3番 エカルテのあと

「おじさん、生ひとつ」

 カウンターの席に着くなり、疲れた声で生ビールを頼む。徳利片手に楽しそうなおじさんと俺以外に客はいない。店の前を通ったときに漂ってきた焼き鳥のいい匂いに釣られて思わず入店していた。

「はいよ、兄ちゃん。こいつは今朝入ったばかりのマグロの中落ち。兄ちゃん疲れてるみたいだからサービス。これ食って元気だしな。ウマいぞ!」

 危なげにジョッキいっぱいに注がれたビールを俺の前に置くなり、店主は小皿に豪快にマグロを盛り付け出した。

 久しぶりに再会した幼馴染の女の子のことが頭から離れず、店主の世間話にも曖昧な相槌を打っていた。流石に母の七回忌には会えるだろうという浅はかな考えがあった。俺以上に母との絆が深かった彼女が姿を現さなかった時、もう過去との縁を──俺との縁を彼女が切ろうとしていることに気づいてしまったのだ。

 迷惑そうな顔してたなあ。また会いに行ってもどうせ話を聞いてはくれないだろう。

 彼女には妙に頑固な一面があるのだ。そういうところは母さんに似てるな、なんて思ってしまう。

 ちびちびと飲んでいたビールのジョッキが空になりかけた頃、入り口の引き戸がガラガラと開く音がした。

「おお、サッちゃん!いらっしゃい」

 音に反応して振り向くと入り口の暖簾のれんを掻き分けるようにして、うっすらと日に焼けたつややかな女性が入ってきた。

げんさん、こんばんは」

 店主に会釈をすると女性は笑顔を浮かべてカウンターの方へ歩き出した。

「ここ、いいですか?」

 女性は隣の席を指さして聞いてくる。他にも空いている席はいっぱいあるのに、あえて隣の席を指定しているのにはどういう魂胆があるのだろうか。

「えっと──」

 返事をしようと考えている間に女性はすでに椅子を引いていた。

「ゆんちゃんの彼氏──じゃなくて友達、だよね?」

 彼女の言うという人は多分のことだ。海外にバレエ留学していた時期は周りにゆんと呼ばれていたのを俺は知っている。

「あ、はい。片岡の幼馴染です」

 俺のことをなぜ知っているのか、疑問に思いながらも答える。

 気づいたら女性は既に椅子に腰掛けて、隣の空いた席に鞄を置いていた。

「やっぱりね。あなたのこと気になってたのよ。ほら、うちの入り口に紙袋置いて行ったのあなたでしょ?ただの友達ではないなとは思ってたのよねえ」

 まくし立てるように女性は話し続ける。

「あの子いつもと様子がちょっと違って変だったから、何かあるなって。あっ、私、中川なかがわ幸帆さちほです。ゆんちゃんの働いているメルフルールの店長をしています」

 思い出したかのように自己紹介をした中川幸帆はカウンターの奥でつまみの準備をしている店長に生ビールを頼んだ。

「えっと、木浦きうら翔太郎しょうたろうです」

 中川幸帆の存在に圧倒されながら自分の名前だけは名乗った。

「実はね、翔太郎くんが置いて行ったあの紙袋の中身、見ちゃったのよね」

 ピクリと右眉が動いたのを自分でも感じた。店を出る瞬間には頭の片隅にもなかった考えが急に思い浮かんだ。


 じゅんは多分、この街の人たちに過去の話を一切していない。


「ゆんちゃんがバレエダンサーだったなんて全然知らなかったわ。スラっと背も高いし姿勢もいいからモデルさんだったのかなとか思ってたけど、バレエなら納得だわ」

 やっぱり。

 結局、六年経っても俺は何一つ変わってないのだ。同じようにじゅんを苦しめるだけで、助けることはできない。

 黙っている俺を見かねたのか中川幸帆は優しい声で続けた。

「大丈夫よ。誰にも言わないから」

 ホッとしている自分に無性に吐き気を覚えた。自分の過ちを許されていることに安堵感を覚えてはいけないのだ。あいつにしてしまったことはそれほどの事だと胸に刻み込んだはずなのに、ホッとしていい瞬間なんてあるはずない。

「私、あの子のこと結構好きなのよね」

 女神のような微笑みで隣の席の女性は話を続けていた。

「あの子の過去に何が起きたのか私、何も知らないんだけどね。自分を見てるみたいでこっちももどかしいような、息苦しいようなそんな気持ちになっちゃってね。あの子を助けてあげたいのよ。過去に縛られる気持ちがわかるから。前に進んで欲しいって思うのよね、ゆんちゃんには」

 明るい口調で話す彼女の目は笑っているようでどこか寂しそうだった。

 隣の席に急に現れたこの女性の言動は不可思議でしょうがない。そのくせまるで俺の気持ちを代弁しているかのような物言いで戸惑ってしまう。

 返す言葉を捻り出すことすらできずに黙っているとカウンターの向こう側からにゅっと太い手が現れた。

「はい、生ビール二つ、お待ち!」

 どうやら中川幸帆は俺の分まで頼んでくれていたようだ。

 なんだか自分が驚くほどちっぽけな人間に思えてきた。自分勝手に傷つけた幼馴染に許してもらいたくて会いに行っても追い返され、彼女の友人には憐れみのビールまで出され。俺は一体何をしているのだろう。

