10. 油断大敵
クリスマス・イブ。それはこの国では恋人たちがきゃっきゃうふふする日のはずだ。
「じゃあ、夕方に渋谷の駅前で待ち合わせしようか」
死神は唐突にごく楽しげにそう言うと、長い黒髪を靡かせてそのまま出かけて行ってしまった。渋谷の駅前ってどこだよ、しかも夕方って何時だよ、いやその前に男二人で出かけてどうするんだよ、とツッコむ間もなく。
あの巨大な迷路みたいな駅周辺に慣れてきたのはわりと最近のことだ。死神との契約条件に「三食昼寝完全保証」が含まれていたから、安アパートは引き払ったのだけれど、提示された滞在先は鈴鹿の事務所の二階だった。
元々は迅が使っていたらしいその部屋には奴の私物——主にスーツ——が残されていたけれど、それ以外は生活感があんまりない。ベッドとローテーブル、小さな冷蔵庫にそれから半分ほど埋まった本棚。その程度だった。まあ我儘を言えるような立場でもないし、いざとなればまたどこかで部屋を借りればいいやと結局、居着いている。
二階のその部屋は、一応ちゃんと鍵もかかるし、冷暖房完備。食事は下にキッチンがあるからやろうと思えば自炊もできる。ほとんどしてないけど、たまに鈴鹿がチャーハンとか、豚丼とかわりとガッツリ系のを差し入れてくれる。そんなふうにして、日々は過ぎていっていた。
何しろ骨董店の事務所だから、常に店の方には人の気配があるし、迅も鈴鹿もそれなりに顔を覗かせる。その距離は程よい感じで、僕はもしかしたら、意外と人恋しいのかもしれない、なんて気づき始めてもいたけれど、口にはできなかった。
それはともかく大学からここまでは結構距離があるから、嫌でも電車で来なければならないのだけれど、常に物理法則を無視した死神に運んでもらえると思っていたら大間違いなのである。僕にもあの能力お裾分けしてもらえないだろうか——なんて。
そういうことを言い出すと、また何かろくでもないことが起きそうな気がしたので胸にしまっておいたけれど。
「あれ、凪くん、あいつは?」
「何か出かけていきましたよ」
骨董店の店表から顔を覗かせた鈴鹿は、何やら首を傾げてからニヤニヤと笑う。
「あ、デートだっけ」
「そうなんですか?」
「え、違うのか?」
「え?」
デートって何だ。待ち合わせとは言っていた気がするけれど。
「あいつが珍しく雑誌とか見てたから、てっきりそうなのかと。まあ、初々しくていいねえ」
「……何の話してんすか」
僕と死神の関係は、確かに初めて会った頃のそれと比べるとだいぶ変わっているけれど、でもその距離感は相変わらずよくわからない。右手の中指に嵌まった銀色を眺めながら、そう言えば、と思い出す。クリスマスの予定を尋ねたのは僕の方だったのだと。
僕の家はクリスチャンじゃなかったけれど、一般的な日本の家庭によくあるように、クリスマスは鳥もも肉のローストチキンと、ラザニアとかグラタンとかコロッケとか僕の好きなご馳走に、クリスマスケーキが標準装備だった。母さんがいなくなってからも、その伝統は受け継がれていて、しかも大体なぜかその時期には僕はいつもフラれていたから、まあまあ大きくなってからも父さんと二人でチキンとケーキを食べて過ごすのが常だった。
だから、迅にクリスマスの予定を尋ねたのは、初めて家族のいないクリスマスをどう過ごしていいのかわからなかったからだ。あいつが家族の代わりになることはないと思うけれど、少なくとも今、一番身近にいる相手ではあったから。
「鈴鹿さんは今夜は何か予定あるんですか?」
「俺? もちろん。ディナー予約済みでその後は大人の時間。あ、凪くんももう大人の階段上がっちゃったんだっけ?」
「だから何の話です?」
普通に経験くらいあるぞと言いたい気もしたけれど、うっかり別の経験の話にまで突っ込まれそうな気がしたので黙っておく。そっちについては、二回だけだったし、それ以上何かが起きるのかどうかも、どうにかしたいのかも、よくわかっていなかったし。
