1番 思い出のシャッセ 

「それじゃあ、ゆんちゃん、お願いね。吉田さんのところと、あと市民センター」

 店を出ようとしているところをサチさんに呼び止められて、改めて配達先の確認をしてからエプロンのポケットに車の鍵が入っているかを再度確認する。今日は市民センターで授賞式らしきものがあるようでいくつかの大ぶりの花束に加え、立派なスタンド花まで注文されていた。

 店の入り口付近に準備されてあった配達品を慣れた手つきで荷室に乗せてから、洗われたばかりの白いワゴンに乗り込んだ。車で四分ほどの道のりにある市民センターを目指して海岸沿いの道を走る。

 駅方面への配達の度に通るこの道からはカイトサーフィンやウィンドサーフィンを楽しむ人たちの姿が見られる。風を利用するウォータースポーツを嗜む人たちにとっては春から九月頃にかけてここら一帯に吹く南寄りの風は絶好のコンディションをもたらすスポットらしいのだ。会う度にサチさんの弟に誘われるが、海の上でずぶ濡れになりながら風に乗るという概念に頭が追いつかず、断り続けている。

 海岸沿いの大通りを外れて左に曲がり、市民センターまで住宅地の中をするすると抜けていくと馴染みの市民センターの駐車場に車を止めた。塩害のせいで所々腐食した建物の入り口を通ってまっすぐ受付に歩を進める。

「毎度お世話になっております。メルフルールの片岡です。お花の配達に参りました」

「お待ちしておりました。ホールの方にお持ちいただけますか。ただいま担当の者をそちらに向かわせますので」

 受付の女性に会釈をしてから車に戻り、配達品の花を台車に乗せてホールに向かった。

 ホールに着くとそこにはる店の常連客の一人、市民センターの非常勤職員のクニさんが立っていた。五〇代半ばのクニさんは年齢に反して若々しい肉体をしていて楽々と台車の上からスタンド花を舞台の上に移した。

 世間ではクニさんのような人をと呼ぶらしい。

「ゆんちゃん、今日も素敵なアレンジだよ。ありがとう。今週はちょっとバタバタしてるから難しいんだけど、来週あたりまたお店に顔出すね」

 クニさんは伸びた顎髭を撫でながら納品された花を丁寧に確認していた。納得するように数回頷くと、胸ポケットに入っていた老眼鏡を掛けてから納品書に署名した。

 心なしかいつもより顔が疲れているように見える。噂好きの常連客の話によれば最近また奥さんに出て行かれたらしい。どうやらクニさんはモテるらしく、浮気が奥さんにバレることがよくあるようなのだ。今回に限っては離婚宣言をされたというのが話の大筋だ。

 そういった個人の事情には立ち入らない主義だが、この街の情報の伝達スピードは異常なのだ。知りたくないことでも周りにベラベラと広める人がいるとそうもいかない。

「これから吉田さんのところにも配達しないといけないから、もう行きますね」

 このまま居座ったら顔色が悪い理由を聞かなければいけないような気がして、そそくさとホールを後にした。


 しまった。帰るタイミングを見失った。

 話好きの吉田さんに捕まると二時間でも三時間でも永遠と話が続く。今日の話題は東京に住んでいる息子の嫁についてだ。

 ぬるくなったお茶をちびちびと飲みながら帰る隙を伺う。湯呑みを空にするとすかさずお茶を注いでくる俊敏さを見ると、ただの話好きの老婦人ではないことが分かる。

「その嫁ったら息子にご飯を作らせてるのよ、平日なのに。仕事で疲れて帰ってきてるというのに。私の時代ではあり得なかったわ。そういえばマツイさんのところのお嫁さんも子供の世話を旦那さんがやるってマツイさんがぼやいてたわ。家事育児分担なんていい時代に生まれたものね」

「ありがたいことですね」

 壁にかかっている大きな振り子時計にチラッと目をやる。かれこれもう三〇分近くもここにいる。抜け出せるようなタイミングはまだ巡ってきてない。

「お隣の西村さんに聞いた話なんだけど、シモヤマさんのお孫さんのひなたちゃんはこないだも学校で問題を起こしたらしいのよ。男の子に馬乗りになって。血の気が多いのかしら。変なとこ親に似ちゃって、かわいそうに」

「まあ――」

 話があちこち飛ぶのは吉田さんの得意プレーだ。

 相も変わらず吉田さんは話し続ける。

「その点、うちの楓ちゃんはまあ優しい子に育ったわ。最近、バレエを始めたのよ」

 ビクッと身体が硬直したのが分かった。バレエ。久しぶりに聞いた言葉だ。

 ここ数年、特に実家を出てこの街に引っ越してからはバレエとは縁のない生活を送ってきた。それまでは何を差し置いても私と先生にとっては世界で一番の生きがいだった。美しい音楽の中で紡がれる物語に乗り、踊り狂う。その裏にどれほどの苦しみや孤独があっても舞台から見える先生の存在だけでどんなことでも頑張れる気がした。だけど、先生はもういないのだ。私にとってバレエはもういい思い出でも、生きがいでもなくなってしまった。

