2番 子犬とカブリオール

 五月初めの週末ともなると散歩の途中でカフェに寄る家族連れが増える。今日も朝から人気メニューのケーキセットがよく注文されている。今月の限定ケーキはビーさんが腕によりをかけて開発した枇杷びわタルトだ。ビーさんが作るものはどんなものでも当たるようで、本日も大好評である。

 カフェが忙しい時間帯は私も手伝うことになっている。調理の手伝いをしているサチさんは厨房に付いている小窓から顔を出して客席の様子を伺っていた。カフェの入り口はガラス張り仕様になっていて、厨房の小窓からは海が一望できる。サチさんはそこからの眺めが一番のお気に入りなのだ。

 また海見てるのか、とビーさんに小突かれてから海に見惚れていた女がハッと我に返った。ぼんやりとした表情のサチさんがいつもの明るい笑顔に戻る前、悲しげな顔をほんの一刹那だけ見せることに私はいつからか気づき始めていた。

「ゆんちゃん、ちょっと」

 見られていることに気づいたのか、サチさんは小さく手招きをしてきた。睨んでると思われたかもしれないと内心冷や汗をかきながら駆け寄る。

「実はね、知り合いに厄介な頼まれ事をされちゃったのよ」

 なんだ、と安堵した。

「断ろうとしたんだけどね、どうしてもって言われて。恩人というか、ここの立ち上げの時にずいぶんお世話になった人だから、断りきれなくて」

 嫌な予感がする。正月の祖母の顔を思い出した。親戚一同の前で次兄が私の恋愛事情について口を滑らせたのだ。もちろん事情など何もないのだが。いや、むしろないのがいけなかった。祖母はその次の日、見合い写真を片手に帰ってきた。

「どういう頼まれ事?」

 恐る恐る聞いてみる。

「ゆんちゃんを誘って飲み会を開いてくれって言われたの。三対三で」

 これは俗に言う合同コンパではないか。何故、私がそんな一軍の人たちが行くようなものに誘われたのか。一体どこの誰が私なんかを合コンの一員として求めているのか。考えても答えに辿り着けそうもない問いばかりが頭に浮かんでくる。

「えっと――なんで?」

 ようやくその疑問だけを絞り出した。

「それがねえ、ゆんちゃんに会ってみたいって言う人がいるらしいのよ。すごく素敵な人だって聞いてるから、そこは心配しないで」

 サチさんは時々、湧きどころの分からない自信に満ち溢れることがある。彼女の中ではきっと私がこの飲み会という名のに参加することが既に決まっているようだ。

「この一回だけでいいから、お願い!どうしてもって何回もお願いされちゃったのよー」

 ご飯を欲しがる子犬のような顔で切実そうに手を合わせて頼んでくる。私はこの人のこういうところに弱い。強引なやり方はするけど、誰かのために強引になるところに先生の面影を重ねてしまう。

「今回だけだよ。次は行かないからね」

 私にとってはサチさんが恩人だ。都会で夢も生きがいもないつまらない人生を送っていたところをこの街に誘ってくれたのは他でもないサチさんなのだ。懇願されて断れるほど冷たい人間に私はなりきれないのかもしれない。

「よかったー!ゆんちゃんならオッケーしてくれると思ってたわ!」

 今度はボールを渡された子犬のようにピョンピョンと跳ねている。

「本当に今回だけだからね。わかってる?」

 もう一度釘を刺しておく。ちょろいと思われるのはどうも癪だ。

「ちゃんとわかってるから。日程はまだ決まってないんだけど、近いうちに開催されると思うから待ってて」

 それを言い残してから嬉しそうにサチさんは厨房の奥の方へと戻って行った。

 なんだかいつもこうしてサチさんの策略にはまって、知らない間に色々な事に巻き込まれているような気がする。

 サチさんと出会ってから起きた数々の出来事を思い返していると、カランカランとカフェの扉のベルが鳴った。扉の奥に姿を現したのはサングラスを掛けた常連のクニさんだ。

「やあ、ゆんちゃん」

 クニさんは入ってくるなり、元気な声で呼んだ。

 気乗りしない合コンの話はひとまず頭の中から消しておくことにしよう。

「あれ、クニさん。珍しいですね、日曜日に来るなんて」

 いつにも増して髭は伸び散らかっている。奥さんとはまだ仲直りしていないのだろうか。

 アウトドアな趣味を持つクニさんは週末になると奥さんを連れてバーベキューやらキャンプやらに出かける。それが一人でメルフルールに来ていることを考えると、状況は一ヶ月前と変わっていないのだろう。

