第17話 新年度

 4月3日、約二週間ぶりに研究室に戻った。


 研究室の入り口にある名前が刻印された魔石はすべて黒、今日はまだ誰も研究室にいないことがわかる。しかし、魔石に刻印された名前が新年度になり更新されている。


 私の魔石はそのまま博士1年D1の欄に移動しただけだ。しかし、本当に進学したんだという実感がわき、身が引き締まる思いだ。


 修士2年M2の同級生だったランスとタイディは就職し、もう研究室にはいない。2人の魔石の代わりに修士2年M2の欄には昨年度まで修士1年M1だった3人の魔石が移動してきている。


 3人いた学部4年生B4から修士課程へ進学したのは1名。

 しかし、修士1年M1の欄には知らない名前が刻印された魔石が1個追加され、2人になっている。

 学部4年生B4の欄にも知らない名前が刻印された魔石が3個ある。

 どうやら今年度から新たに研究室に配属されるのは修士1年M1に1人、学部4年B4に3人のようだ。

 そして、学部4年B4の欄にニイナさんの名前がないことを考えると、ニイナさんは留年ではなく退学か――。


 ……ん?


 何か違和感がある。


 何だこの違和感は?




 ……あっ!! 博士研究員ポスドクの欄にあったマリさんの魔石がない!!


 嫌な予感がした。


 私は研究室の中に入り、マリさんの机へまっすぐに向かう。

 胸の鼓動が早くなる。

 そして、マリさんの机の上が、新品の机のようにきれいに片付けられていることに気づき、心臓が止まりそうになる。


 ……何があったんだ!?


 事情を知っている人がいないか周囲を見渡すが、他に誰もいない。入口の魔石名札で誰もいないことを確認したばかりだから、当然だ。


 誰もいない以上、何もできない。

 しかし、居ても立っても居られない。


 焦燥感を募らせていると、アダマース先生なら事情を知っているだろうと気づいた。そうだ、先生に事情を訊いてみよう。私は小走りで先生の居室へ向かった。


 すると、先生の部屋のドアが少しばかり開いているのが見えた。

 先生は来客しても良いとき、少しばかりドアを開けておく習慣がある。


 ……トントン


「先生、おはようございます! カイです! 今よろしいでしょうか!?」


「どうぞ」


 私は急いで部屋に入り、とにかく先生に聞く。

「先生! マリさんがいないです! どうしたかご存知ですか?」


 しかし、先生はいたって冷静だ。

「あれ? カイさんは聞いてなかったのかな。彼女はこの4月から別の大学に移りましたよ」


「……えっ! そんなの聞いてませんでした……」


 ……そ、そんな。これら一緒に研究活動ができると思っていたのに――


 研究室の机をみてから、もしやと思いある程度は覚悟していたとはいえショックだ。やはり他大学に移ったのか。

「どちらに移ったがご存知ですか?」


キュウセニル大学キュウ大と聞いています。私も詳しくは知りません。こういう研究者の人事というは、辞令をもらうまでは必要最小限の人に必要最低限のことしか言わないのが慣例です。私もキュウセニル大学キュウ大のポストを得たと聞いているだけで、それ以上のことはわかりません」


 キュウセニル大学キュウ大といえば二年前の魔材学会の会場だったので行ったことがある。この国の西の端にある大学だ。ここも宮廷大学の一角を担う大学だし、10年度ほど前に大規模な移転をして建物なども一新したため、最新の設備が揃っていた記憶がある。ちょっと街はずれで評判は賛否両論あるみたいだけど、研究するにはもってこいの場所だろう。敷地が広大なため乗合魔動車バス停が複数あるのに、それを知らずに降りる乗合魔動車バス停を間違えてしまって学会に遅刻しそうになったこともあったったけ。


「そうなんですか……」


「彼女は湿っぽいのがきらいみたいでね、なかなかみんなにちゃんと挨拶できてなかったようですね。打ち上げの時にみんなの前で挨拶はしたくないといって固辞してましたし。まあ、あの時点ではキュウ大も最終決定していなかったので、この研究室に残る可能性も十分にありましたから、挨拶も難しかったでしょうね」


 そういえば、学会終了後の打ち上げのとき、何か言いたげだったのを思い出した。もっとお話をしたかったし、もっと研究のことでも指導して頂きたかった。これまで無駄に時間を使ってしまったことを悔やむ。

 しかし、研究者にとって大学を移るのはよくあることだ。助教や講師など、より良いポジションに昇進しているのなら喜ばしいことだろう。前向きに考えなければ。


「マリさんは今回の異動が良いところだといいですね」


「そうですね。ただ、今回の異動に関して私も少し残念でした。実はこの4月からの私の魔研費まけんひが不採択になってしまいましてね。それでマリさん雇用する研究費がなくなってしまったのです。だから、年度末に急いで探したポストでしょうから、研究分野のマッチングも含めて心配しています」


「どういうことですか?」


魔研費まけんひが不採択だとわかったのが3月だからです。そこから探したので、納得のいくポストなのかどうか……」


「えええっ? そんな直前にならないと研究費がもらえるかどうかわからないのですか?」


「これでも改善されたんですよ。昨年までは4月1日に採否の連絡があったので、そこで4月1日から急に職を失う博士研究員ポスドクがいたんですから。まあ、ある程度は別の研究費を確保しておいて、急に無職にならないよう配慮するのが普通です。もちろん私もある程度のバッファとなる予算を用意してあるので、もう少しはいてくれても良かったのですが」


