5. Reminiscence - 真意と、願い(明希視点)

 予定日まであと五日。迅は一週間ほど留守にすると言っていたから、出産日には立ち会えないだろう。わかってはいても、どこかで不安を感じてしまう自分が不思議だった。


 もう、二度と会えないことは覚悟の上だったはずなのに。


 体調は落ち着いていて、医師も看護師も皆、心配いらないと言う。逆にそれが不安になってしまうくらいに。院内であれば問題ないから、と散歩を勧められ、病院の庭を散策している時、は急に現れた。


「やあお嬢さん、お散歩かい?」


 身長は、迅よりやや低いくらいだろうか。黒いスーツは迅と変わらないけれど、緋色のゆるく波打つ長い髪と豪奢なフリルのついたシャツの襟。木陰のベンチに座っていた彼女を見下ろすその男は、の光がひどく不似合いだった。

「さすがあいつの従属者Followerだ、失礼だなあ」

「……迅を知っているの?」

「うん、俺の部下だから」

「部下?」

 ニッと笑った顔は、親しげですらあるのに背筋が冷えるようなのは、きっとその眼が笑っていないせいだ。迅と同じ、人ではあり得ない金の色。同じ色のはずなのに、違って見えるのは、その性質が透けているせいだろうか。

「そうだね。死神おれたちは、人を殺す。基本的に従属者は怯えながら付き従う。それが一般的な在り方だから」


 肩を竦めて言う男は嘘をついているようには見えなかったから、きっとそれは真実なのだろう。ならば、迅が例外だというわけだ。


「その通り。今まで一人の相棒も下僕も持たなかったあいつが、急に雇ったっていうから見に来たんだけど、もしかして、あいつ、気づいてないの?」

 金の目を細めて彼女を見つめながら、男は嘲るように言う。取り繕っても無駄だと悟って、彼女はただ無言を貫いた。

「ふうん、せっかく大切にしているのに裏切られて、あいつも可哀想だな。らしいっちゃらしいけど。まあいいや、俺はそれを見物させてもらうよ。どれほどあいつが悲嘆に暮れるか、楽しみだ」

「悪趣味ね」

 思わず声を尖らせた彼女に、男は声を上げて笑った。その声はひどく朗らかで、そのくせひどく酷薄に聞こえた。

「君に言われたくはないけど。まあ、おかげであいつもようやくちゃんと働いてくれるかもしれないしね」


 それから、と言いながら、男は緑の人魚がトレードマークのコーヒーチェーンのカップを差し出した。


「一応デカフェで頼んでおいたよ」

 動かない彼女に、男は肩を竦めて笑う。

「毒なんて入ってないよ。それに、どういう計算をしたのか知らないけど、随分正確に見積もったね。ぴったり、ちょうど子供を産んで、って感じ?」

 目を見開いた彼女に、男は皮肉げに笑ってからカップを彼女の手に押し付けた。伝わる温もりと同時に、突きつけられた現実に、体が震える。

「本当に……? でも、お医者様も問題はないって」

「でも、自分ではわかってたでしょ?」

 ここ数日ずっと感じていた不安。確かに、体調は安定していると誰もが言うのに、言い知れぬそれがどこから湧いてくるのか、ずっと疑問だった。

「歪められた寿命は普通の人間には測れない。死神にさえもね。ただ、尽きた瞬間に君の心臓は止まる。とても——安らかに」

「何であなたにはわかるの?」

「俺はこう見えても経験豊富シニアで有能だからね」

「……迅より?」

「あいつの三倍くらい"Smart" でしょ」


 両手の人差し指と中指を折り曲げて、人を食ったようにそう言って笑う。けれど、ふと真顔になった。


「まあそれでも無理や無茶はしないことだね。初乳もあげられないんじゃ、その子のリスクはだいぶいろいろ高くなるし」

 まあ今は医学の力で結構何とかはなるけどね、と男は唐突に、まるで医師のように言った。目を瞬かせた彼女に、男はこともなげに続ける。

「うん俺、本業は医者だから」

「え?」

「可愛い奥さんと子供もいるの。娘は今年一歳になったばかりでね。子供って本当に可愛いもんだよ。ねえ君、本当にいいの?」

 情報が多すぎて処理しきれず固まった彼女を、男はじっと見つめてくる。

「死神は、実は基本的にほとんど人間と変わらない。やろうと思えば人間と愛し合うことだって可能だし、子供だって作れるよ。君があいつが気になるなら、それだって選択肢になるってこと」


 確かに迅は初めて出会った時から彼女に優しかったし、頻繁に見舞ってくれて、子供の名前まで考えてくれた。ただそれは、従属者として、彼のそばにいるからこそで、しかも彼は彼女をために多くの余命を持つ者たちを狩り続けなければならない。


Anywayいずれにしても, 俺たちは死神で、人殺しなんて食事をするのと同じことだよ。君がそんなことを気に病んでいるのなら言っておくけれど」

「でも、迅は……!」

「人殺しを好まないから? そうだね。でもあいつは、自分の信念ポリシーを曲げてまでそれを選択した。なのに君はそんなあいつを見捨てようとしている」


 身勝手だね、と男は冷ややかな眼差しで言う。


「見捨てるなんて……私はただ、迅をこれ以上巻き込みたくないだけ」

「もう巻き込んだんでしょ。あいつの心に深く入り込んで、でも何も告げずにいなくなるのが見捨てる以外の何だって言うの? あいつだけじゃない、そのお腹の子も」

「この子は……私が育てるよりきっと他にもっと——」

「ましな未来が見つかるはず? 何の当てもないのに? 目を逸らさないでちゃんと認めなよ。その子もあいつも、君は見捨てるんだ。辛い現実から、一人で穏やかなあの世に逃げるんだよ」