 恥ずかしさを打ち消すように目の前に置かれたジョッキを一気に飲み干した。隣の中川幸帆はあっけに取られたように目を見張っている。

 飲み終えたジョッキをドン!とカウンターに叩きつけてると、自分でも驚くようなことを思わず口走っていた。

「じゅんが前に進めないのは俺のせいなんです」

 これ以上話すまいと思っていたのに口から滑り出るように罪悪感で溢れた長年の思いが漏れ出てしまったのだ。

「そう」

 必要以上の追求はせずに中川幸帆はまた目線だけでビールを頼んでいた。

「バレエと母さんだけだったんです、あいつに残ってたのは。そのどっちも俺は自分のくだらないわがままで奪っちゃったんです」

 一度口を開いてしまうともう抑えることができなくなっていた。

「本当にすごかったんですよ、じゅんは。日本のバレエ界だけじゃなくて、あっちのバレエ界でも異才だって言われて。母さんと二人三脚で頂点まで上り詰めるって誰もが確信していたのに──」

 脳裏に母の最期の姿が浮かんで思わず言葉に詰まった。

 半ば強引にヨーロッパからじゅんを連れ戻し、母さんの痩せこけた最期に付き合わせたのは紛れもなく自分なのだ。

 言葉を続けようにも喉の奥がキュッと狭まって声がうまく出せない。

「あの子いい顔で写真に写ってたわね。あんな顔のゆんちゃん、見たことないわ」

 急病で倒れた母に遅れること三ヶ月、日本に帰国したじゅんはまるで別人のようだった。バレエもやめて、空っぽの心のまま日々を過ごしていたのだ。

「俺はただあいつにもう一度、ああいうふうに笑って欲しいだけなんです。そのためにここに──」

 じゅんのキラキラと輝く笑顔を思い出すだけで包み込まれるような温かい気持ちになる。

「翔太郎くんにとってはそれほど大切な人なのね、ゆんちゃんは」

 大切。果たしてその言葉がじゅんと俺の関係を言い表すのに適した言葉なのか、自分でもわからない。

「どうだろう──。俺の存在はあいつを苦しめてるのかもしれない。今日はまともに口も聞いてくれなかったし、ここに引っ越してきたことがそもそも間違いだったのかもしれないです」

 ため息まじりに後悔の念が漏れると中川幸帆は微笑みをこぼした。人が心を曝け出しているのに何をこの人は笑っているのだろうか。ふつふつと怒りの感情が湧いてくる。

「あ、ごめんね。変な意味で笑ってるわけじゃないの。ただ、あの子のためにそこまで悩んでくれる人がいるんだって知ってちょっと安心したのよ」

 二人の関係性について俺は何も知らないけれど、なんとなく中川幸帆がじゅんのことを娘のような、妹のような目で見守っていることだけは伝わってきた。

「時間が経っても解決しないことなんていくらでもあるわ。そんな時は無理矢理解決させるしかないのよ。大丈夫。翔太郎くんは何も間違ったことをしてないわ」

 会って間もないのに何故か彼女の言葉で心が軽くなってしまっている。いい人に出会えたんだな、じゅんは。

「じゅんのそばに中川さんみたいな人がいてよかったです」

 何を上から目線で言ってるんだろう俺は。きまりが悪くなって手元にいつの間にか置かれてあった三杯目のビールを勢いよく飲んだ。

なんて言われるとおばさんに感じちゃうわ。サチって呼んでちょうだい」

 ケラケラと笑いながら華奢な腕で背中を力強く叩かれて、思わずむせそうになった。呼吸を整えてから気になっていたことを聞いてみた。

さんは、解決できたんですか?──その、時間が解決しない問題を」

 サチさんの笑顔が急にぎこちなくなった。

「そうね。簡単じゃなかったけど、前に進むことはできたかもしれないわね。少なくとも今の方が幸せだって心から言えるようになったから」

 何かを思い出すように遠い目をしたサチさんの横顔は、意外にも清々しく見えた。

「結局、立ち止まってうだうだ考えてるより、苦しくても馬鹿にされても、どれほど小さくても一歩踏み出した方が何倍も楽になれるってことに気づいたのよね」

 選定された言葉の端々に彼女の心の強さが表れていた。強引な態度の割に彼女の紡ぐ言葉は穏やかで優しくて心の奥底に染み入って沁み入ってくる。

 サチさんなら六年止まったままのじゅんの人生を再び動かすことができるかもしれない。そんな淡い期待が芽生えてしまったのだ。


「はい、これ私の番号」

 食事も終わり、店を出たところでサチさんは強引に携帯電話を出すように迫ってきた。しばらく何かを打ち込むような素振りを見せてから、奪われた携帯電話が返された。

「ついでにゆんちゃんの番号も入れといてあげたから」

 いたずらっ子のような顔でニヤリと笑ったサチさんは俺の反応を楽しんでいるようだった。

 本当に勝手だなこの人は。じゅんも毎日こうやってサチさんに色々と振り回されてるんだろうか、なんて考えるとついおかしくて笑いそうになる。

「サチさんって強引ですよね」

「よく言われるわ」

「でも、憎めないですよね」

「それもよく言われるわ」

彼女が再びニヤリと笑った。堪えきれずに声を出して笑ってしまった。

「今日はありがとうございました。俺、明日も早いんで、もう失礼します」

深々と一礼してからマジマジとサチさんの顔を見つめた。サチさんは不思議そうに見つめ返してくる。

「じゅんのこと、今後もよろしくお願いします」

それだけ言い残して俺は後ろを向いて歩き出した。

「翔太郎くん!」

 もうすでに遠く離れてしまったサチさんに呼び止められて振り返る。

「めげずにまたうちの店に来てね!辛くても追い返されても!立ち止まってるよりはマシだから!」

 すれ違う歩行人に何事かとジロジロと見られている。

 もう、うだうだ考えるのはやめだ。世話焼きのサチさんに負けない声量で返えした。

「もちろんです!」

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En Avant! ~もう一度、舞え~ 常行 迪 @michi_tsuneyuki

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