 吉田さんは嬉しそうに孫の話を始めた。

「あの子は才能があるわよ。きっと有名なバレリーナになれるわ。私の孫ですもの。ゆんちゃんはバレエ知ってる?バレエ」

 耳が詰まったように周りのあらゆる音が遠のいた。


 ――じゅん、バレエの基本は姿勢よ。しっかりと背筋を伸ばしてお尻をキュッと絞るのよ。そうすればどんな時でも美しいバレエが踊れるわ。


 低い耳鳴りの中で鮮明に先生の声が聞こえた。口癖のように語っている先生の姿が自然と脳裏に浮かんだ。無意識に座ったまま姿勢を正す。

「ゆんちゃん?」

 途端に黙り込んだのを不思議に思い、顔を覗き込むように吉田さんが様子を伺ってくる。

「あ、いや、あんまり――ですかね」

 あらそう、と残念そうに呟くと吉田さんは手元にあった湯飲みに温かいお茶を注ぎ足した。

「すごく素敵なのよ。楓ちゃんもとても気に入ってるみたいで。将来はバレリーナになるなんてはしゃいじゃって。今度発表会もあるとかないとか――ちょうどいいわ、ゆんちゃんも見にきてちょうだいよ」

 吉田さんはその後も話を止める気配を見せず、孫の楓ちゃんの話からクニさんの家庭事情の噂まであらゆる話を次から次へと繰り出した。幸いなことにあれから十五分ほどしたところでサチさんからの電話が入り、どうにか吉田家を後にすることができた。

 

 その日の夕方はバイトの子が風邪をひいて人手不足に悩まされた。メルフルールは花屋の他に併設してカフェもある。いつもはバイトスタッフ一人、料理スタッフのビーさんと店長であるサチさんの三人で回しているが、バイトの人が来れなくなってしまうこともたまにあるのだ。そんな時には代わりに私が入ることになっている。今日に限ってはサチさんは商工会の集まりがあると言って、ビーさんと二人だけで回すハメになったのだ。

 午後六時の閉店とほぼ同時に最後の客が帰ると、恰幅のいいビーさんが厨房の方から顔を出した。

「お疲れさん。こっちはもう片付けほとんど終わってるからあとは俺がやっとくよ。疲れたろ」

 オールバックでキメたシェフのゴツゴツした手にはコーヒーカップが二つあった。ビーさんは丈夫そうな見た目とは裏腹に繊細なコーヒーを淹れるのだ。淹れたてのコーヒーのいい匂いがここまで漂ってくる。

 大男はドシドシと客席の方まで歩いてきてはテーブルの上にコーヒーを置き、座るように促してくる。

「ほら、仕事終わりの一杯だ」

 片付けの作業を中断して一口コーヒーをすすると小さく息が漏れた。ほっとするような暖かさの奥に潜む苦味が身に沁みた。

「何かに悩んでるのかい?」

 もやもやした心中を見透かされた気がした。

「悩みはないんだけど――ちょっと昔のことを思い出しただけ」

 悟られまいと口角をあげてみたが、あっさりと嘘を見破られる。

「この街には過去に縛られてる人がたくさん流れ着くようだ。俺も然り――君も然り」

「縛られているわけじゃないよ。ただ、たまに思い出すだけ」

 ビーさんは小さく笑うと私の目に訴えかけるように話し出した。

「そんな顔で昔の話をする人は過去に何かを置いてきてしまった人だよ。ゆんが何を置いてきたのか、ようやく話してくれる気になったのかと思ったんだが」

 まるで初めから何かを察していたかのような物言いだ。全てをうまく隠せている気になっていた自分が急に恥ずかしくなってきた。年の功なのか。人生六〇年も生きていると色々と察しもつくようになるのだろうか。ただのB級グルメ好きのおじさんだと思って甘く見ていたのだ。

 大きくため息をついた。

「ビーさんには忘れたいけど忘れられない大切な思い出ってないの?」

 一呼吸置いてからビーさんはコーヒーを一口飲んだ。ゆっくりとカップをテーブルの上に置くと優しい目で答えた。

「人間年を取ると色々なものを自然に忘れていくもんでね。楽しかった思い出も好きなものも感じた思いも。どんなに頑張って覚えていようとしても、忘れていくものだ。若いうちはさ、なんだって大きなことに感じる。成功も失敗も、得たものも失ったものもなんだって自分よりも大きすぎるものに感じて途中で抱えきれなくなる」

 ビーさんはどこか遠い目で昔を思い出すように穏やかに語った。

「俺の歳ともなると忘れたい思い出も少しずつ詳細が思い出せなくなっていって、記憶の骨組みだけが残る。だけど、それもそのうち心地が良くなるさ。ゆんはどうやらまだ思い出の渦の中を漂っている最中みたいだね」

