魔女のたくらみ
おぐら あん
開幕
1
強風に煽られて思いのほか大きく開いてしまったドアを慌てて閉じた。ふうとちいさく息をついてから振り返ってみれば、カウンターの中で受話器を耳に当てたシーディが文字通り目を丸くして私を見ていた。
「……先生! 随分遅いから……っ!」
ややきつい口調に続いたのは盛大なため息。苦笑を返してコートにこびりついた雪を払う。ゆったりとした動作でカウンターから出てきたシーディが背に周った。
「ほんとうにひどい雪。なにもこんな時期に来なくったってよかったでしょうに」
「はは。……迷惑だっただろうか?」
返事はない。ただ黙ってはたはたと雪を払う音がしばらく続いたのち、やっと彼女は言った。
「コート、お預かりします」
ちいさく頷いてから湿り気を帯びたコートを脱いだ。それを手渡す際に出会った彼女の目が柔らかく細められていたことに、心底ほっとしていた。
「いつものお部屋を整えてあります。それから、お湯の支度も」
ありがとう、と頷いてから用意された部屋に荷物を置き、そのまま風呂に向かった。湯船に浸かると腹の底から声が出た。強張った身体が次第に解れていく。普段はそれほど長湯をする性質ではないが今夜ばかりは事情が違った。芯まで冷え切った身体が充分に温まってから風呂を出る。
「召し上がりますよね、夕食」
「もちろん」
着替えを手にしたままダイニングの椅子に掛ける。シーディが用意していたのは、根菜がたっぷりと入った熱々のスープとにんじんとじゃがいものチーズ焼き、自家製ハムのソテーと黒糖入りのパン。
「食べ終わったらそのままでいいですからね」
そう言い置いて彼女はダイニングを出た。少し彼女に話し相手になってもらいたい気がしたが、引き留めはしなかった。きっと私の到着が遅れたことで彼女も精神的に堪えただろう。ゆっくりと味わって、いつも用意してくれている酒の小瓶を手に取ったところで、奥からひょいとシーディが顔を見せた。
「明日、だいたいいつも通りで?」
頷く。
「間に合うように朝食用意しますね。おやすみなさい、先生」
「ありがとう、おやすみなさい」
シーディの笑みに笑みで返してダイニングをあとにする。部屋に戻ってサイドテーブルに小瓶を置いて明日の準備をする。準備──とは言っても、必要なものはすでにひとまとめにしてある。スーツケースから日記帳を取り出して今日の出来事を綴って小瓶に口をつけた。喉が熱い。必要なのはこころの準備だけだった。持参したドライフルーツを齧って酒を流す。勝手にため息が出る。ベッドにもぐりこんだ。疲れているはずなのに精神が昂ってなかなか寝付けない。
どうやら少しは眠れたようだった。薄闇の中、腕時計の文字盤に目を凝らす。五時少し前。ガウンを羽織って手洗いに立つとすでにキッチンから水音がした。暖炉にも火が入っている。道理でそれほど寒さを感じないわけだ。
「シーディ? 少しは眠ったの?」
奥に向かって声をかけるとシーディが振り返った。
「先生がお出かけになったらまた休みますから、どうぞお気遣いなく」
「なら、少し予定を早めようかな」
「お好きにどうぞ。あと三十分もすれば食事もできます」
シーディは再びナイフを動かし始める。顔を洗って身支度を整えてダイニングに舞い戻った。
「コーヒーをもらっていいかな?」
「もちろん」
好きな時に飲めるようにと彼女はいつも豆を挽いて準備してくれている。ポットを手に取り湯を注ぎ、ドリップしたてのコーヒーをやや大きめのマグに注いだ。暖炉の脇に置いてある椅子に腰かけて口に含む。懐かしい香りがした。バターの香りが立ち上り、それを追うように聞こえてきたのはオムレツを焼く音。シーディの玉ねぎ入りオムレツは絶品だ。トマトオムレツはさらに上をいくが、今時期にそれを求めるのはさすがに無理だろう。朝食を整える音を聞きながらそっと目を閉じる。心臓がばくばくしている。気がつくと貧乏ゆすりをしていた。落ち着かない気持ちでマグを手に立ち上がる。
「先生こそ大丈夫ですか? なんだか顔色が優れませんが」
彼女が手に持っていたのは温めたミルクが注がれたマグだった。それをテーブルにことん、と置いて、シーディは私が椅子に座るのを待った。いつもの朝食、慣れ親しんだ味のオムレツのはずなのに味がまったくしない。
「顔色どころか、表情も冴えませんね?」
「はは……」
ちいさく笑う。シーディにあれもこれも話してしまいたいと思う一方で、どうしても口に出すことができない。用意された朝食を黙々と口に運んだ。残すわけにはいかない。このあとのことを考えたら無理をしてでも平らげておく必要があった。それに、今日は──今日がいつ終わるのか見当もつかない。頃合いを見計らってコーヒーのお代わりが置かれた。シーディは完璧だ。この手際のよさは間違いなくタドニア譲りだ。タドニアも完璧だった。
「コートはもう乾いただろうか?」
「ええ、もうすっかり」
「ありがとう」
礼を言って部屋に戻る。荷物を確かめると落ち着かない気持ちで部屋を出た。
「随分早いですけど、もう出るんですか?」
頷きを返した。一度奥に引っ込んで、シーディは私のコートを手に戻ってきた。
「冬の陽は短いですからね? お早めにお戻りくださいませね」
袖に手を通しながら頷いた。
「今日は天気がいい分、冷え込んでますから」
マフラーをぐるぐる巻いて帽子を被り荷物を背負う。ブーツに雪が入らないように脚絆をしっかり巻いた。ミトンを嵌める。
「いってらっしゃいませ」
振り返った私の目には、いつかのように涙を堪えるシーディが映る。しっかり頷きを返してドアを開けた。夜明けにはまだ少しの間。吐き出した息が白く凍った。一歩踏み出すごとに足元で雪がぎしぎしと軋んで、不思議と泣きたいような気分になった。
しっかりと身支度をしてきたはずなのにもう爪先が冷たい。はあ、と息をついた。山向こうから顔を覗かせた朝陽に照らされて雪の結晶が煌めいて眩しい。
待っていてください。もうすぐ──もうすぐだから。
声に出さずに呟いてひたすらに足を運ぶ。耳の奥で、あの独特な笑い声が響いた。
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