近頃は猫も杓子も異世界に行きやがる

ぎずも・パンッ

第1話 生の境界

 ありがたい念仏の音が鳴り響く


 生物にはどんなものにも生があればまた死もある。

 ならば、一匹の猫が死ぬのもまた自然なことであった。猫にお経、馬の耳に念仏。知性ある人間様のお言葉は畜生にゃ通じないにゃ。

 本当にそうだろうか?意思疎通の手段の限られる相手に対して、一方的に少ない情報だけで決めつけるのは、例え自称愛猫家の戯言にうんざりしててもあまりではないだろうか。

 猫には誰だかわからんが、神様とでも

呼ぶべきなんらかの現象は畜生も輪廻の中にあることを示さんとしていた。


 まず光があった。知性の光、文明の光。光とはすなわち未来への希望であり、生き物が捉える原初のちからである。


 猫は人間のペットとしての生を終え、なんだかよくわからんもんによって新たな生を異世界で迎えようとしていた。猫は人間の間にずっといて外にも出されないようにして育てられたので、猫にわかるのはどこに行けば餌があるか、どこにトイレをすればいいのか、人間の口から漏れる低音の威嚇音のような高音の発情したようなみょうにムズムズする音が耳に残ってるだけである。そういえば最期に聞いたその音は妙に長くて淡々としてあまりにも眠くなるからこうして寝ちゃったんだった。

 まあ、そんなわけで猫は異世界で見た最初の光についての感想を持て余していた。なにも知らないもんで。

 いちじんの風が吹き、草原がサワサワサワと余計に鳴るほど広大な土地だと言うことだけは見てわかった。一度だけ狭くて動けない箱に入れられて見た光景の続きに猫には思えた。

 にゃーにゃーにゃー。鳴いてみたってここには聴いてるものは虫くらいしかいなさそうだった。どうしたもんか、緊張をほぐすために身体を舐めることにした。こうやって舐めておけば身体がかゆくなりにくいし、有益なことをしながら考える時間を稼げるから困ったら舐めるようになってしまっていた。時間はたくさんあったのだから。

 考えてたってなにも知らず、なにも辺りになけりゃなにも起こらないのは道理と言えた。そんなとき神の采配と言うにはあまりに寂しいぼとりとした異音が猫の隣で発生した。

 何も起こらないと安心しきっていたところへの不意打ちである。猫は飛び上がって警戒心を胸いっぱいに膨らませて、ついでに毛も足も周囲に突き立てるように尖らせて音の鳴った方を急いで見やる。

 そこには果たして杓子がいた。うん、それこそはまごうことなき杓子であった。水で湿気らせても熱で炙っても叩きつけてもその杓子の形を保ってきた頑丈な杓子は、異世界においても頑固に杓子の形を保っていた。

 つまり、手も足もないただの杓子である。目だってないだろう、多分。見ざる言わざる聞かざるの極至。通常ならばそれはただの"物"であった。

 でもここは異世界、不思議なちからに溢れた異世界であった。


「聞こえますか?聞こえてますか?そこの毛深いひと。」


 そこには"念話"があった。知性あるものは意思を直接知性あるものに問答無用で届ける理不尽なちから。

 すなわち、杓子には知性があったのだ。たまげたことに輪廻の中に杓子もおった。

 しかし、猫にはんなこた関係ない。人間が変な匂いを沢山出してる入っちゃダメな場所で一度だけ見た杓子。なんでここにあるのかわからないが、猫には杓子と椅子の区別も意味がないものであった――もちろん他の家具であろうとも。

 つまり、動きもしないそこらへんの草のほうがよほど生き物らしく思える杓子から"念話"なんてものが出てることに思いもよらなかった。


「そこの毛深いひと。わたしはあなたに謝らねばなりません。わたしは罪深いことにものとして慢心していたのです。」


 なぜか意思を伝えようとしていることがわかってしまうが、わかったとしても意味をなさない謎の音のようなもの。空気を揺らすことのないその理不尽な言葉に対して猫は怯えた。

