11. 死神の選択(迅視点)

 ベッドの上に横たわる凪の顔色は、ようやく血の気が戻ってきて、呼吸も落ち着いていた。傷は完全に塞がっているし、足りなかった血液が補充され、血圧が戻ってくればあとは、意識が戻るのを待つだけだ、と鈴鹿から紹介された顔なじみの胡散うさん臭い医者は言う。


「それにしたって、傷が塞がってるのに血だけが足りないなんて、吸血鬼ヴァンパイアにでも会ったのかい?」

「……かもね」

「おやまあ、随分気のない返事だ。そんなに大切な子なのかい?」

 面白がるように笑う女に、彼はあからさまに不機嫌な眼差しを向ける。ほとんどの人間は、眼鏡を通さない彼の眼差しを向けられると怯えるものだが、この女はむしろ楽しげに肩をすくめるばかりだ。修羅場をくぐってきたいわゆるモグリの医者だから、その辺りの危機意識が壊れているのかもしれない。


 ともあれ薄ら笑うその顔が不快だったから、手を振って病室から追い出すと、入れ替わるように扉がノックされた。相手は見ずともわかった。以前、凪の携帯スマートフォンに登録されていた番号にかけて、簡単に用件を伝えただけで三十分とかからずに駆けつけてきたその男は、ベッドに横たわる凪を見るなり険しい表情になる。


「……何があった?」


 眼鏡の奥の眼は、静かだがはっきりと怒りを浮かべている。


「通りすがりの強盗に刺されたらしい。幸い近くの店の店員が救急車を呼んでくれてね。でも、それよりは俺との契約の方が確実だったから、攫って傷だけは癒したんだけど、圧倒的に血が足りなかったみたいで危なかった。で、事情も聞かずに輸血してくれる気のいい知り合いの医者に担ぎ込んだってわけだ」

 肩を竦めて笑った彼に、千秋はさらに表情を険しくする。全身に怒りが満ちて、膨らんでいくのが目に見えるようだった。

「——お前が守ると、そう誓ったんじゃなかったのか」

「そのつもりだったよ。『お守りタリスマン』は先日更新したばかりだし、可能な限りナギの状況にも気を配っていたつもりだった」


 でも、と続けながら、千秋には気取られないように拳を握りしめる。


「どうやらそれでも完璧じゃないらしい。あくまで偽装に過ぎないから、すり抜けてたどり着く者はいるし、そもそもただの偶然だってあり得る」

「どれだけの人間が、街中で刺し殺される⁉︎ あるわけねえだろうが!」

 今度こそ怒りを爆発させて彼の襟首を掴み上げたその顔を、静かに見つめ返す。あれほど凪の前では平静を装っていたのに、一枚仮面が剥がれればこの通りだ。それは、この男が凪にかける想いがそれほどに深いことの証左でもある。


 だからきっと、それはもう「不確かなもの」なんかではないと認めるべきなのだろう。


「そうだね。だから、君を呼んだんだよ」

 襟首を掴んでいる手をそっと払い除けながら、真っ直ぐに相手の目を見つめて言葉を続ける。眼鏡は外しているから、人にはあり得ない金の双眸そうぼうあらわになっていたが、千秋が怯む様子はなかった。

「俺ではナギを守れない。どれほど手を尽くしても、すり抜けてこうして容易に命を落としかけてしまう」


 だから、連れて帰っていいよ、と続ける。できる限り平静に、それが当然のことだから、と。千秋は驚いたように目を見開いて、彼の顔をじっと見返す。真意を図ろうとするように。

 彼の表情が揺らがないことを認めると、今度は凪に視線を向ける。その瞳には複雑な色が浮かんでいたが、今だに凪に想いをかけているのは明らかで、だからそれが最適解Optimal Solutionなのだと、自分に言い聞かせる。


 自分では凪を守れない。それは覚悟の上だったが、それでも凪を失うことの方が遥かに恐ろしいと気づいてしまったから。


「君なら——否、『守護者』である君にしかナギを守れない。初めからわかっていたことだけれどね。俺の我儘エゴでこれ以上ナギを危険には晒せない」

「諦めるのか?」

「そうじゃない——いや、そうなるのかな。どっちでもいいんだよ、俺にとっては。ナギが無事でいることが最優先だ」

 だから、連れて帰ってくれ、と表面的には明るくそう言った彼に、千秋はしばらく黙ったままじっと凪を見つめていた。


 やがて、その顔が何かを思い出したかのように苦悩に歪んで、それから振り向き様に彼に拳を繰り出してきた。受け止めるのも面倒で、最小限の動きでそれをかわすと、大きな舌打ちが聞こえた。