「そういう時はどうすればいいの?――渦から抜けるにはどうすればいいの?」

 答えに迷うかのように間があった。しかし、大男は一瞬たりとも目を逸らすことはなかった。

「時が解決してくれるという人もいる。忙しさが解決してくれるという人も。俺の場合は新しい街に行って新しい事を始めたらいつの間にか考えなくなった。君の場合はどうかな?」

 新しい街、新しい人、新しい事。それでも尚、過去から逃れられる気がしない。そんな私の明日には何が待っているのか、不安に思う日もある。

「私は――」

 何かが込み上げてくる気配がした。生温かいコーヒーを全部飲み干して、呼吸を整えた。

「ビーさんのいう通りかもしれないね。私は色んなものを置いてきたのかも。それがなんなのか分からないけど、私にとってはもう大事じゃない。そういうことに気づき始めたんだと思う」

 そうか、とビーさんは静かに納得した。そういうことなら、と微笑むように立ち上がるとコーヒーカップを二つ持って厨房の方へと体を向けた。

「もうすぐ出口に辿り着くかもしれないね」


 家に帰ると途端に疲れが押し寄せてきた。誰もいない部屋に入るなり、力ないただいまを呟くが返事はこない。乱雑に脱ぎ捨てられている靴を揃えるなんてことは、しない。下駄箱の上に家の鍵を投げ捨てた。閉まったままのカーテンから薄らと夕日の赤色が部屋に差し込んで、モノトーンな部屋に彩りをもたらしていた。三月も終わり、冷え込むような夜は無くなってしまったのに、いまだに出しっぱなしの羽毛布団がベッドの真ん中にほったらかされたままになっている。帰り際に寄ったコンビニの袋を食卓に置くが、夕食のコンビニ弁当を開けるのすら面倒くさくなった。

「なんで牛丼にしたんだろ」

 買ってから、さしてお腹が空いていないことに気づくことはままある。空腹を待とうとソファにどかっと座ってみたが、郵便受けから取り出した封筒が妙に気になっていた。重たい腰を上げて散らかった食卓の上に放り出された白い封筒を手に取った。

 片岡淳李じゅんり様――ぶっきらぼうな字で書かれた宛名をまじまじと見つめる。差出人に心当たりはあったが、差出人からの郵便物に心当たりはない。封筒を開けて取り出した二枚の葉書を目にした途端、一瞬にして六年前のあの薄暗い静かな病室に連れ戻された。

 忘れていた、というよりは消していた。このような葉書が来るのは実に四年ぶりで、その頃は実家に住んでいた。当時の私は二年経っても薄れることない日の記憶を頭の中から排除するのに精一杯だった。


 ――この度 亡母、華恵の七回忌法要を致したく存じます。


 行書体でしなやかな、けれどどこか冷たい文字が書かれた紙切れを最後まで読むことなく雑に引き出しにしまった。引き出しには私にとって意味を持たない物たちが二度と出てくることなく鎮座している。

 ビーさんとの会話を思い出した。時が経ってもあの時の痛みは心をえぐる。どうすれば過去と決別できるのかを考えあぐねて、考えるのも疲れてきた頃、ようやく日常に没頭できるまでになった。だけど、隙があればこうして無理矢理扉をこじ開けてくるのだ。

 胃がキリキリとお腹の中で音を立て、食欲も失せてしまった。牛丼を諦める決意をした瞬間に携帯電話が鳴った。着信はサチさんからだ。

「はい、片岡です」

「あ、ゆんちゃん!今日はごめんねー。会議が長引いちゃって、最後顔出せるかなって思ってたんだけど。忙しかった?」

 電話越しでもサチさんの太陽のような笑顔が思い浮かぶ。

「普段通りって感じだったかな」

「そっか、そっか。それはよかった。それでね、明日の朝一で東京の方に行かなきゃいけなくなっちゃったから、オープン任せていいかな?」

 メルフルールに勤め始めてから半年ほどで社員にしてもらってから、お店の開店準備を任されることが度々ある。花屋の方は朝方の客がそれほど多くないので問題はないが、カフェの方はまちまちだ。

「うん、大丈夫。今日で在庫の底がついちゃった物の仕入れもしとくね」

「助かるわ!ほんと、頼りになるゆんちゃんがいてよかったわ。今度、ご飯奢るわね。それじゃあ、明日よろしくねー」

 いつものようにサチさんは返事を待たずに電話を切った。人と話すことが好きな性格のくせに電話の時はどうも合理的で一方的な気がする。たまに強引な部分も見え隠れするが、それでも色々な人から慕われているのは天性の資質なのだろう。

「相変わらず猪突猛進だな」

呆れたような笑いが込み上げてきた。さっきまでうじうじ悩んでいた気持ちが軽くなったような気がした。ほんの少しだけだけれど、この街に来て正解だったのかもしれないと、そんな気持ちが生まれ始めていたのだ。

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