 自己としての境界が失われていくように猫には感じられた。念の形がひとつひとつ猫の小さな脳髄の容量を越えようとするかの如く焼き付くという現象は、すなわち脳への物理的ダメージを起こす謎の怪現象に他ならなかった。それは刺激と呼ばれるダメージであった。どのように暴れても杓子の念に応じて変わらず己を蝕むその痛みは猫の頭を乗っ取ってしまったように感じられたのだ。

 馬耳東風、猫の耳に念仏と通り過ぎていくはずだった人間の言葉が――正確には杓子の言葉だが、猫の脳に念話を通して直に刻まれてしまうのであった。

 意味はわからぬが、音はわかる。音がわかり、音と音の区別が強制的についてしまって離れなくなる。


「やめてください、わたしの言葉を繰り返すのは」


 声は、念話は嫌な気持ちが漏れ出したような念を発する。猫はわけがわからなかった。


「なるほど、意思疎通というものは難しいようです。」


 杓子は脳みそがどこにあるとも思えない杓子とは思えない理性的で静かな念でひとりごちるが、それにすら反応してるかわからないほどやっぱり猫は狂ったようにもがき苦しむだけであった。


 それは杓子には不本意であった。杓子は安穏な時の中、杓子としての形を得て慢心してしまったゆえに地獄に落とされたと考えていた。1000年も熱鉄によって縛られ切られ、その形を成した杓子にとってこの光景はあの地獄の続きであり、ならば今度こそは猫に対して償わなければならないと思えていた。

 贖罪のためにはまず意思疎通をしなければならないと思った。しかし、その試みは相手の苦しみによって頓挫しようとしていた。

 ただものとして受動的にあった杓子にとって、積極的な行動はやはり困難を極めたのだ。杓子は神に祈るような気持ちで空を仰ぎ見た。杓子は動くことも見ることもないが、意思ある人間が困ったときに空を見上げることは知っていた。ただそういう気分になっただけの話である。


 そうやって杓子が黄昏れている間に猫は念話による脳の痛みに次第に慣れていた。慣れることもない永久に続くかと恐ろしく思える刺激に対してただ苦しむことをやめようと決意しただけの話であった。

 猫はその天性の知的能力によって謎の痛みが杓子との距離に応じて増減することに気付いていた。痛みは刺激は、猫の脳が引き起こした離れることのできぬ恐ろしい現象ではなかったのだ。

 原因があるならばその元を断てば苦しみから逃れられる。本来猫の気質にそぐわぬ攻撃的な思考が浮かんだのは、見慣れぬ環境に放り出されたことによって恐怖よりも好奇心が刺激された結果であった。ワクワクしてテンションがアゲアゲだったのだ。

 猫はアドレナリンの分泌に即して杓子に向かって飛び掛かった。脳への刺激は予測通りに強く頻繁になった。その確信が猫が杓子をはたく速度を一層加速させた。


「やめてくださいやめてくださいやめてください」


 杓子も身の危険を感じて負けじと反撃しているのだろう。なぜこの杓子か椅子か石かわからないただのものが猫を攻撃しているのかわからないが、同じ攻撃しか繰り返せなくなっているのは弱っている証拠だろう。

 杓子はとても頑丈で猫の腕ではたいても音を立てて転がるだけなのだけど、猫は必死に杓子を叩いた。


「やめてくださいやめてください」


 猫は人間だったらとっくに泣きはじめて相手の同情を誘うタイミングを越えて杓子を叩き続けた。杓子なんて硬いものを叩く痛みなんてないように。誰も助けてくれやしないのだから、今を生きるために必死に。ただ叩き続けた。爪が割れても血が出ても、より恐ろしい痛みから逃れるためなら安いものだった。