「ああ、まあ、ちょっとね」

 髭面の男は痛いところを突かれたように苦笑を漏らし、左手の薬指を小さく振った。どうやら予想は的中してしまっているようだ。

 いつものように厨房に近い二人掛けの席に座ると、クニさんはランチメニューを開いて顔をうずめた。


 お昼の忙しさのピークを超えるといつものように客足は落ちた。壁にかかっているアンティーク風の時計は四時半を少し過ぎたところを指している。厨房ももう片付けに人手を割いているようだ。

 カフェと花屋は忙しさの時間帯が丁度いい具合にずれている。実に理想的な経営形態をサチさんは築いたな、とこういう時によく思う。

 普段は日曜日に花の仕入れをすることはないのだが、昨日の夜、直接仕入れをする農園から急に「別に卸すはずだった薔薇ばらが手違いで引き取られなかったから割引で買い取ってくれないか」とサチさんに連絡が入ったのだ。

 今日は朝から手が空いた時間に薔薇の棘処理を行なっている。カフェと花屋を行ったり来たりしてようやく半分が終わった。ふう、と一息をついたところに花屋の扉が開く音がした。

「すみません」

 入り口の方から店員を呼ぶ声がする。一度来たことのある人ならカウンターのところにベルがあるのを知っているはずだ。一見の客なのだろう。

「ごめーん!ゆんちゃんちょっと出てくれないかな?ちょっと手が離せないの」

 カフェの方からサチさんが声を張り上げた。

「はーい!ただいま伺います!」

 手に持っていた薔薇を急いで作業台に置いた拍子に親指に棘が刺さってしまった。薔薇の棘処理作業は慣れてしまえばそれほど危なくもないが、気を抜くと痛い目に合う。作業台に取り付けてある棚から慌ててテッシュを取り出し、血が滲み始めている親指の傷口にあてがった。

 カウンターの方に急いで駆け寄ると大きな紙袋を右手にぶら下げた青年が立っていた。背の高い男は紙袋をカウンターに置くと被っていた青いキャップを脱いだ。

「久しぶり、じゅん」

 聞き覚えのある声が耳に届いた。木浦きうら翔太郎しょうたろうだ。

しょう――なんで」

 四年ぶりに会った男の子は少し大人びて見えたが、あどけない笑顔は昔のままだった。

「母さんの七回忌来なかったからさ」

 一ヶ月以上前に届いた葉書を思い出した。未だに開かずの引き出しにしまわれたままになっている。欠席するならちゃんと返事しなさい、と実家の母に電話越しで怒られたのは先週末のことだ。

「――うん。ちょっと忙しくて」

 面と向かって目を見ることはできない。六年前の確執は未だに、少なくとも私にとっては、消えていない。

「相変わらず嘘が下手だな」

 困ったように笑ってから青年は続けた。

「そんなことはどうだっていいんだ。今日はこれを渡しにきた」

 カウンターに置いた紙袋をガサガサと探り始め、中から分厚いノートを取り出した。

 じゅんの軌跡②――見覚えのある字で書かれたノートの表紙はボロボロで今にも剥がれ落ちそうだ。胸に締め付けられるような痛みが走った。

 翔は黙って折り目のついたページを開いてみせた。そこには新聞の切り抜きがいくつも貼り付けてあった。


 ――神童・片岡!またもコンクールで金賞受賞!最年少プリンシパルも夢じゃないか?――


 大きな見出しの記事に添えられた大きな写真には自信に満ち溢れた幼いバレリーナの姿があった。毎日鏡越しに見ているはずの顔なのに、見覚えのない少女の笑顔がそこには存在していた。