魔研費まけんひってそんな制度なんですね……しかも博士研究員ポスドクってそんなに不安定な立場なんですね……」


「マリさんの国際魔材学会誌Journal of Magical Materialsに採択された論文、あれがもう数か月早かったら魔研費まけんひも採択されていたかもしれません。あれなしには、これまでの研究費に対して成果が少ないと思われてもしかたがないです。審査員が私やマリさんの業績を確認するときには、まだ受理されていませんでしたから」


「でも、それって研究期間中に受理アクセプトされたんですよね?」


「それはそうですが、魔研費まけんひの審査は秋にありますからね。それまでに出版されていないと評価されないんです。なので、査読期間を考えると投稿は春ごろには終わらせたいのですが、そうなると実験結果はその前の冬には欲しいところですよね。そう考えると研究期間は意外と短いんですよ」


「そういうもんなんですか……」


「さて、これからは私たちの研究室のことを考えないといけません。カイさんも将来研究室を運営する立場になるでしょうから、これからは研究室のお金のこともカイさんに伝えます。ただ学生が心配になるといけませんから、カイさんだけに留めてくださいね」


 ……ん? 私は学生でないのかい? まあ信頼されている、ということだろう。


「工房からの委託研究や技術指導で貯めた研究費が数百万リブラあります。これらは年度繰り越しが許されているので、できる限りこのような緊急事態を見越して使わずにきました。それに、研究分担者として参加している研究プロジェクトがあり、それで今年度は約100万リブラの予算があります。もちろんこれは使途が限定されていますが、ある程度は言い訳さえできれば融通が利きます。この二つの予算で、当面やりくりする必要があります」


「となると、できるだけ節約して実験する必要があるということでしょうか?」


「その通りです。まずは学部生、修士学生の実験サポートをして、効率よく実験成果が出るようサポートしてください。成果が出るかわからない挑戦的な実験は当面控えましょう。私は他の民間助成金を中心に研究費獲得を狙いますが、いつ研究費が確保できるか確約はありませんからね。とにかく私は研究費を工面するよう手を尽くしますので、カイさんは学部と修士の研究室での実験指導、宜しくお願いします」


 ……実験は手堅いものだけに絞る。そして先生は金策に走る、ということか。なんか零細工房の親方のようなセリフのような気がしたが、声に出すのは止めた。何れせよ、先生は当面研究なんてする時間がなさそうだ。


「わかりました。ただ、これから私の研究はどうしましょうか?」


 一応、私も学生だ。いろいろ実験してみたいし、研究の方向性もしっかりディスカッションしたい。


 すると、先生は意外な提案をした。


「まず前期は研究室の運営をがんばってみてください。そして、夏休みを使って実地研修インターンシップに行きましょう。魔鉱石の採掘、魔材精錬といったそれぞれの工房を紹介するので、そこで現場を勉強してきてください。きっと研究の種もたくさんあるでしょうから」



 ――工房への実地研修インターンシップ!! 想定外の提案だ。だけど、教科書でそれぞれの工程について学んだものの、その現場は見たことがない。確かにそれは楽しそうだ!


「それはおもしろそうですね! すごく興味があります!」


「はい、魔工学は現場に近い学問領域ですから、現場をしっかり知っておく必要があります。現場にある経験知に意外な現象が埋もれていたりもしますよ」


「ありがとうございます! 博士論文の中心となる研究テーマもそこで見つけてきたいと思います!」


 急に次の夏休みが楽しみになってきた。


「それと、研究室の運営に関してはリサーチアシスタントRAとしてお願いしたいのですが、いいですか?」


「えっ? どういうことですか?」


「きちんと仕事としてお願いしたい、ということです。最大で週20時間までですが、大学の規定で一時間当たり二千リブラを給与としてカイさんに支払えます」


「そんなっ! 研究室の予算が厳しい中でそんなこといいんですか?」

 非常にうれしいが、予想外の先生の提案に素直に喜んでいいのか不安になる。


「もちろんです。研究室の予算が厳しいのと、カイさんの待遇とは別物です。ちゃんと研究費は確保してくるので安心してください」


 ただでさえ生活がギリギリの中、アルバイトもせず研究一筋にしている。その中で、大学の研究活動の中で給料を頂けるとは――想定外の提案にびっくりするが、拒絶する理由はない。


「ありがとうございます!」


 しかし、研究室の資金繰りが解決したわけではない。


 先生は研究室の予算や物品購入実績などが記入された書類を私に渡し、『魔石購入はできるだけ研究分担で関わっている魔研費まけんひの基盤Bという予算で支出して――』と具体的に予算の状態や執行方法について話をはじめた。


 なかなか大変な一年になりそうだ。





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 春は異動の季節。マリさんがいなくなってしまいました。

 さすがに挨拶なしにいなくなるケースは珍しいですが、他の研究室だといつの間にかいなくなっていた、というのはあるあるですよね(自分だけ??)


 2022年から科研費の採択発表が4月1日から約1か月前倒しされ、僅かですが心の準備ができるようになりました。でもやっぱり直前すぎますよね。。。


 あと、博士課程の学生にRAを依頼するなどして給与を出す大学は最近増えつつあり、待遇は改善してきました。ただ全員が全員そうではないですし、大学によってかなり格差があるので、進学希望の方はしっかり調べましょう。他には予算潤沢な研究室は大学公式のWEB情報以外にも雇用関係を結び、給与をくれる場合もあります。関心のある研究室には遠慮なく問い合わせをしましょう。


 働かせ放題の無料の研究員兼雑用係のような扱いは変えないといけないです。


 さて、次回は研究室の研究費収支です。

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