 どちらのやめてくださいという念話かわからないほど杓子と猫の念は絡み合った。

 杓子は猫を気遣って、猫は耳にタコができるほど聞き慣れて痛みを感じなくなってきてしまったフレーズを、脳に直接刻まれた言葉を意味もわからず叫び続けた。


 ところでここは異世界であった。異世界にはなぜだかわからないが人間の敵である魔物がつきものである。この異世界にも魔物はいた。それは丁度緑色の体色、小柄なヒト型、尖った耳と特徴的な妖精、ゴブリンであった。

 ゴブリンは知性ある人間の言葉を一切の遠慮もなく周囲に撒き散らすその現場に引き寄せられるように近付いていた。魔物であるゴブリンは人間の言葉を撒き散らすその猫と杓子を敵と認識した。まるで免疫機構のように人間を排する装置としてゴブリンは猫を背後から襲う。

 杓子は輪廻に含まれる知性体であった。目も耳もないが、とにかく知性体でありなぜだかゴブリンの奇襲を検知していた。


「あぶない!」


 杓子は咄嗟に意味はないだろうけど猫に危険を報せる念を発した。

 猫はやめてくださいという刺激に慣れて半ば油断していたのだろう。突然また知らない刺激を脳に刻まれて緊張と痛みで体勢を崩す。

 それが功を奏した。ゴブリンの攻撃は猫を捉えず、猫の寿命はあと2、3秒は伸びたのだ。

 しかし、たかがそれだけである。数秒生き延びる時間が伸びたところで杓子は猫を救う手段を持たないし、ゴブリンは人間の言葉によって人間であると認識した猫を殺す方針を変えることはないだろう。

 だが、杓子の稼いだ時間は無駄ではなかった。異世界にこれまたつきものの冒険者というものが助けに来たのだから。


「いったいどれだけゴブリンがいるんだ!そっちの村もやられたのか?!」


 冒険者はその鍛えられた肉体から繰り出される斬撃によりゴブリンを一刀のもとに切り裂く。30をも超えるゴブリンをすでに斬り殺した冒険者はゴブリンの血に塗れもはやクタクタであったが、依頼によって任された村の警護を放り出さない程には誠実であった。

 しかし、助けを求める念は聞こえど人は見当たらない。誠実な冒険者の経験が示す念話の発生源にはただ苦しみもがく猫と、杓子がいるだけであった。


「知性を持つ道具もあるとされるアーティファクトの一種だろうか」


 冒険者は近くで苦しむ猫を見たことにより警戒していた。呪いのアーティファクトなのかもしれない。


「ああ、言葉がわかるひとですね?聞こえますか、わたしは杓子です。」


「……杓子というのかい。悪いが事情を説明してもらえるか?」


 杓子と言葉を交わすたび猫はより激しくもがき苦しんでいるため冒険者は警戒を強めていたが、杓子の言葉は通常の念話と区別がつかなくもがき苦しむのような毒性があるとも思えなかった。


「いや、事情の前にまずは……その子が苦しんでいるのはおまえさんのせいか?」


「ええ、そしてあなたのせいでもあります」


 杓子は全く違和感のない受け答えをした。いや、言葉の内容については違和感どころか疑問点しかないが、言われてみれば自身が念話を発するのにあわせて猫は苦しんでいるようであることに気付かざるを得なかった。


「なるほどな、確かにこのやめてくださいと繰り返す言葉は気が滅入るようだ。念話が他人に苦しみを与えることもまたありえることなのだろう」


 猫はもはや身を縮こまらせてやめてくださいと延々と繰り返し衰弱しているように震えているだけであった。恐怖と痛みが限界を迎えていた。


「…まずはおまえさんたちを安全な場所に運ぼうか。いつゴブリンが湧くかもわからん。」


 冒険者は頭痛の種を頭の片隅に覚えながら、産まれたばかりの赤ん坊のように暴れる猫と妙に理性的だが何度確認してもよくわからない質感をした真っ白な杓子と自称するものを慎重に抱えて歩き出すのであった。


 猫も杓子も普通の村に関係があるものとはとても思えなかった。



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