「荷物を整理してたら出てきた。捨てられないし、俺が持っとく物でもないと思って。本当は先週渡すつもりだったんだけど、来なかったから」

 翔は今にも壊れそうなノートを丁寧に閉じてから持ってきた紙袋に戻し、スッとカウンターの上を滑らせて差し出してきた。

「私のじゃないから、もらえない」

 受け取るまいと丁重に差し戻す。

「もらってやってくれないか。最期までじゅんのこと気にかけてたんだ」

 一瞬だけど笑顔が引き攣ったのが分かった。自分なりに折り合いの悪かった母との日々を清算しようとしているのだろう。

 彼にとって先生との最期の数ヶ月は長年の溝を少しでも埋められたなのかもしれない。けれど、私にとっては先生の生きる希望を奪い取ってしまった後悔の日々なのだ。そのことを翔もよく分かっているはずなのに、自分の償いに私を巻き込もうとしている。

「そうやってまた人の人生引っ掻き回して、親孝行した気になってるの?先生のこと何も知らないくせに」

 親指の傷口が鼓動のようにドクドクと波打ち始めた。怒りとも嫌悪とも言い表せない黒い感情が言葉の端々に溢れ出しているのが自分でも分かった。同時に、六年経っても消えない想いが未だに胸の奥底に存在していることに気付かされた。

 呼吸を整えるようにゆっくりと鼻から息を吸う。今は冷静にならなければいけない。心が落ち着いたのを確認してから再び口を開いた。

「話すことも、受け取るものも何もないから。もう、帰って」

 冷たく突き放された男は過去の出来事を思い返しているのか、しばらく黙り込んでいた。少しして、考え込んでいる翔の後ろに新たに客が並んだのが見えた。翔は仕切りに何かを言いたげな顔でこちらを見つめてくるが、困ったように俯いては言葉を飲み込んでいるみたいだった。

 相手の出方を探るようにお互いの沈黙が続く。

 最初にしびれを切らしたのは後ろの客だった。

「あのー、すいません」

 背の高い翔の後ろからひょっこりと顔を出したのは贔屓にしてくれている若い女性だ。洒落しゃれたドレスに身を包んだ女性は、あとどれくらいかかるのかと確認するように目線を送ってくる。

「次のお客様もお待ちですので、他にご用がなければお帰り下さい」

 最後のダメ押しと言わんばかりに紙袋を翔の方へと差し戻し、深々とお辞儀をしてみせた。勘弁したのか、翔は入ってきたときに被っていた青いキャップを被り直し、浅い一礼をしてから紙袋を持って入口の方へと歩き出した。

「ごねんねゆんちゃん、急かせちゃって。友達の誕生日パーティーに遅れそうなのよ。青系でこれくらいの大きさの物を見繕ってもらえると助かるわ」

 そう言って両手で何かを包むように形を作ってみせた。

「かしこまりました。五分ほどお時間を頂戴いたしますので、その間カフェの方でお待ち下さい」

 女性がカフェに入って行くのを確認してから、青い花を中心に花束を作り始める。最初の頃は花を束ねる工程で手こずっていたが、回数を重ねるごとに花の扱いが上手くなっている。

 丁度いいタイミングで花屋のカウンターに戻ってきたサチさんに最終確認をしてもらってから、カフェで待っていた女性を呼び戻した。

「さっきの男の子、知り合いだよね?」

 会計を終えて女性が店を出るのを待っていたかのようにサチさんは聞いてきた。いつもよりも声色が明るく聞こえる。それだけで変な期待を持っていることが分かってしまう。

「ただの高校の同級生」

 ぶっきらぼうに答えた。幼馴染だなんて言ったら何を言われるか。色恋沙汰になるとこの街の人たちは興味津々になるのだ。まだ移り住んでから二年も経っていないが、この短い期間だけでもあらゆる人たちの尾ひれのついた恋愛話を聞かされている。

 少しでも隙を与えてはいけない。なにより翔とは何もないのだ。翔に抱く感情があるとするならば、それは決して恋ではない。

、ねえ。二人でお茶でも飲んでくればいいのに。久しぶりなんじゃない?」

 サチさんの思惑はもう読めている。しかし、残念ながらカウンター越しに再会した男女が纏っていた空気を読むことに彼女は失敗したみたいだ。

「話すことがあるような仲でもないから。ほんとに気にしないでサチさん」

 これ以上深掘りをされる前に店の裏へと逃げた。サチさんが追ってくる気配を見せずに店の入り口の方へと姿を消したのを横目で確認してから薔薇の棘処理作業に戻った。

 次の客がカウンターのベルを鳴らすまで集中力は驚くほど続いた。店の入り口に置いて行かれた大きな紙袋をサチさんが発見したことにすら気づかないほど――。

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