 皮肉げに笑ったその顔に、彼女の中で何かがぷつんと切れた。ずっと、自分は大丈夫だから、そう思い続けて、笑い続けて。も自分のためじゃなく、迅の、この子のためだとそう思おうとしていたけれど。


「——わかってる! こんなの身勝手だって。でももうどうしようもないじゃない‼︎」


 自分の中で育まれてしまった命を見捨てることは、どうしてもできなかった。深く考えずに、死神ジンに助けを求めてしまった。従属者になって初めて、人殺しに戸惑う迅の内心を知った。

 それにさえ見て見ぬふりをし続ければ、少なくとも子供との穏やかな生活を手に入れられるのかもしれない。けれど、彼女が過ごしてきた人生はあまりに苛酷だった。いつも自分なりにをしているつもりなのに、気がつけば袋小路ふくろこうじに迷い込んでしまっているような。


「ずっと怖かった……! 私がこの子といることで、私みたいな人生に巻き込んでしまうんじゃないかって。迅をそうしてしまったみたいに!」


 無責任で身勝手だと、罵られても仕方がない。死神が訪れるほどに、尽きていた寿命を引き延ばして、けれどこの子だけをこの世界に取り残していく。それがどんなにひどいことか、突きつけられるのが怖かった。


 さらに言葉を続けようとした時、ふっと、温かい手が頬に触れた。


「そんなに泣かないでよ。俺が泣かしたみたいじゃない」

 その通りだ、と言おうとしたけれど、声にはならなかった。隣に座る気配がして、頭を引き寄せられた。

「辛かったんでしょ、ずっと。だから、君の寿命ときはそう定められていたんだよ、きっとね」

「え……?」

「俺の部下が捻じ曲げてしまったことで、君がこれ以上苦しむ必要はない。それも残酷だけれど、でも、せめてその子の未来くらいは確保させて」

 そう言って、男は小さな紙切れを彼女の手に握らせた。そこには電話番号らしき数字と、何かの事務所と名前が二つ、記されている。

「もうそこまで大きくなってしまっている命を見捨てるのは、さすがに人の親としてどうかと思うからね。少なくともその子が大きくなるまでは幸せに過ごせるように目星をつけておいたから」

「どうして……?」

「部下の不始末は上司の責任でしょ」


 そこでようやく気づく。なぜ、迅がここにいないのかも。迅とは質が違うけれど、それでもどこか似た彫刻めいた端正な顔を見上げると、男は最初の印象が嘘のように柔らかく笑う。


「君が、本当に無責任で身勝手なタイプだったら、その子ごと、この場で狩ってしまうつもりだったんだけど、そうじゃなかったから」

「どういう……」

「あいつは変わり者でね。ずっと一人きりで、何考えてんのかわかんない奴だけど、それでも君があいつを傷つけるのなら、許さないつもりだった」

 向けられる声は真摯で、きっとそれは本音なのだろう。許さなければどうするのか、は聞かずとも明らかで。

「——結果は、変わらないんじゃないの? それでも、あなたは私を許せるの?」

「うん、変わらないね。そして、君の願いと俺の結論は、結局は合致してしまう」


 全てを見透かしたように、男はひどく優しい顔で何かを諦めたかのように笑う。


「どちらを選んでも君はきっと後悔する。なら、君の選択を尊重するし、俺は俺で別の未来に賭けてみようと思う。だから、その子は預かるよ」

 言葉の意味はわかっても、意図がわからず首を傾げた彼女に、男は肩を竦めて笑う。

「その子は多分、無事に生まれてもそのままでは済まない。だから養い親を見つけておいたから、彼らに預けさせてほしい」


 じっとこちらを見つめる金の双眸は、今は迅のそれと同じに見えた。彼女はもう自分のどんな選択も信じることはできなかったけれど、それでも迅は、たった一人、初めて彼女が本当に信じられると思った相手だったから。


「……生まれてすぐに死神に攫われる?」

 お腹を撫でながら、そう呟くと、傍に座る男は愉しげに笑った。

「いいでしょ、これ以上不吉なことはそうはないから。逆張りしときなよ」

 そこが、その子にとって奈落の底で、後は上がるだけだから、と。


 共に過ごす未来を諦めることを許して欲しい、とは到底言えない。

 その理由を、告げることもできはしない。


「いつか、この子は真実を知ってしまうのかな?」

 そう言った彼女に、暗い緋色の髪の死神は微かに憐れむように笑った。

「真実なんて、どこにも存在しないよ。あるのは事実だけ」

「私が——この子を見捨てること……?」

「そう。そしてもう一つは、君があいつの犠牲を許容しなかったこと。従属者Followerは弱い。君がせめて共謀者Collaboratorになれるだけの資質があればよかったのにね」


 死神の共謀者。死神に養われるだけでなく、より深い絆を結び、力を与えて共に生きることができる者。


 その時、トンと強くお腹の中から蹴られた。ふと、予感がした。


「未来なんてわからない。けど、まあ願うくらいは許されるんじゃない?」


 目の前のこの男が何を知っていて、何を考えているのかさえも定かではなかったけれど、この予感が——彼女の選択が、今度こそ正しいものだとしたら。


 ——いつか、あなたがくれたこの名のように穏やかな時が、あなたにももたらされるように。

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