「一発ぐらい殴られてやろうって殊勝しゅしょうさはないのか?」

「あいにく、そんなものは持ち合わせがないねえ」

 それでも両手を上げて敵意のない旨を主張して見せると、千秋は厳しい顔を緩めてため息をついた。


「……あいつを守るために必要なのが、なら、俺にはもう無理だ」


 あくまで静かな声で、低くそう告げられた言葉に息を呑む。言葉を失ったままの彼を真っ直ぐに見据えて、千秋はひどく静かな眼差しで続ける。

「お前はあいつを捕らえて、全てを手に入れた。そんなお前を、凪は選んだんだろう? 俺は聖人じゃない。他の奴に惚れてる相手を、優しく見守って大切にしてやれるほど、できた人間じゃねえんだよ」

 そうして、きびすを返すと彼に背を向けた。扉へと踏み出そうとするその背に、まるですがるような声が出た。

「それでもきっと、ナギは、君が包み込めばほだされてくれるよ?」

 そう言った瞬間、今度はかわす間もなく左頬に拳が叩きつけられた。普通の人間よりは頑丈にできているから、それほどダメージは大きくなかったけれど、ほんの少しよろめいてたたらを踏む。唇の端からは、血が滲んでいた。

「……人間ひとに殴られたのは、初めてだよ」

「俺も他人ひとを殴ったのは、人生で初めてだ」

「おや、意外だね」

「こう見えても温厚な性格たちでな」

 口調は軽かったが、はっきりと怒りを宿す声でそう言って、それで気が済んだのか、今度こそ踵を返して扉へと歩き出す。

「チアキ——」

「凪が自分で望むのなら、いくらでも引き受けてやる。そうじゃないなら、無意味だ」

 そんなこともわからないのか、と吐き捨てるように言って、そのまま病室を出ていってしまった。


 一人で病室に取り残され、凪の顔をただ眺める。穏やかに眠るその顔は、憂いなどなさげで、言われなければ命の危機に瀕していたなど信じられないくらいだ。

「迅……?」

 ほんの少し淡い、紺がかった彼女によく似た瞳が彼を捉える。どこかほっとしたように緩んだ表情で、千秋の言っていたことを今さらのように理解する。


 凪は、彼と共に在ることを選んだのだ。身の安全を保証し、そして深く愛してもくれるであろう守護者千秋の側ではなく。


 どうして、と問うのはおそらく無意味なことなのだろう。

「もう動けそうかい?」

「あ、うん。多分大丈夫」

 言いながら身を起こした凪は、確かに危なげなく顔色もよかった。共謀者Collaboratorとして彼と契約している以上、リスクはかなり低減されている。


 普通の人間に比べれればし、契約で傷を塞ぐこともできる。首を落とされるとか、なんらかの事情で彼が長時間駆けつけられないとか、そんな完全に不測な事態でも起きない限りは、実のところ凪が命を落とす可能性は、限りなく低い——それでも。


「また、傷が増えたね」

「生きてるだけでめっけもん、じゃね? さすがに今回は死ぬかと思ったわ」

 立ち上がりながらそう笑う顔は、思った以上に平然としていて、軽やかだ。こんな状況に慣れきってしまっているのが良いこととは到底思えなかったけれど。

「まあ、何かあっても、あんたが助けてくれるんだろ?」

 あっさりと言うその穏やかな笑顔に、言葉を失う。何度も傷つけた上に、投げ出そうとしたのに、凪はそんな彼を信じていると言う。何もかも見透かされているような気がしたけれど、多分そんなことはない。

 その深い信頼が何に根ざしているものなのか、そろそろ認めるべきなのかもしれない。お互いに。


 口を開きかけた彼に、凪が怪訝そうな眼差しを向けてくる。

「そういえば、あんたその顔、どうしたんだ?」

 微かにまだ血の滲む唇に気づいたのか、凪が手を伸ばしてくる。はっと、その目が見開かれて、ほんの少し苦しげに眉根が寄せられた。

「もしかして——」

 そこで言い淀む。きっと、この傷を負わせた相手に気づいたのだろう。その程度には、凪は人の心の機微に敏感だ。


 今なら、きっとまだ間に合う。揺れる眼差しを見れば、凪が千秋に想いを残しているのは明らかだ。だから、このまま千秋の——守護者の元へ送り届ければ、全てが解決する。千秋はああ言っていたが、時間さえかければ、きっと。


 迷う思考は、胸元を掴む気配で破られる。目を向ければ、凪が呆れたような困ったような顔で見上げていた。

「また、変なこと考えてただろ?」

「どうして?」

 ただそう問い返した彼に、凪は肩を竦めて笑う。

「だって、らしくねー顔してるもん。今にも泣きそうな? すっげー情けない顔」

 屈託のないその笑みに、心臓が大きく鼓動を打った。そうして、気がつけば凪を抱き寄せていた。送り返すためではなく、自分の元に留めるために。それが決してではないと、わかっていても。


「ナギ、君に話したいことがある」

「何?」

「大事なことだよ」


 それだけ言って、移動するために意識を凝らす。ずっと昔に、彼が初めて後悔という感情を知った場所へ。

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