートの指示に従ってキャップをかぶり手袋を嵌めた。置いた荷物はすうとクロークの奥に吸い込まれて消えた。どういう仕組みなのか。右手のドアには「お手洗い」の札、左手には水飲みがあった。正面の扉に思い切って手をかけた。細長い廊下。一歩入ると全身をぶしゅうと強い風に嬲られた。
『どうぞ』
どこからともなく声がした。逸るこころで廊下を進んで奥の扉を開けた。古書特有の、黴っぽいような古臭い匂いがする。想像したほどの広さではなかった。大きめのゲストルームといったところか。部屋の中央に大きな机と椅子が四脚。それらを取り囲むように壁際に書架が配置され右奥に階段が伸びている。階段の上にも書架。ここからではよく見えないが二本並べてあるようだ。手近の書架に並んだ書物の背の文字を見た。ほとんど見知らぬ文字ばかりで、だけどひとつずつ丁寧に追ってゆけば、どうやら読めそうなものもいくつか見つけた。
ずらりと並んだ書物の背に見入りながらも、興奮でどこか上の空になっていた。ここに収められているのは間違いなく魔女に関する書物ばかりのようだった。書架の前を一回りし終えてようやく興奮が収まってきて、そうすると俄然、書物の中身に意識が向いた。背の文字を注意深く読みながら、どうにか読めそうと思われるものに当たりをつけて引き抜いて開いた。丁寧にページをめくった。手記か日記のようだ。しばらくその場で読んでいたが、せっかく机があるのだから拝借することにした。さらに二冊の書物を手に机について読み耽る。
『もうじき閉館です』と声が聞こえて、はっと顔を上げた。随分と薄暗くなっていた。天井を見上げたけれど照明の類はないようで、それなら帰るしかないかと諦めた。
『気をつけてお帰り』
門を出た瞬間どこからか声がする。気が緩んだのか、ぐう、と派手に腹が鳴った。
それから毎日、その館に通った。
ここが魔女の求めた「安住の地」だったのかどうか、なぜこのように多くの書物が所蔵されているのか、その理由はまるで解らない。解らないながらも僕はその書物を紐解くに夢中になっていた。入館までのあれこれの儀式にもすっかり慣れ、ただひとつの不満は、そこではまともな食事ができないことだった。館の外で飲食する分には問題ないだろうと弁当を持って行ったことが一度だけ、そのときは見事に締め出された。
書物を漁るのを諦めるか。食事を諦めるか。答えは簡単に出た。
空腹を感じたら水を飲んで腹を膨らませて、ひたすら書物を読んだ。読めない文字がずらずら連なっている本は、他の読める本と中身をじっくり見比べてみて、少しずつ読解できるようになってきた。読解できるようになったところで、求める答えにはそうそう簡単に行きつけるものではなく、どうやら思った以上に時間のかかる作業になりそうだ。それがたまらなく嬉しい。
そんなふうに多くの書物とひたすら向き合うだけの日々を十日ほど続けた日の、昼下がりのことだった。
手近に置いてあった二冊の本を読み解くうち、三日ほど前に見つけた本が手掛かりになることに気がついた。あの本はどこにあっただろうと考えながら立ち上がろうとした、その時だった。
後頭部に衝撃──間を置かず鈍い痛みがやってきた。
驚いて振り向くとひとが立っていた。真っ先にその髪に意識を奪われた。なんと見事な赤い髪だろう。まるで真っ赤に焼けた鉄のようだ。どれくらい見惚れていたのか、ちいさな咳払いが聞こえたのであらためてその主を見た。息を呑む。
そのひとは、とても美しい顔立ちをしていた。
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