「いやー可愛いなあ。そりゃあいつもゆるゆるになるわけだ」
いつの間にか近づいていた鈴鹿が僕の顔を覗き込みながら、ものすごくニヤニヤしている。同時に、その手に持っていたマグカップが傾くのを見て、とっさに飛びすさる。だいぶ熱そうなコーヒーが、寸前まで僕が座っていたソファにぶちまけられるのを見て、やれやれとため息をついた。
「……レザーにしといてよかったすね」
「フェイクだから、まあ最悪買い換えればいいしな」
手際よく雑巾を取り出して拭き取りながら、鈴鹿は懐から財布を取り出すと、一枚のヒラヒラしたお札を僕の手に押し付けてきた。福沢諭吉殿。最近とんとお目にかかっていなかった我が国最高の高額紙幣だ。
「おつかいですか?」
「せっかくだからプレゼントでも買っておいで。まあその金額じゃ大したものは買えないだろうが、たまにはいいでしょ」
「……何で?」
「いやあ、デレるあいつを見てたら応援したくなって?」
「何で疑問系?」
もしかして偽札かと透かしを確認していると、くしゃくしゃと頭を撫でられた。そんな感覚に覚えがあって、胸のどこかがざわりと騒いだけれど、見てみぬふりをする。僕が、自分で選んだから。
「せっかくだから楽しんでおいで」
そう言って、コートを手渡しながら背中を押される。鈴鹿はまあまあ屑な人だけど、見知った屑の中ではわりといい人な方だとは思う。行動の結果、迷惑を被ることはたくさんあるけど。でも、表情に嘘はなさそうだったから、素直にお礼を言って、外に出た。
クリスマスイブと言っても、平日だから、街中は常と変わらぬ雑踏だ。でも、あちこちで目に入るクリスマスらしいディスプレイだとか、ちょっとはしゃいだ感じのカップルもちらほら見かけて、どこか雰囲気は明るい。
せっかくもらったお小遣いを握りしめて、プレゼントについて考える。あいつが欲しがりそうなものとか、似合うものなんて全然想像もつかなかった。最近また煙草を吸い始めたらしいから、いっそ百円ライターとか、ちょいちょい
色々考えたのだけれど、結局無難なものを選んでしまった自分に何だかちょっと敗北感を感じる。
綺麗にラッピングされたそれを受け取って、時計を見ると時刻は午後三時。まだ夕方には早そうだったから、街中をふらふらと歩く。命の危険を感じるようなことは、最近起こっていなかったから、はっきり言えば、油断はしていたと思う。
クリスマスのデコレーションがあちこちに見える、小さなショップが並ぶ静かな路地裏。後ろから足音が聞こえた、と思ったら、ドン、という強い衝撃がきた。
最初に感じたのは、痛みよりも熱だった。それが何かの刃物の感触だというのはもう今までの経験から嫌というほどわかってしまったけれど、貫かれたのは、これが初めてだったかもしれない。
すぐに引き抜かれて、その場に倒れ込んだ僕のポケットを漁って財布を見つけたその男は、中身がほとんど空っぽなのに気づいて、舌打ちするとちらりと僕を見た。一瞬だけ、とどめを刺しておこうか、みたいな不穏な気配を感じたから、もう無理でーすみたいな感じをアピールするために、目を閉じて全身の力を抜く。どうせ逃げられる気はしなかったから、せめて放っておいても大丈夫だと思ってくれるように。
珍しく僕の希望は、クリスマスの奇跡なのか叶えられて、足音がすぐに遠ざかっていった。けれど、腰の辺りから流れ出る何かのせいで、体が急激に冷えていく。今までもいろんな致命傷を負ったけど、そういえば、倒れる時にそばにあいつがいないのも、初めてかもしれない。
そんなことを思っているうちに、僕の意識はブラックアウトしてしまった。
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